Boundary ~ ”境界”を意識する
“境界”(Boundary)とは、
境の向こうとこちらとでは、
世界が異なることです。
これは、自然界において、
いたるところに、
当たり前のように存在しますが、
そこには、とても重要かつ、
深遠な意味が含まれています。
例えば、私たちの身体は、
細胞壁で囲まれた、
一つ一つの細胞で出来上がっています。
細胞は、それぞれが分離し、
自律した働きをしているものの、
お互いに密接な情報交換をし合いながら、
協調した働きを行い、
それが臓器や脳、筋肉として、
非常に効率的で、
周囲の環境変化に柔軟に対応できる、
そういった身体を形成します。
もし、人間の身体が単細胞で出来上がっていたとしたら、
決してこれほどまでに、繊細な動きや、
様々な外的環境の中で生存することは、
決して出来ません。
一様だった世界に“境界”が現れ、
「個」が生まれたことは、
地球生命系にとっての大きな出発点でした。
そして、その分離した「個」は、
ただ分離している閉じられた系ではなく、
適度に外に開かれた開放系も持っています。
それぞれの「個」が、
お互いに協調的な働きをすることで、
地球は豊かな生命の世界を実現したのでした。
細胞と言うミクロな世界だけでなく、
マクロな世界でも“境界”が、
重要な役目を持っています。
日本のように、様々な山や尾根、
渓谷が複雑に入り組んでいるところでは、
そういった山や尾根、渓谷が、
“境界”の役目を果たしています。
その“境界”の向こうとこちらとでは、
様々な様相が異なることから、
そこに生息する植物や動物たちの種類にも、
違いが出てきます。
これは、野山にある岩や小川といった“境界”でも、
同じことが言えます。
こういった“境界”が野山の中に、
多数存在すればするほど、
そこの種の多様性は増大します。
多様性が増大することで、
自然環境は安定していき、
豊かな自然環境が育まれていきます。
パーマカルチャーでおなじみのスパイラルガーデンも、
基本的には同じことが言えます。
狭い空間をスパイラル上に“境界”を設けることで、
非常に効率よく多様な植物を共存させることができるのです。
一方で、砂漠や草原のような一様な世界の場合、
そこの生命の多様性は、
“境界”の多い地域に比べて著しく低くなり、
数えられるくらいの限られた種しか生存できません。
“境界”の形成(分離)という、
自然界の重要な摂理のひとつが、
“協調”というもう一つの摂理と相まって、
いかに大事な役目を担っているかが、
お分かりいただけたと思います。
これは、私たちの社会や組織にも、
全く同様のことが言えます。
特に、今日的なテーマである、
グローバリゼーションによって、
“境界”が失われ、
どこのスーパーに行っても、
同じようなものしか売っていないといった、
世界全体が一様(ノーマライゼーション)の、
方向に進んでいるのは、
誰もが感じていることでしょう。
私たちが安心で、安定した、
質の高い生活を営むためには、
ある程度の“境界”を維持した、
基本的な生活を維持でき、
自分の生活を安心して預けられる、
地域コミュニティーを形成する必要があります。
地域コミュニティーと言っても様々なレベルがあります。
集落的、或いは、都市部で言う街区のレベル、
村、或いは、都市部で言う地区のレベル、
地域レベル、県レベル、地方レベル、国レベルなどあります。
少なくとも生活していく上で基本となる、
衣食住に関わるものや福祉、
そして生活のセーフティーネットは、
比較的小さな地域のレベルとなりますし、
逆に、自動車や鉄鋼などの重厚長大なものは、
場合によっては、
国家規模のレベルかもしれません。
では一体、基本的な生活を維持できる、
その小さな地域とは、
どのくらいの大きさが理想なのでしょうか?
