ひできの八ヶ岳ブログ

未来に残したいリジェネラティブな社会づくりを考える

オーリングテストと波動医学

2010年02月24日 23時01分49秒 | 健康と食と心と暮らしかた
以前に治療した歯の内側から、
その時に使用した薬が溶出しているらしく、
このところ、その苦い味に悩まされていました。
そこで、以前から顔見知りだったある治療院に行ってきました。

しかし、そこの先生に診てもらったところ、
困ったことが発覚しました。
その先生曰く、
溶出をしている可能性のある歯が3本あるのだけれども、
溶出というのは、目で見てもわからないし、
レントゲンにも写らないので、
どれが問題の歯かわからないとのことでした。

はて困りました。
治療は、被せてある金属を取って、
新たに付け替える作業になるので、
結構それなりに大変な作業なのですが、
どの歯か分からないとなると、
勘をたよりに、
一本ずつやっていかなければなりません。
もし3本目が問題の歯だった場合には、
3本全部を治療しなければならなくなります。

このまま放っておいて、
もっと溶出がひどくなるのを待って、
どの歯か特定できてから治療する手もありますが、
これでは、長い間、苦味をともにしなければなりませんし、
そもそも、溶出しているのは化学物質ですし、
体に良いわけがありません。

診察台の上で、どうしようかと思案しているうちに、
ふと先生が、奥の部屋にひっこまれ、
そして、暫くして出てこられました。

「オーリングテストをやってみたところ、
 奥から3番目の歯だと思われます。
 確実とは言えませんが、治療されますか?」
と、先生。
私は、迷わず御願いしますと答えました。

オーリングテストについては、
このブログをお読みの方なら、
ご存知の方も多いかと思いますが、
ご存じない方のために簡単にご紹介しておきます。

まず、被験者が親指と人差し指でOの字を作り、
できるだけOが開かないように、ぎゅっと閉じます。
そして、そのO(オーリング)に観察者が指を入れて、
親指と人差し指の間を割るようにしてオーリングを開くのですが、
それに、どれだけの力が必要だったかを測るのです。

この方法は、例えば、
薬が被験者に合うかどうかなどを、
推定するのにも使われます。
まず、その被験者が何もしない状態において、
オーリングがどの程度の力で開くかを測ります。
そして今度は、被験者のもう片方の手に、
薬の入った瓶をもってもらい、
もう一度、オーリングがどの程度の力で開くかを測ります。
すると、
もし、その薬が被験者にあっている場合には、
そのオーリングはしっかり閉まっています。
逆に、その薬があっていない場合には、
オーリングに十分に力が入らず、
左程の力をかけなくても開いてしまいます。

結構、如実にその差があることから、
計測器などで測る必要はなく、
観察者の指の感覚でわかるわけです。

今回は、先生自身がオーリングを作り、
どの歯が問題なのかを自分自身に問いかけ、
先の「奥から3番目」の歯のときに、
力の入り方が異なったことから、
ほぼそれに間違いないだろうと推定されたわけです。

もちろん先生は、一般の方にはオーリングは使われません。
私が代替医療に関心が高いことをご存知だったから、
行ってくださったわけです。

そして、実際に奥から3番目の歯の被せ物を取ってみました。

結果は大当たり。
見事に、口の中から苦い味はなくなりました。
さらに、その歯を以前に治療したときに、
十分に歯根の処置をしていなかったことも発覚し、
新しい被せ物を付ける前に、その処置もすることになりました。
2ヶ月くらい、治療に通うことになりそうです。
今回は、オーリングテストの効果を見せ付けられました。

オーリングテストは、
誰でも、いつでも、どこでも出来る、
本当に簡単なテストなのですが、
そのメカニズムを考察していくと、
私たちが、これが「現実」と思っている、
3次元の世界のすぐそばに、
時間と空間を越えた世界が隣り合っているという、
壮大な宇宙の仕組みを垣間見させてくれます。

