ニート脱皮

日蓮正宗信徒。信仰を糧に日々書いてゆきます。

宗教といっても、人間が考え出したものではないか。

2006年07月17日 | 宗教とは何か?
●仏法とは仏が覚知した真理
 宗教に限らず、科学にしろ医学にしろ、あるいは文化にしろ、皆、誰かが説くから、それを知ることができるのです。

 宗教のことも、人間の誰かから聞かなければ、どこから、どのようにして聞くというのでしょうか。まさか、空から神様や金ピカの仏様が降りて来て教えを説くとか、天から声が聞こえてくる、などと考えているわけではないでしょう。

 また、「人間が考え出した」と言いますが、仏法は、考え出したり、作られたものではありません。最高の智慧(ちえ)をもった方(これを仏と申し上げます)が発見した宇宙の実相(生命の法則)を、そのまま説き示したのが仏法なのです。

 もし、これを『考え出した』というのであれば、たとえば、自然科学の発達に伴って発見され実証された、分々の真理や法則も、すべて「人間が考え出した」ということになってしまうでしょう。

 一方、たしかに、世の宗教の中には、人間が糧に作り上げた、非科学的な教え、信ずるに足りない教えもあります。日蓮正宗では、これを、”人師が作った宗教”として、その教えの矛盾や誤りを批判しています。

 そこで、日蓮正宗で説く教えが、そうした”人師が作った宗教”ではなく、仏の発見された確かな真理であるかどうかを、まずは、あなた自身が確認してみてください。


宗教とは何か?

2006年02月25日 | 宗教とは何か?
宗教とは本尊との感応の理

 まず、宗教とはいかなるものをいうのか、ということから述べてまいりましょう。

 世の中には、たくさんの宗教・宗派がありますが、その各宗各派には、それぞれの教えや指針などを、信仰の対象として具体的なかたちに表した「本尊」があります。本尊というのは、根本として尊敬(そんぎょう)すべきもの、の意味で、人生の根本として信仰・礼拝する対象のことです。

 そして、何をもって本尊とするか、その違いによって、それぞれの宗派が異なってくるのであります。たとえば、浄土宗では阿弥陀如来を本尊とし、真言宗では大日如来を本尊とし、また、稲荷信仰では狐を本尊とし、キリスト教では十字架上のキリストを本尊としている、という具合いに、各宗各様、さまざまな本尊を立てています。

 しかして、各宗教の信者は、それぞれ自宗で立てる本尊を信仰しているわけですが、ここに、ひとつ重大な問題があるのです。

 それは、本尊を信仰することによって、自己と本尊との間に「感応(かんのう)」という現象が生ずる、ということです。

 この感応について、わかりやすく説明いたしますと、俗に「朱に交われば赤くなる」といわれるように、私達が友人をもって、親しくつきあっていく場合、その友人の癖がうつったり、人生観や考え方が似てきたり・・・・と、知らず知らずのうちに、その友人からいろいろな影響を受けることがあります。

 また、子供が育っていく過程で、もとは良い子だったのに、悪い仲間とつき合っているうちに、すっかり不良になってしまった、などということも、よく聞く話です。

 これらの場合、ただ、つき合っているというだけでも相手の影響を受けるわけですが、さらに、相手に対する信頼・尊敬の念を強くもって、つき合っていったら、どうなるでしょうか。相手を、強く信頼し尊敬すれば、するほど、相手から受ける影響も、強く、大きくなっていく、というのが実際でありましょう。

 これらのことから、私達の生命には、本来、外界の事象を受け入れ、染め込んでいく働きが具わっており、その働きは、信頼し尊敬することによって、強く発動する、ということがわかるのであります。その証拠に、心から嫌い賤(いや)しんでいる相手の影響は、ほとんど受けません。

 翻って、信仰とは、読んで字のごとく、信じ仰ぐ、すなわち、本尊を人生の根本として信じきり、手を合わせて拝むまでに尊敬しきる、いわば信頼・尊敬の極まった姿が信仰である、といえます。