かつて、地域コミュニティーの研究家、
リチャード・ドゥースウェイトに聴いた時、
彼は、小さな図書館などの機能があり、
その地域の人々の基本的な生活を維持する人々、
(例えば食料品店、鍛治屋さん等)
が生計を立てられるくらいの規模で、
人口1500人程度が理想ではないかと言っていました。
私自身は、理想的な規模は、
もう少し大きいのではないかと考えています。
人口1500人規模では、
かなり質素な生活を余儀なくされます。
現在の物質的豊かさに慣れた人に、
それを要求するのは無理があります。
また、様々な面での創意工夫を進めるには、
その地域内での多様性、つまり、
地域に一店舗だけではなく、
数店舗が存在し、お互いに協力し合いながら、
切磋琢磨できることも必要です。
それを考えると、
人口5000~1万人程度の規模が適当かと考えます。
もっとも、現代の物質的な豊かさを、
失わないとするならば、
ざっくりとですが、10万人~30万人程度の、
コミュニティーが必要ではと思います。
これくらいの人が力を合わせれば、
重厚長大なものを除けば、
現代生活に必要なほとんど全てを、
自分たちで生産でき、
しかも、物を選ぶにも、
充分な選択肢があるかと思います。
ただ、あまりこの数字には、
こだわらなくて良いかと思います。
結局は、地理的条件や現在の人口に合った、
それぞれの地域で実現可能な、
地域コミュニティーを作らざるを得ないからです。
また、この“境界”は、
個々の物やサービスごとに、
その地域での自給自足できる規模が異なることから、
それぞれにその範囲の大きさが違ってきます。
これは、サービスや行政においても同じです。
その内容によって、
どの範囲で自律的なサービスや行政を、
達成できるのかを見極めたうえで、
その“境界”を決める必要があります。
従って、地域の“境界”といっても、
様々なものが同時に存在するのです。
あくまでポイントは、
先にも書いたように、
“境界”で分離した地域は、
完全に閉じられたものではなく、
適度に外に開かれます。
そして、地域同士の連携、助け合いも極めて重要となってきます。
この絶妙な美しいバランスをもった、
Boundary=境界をいかに形成していくかが、
これからの社会づくりの肝になってくるはずです。
会社などの組織作りにおいても同じことが言えます。
“境界”(Boundary)とは、
境の向こうとこちらとでは、
世界が異なることです。
これは、自然界において、
いたるところに、
当たり前のように存在しますが、
そこには、とても重要かつ、
深遠な意味が含まれています。
例えば、私たちの身体は、
細胞壁で囲まれた、
一つ一つの細胞で出来上がっています。
細胞は、それぞれが分離し、
自律した働きをしているものの、
お互いに密接な情報交換をし合いながら、
協調した働きを行い、
それが臓器や脳、筋肉として、
非常に効率的で、
周囲の環境変化に柔軟に対応できる、
そういった身体を形成します。
もし、人間の身体が単細胞で出来上がっていたとしたら、
決してこれほどまでに、繊細な動きや、
様々な外的環境の中で生存することは、
決して出来ません。
一様だった世界に“境界”が現れ、
「個」が生まれたことは、
地球生命系にとっての大きな出発点でした。
そして、その分離した「個」は、
ただ分離している閉じられた系ではなく、
適度に外に開かれた開放系も持っています。
それぞれの「個」が、
お互いに協調的な働きをすることで、
地球は豊かな生命の世界を実現したのでした。
細胞と言うミクロな世界だけでなく、
マクロな世界でも“境界”が、
重要な役目を持っています。
日本のように、様々な山や尾根、
渓谷が複雑に入り組んでいるところでは、
そういった山や尾根、渓谷が、
“境界”の役目を果たしています。
その“境界”の向こうとこちらとでは、
様々な様相が異なることから、
そこに生息する植物や動物たちの種類にも、
違いが出てきます。
これは、野山にある岩や小川といった“境界”でも、
同じことが言えます。
こういった“境界”が野山の中に、
多数存在すればするほど、
そこの種の多様性は増大します。
多様性が増大することで、
自然環境は安定していき、
