功徳と罰。これが信心の要やと思います。
「誠心」(妙観講の基をなす信条)より抜粋。
四十二、体験談を重用(ちょうよう)する
①「日蓮仏法をこころみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず。」御書874頁
妙観講においては、体験談を非常に重く用いています。むろん仏法においては、御金言と道理が大切であるけれども、それを踏まえた上で、現証としての体験が最も大切であるからです。
体験談を用いて折伏をし、座談会・班長会・幹部会等の各種会合でも、必ず体験発表が行われます。
この「体験」「実証」ということについて、それを小馬鹿にしたり、あるいは「自分は体験談が嫌いだ」とか、人によっていろいろな考えがあるようですが、そんな個人的な好みをいうのではなく、大聖人がこのように仰せられていることから考えなくてはいけないのであります。
②「近き現証を引いて遠き信を取るべし。(中略)過去未来を知らざらん凡夫は此の経は信じがたし。又修行しても何の詮かあるべき。是を以って之を思ふに、現在に眼前の証拠あらんずる人、此の経を説かん時は信ずる人もありやせん。」御書814ページ
「近き現証を引いて遠き信を取るべし」つまり、人生上、生活上に、目に見える形で顕れた現証を通じて、多くの人々が仏法への信を起こすことができる、との仰せです。
仏さまが説かれる甚深(じんじん)の教えは、私たち凡夫の肉眼で、その全てを見て確かめることなど、とうていできません。では、見えないことが信じられるのか、ということですが、日蓮大聖人は、
「山を隔て煙の立つを見て、火を見ざれば煙は一定なれども火にてやなかるらん。かくのごとくいはん者はいっせんだいの人としるべし。生き盲(めくら)にことならず」御書1001ページ
と仰せられ、山の向こうから煙が立ち昇るのを見て、こちらから見えない向こう側に火が燃えていることを信ずべきである、これが信心である、と示されています(むろん、煙もないのに火があると思い込むのは盲信・狂信であり、逆に、煙が昇っているのに火があることを信じようとしない人は心の曲がったいっせんだいにんです)。
このことからいうならば、私たちは、眼前に証拠があることをもって、そこに、肉眼では見えないけれども、仏さまの教えーー生命が三世に亘ること、御本尊がたしかに仏の生命の誤当体であること、私達の胸中にも仏の生命が本然的に具わっていること、過去世に謗法の罪障を作ってきたこと、後生の成仏と堕地獄が確かな事実であること等々を信じることができるのです。
ここに体験の大切さがあるのであり、仏法の道理を学んでいくことに加えて、”この仏法を実践して不治の病を克服した””どうにもならない経済苦を乗り越えた”等々という体験を実際に持っている人達から話を聞き、あるいは、自分の身の上に実際に功徳や罰を体験したならば、多くの人々が仏法を信ぜざるをえなくなります。
また、さんざん御金言をしめされて、それでも『自分は理屈では解るんだが、どうしても従えない」という人が、厳然たる現証を見たり、あるいは身をもって仏罰の体験をしたことで、畏れおののいて、ただちに改心した、という事例は、大聖人御在世でも今日でも、じつにたくさん見られるのであります。
だから体験というものは重要なのであり、体験談を常に重んずることで、より多くの人に信を起こさせることができ、その信心をさらに深めていくことができるのです。
したがって、講中で行う会合では、必ず体験発表の機会を設けるべきであり、体験発表のないような座談会をすべきではない、そのくらいのつもりでいくべきです。
年のため申し添えれば、ここでいう体験談とは、現実の世の中や生活上に現れた御本尊の御力、つまり功徳と罰の現証を語ることです。
「折伏しなければいけないと思って、ようやくできました」という活動報告や、「自分は決意したけれども破ってしまいました。来月は頑張ります」という反省談のことではありません。このような活動報告や反省談ばかりを並べ、檄だけ飛ばしていると、いつしか信心の喜びも確信も損なわれていってしまいます。
また、折伏においても、体験談のない理屈だけの折伏は、なかなか相手の心に入っていかない、ということを知るべきであります。
凡夫は体験・実証をもって信を起こすことができる、このことをよく弁えていかなくてはなりません。