私たちは、その仕組みを通じて、
実は、時間と空間を越えたあらゆることの、
真実を知っているはずなのですが、
普段は、発達しすぎた?脳の働きによって、
その情報を顕在意識として認識できずにいるようです。

ドイツなどヨーロッパ諸国では、
オーリングテストと同じように、
潜在意識下で反応する、
身体の微妙な電流の変化を測定することで、
それを診断に活かす波動医学が発達しつつあり、
既に、いろいろな測定機器が、
開発され発売されているようです。

日本でも一部の医師や研究者の方が、
実際に活用されていますが、
日本では、まだまだ異端扱いされているのが現状です。

一日でも早く、国をあげて波動医学の本格的な研究に取り組み、それが、日常的な医療に用いられるようになることを願っています。

その暁には、
これまでの医療の致命的な欠陥も如実に明らかになることから、
現代医学は、飛躍的な改善と進歩を遂げるに違いありません。

Emergence ~ 創発現象

2010年02月19日 13時28分12秒 | 大自然のしくみから学ぶ社会
先日のNHKのプロフェショナルで、
若くして世界的に注目を浴びる研究をしている、
システム生物学者の上田泰己氏が取り上げられていました。

上田氏の研究のテーマは体内時計についてなのですが、
ご存知のように、身体のどこかに、
体内時計という臓器があるわけではありません。
身体のいくつかの特定部位にある、
特別な性質をもっている細胞の集まりによって、
体内時計の役割が果たされているのだそうです。

番組の中で、その細胞の集まりの挙動が、
紹介されていましたが、
それはまさに、以前の記事で書いた、
コヒーレンス(Coherence)が細胞群の間で起り、
オートポイエティックな自己組織が起ったものでした。

簡単に言うと、
そこのそれぞれの細胞自体は、もともと、
ある特定の周期で点滅しているのですが、
だんだんとお互いが同期してきて、
最後には全体が点滅するようになり、
それが体内時計の役割を果たしているのだと思われます。

一般的な細胞自身の基本的な特性として、
お互いの細胞が周囲の細胞の周期を感じ取り、
自分の周期を尊重しながらも、周囲にもあわせていくという、
協調的な性質があります。
(この協調的なな性質を失っているのがガン細胞です。)

自分の周期を尊重するか、
それとも他者の周期に合わせていくか、
その度合いの変化によって、
それぞれがバラバラに点滅するカオス状態か、
全体が同期して点滅する秩序状態かが決まってきます。
生物界では、その度合いが絶妙にチューニングされていて、
そのカオス状態から秩序状態に遷移するわずかな帯域を、
行ったり来たりすることで、
環境の変化や内部の変化にも、
柔軟に対応しながら代謝を行うことができ、、
生命が育まれ、維持されていると言われています。
これは、体内時計のみならず、
脳細胞の働き、胎児の発生過程、心臓の鼓動など、
様々な分野の研究で、この特性が確認されています。

このように、
お互いが影響しあって、
カオス状態から新たな秩序をつくることを、
Emergence、日本語では「創発」と言います。

テレビの内容を見る限り、
上田氏は、細胞実験で挙動とメカニズムの根拠を探り、
そして、その仮設を元にコンピュータで、
シミュレーションモデルをつくり、
そのメカニズムが機能することをシミュレートして、
証明することで、その研究の正当性を裏打ちする方法を、
取っておられるように見受けられます。
この手法には、数学とプログラミングのスキルが欠かせません。

これは、私がシューマッハカレッジで学んだ、
ホリスティックサイエンスにおける、
研究の方法論のひとつで、
私の恩師、故ブライアン・グッドウィン教授や、
その盟友でサンタフェ研究所のS.カウフマンらが、
20年以上前から行ってきた手法です。

このような、
個(例えば細胞)のしくみを解明することと同時に、
個と全体との相互依存、相互影響の関係によって現れる、
創発現象を探求する研究が、
これからも生命現象の解明をリードしていくことになると思います。

