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ニート脱皮

日蓮正宗信徒。信仰を糧に日々書いてゆきます。

11 学会では「本尊は我々の胸中の肉団にある」といいますが、本当でしょうか。

2008年07月31日 | 創価学会員であるあなたへ
 創価学会のこの指導は、会員を戒壇の大御本尊から引き離すためになされているものです。
 そのために学会では、『日女御前御返事』の
「此の御本尊全く余所(よそ)に求る事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり」
(新編 1388頁)
の御文を利用しています。

 昭和五十二年路線の当時にも、学会は同様の主張をしたことがありましたが、これについて総本山第六十六世日達上人は、
「我々は、御本尊の明鏡に向かうとき、凡夫理体の仏性が境智冥合(きょうちみょうごう)して、はじめて成仏できるのであります。自分が自身を拝んで、なんで成仏できましょうか。そこに、御本尊の大事なことがあるのであります。もし、かってに自分自身を拝んで成仏するというならば、大聖人はなんのために御本尊をご図顕なさったのか。戒壇の御本尊を、大聖人のご当体として残されたのでありましょうか」
(達全 2-5-600頁)
と破折されています。

 胸中に御本尊があるから、戒壇の大御本尊にお目通りしなくてもよいという学会の考えは、大聖人のお心に背く悩乱の説というべきです。

10 池田大作氏は「もはや本尊はどれも同じ」といっていますが、正しいのでしょうか。

2008年07月30日 | 創価学会員であるあなたへ
池田氏は本門戒壇の大御本尊とその他の御本尊を混同し、会員の心を本門戒壇の大御本尊から離れさせようと企てているのです。

 御本仏日蓮大聖人が出世の本懐(ほんがい)として、弘安二年十月十二日に御図顕された人法一箇の「本門戒壇の大御本尊」が本宗の根本の御本尊です。

 これに対して、各家庭や各人に下付される御本尊は、その根源の本門戒壇の大御本尊の御内証(ないしょう)を、唯授一人血脈付法の御法主上人が、その権能において書写され、本宗僧俗に下付されるのです。

 したがって、本門戒壇の大御本尊とその他の御本尊は、もとより能開(のうかい)と所開(しょかい)の関係にあることを知らなければなりません。

 かつて創価学会では
「私どもが留意すべき点について申し上げます。それはまず第一に、戒壇の大御本尊根本の信心に立ち、総本山大石寺こそ、信仰の根本道場であることを、ふたたび原点に戻って確認したいのであります。戒壇の大御本尊を離れて、われわれの信仰はありません」
(特別学習会テキスト 五六頁)
と指導していました。

 大聖人は『題目(だいもく)弥陀(みだ)名号勝(みょうごうしょう)劣事(れつじ)』に、
「能開所開を弁(わきま)へずして物知りがほ(顔)に申し侍るなり」
(新編 332頁 取意)
と仰せですが、現在の池田氏率(ひき)いる創価学会は、まさに大聖人のこの厳しい責めをこうむる大謗法を犯しているのです。

9 「御本尊は幸福製造機」という考えは正しいのでしょうか。

2008年07月29日 | 創価学会員であるあなたへ
 御本尊は、「幸福製造機」などという「単なる機械」「単なる物」ではありません。

 日蓮正宗の御本尊は、
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」
(新編 1773頁)
とも
「即ち彼の池を見るに不思議なり、日蓮が影今の大曼荼羅なり」(聖典 380頁)
と説かれるように、生きた日蓮大聖人そのままの御当体なのです。大慈悲を具えた生きた仏様だからこそ私たちは御報恩謝徳申し上げるのです。

 日寛上人が、『観心本尊抄文段』に
「則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来たらざるなく、理として顕われざるなきなり」
(富要 4-213頁)
と仰せのように、御本尊の功徳は無量無辺です。

 しかし、そのためには「正しい本尊」を信じなければなりません。『同文段』に
「この本尊に人あり法あり(中略)法に即してこれ人、人に即してこれ法、人法の名は殊(こと)なれども、その体は恒(つね)に一なり」(同頁)
と説かれるように、宗祖大聖人の御当体たる御本尊を信受することが大切なのです。

 創価学会では以前から「御本尊は幸福製造機」といっていましたが、宗門においては、これを一般信徒に御本尊の功徳を説明するための方便としてうけとめてきました。

 しかし現在、創価学会は
「御本尊といっても物体にすぎない」
(池田スピーチH五・五・三 取意)
という誤った考えに陥っています。御本尊を単なる機械と見る考え方は大謗法であり、根本から改めなければなりません。