 されば、その信仰の対象となった本尊の影響をストレートに受けてしまう、それも、友人を信頼し尊敬して影響を受けるなどという程度ではなく、(人生の根本として信じきり、合掌・礼拝までするほどに尊敬しきるわけですから)その本尊と自己とが一体化してしまうまでの強烈な影響を受けるのであります。

 この、本尊と自己とを一体化させる働きを、感応というのであり、それをもたらすのが信仰という行為なのです


本尊を選択することが肝心

 ここにおいて、大切なことは、いかなる本尊を対象として信仰するか、という点です。

 前の例でいうならば、信頼・尊敬のできる有人をもつことは良いことですが、それよりも大切なのは、どのような友人をもつか、ということでありまして、もし、悪友をもつときには、その悪影響を少なからず受けざるをえないのであります。

 それと同様に、信仰においても、信ずる対象は何でもよい、というわけにはまいりません。もし、信仰の対象たる本尊が低級・邪悪なものであったならば、それを信仰する者の人格、人生も自ずと低級な、苦しみや行き詰まりに満ちた不幸なものとなってしまうからです。

 よく、世間では「鰯の頭も信心から」などと称し、信仰は何でもよいと思っている人が多いようですが、そもそも、鰯の頭を人生の根本の指針にするのと、世界的な哲学者の教えを人生の根本の指針にするのとでは、その人生に天地雲泥(てんちうんでい)の差が出るのは当然のことでありましょう。いわんや、本尊を立てて信仰していく場合には、本尊と自己とを直ちに一体化させる、感応の働きが生じますから、もし、本尊の選択を誤ったならば、人生を破滅に導く結果となるのです。

 一例として、狐や蛇等の畜生の類を本尊として信仰する宗教について、考えてみましょう。

 まず、狐や蛇を信仰するということは、それを人生の根本として尊崇する、自己の中に受け入れる、ということですから、最終的には、自分自身が畜生と同様の状態になることを意味します。

 その際、畜生のもつ特有の力・・・・たとえば危険を予知する動物的第六感などが、自分の生命にも発現してくるため、探し物が見つかったとか、商談がうまくいった等の、いわゆる利益らしき現象が現れてくる場合があります。しかし、良さそうに見えるのは一時だけで、ついには畜生の生命に成り果ててしまいますから、人間としての正常な知恵や判断力、人格などが、まったく失われてしまうのです。

 日本で古来より狐憑きとか、神が懸かりとか呼ばれている奇怪な現象も、まさしく、ここから生じたものであり、これでは、人間として真に幸福な人生を営むことなど、とうてい、できよう筈もありません。

 このように、本尊の高低・正邪・浅深は、そのまま、信ずる者の人格・人生を決定的に左右するほどの影響をもたらしますから、まず、何よりも、最高・最勝の正しい本尊を選択するということが、もっとも肝心なのであります。

 しかるに、こうした宗教の実義に無知は人々は、人間より数段劣るところの畜生を拝んだり、十字架上で惨死した姿のキリスト像を拝んだり、あるいは西方極楽浄土などという架空の世界の、しかも我々には縁もゆかりもない阿弥陀仏を拝んだりしています。ひどいところでは、何を本尊にしたらよいのかわからず、何回も本尊を改変している宗派もあるのですから、呆れたものです。

 これらは、いずれも、自らが信仰する本尊の真価や、拝む理由すら弁えられず、あげくのはては自らの人生を滅ぼす結果となるのです。まことに愚かな、そして恐ろしいことといわねばなりません。



本尊とは勝れたるを用うべし

七百年前、この日本の国に出生された日蓮大聖人は、このような宗教界の本尊の乱れに対して、

「諸宗は本尊にまどえり」(御署五五四ページ)
と指摘され、さらに
 
「本尊とは勝(すぐ)れたるを用(もち)ふべし」
(御書一二七五ページ)
と叫ばれました。そして、厳密かつ公正なる宗教批判の基準を示し、これによって最高真実の本尊を判定されたのであります。