アーミッシュに憧れて・・・

2010年02月01日 23時00分20秒 | 幸福なくらし
パーティーというと、
部屋を華やかに飾り、
着る洋服も、普段とは違った、
ちょっと華やかなものを着なければと思うことでしょう。
女性なら、アクセサリーや髪形、
持って行くバックや靴まで気を配ることが一般的です。

この、誰もが当たり前のように思っていることが、
実は子供の頃から、
両親や周囲の人々、
絵本やテレビを通じて、
しっかりと刷り込まれた、
一種の思い込みであったことに気づかせてくれたのは、
ある一冊のアーミッシュの本でした。

ご存知のように、
アーミッシュの人々は、
常に質素で、華美な装飾や演出は行わず、
稀に飾りのようなものがあったとしても、
そこには、何か大事な意味があり、
まさに、必要最小限でありながら、
それで十分な物と装飾の中で暮らしています。

そのような環境の中で育った子供達は、
着飾ることや、華美な装飾をすることへの関心は低く、
そのかわり、
自然に活かされながら生活をしていることを喜び、
互いに助け合いながら生きることを当たり前とし、
人のために役立つことに喜びを感じながら生きています。

そういった世界から私たちの社会を見るならば、
そこには至る所に、物、意味の無い装飾や演出が溢れ、
それは、まるで洪水のように、
私たちを取り囲んでいるのがはっきり分かる事と思います。
私たちの多くは、いつしか生きる意味を忘れ、
自然に活かされていることに鈍感となり、
互いに助け合って生きていることへの感謝も減り、
まるで、物質世界に麻痺したような存在となっています。
さらに輪をかけるように、
酔っ払いが、自分は酔っていないと言い張るように、
自分では麻痺していないと思っているから、
なおいけません。

でもこれは、個人だけに帰属する問題ではありません。
先にも書いたように、
子供も、最初は純粋だったのに、
周囲の環境に染まっていくことで、
麻痺は、親から子へと受け継がれていきます。

社会全体も、
最初はそれほど麻痺していなかったはずですが、
個人の価値観と物質社会との相互影響が、
お互いに増長しながら繰り返されてきたことで、
今日の麻痺状態が形成されたと考えられます。

さて、この社会全体と個人を覆っている麻痺は、
一体、解けることはあるのでしょうか。
人類全体が、便利さや過剰な華やかさ、
物質的豊かさを手放して、
質素でありながら、心豊かな生活に、
シフトすることができるのでしょうか。

私の答えはイエスです。

それは、これは何か新しい能力を獲得しなければならないという、
これまでの人類の技術的発展のように時間のかかることではなく、
これまで身や心にくっつけてきた余計なものを、
ただ手放すだけの話だからです。

麻痺が少しずつ社会に蔓延していったのと同じように、
麻痺の開放も、きっと同じように、
個人と社会との間のフィードバックを繰り返しながら、
社会全体に浸透していくことでしょう。

それは、最初はゆっくりと、
そして、時と共に加速度的に早まっていくはずです。
現時点の段階では、
まだ、目に見える変化は微々たるものですが、
実は、結構多くの人々の心の中で、
もしかしたら本人も気づいていないかもしれないけれど、
明らかな価値観の変化が起り始めていると、
私は感じています。

欧米では10年以上前から、
このような価値観をもつ人々は、
ボランタリーシンプルとして認知されてきました。
しかし、
欧米のように、人は人、自分は自分とはいかない日本では、
実際に、周囲とは価値観の異なる生活をしようとすると、
結構な疎外感を感じることになります。
そのため、日本でボランタリーシンプルを志向する人々の多くは、
そういった生き方が、もう少し社会全体に認められるまで、
理想は理想として、その想いは心の中に留め、
自分の真意とは多少違っても、
物質主義の社会と上手く釣合をとりながら、
暮らすことになります。
従って、日本では、
欧米のような明確なボランタリーシンプル層は、
まだ現れていないと考えられます。

しかし、そういった“隠れボランタリーシンプル”は、
実は、社会の中に結構多く存在し、
着実に増えていっているはずです。