第二章 創価学会の本尊観

2008年07月29日 | 創価学会員であるあなたへ
 8 創価学会の本尊観は昔から一貫して変わらないのでしょうか。

 かつて創価学会では、
「この本門戒壇の大御本尊を根本として、血脈付法の歴代の御法主上人が大御本尊を御書写になり、御下附くださったのが、私達の家家に御安置申し上げている御本尊です」(大白蓮華 345ー36頁)

と述べていたように、血脈付法の御歴代上人を通じて本門戒壇の大御本尊に帰依するという本宗本来の正しい本尊観をもっていました。

 ところが、現在は、「大聖人直結」といい、「代々の法主に伝わる特別な相承などない」といって、経本の観念文から御歴代上人に対する報恩謝徳の御文を削除し、

「本尊は我々の信心の中にある」とか
「我々の信力・行力によって仏力・法力は完結する」
「大石寺の御本尊にお目通りしなくてもよい」
などといい出しています。

 このように創価学会は、信仰の根本たる戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈を否定した本尊観に大きく変わっており、現今の創価学会の説が本宗の教えに背く邪義であることはいうまでもありません。


7 学会版の経本で抹消した二座の観念文のうち、「久遠元初自受用報身如来の御当体」の意味

2008年07月28日 | 創価学会員であるあなたへ
 「久遠元初」とは、単なる時間的な「宇宙の最初」という意味ではなく、実には一切の現象の究極・根本という意味で、時間・空間を超絶した絶対的な状態をいいます。

 また、「自受用報身如来」について説明しますと、まず仏教において仏という場合、法界の一切の真理としての法身(ほっしん)如来、その真理を照らす智慧身たる報身(ほうしん)如来、大慈悲によって一切衆生を救済する応身(おうじん)如来の三つの側面があります。

 この三身如来の中でも、特に悟りの智慧を中心として、そこに法身、応身の二身を兼ね備えた仏を報身如来といい、この報身仏が自ら悟られたそのままの境界を「自受用」といいます。

 すなわち「久遠元初の自受用報身如来」とは、「絶対的な究極の仏」ということです。『御義口伝』には「自受用報身」を「ほしいままにうけもちいるみ」(新編 1772頁)と解説されています。

 この久遠元初の自受用報身如来こそ「末法の法華経の行者」たる日蓮大聖人であり、そのお悟りの当体そのままを、本門戒壇の大御本尊として建立されたのです。

6 戒壇の大御本尊と各家庭の御本尊との関係を教えてください。

2008年07月26日 | 創価学会員であるあなたへ
 「本門戒壇の大御本尊」は、根本となる究極の御本尊であり、「各家庭の御本尊」は、御本仏日蓮大聖人より日興上人、日目上人へと、大聖人の御内証(ないしょう)の法体(ほったい)を唯授一人血脈相伝される御歴代上人が、根源たる本門戒壇の大御本尊の御内証を書写して下付される御本尊です。

 総本山第五十六世日応上人が『弁惑観心抄』に
「此の金口(こんく)の血脈こそ宗祖の法魂を写し、本尊の極意を伝えるものなり、これを真の唯授一人と云ふ」(同書 219頁)

と指南されているように、代々の御法主上人に伝えられる血脈相承によって、はじめて本門戒壇の大御本尊の法魂・極意(ごくい)が書写されるのです。したがって血脈相伝の教えに信順し、本門戒壇の大御本尊を信ずる一念をもって拝むならば、書写された御本尊もその功徳に変わりはありません。

 しかし信仰が戒壇の大御本尊から離れ、血脈相伝の教えから離れるならば、いかに各家庭の御本尊を拝んでも功徳は生じません。かえって罪障を積むことになるのです。



5 「一閻浮提総与の御本尊」とはどういうことですか。

2008年07月26日 | 創価学会員であるあなたへ
 「一閻(いちえん)浮(ぶ)提(だい)総与の御本尊」とは「一閻浮提(全世界)のすべての人々が信受すべき御本尊」との意味で、本門戒壇の大御本尊のことを指します。

 『観心本尊抄』に
「寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮(えんぶ)の衆生に授与せしめたまふ」(新編 657頁)
と仰せのように、御本仏宗祖日蓮大聖人は、末法万年にわたり、全世界の人々を救済するために、自らが御所持の寿量文底の南無妙法蓮華経を顕わされました。
 そして、南無妙法蓮華経の法体として、「本門戒壇の大御本尊」を図顕されました。