真実の宗教を探る

前述のように、日蓮大聖人は、厳正なる宗教批判の基準によって、最高真実の本尊を判定されました。それについて、ごく簡単に述べてみましょう。

仏教と他の宗教とを比較する

 まず、世の中には、仏教、キリスト教、イスラム教をはじめ、じつに、さまざまな宗教が存在しております。これらを、仏教と、仏教以外の教えとに分けて、比較相対してみますと、そこに、大きな、根本的な違いが見られます。それは「因果(原因と結果の関係)」の有無ということです。

 仏教では、厳格なまでに因果を根本としておりますが、仏教以外の教えにおきましては、因果が明らかでなかったり、あるいは因果を無視し否定しております。

 およそ、世の中の全ての物事において、原因なくして結果が生じたり、原因はあるのに結果がないなどということは、ひとつとしてありえません。科学というのも、人間の目に観察される現象について、そこに因果関係を究明していく学問でありますし、身近な私達の日常生活においても、道理や筋道(原因・結果を踏まえた筋の通った考え方)のわからない人は、正常とは認められないものです。

 したがって、いかに見かけが立派で神秘的(?)な宗教であれ、無から有が生ずるというような、因果を無視し否定する教えを説くならば、とうてい最高の真理であるなどと認めるわけにはいきません。

 実際、キリスト教、イスラム教、日本の神道、天理教等々で、神が天地や万物を創造したなどと説いているのは、自然科学にも反しているばかりか、因果をまったく無視した邪説であります。

 すなわち、もし一切が神によって創造されたというのなら、その神はどこから生じたのか、神は本源の存在であって生ずるものではないというのなら、そこで原因が途切れてしまい、因果はなくなってしまいます。
 
 また、同時に、宇宙万物が創造される以前には、神はどこに存在していたのか、という問題も起こってきます。つまり、宇宙万物が存在していなくて、神が存在するための環境もないことになってしまうからです。

 その他、身体中に穴の開いた死体が墓穴から出て歩き廻わるという復活や、処女懐胎(キリスト教)、人間はドジョウから作られた(天理教)、神が人間を作るときの失敗作が他の動物である(真光)等々の、奇跡と称される気違いじみた教えは、ことごとく因果を無視した迷信であります。

 このような道理に外れた教えには、もはや現代人を指導する力も何ひとつないばかりか、もし、これを根本として信仰するならば、それが信仰者の人格にまで決定的な影響を与え、幸・不幸の判断もつけられない性格破綻者となって、人間としての合理的生活すら破壊されることは論をまたぬのであります。

 これに対し、仏教は、厳格なる因果の理(ことわり)を根本として、一切の人々を幸福生活へと導く法を説き明かしたものですから、まったく他の劣悪な教えとは比較になりません。

 したがって、仏教と、仏教以外の宗教を相対すれば、仏教が勝れるのであります。



釈尊の本意は何であったか!?

 次に仏教といいましても、今日の世の中には、浄土宗、真言宗、禅宗等々、種々雑多な宗派があります。もともと仏教は、三千年前、インドに出現した釈尊(釈迦)によって説かれたものですが、この釈尊の教えが、時代と共に多くの宗派に分かれ、今日に至っているのです。

 仏教をよく知らない人々は、「仏教であれば、どれも同じお釈迦様の教えである」と思っているようですが、それぞれの宗派でまったく違う教え、異なる本尊を立てている以上、どれも同じ釈尊の教えであることに変わりはない、などという馬鹿なことはない筈で、釈尊の真意はただ一つの筈であります。

 そこで、このような分派・分裂の状況が何故に起こったのか、ということも含め、仏教の真の教えを探るべく、ひとまず原点に立ち還る、すなわち釈尊の説いた経典をひも解いてみましょう。

 釈尊は、一代五十年にわたり、膨大な教えを説いていますが、その四十二年目に説いた『無量義経(むりょうぎきょう)』という経典の中で、

 『自分は、かつて菩提樹の下で端坐黙想し、この世の中の真理というものを悟った。そして、この真理を人々に説こうと思い、思惟したが、これを、そのまま説くことは思い止まった。何故ならば、人々の素養、理解力が低く、また、まちまちであることを知ったからである。そこで、まず、人々の理解力やそれぞれの素養に合わせ、真理の中の一分一分を種々の経として説くことにした。かくて説いてきた教えは、いわば真実へ導くための方便であり、これまでの四十余年間においては、いまだ真理の全てを説き顕わしていないのである』(無量義経説法品第二)

