ち く ま ホーム Ⅲ (いわみ学)

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阪本四方太 シンポジューム

2007-11-03 19:54:37 | Weblog
 この度、このシンポジュームの為に、お孫さんと連絡をとっていたら大正5年の手帳が出て来ました。 12月9日でした、火事の後だったので、その手帳は残っていました。大正5年というのは非常に意義のあるもので、大正5年というのは、夏目漱石が亡くなった年なんです。 そのあと四方太も亡くなる、それが大正5年でした。

 四方太さんと漱石は、とても仲が良かったんですね、日記といわず書簡といわず全集といわず、今日は四方太と落語を聞きに行った。今日は芝居を見に行った。カニを持って来た。正岡子規の日記にもいっぱい四方太の事が出てきます。そのくらい四方太と漱石は仲がよかったんですね。大正5年の手帳が出てきた時には、読みたくて読みたくてしょうがなく、奥さんに電話して送って貰いました。 

 12月9日には何も書いてありませんが、次の日10日に漱石と書いてありました。すごい淡々と書いてあるのですけども、夏目漱石、昨日死去、新聞、大々的に報じる。悔やみ状を出す。香典五円、この五円というのは当時のお金でどのくらいになるのか、大正5年の5円、当時、明治43年?? 正岡子規の給料が40年の40円もらうのが夢でして。 

 いろんな物価を調べてみたのですけど、大正7年、小学校の教員が初任給12円から20円、公務員、当時の高等官ですけど月報70円ですね。東京大学の授業料は年に50円、大工さんの手間賃一日50銭、その当時の5円という金額です。けっこうな金額だったのではないでしょうか。それを奮発して、しかも当時四方太さんは、身体を悪くして退職しているんですね。その状態で??12月の末に着た香典返しが届いとりまして、12月31日、夏目より香典返し、たくさん来る。と書いてあります。漱石と四方太さんとの交流があったという四方太さん側の証拠です。この手帳がほしいほしいと言ったら、快く提供していただき鳥取図書館に置いてあります。

 それからですね、四方太さんがなぜ大谷で生まれたかといいますと、お父さんは阪本熊太郎といいまして、鳥取藩の士族でありまして、ほとんど鳥取に住んでいましたが、明治維新になって職がなくなってミトリ神社、大谷、ごめんなさい太田という所のミトリ神社、そこの神主になりまして、
 何で大谷に住んでいたのか不思議でしょうがなかったのですが、沢貞二さん、前田れいじさん、二人と知り合いになりまして、いろいろ教えてもらいました。沢貞二さんのおかげで生家が残っている事を知りました。
 沢貞二さんのおっしゃるには、太田のミトリ神社と大谷の八幡神社とをかねていたが、大谷に住んでいる方が海の幸が手に入るので、こっちの方が住みやすかったのではないでしょうかとおっしゃっておられました。そんなことで大谷に住まわれたのでないか。そこで明治6年、四方太さんが生まれたんですね。

 4才の時、西南戦争の時、鳥取城下に移り住んだと本人は書いています。で、その熊太郎、お父さんですが明治10年になぜ鳥取に移ったかというと、鳥取一中、今の西高ですな、西高というと当時は変則中学校ですね。一中の漢文の教師の職を得て鳥取城下に引っ越しをしたんですね。その頃の想い出が夢の如しですね。大谷で過ごした4年間の日々の事、それから鳥取城下に移ってから醇風小学校での想い出、明治10年頃の想い出が克明に書かれています。

 それはともかく、阪本熊太郎さんが西高の漢文の先生として永年勤続として表彰を受けられているのですが、その熊太郎さんとはいったいどんな人だったのか、写真が残っているんですね。四方太さんの写真もなかなか残っていないのですが?。
 実は熊太郎さんは夏目漱石の謡い先生をしていて? 東京に行きてから?まあ漢文の先生でしたから。漱石の日記や書簡を見ますと「先日、四方太のおとっつあんに謡いを教えてもらったので、そのお礼をおまえの方からしといてくれ」「おとっつあんから謡いの本を借りたので返してくれ」とか、漱石と非常に仲が良かったんですね?その熊太郎さんの肖像画が見つかったんですね。           

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