豊かな自然環境が育まれていきます。
パーマカルチャーでおなじみのスパイラルガーデンも、
基本的には同じことが言えます。
狭い空間をスパイラル上に“境界”を設けることで、
非常に効率よく多様な植物を共存させることができるのです。
一方で、砂漠や草原のような一様な世界の場合、
そこの生命の多様性は、
“境界”の多い地域に比べて著しく低くなり、
数えられるくらいの限られた種しか生存できません。
“境界”の形成(分離)という、
自然界の重要な摂理のひとつが、
“協調”というもう一つの摂理と相まって、
いかに大事な役目を担っているかが、
お分かりいただけたと思います。
これは、私たちの社会や組織にも、
全く同様のことが言えます。
特に、今日的なテーマである、
グローバリゼーションによって、
“境界”が失われ、
どこのスーパーに行っても、
同じようなものしか売っていないといった、
世界全体が一様(ノーマライゼーション)の、
方向に進んでいるのは、
誰もが感じていることでしょう。
私たちが安心で、安定した、
質の高い生活を営むためには、
ある程度の“境界”を維持した、
基本的な生活を維持でき、
自分の生活を安心して預けられる、
地域コミュニティーを形成する必要があります。
地域コミュニティーと言っても様々なレベルがあります。
集落的、或いは、都市部で言う街区のレベル、
村、或いは、都市部で言う地区のレベル、
地域レベル、県レベル、地方レベル、国レベルなどあります。
少なくとも生活していく上で基本となる、
衣食住に関わるものや福祉、
そして生活のセーフティーネットは、
比較的小さな地域のレベルとなりますし、
逆に、自動車や鉄鋼などの重厚長大なものは、
場合によっては、
国家規模のレベルかもしれません。
では一体、基本的な生活を維持できる、
その小さな地域とは、
どのくらいの大きさが理想なのでしょうか?
かつて、地域コミュニティーの研究家、
リチャード・ドゥースウェイトに聴いた時、
彼は、小さな図書館などの機能があり、
その地域の人々の基本的な生活を維持する人々、
(例えば食料品店、鍛治屋さん等)
が生計を立てられるくらいの規模で、
人口1500人程度が理想ではないかと言っていました。
私自身は、理想的な規模は、
もう少し大きいのではないかと考えています。
人口1500人規模では、
かなり質素な生活を余儀なくされます。
現在の物質的豊かさに慣れた人に、
それを要求するのは無理があります。
また、様々な面での創意工夫を進めるには、
その地域内での多様性、つまり、
地域に一店舗だけではなく、
数店舗が存在し、お互いに協力し合いながら、
切磋琢磨できることも必要です。
それを考えると、
人口5000~1万人程度の規模が適当かと考えます。
もっとも、現代の物質的な豊かさを、
失わないとするならば、
ざっくりとですが、10万人~30万人程度の、
コミュニティーが必要ではと思います。
これくらいの人が力を合わせれば、
重厚長大なものを除けば、
現代生活に必要なほとんど全てを、
自分たちで生産でき、
しかも、物を選ぶにも、
充分な選択肢があるかと思います。
ただ、あまりこの数字には、
こだわらなくて良いかと思います。
結局は、地理的条件や現在の人口に合った、
それぞれの地域で実現可能な、
地域コミュニティーを作らざるを得ないからです。
また、この“境界”は、
個々の物やサービスごとに、
その地域での自給自足できる規模が異なることから、
それぞれにその範囲の大きさが違ってきます。
これは、サービスや行政においても同じです。
その内容によって、
どの範囲で自律的なサービスや行政を、
達成できるのかを見極めたうえで、
その“境界”を決める必要があります。
従って、地域の“境界”といっても、
様々なものが同時に存在するのです。
あくまでポイントは、
先にも書いたように、
“境界”で分離した地域は、
完全に閉じられたものではなく、
適度に外に開かれます。
そして、地域同士の連携、助け合いも極めて重要となってきます。
この絶妙な美しいバランスをもった、
Boundary=境界をいかに形成していくかが、
これからの社会づくりの肝になってくるはずです。
会社などの組織作りにおいても同じことが言えます。