と述べています。また、『無量義経』に続き、最後の八年間で説かれた『法華経』という経典においては、

 「人々の状態に応じて教えを説いてきたところの、その真意というものは、なかなか人々には理解できぬであろう」(法華経方便品第二)

 「今こそ、まさに、これまでの方便の教えを捨てて、最高真実の教えを説くであろう」(法華経方便品第二)

 「自分が説いた経は膨大な量であるが、その、すでに説いた経、今まさに説いた経、これから説くであろう経の中で、この法華経こそは最第一の経である」(法華経法師品第十)

等と宣言し、「法華経」こそが釈尊の悟った真理をそのまま説き明かした、最高真実の教えである、と述べているのです。

 以上を、たとえていうならば、小学生にいきなり微分積分等の高等数学を教えても理解できませんから、まず、足し算・引き算といった簡単なことから、しかも、一人ひとりの能力に従って理解させていき、やがて、高度なことを教えても理解できる段階を迎える、ということと同じであります。釈尊も、個々の能力に応じた低い教えから説き進めていって、最後に、最高真実の教えである法華経を説いた、ということなのであります。

 また、別なたとえでいえば、法華経は建物(たてもの)、それ以前の方便の教えは一時の足場のようなものです。ひとたび建物が完成してしまえば、工事のために掛けてあった足場は取り外さなくては、かえって建物の使用の邪魔になります。それと同様に、釈尊の真に説こうとしていた法華経が説き明かされたときには、方便の教えは捨てなくてはなりません。いつまでも方便の教えに執着することは、かえって有害無益となってしまいます。ゆえに、説いた釈尊自身が、「方便の教えを捨てて」といわれているのであります。

 このように、釈尊の真意が法華経にある以上、法華経こそが真の仏教であることは明白です。

 しかるに、釈尊のなくなられた後、仏教に無知な坊さん達が、こうした釈尊の御意(みこころ)を弁えず、四十二年間に説かれた種々の教典を見ては、「自分はこの経が真実だと思う」「いや、自分はこちらの経が好みだ」などといって、自分勝手に方便の経を取り出し、それを依り拠として一宗一派を旗揚げしてしまいました。それが、浄土宗、禅宗、真言宗等の、仏教諸宗なのです。

 むろん、これらの諸宗が、いくら仏教を名乗ろうとも、仏教の真意に背いているかぎりは、それは邪な似非仏教でありまして、真の仏教とは申せません。実際、これらの諸宗を世に弘めた、いわゆる宗祖・開祖と呼ばれる人達は、皆、悲惨な末路をたどり、普通の臨終ではありませんでした。いったい、真の正しい教えを信仰した者が、かくのごとき姿となる筈はないではありませんか。

 したがって、数多の仏教の中では、法華経を最勝の教えとして選択するのであります。



法華経の文底に前代未聞の大仏法が

 さて、その法華経の中には、

 「悪世末法(あくせまっぽう)の時」(法華経分別功徳品第十七)

 「後の末世の法滅せんと欲する時」(法華経安楽行品第十四)
等々と、「末法」という時代のことが説かれています。学校で教わる歴史の中に「末法思想」という言葉が出てきますので、名称だけは聞いたことがある、という人も多いのではないでしょうか。

 この、末法時代については、法華経のみならず、他の仏教典にも広く説かれておりますが、その意味するところは、おおむね、

 「釈尊が亡くなって後、およそ二千年が過ぎると、末法といって、人の心が非常に濁った、泥沼のような時代が訪れる。その時には、仏教も分裂・混乱し、世の中にも争いが相次いで、釈尊の遺した仏法が民衆を救済する力を失ってしまう」
というものです。

 では何故、そのような自体が起こるのか、ということですが、それは要するに、時代が先へ進めば進むほど、文明は発達するけれども、それと同時に人の欲求・欲望も深まって、ために人心が濁っていく・・・ということによっています。