 全世界の人々が真実の平和と幸福を確立するためには本門戒壇の大御本尊を信仰すべきであり、その戒壇に参詣すべきことを『三大秘法抄』に
「三国並びに一閻浮提の人懺悔(さんげ)滅罪の戒法のみならず、大梵天王(だいぼんてんのう)・帝釈(たいしゃく)等の来下(らいげ)して踏(ふ)み給ふべき戒壇なり」
(新編 1595頁)
と仰せられています。

 このように、全世界の民衆を救済するために顕わされた大御本尊であり、全世界の民衆がおしなべて参詣帰依すべき大御本尊という意味から「一閻浮提総与の大御本尊」と申し上げます。

4 「本門戒壇の大御本尊」とはどういうことですか。

2008年07月24日 | 創価学会員であるあなたへ
 〝本門の戒壇に御安置すべき究竟の御本尊〟という意味です。

 宗祖日蓮大聖人が、弘安二年十月十二日に御図顕された出世の本懐(ほんがい)たる大御本尊には「本門戒壇」との脇書(わきが)きがしたためられています。

 この「戒壇」について、日寛上人は『文底秘沈抄』に、「事」と「義」との戒壇があるとし、
「義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処」
(聖典 849頁)、
「事の戒壇とは一閻浮提の人、懺悔滅罪の処なり云云」(同頁)
と指南されています。

 すなわち、「義の戒壇」とは各家庭も含めた本門の本尊安置の所で、その義理が事の戒壇に相当するということです。そして、その根本となる「事の戒壇」とは、宗祖日蓮大聖人が、
「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり」(新編 1675頁)

と仰せの、御遺命の本門寺の戒壇堂です。この「事の戒壇」に御安置申し上げる大御本尊でありますから、弘安二年十月十二日に御図顕の御本尊を「本門戒壇の大御本尊」と申し上げるのです。

3 「人法一箇」とはどういうことですか。

2008年07月23日 | 創価学会員であるあなたへ
 「人法一箇」とは、日蓮大聖人の顕わされた大御本尊は、人・法の名称は異っても、その体は同じであるということです。

 「人」とは、人の本尊たる御本仏日蓮大聖人のことであり、「法」とは、法の本尊たる事の一念三千、南無妙法蓮華経の御本尊です。

 日寛上人は『文底秘沈抄』において、三大秘法の「本門の本尊」を、人・法の二つに開かれ、人本尊は
「久遠元初の自受用報身の再誕、末法下種の主師親、本因(ほんにん)妙(みょう)の教主、大慈大悲の南無日蓮大聖人」
(聖典 838頁)
であり、法本尊は
「事の一念三千無作(むさ)本(ほん)有(ぬ)南無妙法蓮華経の御本尊」(聖典 834頁)
であると指南されています。

 この人・法の本尊は、
「人即是れ法、自受用身即一念三千なり、法即是れ人、一念三千即自受用身なり」(聖典 843頁)
と指南されているように、人法一体の御本尊なのです。

 『御義口伝』にも
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」
(新編 1773頁)
と仰せられ、この御本尊が大聖人の当体そのものであると教示されています。

 したがって大聖人を離れて南無妙法蓮華経はなく、南無妙法蓮華経を離れて御本仏日蓮大聖人はないのです。


2 日蓮大聖人はなぜ御本尊を顕わされたのですか。

2008年07月21日 | 創価学会員であるあなたへ
 日蓮大聖人は、末法のすべての民衆を救済するために御本尊を顕わされました。
 『観心本尊抄』に
「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠(たま)を裹(つつ)み、末代幼稚の頸(くび)に懸(か)けさしめたまふ」(新編 662頁)
と仰せです。

 日蓮大聖人は、末法の時代に出現され、御本仏としての化導のうえから、末法適時の大法を弘められ、全世界の民衆に即身成仏の大利益を得せしめんがために、「本門戒壇の大御本尊」を顕わされました。

 日寛上人は、『文底秘沈抄』に
「本尊とは所縁の境なり」(聖典 833頁)
と示され、妙楽大師の「正境に縁すれば功徳猶(な)お多し、若し正境に非ざれば縦(たと)い偽妄(ぎもう)無けれども亦種と成らず」の文を引用して、正境すなわち正しい本尊によってのみ、一切衆生は成仏できると指南されています。

 『報恩抄』に
「日蓮が慈悲曠大(こうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の外(ほか)未来までもながる(流布)べし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ」(新編 1036頁)
と仰せのように、御本仏日蓮大聖人の広大な慈悲が御本尊として顕わされ、一切衆生の成仏道が開かれたのです。