「誠心」(妙観講の基をなす信条)より抜粋。
四十二、体験談を重用(ちょうよう)する
①「日蓮仏法をこころみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず。」御書874頁
妙観講においては、体験談を非常に重く用いています。むろん仏法においては、御金言と道理が大切であるけれども、それを踏まえた上で、現証としての体験が最も大切であるからです。
体験談を用いて折伏をし、座談会・班長会・幹部会等の各種会合でも、必ず体験発表が行われます。
この「体験」「実証」ということについて、それを小馬鹿にしたり、あるいは「自分は体験談が嫌いだ」とか、人によっていろいろな考えがあるようですが、そんな個人的な好みをいうのではなく、大聖人がこのように仰せられていることから考えなくてはいけないのであります。
②「近き現証を引いて遠き信を取るべし。(中略)過去未来を知らざらん凡夫は此の経は信じがたし。又修行しても何の詮かあるべき。是を以って之を思ふに、現在に眼前の証拠あらんずる人、此の経を説かん時は信ずる人もありやせん。」御書814ページ
「近き現証を引いて遠き信を取るべし」つまり、人生上、生活上に、目に見える形で顕れた現証を通じて、多くの人々が仏法への信を起こすことができる、との仰せです。
仏さまが説かれる甚深(じんじん)の教えは、私たち凡夫の肉眼で、その全てを見て確かめることなど、とうていできません。では、見えないことが信じられるのか、ということですが、日蓮大聖人は、
「山を隔て煙の立つを見て、火を見ざれば煙は一定なれども火にてやなかるらん。かくのごとくいはん者はいっせんだいの人としるべし。生き盲(めくら)にことならず」御書1001ページ
と仰せられ、山の向こうから煙が立ち昇るのを見て、こちらから見えない向こう側に火が燃えていることを信ずべきである、これが信心である、と示されています(むろん、煙もないのに火があると思い込むのは盲信・狂信であり、逆に、煙が昇っているのに火があることを信じようとしない人は心の曲がったいっせんだいにんです)。
このことからいうならば、私たちは、眼前に証拠があることをもって、そこに、肉眼では見えないけれども、仏さまの教えーー生命が三世に亘ること、御本尊がたしかに仏の生命の誤当体であること、私達の胸中にも仏の生命が本然的に具わっていること、過去世に謗法の罪障を作ってきたこと、後生の成仏と堕地獄が確かな事実であること等々を信じることができるのです。
ここに体験の大切さがあるのであり、仏法の道理を学んでいくことに加えて、”この仏法を実践して不治の病を克服した””どうにもならない経済苦を乗り越えた”等々という体験を実際に持っている人達から話を聞き、あるいは、自分の身の上に実際に功徳や罰を体験したならば、多くの人々が仏法を信ぜざるをえなくなります。
また、さんざん御金言をしめされて、それでも『自分は理屈では解るんだが、どうしても従えない」という人が、厳然たる現証を見たり、あるいは身をもって仏罰の体験をしたことで、畏れおののいて、ただちに改心した、という事例は、大聖人御在世でも今日でも、じつにたくさん見られるのであります。
だから体験というものは重要なのであり、体験談を常に重んずることで、より多くの人に信を起こさせることができ、その信心をさらに深めていくことができるのです。
したがって、講中で行う会合では、必ず体験発表の機会を設けるべきであり、体験発表のないような座談会をすべきではない、そのくらいのつもりでいくべきです。
年のため申し添えれば、ここでいう体験談とは、現実の世の中や生活上に現れた御本尊の御力、つまり功徳と罰の現証を語ることです。
「折伏しなければいけないと思って、ようやくできました」という活動報告や、「自分は決意したけれども破ってしまいました。来月は頑張ります」という反省談のことではありません。このような活動報告や反省談ばかりを並べ、檄だけ飛ばしていると、いつしか信心の喜びも確信も損なわれていってしまいます。
また、折伏においても、体験談のない理屈だけの折伏は、なかなか相手の心に入っていかない、ということを知るべきであります。
凡夫は体験・実証をもって信を起こすことができる、このことをよく弁えていかなくてはなりません。