 そして、軽い病人に効いた薬も、極重病人には効かぬのと同様、この人心も著しく悪化した末法時代においては、釈尊の仏法は効力を失い、一切の利益をなくしてしまうのであります。

 では、末法時代の人々はもはや救われないのか、と申しますと、釈尊は、この悪世末法の時こそ、釈迦仏法に替わり、法華経の文の底に秘められた前代未聞の大仏法が出現すべき時であり、末法時代の人々は、この大仏法によってのみ救われる、ということを説いています。しかして、その新時代の大仏法を弘める御方は、どのような御姿、御振舞いをもって出現するのか、ということまで、細かく法華経の中(勧持品第十三、如来神力品第二十一、薬王菩薩本事品第二十三等)に予証されているのです。

 これを、現実の歴史に照らして検討してみますと、この釈尊の予証と完璧に一致する御方は、古今東西ただひとり、日蓮大聖人をおいてありません。

 したがって、今、末法の時代に適する最高真実の教えとは、日蓮大聖人によって取り出だされた、法華経の文底の大仏法「南無妙法蓮華経」なのであります。

 もし、これに反対して、釈尊の説いた法華経に執着するとなれば、それは、あたかも、何日も前の腐った食べ物を食べ、また去年のカレンダーを今年も使うようなもので、かえって有害無益、しかも教主たる釈尊の本意にも背くことになりましょう。

 こうして日蓮大聖人は、御自身こそ、釈迦仏法に替わる末法の大仏法・南無妙法蓮華経を弘めるべき任にあたっている、との一大自覚のもと、これを一幅の大御本尊として顕わされました。それが、いかなる御本尊であるかについては、後に触れることにしますが、いずれにしても、この御本尊こそが、厳正なる宗教批判によって選び出された、最高真実の本尊に他なりません。



日蓮大聖人の仏法は今どこに!?

 しかるに、日蓮大聖人が御出現されてから七百年が経過する今日、世の中に、日蓮宗を自称している宗派の、なんと多いことでしょう。

 戦後になって、雨後のタケノコのように発生した新興宗教の多くも、ただ南無妙法蓮華経と唱えれば尊しと思ってか、これを看板にして自分勝手な教えを説き、それが、あたかも日蓮大聖人の教えであるかのごとく装っている、という有り様です。

 これらの宗派・団体は、口には南無妙法蓮華経を唱えていても、肝心な本尊がまったく違っていたり、似て非なるものであったり、ひどいところでは、蛇や狐、大黒様や鬼子母神などを祀り、それに向かって南無妙法蓮華経と唱えていたり・・・・・と、これでは、もはや日蓮大聖人の仏法とは申せません。

 いくつか名を挙げるならば、身延や池上などの自称・日蓮宗、また、立正佼成会、霊友会、仏立宗などの新興宗教団体等々が、皆、それであります。


 こうした仏法の破壊・混乱が、何故、起きたかと申しますと、それは、すべて「相伝(そうでん)」という重大事を無視するところに起因しているのです。

 相伝というのは、すぐれた剣豪が、その剣の極意に到達した弟子にのみ、免許皆伝して、自らの開いた剣の道を後世に伝えるために、最も適している弟子を一人だけ選び、自身の後継者として、仏法の極理・秘伝を余すとこなく授けられることをいいます。

 いかに勝れた教えであっても、それを後々まで伝えていく後継者がいなくては、間違いなく廃れてしまいますから、釈尊以来、仏法においては、この相伝を重視してきたのであります。

 しかして、日蓮大聖人の仏法における相伝は、日蓮大聖人から第二祖日興上人、日興上人から第三祖日目上人へと正しく受け継がれ、現在の第六十七世日顕上人に至るまで、「日蓮正宗・富士大石寺」にのみ連綿と伝わってきています。ゆえに、日蓮大聖人の正統門流は日蓮正宗だけであり、ここにのみ、日蓮大聖人の正しい教え、正しい大御本尊が、寸分違わず存在しているのであります。



日蓮大聖人の立てられた御本尊

 では、日蓮大聖人の顕わされた大御本尊とは、いったい、どのような本尊なのでしょうか。

 それは、一言でいえば、「仏の生命の御当体」と申せます。

 普通、「仏」というと、死んだ人や、金ピカの仏像のことだと考えられがちですが、本来、仏法でいう仏とは、私達の生命の奥底(おうてい)に潜在している最高の生命力のことであり、日蓮大聖人は、この仏の大生命の実体を、一幅の大御本尊として顕わされたのです。

 私達が、この大御本尊を信仰し奉るならば、御本尊と私達の生命とが感応して、私達の肉見(にくしん)の中に、偉大な仏の生命力が顕現してきます。そして、この仏の大生命力を原動力に現実生活を生きるとき、人生のあらゆる悩み苦しみを解決して、物心両面にわたる真の幸福を獲得していくことができるのであります。



南無妙法蓮華経のお題目とは

2006年02月24日 | 宗教とは何か?
一切衆生が仏に成るための法

 さて、この法華経に説かれている真理とは、いったい、いかなるものであろうか。

 それは、一念三千の法門といって、仏が自ら覚知された宇宙と生命の真理であり、仏自身も、この法を修行することによって、仏の絶対的幸福境涯を証得(しょうとく)されたのであるから、同じ原因を作れば同じ結果が生ずるの道理で、これをそのまま修行する衆生も、また仏と成ることができるという法である。

 ゆえに、数多(あまた)の経典はありとも、一切衆生が等しく仏に成れることを明かし、かつ、仏に成るための法の内容を明かしているのは、ただ法華経のみに限られており、それ以外の余経(よきょう)には絶えて見られない。

 このことから、日蓮大聖人は、
 「夫(それ)法華経の意は一切衆生皆成仏道の御経なり」(御書九〇五ページ)
と仰せられて、仏に成るための法は法華経だけである、と示されているのである。

 ところで、『法華経方便品』には、
「一切の衆(しゅ)をして、我(わ)が如(ごと)く等(ひと)しくして異(ことな)ること無からしめんと欲(ほっ)しき」(法華経一一一ページ)
と説かれて、仏は、宇宙と生命の真理に迷って苦悩の中に沈んでいる衆生を憐愍(れんみん)して、自らの証得した仏の境涯を等しく一切衆生にも授(さず)けんと願われ、世に出生して法を説かれた、ということが示されている。

 ならば、仏が世に出現した目的は、仏に成るための法、すなわち法華経を説くためであり、まさに、法華経こそが釈尊出世の本懐(ほんがい)の経である、といえるのである。

 なお、また法華経には、釈尊の入滅後の未来のことも予証(よしょう)されており、釈尊滅後二千年をすぎた時代(末法時代)には、まったく仏法に対する素養のない、生命の濁(にご)った衆生が充満(じゅうまん)し、ために釈尊の説いた仏法は法滅(法の利益、効力を失う)の様相(ようそう)を呈(てい)すること、そして、この時に、日月(にちがつ)の光明のごとき大人格者が出現して、種々の大難に遭(あ)われながらも、法華経の中に秘められていた肝心要(かんじんかなめ)の法を説き弘(ひろ)め、末法の衆生を成仏へと導くこと等が示されている。

 このことは要するに、
 「病によりて薬あり。軽病には凡薬をほどこし、重病には仙薬をあたうべし」(御書六九〇ページ)
の道理で、法華経が仏に成るための法であるというも、末法当今(とうこん)の衆生のためには、その一切の効能(こうのう)を失い、替わって、法華経に秘められた肝心の要法(ようぼう)のみが、末法のための唯一(ゆいいつ)の仏に成るための法となるのである。

 しかして、この法華経における末法についての予証は、日蓮大聖人の御出現によって実証(じっしょう)され、末法の一切衆生を成仏へと導く肝心の要法(南無妙法蓮華経)が日本に建立(こんりゅう)されたのである。ゆえに日蓮大聖人は、
 「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし」(御書一二一九ページ)と仰せられている。

 この日蓮大聖人の仏法、南無妙法蓮華経こそ、一念三千法門の肝要の実体であり、末法の法華経ともいうべき、唯一(ゆいいつ)の正法(正しい仏法)なのである。

本尊とは勝れたるを用うべし)

2006年01月18日 | 宗教とは何か?

七百年前、この日本の国に出生された日蓮大聖人は、このような宗教界の本尊の乱れに対して、

「諸宗は本尊にまどえり」(御署五五四ページ)
と指摘され、さらに

 「本尊とは勝(すぐ)れたるを用(もち)ふべし」(御書一二七五ページ)
と叫ばれました。そして、厳密かつ公正なる宗教批判の基準を示し、これによって最高真実の本尊を判定されたのであります。

本尊を選択することが肝心

2006年01月18日 | 宗教とは何か?

 ここにおいて、大切なことは、いかなる本尊を対象として信仰するか、という点です。

 前の例でいうならば、信頼・尊敬のできる友人をもつことは良いことですが、それよりも大切なのは、どのような友人をもつか、ということでありまして、もし、悪友をもつときには、その悪影響を少なからず受けざるをえないのであります。

 それと同様に、信仰においても、信ずる対象は何でもよい、というわけにはまいりません。もし、信仰の対象たる本尊が低級・邪悪なものであったならば、それを信仰する者の人格、人生も自ずと低級な、苦しみや行き詰まりに満ちた不幸なものとなってしまうからです。

 よく、世間では「鰯の頭も信心から」などと称し、信仰は何でもよいと思っている人が多いようですが、そもそも、鰯の頭を人生の根本の指針にするのと、世界的な哲学者の教えを人生の根本の指針にするのとでは、その人生に天地雲泥(てんちうんでい)の差が出るのは当然のことでありましょう。いわんや、本尊を立てて信仰していく場合には、本尊と自己とを直ちに一体化させる、感応の働きが生じますから、もし、本尊の選択を誤ったならば、人生を破滅に導く結果となるのです。

 一例として、狐や蛇等の畜生の類を本尊として信仰する宗教について、考えてみましょう。

 まず、狐や蛇を信仰するということは、それを人生の根本として尊崇する、自己の中に受け入れる、ということですから、最終的には、自分自身が畜生と同様の状態になることを意味します。

 その際、畜生のもつ特有の力・・・・たとえば危険を予知する動物的第六感などが、自分の生命にも発現してくるため、探し物が見つかったとか、商談がうまくいった等の、いわゆる利益らしき現象が現れてくる場合があります。しかし、良さそうに見えるのは一時だけで、ついには畜生の生命に成り果ててしまいますから、人間としての正常な知恵や判断力、人格などが、まったく失われてしまうのです。

 日本で古来より狐憑きとか、神が懸かりとか呼ばれている奇怪な現象も、まさしく、ここから生じたものであり、これでは、人間として真に幸福な人生を営むことなど、とうてい、できよう筈もありません。

 このように、本尊の高低・正邪・浅深は、そのまま、信ずる者の人格・人生を決定的に左右するほどの影響をもたらしますから、まず、何よりも、最高・最勝の正しい本尊を選択するということが、もっとも肝心なのであります。

 しかるに、こうした宗教の実義に無知は人々は、人間より数段劣るところの畜生を拝んだり、十字架上で惨死した姿のキリスト像を拝んだり、あるいは西方極楽浄土などという架空の世界の、しかも我々には縁もゆかりもない阿弥陀仏を拝んだりしています。ひどいところでは、何を本尊にしたらよいのかわからず、何回も本尊を改変している宗派もあるのですから、呆れたものです。

 これらは、いずれも、自らが信仰する本尊の真価や、拝む理由すら弁えられず、あげくのはては自らの人生を滅ぼす結果となるのです。まことに愚かな、そして恐ろしいことといわねばなりません。


【弟一章 宗教とは何か】宗教とは本尊との感応の理

2006年01月18日 | 宗教とは何か?
 
 まず、宗教とはいかなるものをいうのか、ということから述べてまいりましょう。

 世の中には、たくさんの宗教・宗派がありますが、その各宗各派には、それぞれの教えや指針などを、信仰の対象として具体的なかたちに表した「本尊」があります。本尊というのは、根本として尊敬(そんぎょう)すべきもの、の意味で、人生の根本として信仰・礼拝する対象のことです。

 そして、何をもって本尊とするか、その違いによって、それぞれの宗派が異なってくるのであります。たとえば、浄土宗では阿弥陀如来を本尊とし、真言宗では大日如来を本尊とし、また、稲荷信仰では狐を本尊とし、キリスト教では十字架上のキリストを本尊としている、という具合いに、各宗各様、さまざまな本尊を立てています。

 しかして、各宗教の信者は、それぞれ自宗で立てる本尊を信仰しているわけですが、ここに、ひとつ重大な問題があるのです。

 それは、本尊を信仰することによって、自己と本尊との間に「感応(かんのう)」という現象が生ずる、ということです。

 この感応について、わかりやすく説明いたしますと、俗に「朱に交われば赤くなる」といわれるように、私達が友人をもって、親しくつきあっていく場合、その友人の癖がうつったり、人生観や考え方が似てきたり・・・・と、知らず知らずのうちに、その友人からいろいろな影響を受けることがあります。

 また、子供が育っていく過程で、もとは良い子だったのに、悪い仲間とつき合っているうちに、すっかり不良になってしまった、などということも、よく聞く話です。

 これらの場合、ただ、つき合っているというだけでも相手の影響を受けるわけですが、さらに、相手に対する信頼・尊敬の念を強くもって、つき合っていったら、どうなるでしょうか。相手を、強く信頼し尊敬すれば、するほど、相手から受ける影響も、強く、大きくなっていく、というのが実際でありましょう。

 これらのことから、私達の生命には、本来、外界の事象を受け入れ、染め込んでいく働きが具わっており、その働きは、信頼し尊敬することによって、強く発動する、ということがわかるのであります。その証拠に、心から嫌い賤(いや)しんでいる相手の影響は、ほとんど受けません。

 翻って、信仰とは、読んで字のごとく、信じ仰ぐ、すなわち、本尊を人生の根本として信じきり、手を合わせて拝むまでに尊敬しきる、いわば信頼・尊敬の極まった姿が信仰である、といえます。

 されば、その信仰の対象となった本尊の影響をストレートに受けてしまう、それも、友人を信頼し尊敬して影響を受けるなどという程度ではなく、(人生の根本として信じきり、合掌・礼拝までするほどに尊敬しきるわけですから)その本尊と自己とが一体化してしまうまでの強烈な影響を受けるのであります。

 この、本尊と自己とを一体化させる働きを、感応というのであり、それをもたらすのが信仰という行為なのです。

『はじめに』

2006年01月18日 | 宗教とは何か?
 
 世の中では、とかく「宗教」といえば、いわゆる精神修養か、怪しげな祈祷や占いの類、あるいは冠婚葬祭における儀礼的なもの、という程度に考えられているようです。

 したがって、宗教は私達の実生活にあまり直接的な関係がない、と思っている人達が大半なのではないでしょうか。

 しかしながら、これは、宗教ということに無知なるが故の、大きな誤りでありまして、じつは、知ると知らずとに拘わりなく、宗教は、あらゆる人々に人生に、決定的ともいうべき重大な影響を及ぼしているのです。

 かく申し上げれば、「そんな馬鹿な・・・・・・」という方、「自分は宗教に興味がないから関係ない」という方、あるいは「自分はすでに宗教をもっているから、これ以上、聞く必要はない」という方、いろいろな意見が出てくるのではないかと思います。

 しかし、自分のもつ知識で理解できないからといって、それを頭から否定したり、人生に重大な関わりをもつ問題を、興味がないからといって無視したり、すでに自分の得ていることが全てであるかのごとく錯覚し、最初から耳を傾けようとしない等々のことは、人間として偏狭な姿であり、えてして大きな失敗をする元であります。どうか、そのような思いは、ひとまず脇に置いて、私共の申し上げることを知ってください。