isorokuのこころの旅路

遊行期に生きる者のこころの旅路の記録です

管理人様の無功徳に対する考え方に感銘しました

2010-07-30 10:43:54 | Weblog
はじめまして、管理人様が1月14日づけの「つらつらなる日暮らし」で論述された「無功徳はよほど心得て使用しなければいけない言葉だろう」に感銘したisoroku-hitoshiでございます。
管理人様からコメントもいただき、誠に有難うございました。方法がわかりましたので、拙いブログですがリンクをはらせていただきます。
小生は年齢は老境に入りましたが、こころは青年時代のところに立ち戻って、人生や日本再生の道を考えております。今後ともご指導のほどよろしくお願い申しあげます。



禅的な生き方をあらためて学ぶ(5)

2010-07-27 15:29:59 | Weblog
「無功徳の布施」というキーワードで検索したところ、「つらつらなる日暮らし」というある曹洞宗寺院副住職の1月14日付ブログ(http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/)に出会いました。

●「無功徳」は、よほど心得て使用しなければいけない言葉だろう

・たとえばお寺に梵鐘を寄付していただいたとしよう。そして寄進した檀家さんが訊く。
「和尚さん、私にはどんな功徳がありますかねぇ」 私だってまさか「極楽行けますよ」とまで持ち上げるつもりはないが、いくらなんでも「無功徳」とは言えない。玄侑宗久師『禅語遊心』ちくま文庫

・とりあえず、分かりやすい例だと思いましたので、玄侑宗久師の言葉を引用してみました。確かに、「無功徳」は、よほど心得て使わないととんでもないことになります。とんでもないことというのは、一切の寄進をはじめとする寺檀関係を断絶状態に追い込むことになりかねません。

・拙僧などは「無功徳」を、功徳の実体化に拘る人に対して、それを「捨てる」ことを求める「運動」を示すことが目的の方便的用語であり、あらゆる状況に於いて使って良い普遍的用語では無かろうと思うわけです。

・あくまでも、特定の教えに落ち込んでしまうことを最大の問題であると捉え、それからの自由無礙な「運動」を示すことが教えの中心であるとすれば、今度「無功徳」に陥っている人に対しては「有功徳」を説かねばなりません。

・拙僧いつも思うのですが、「禅」というのは、有にも無にも拘らない宗派・教義であろうと思います。仏性1つ採ってみても、或る時には有仏性といってみたり、或る時には無仏性といってみたり・・・

<所感>
・玄侑宗久師の「無功徳」の著書の「自業他得」「自業自得」「他業自得」という言葉の説明から、一途に功徳を求めることの愚かさに納得し感銘しましたが、今度はそのことにこだわり過ぎると、とんでもないことになるというこのブログに、またまた気持ちを揺さぶられました。

・凡夫の分別知は、真理を訊くと実体化してしまう危険があります。真理もまた空であり、
こだわり過ぎるととんでもないことになるという視点を忘れてはいけないと思います。ここに、仏教のもつ魅力、ほかの宗教や思想と違う特徴があると思います。





禅的な生き方をあらためて学ぶ(4)

2010-07-23 15:03:31 | Weblog
信頼のおけるリーダー不在で漂流する日本の未来に懸念を抱くばかりですが、しばらくの間、発想の視点を180度変えて、玄侑宗久著「無功徳」から禅的な発想のポイントを学んでおります。

●餓鬼に対する根本的な救済は施餓鬼しかない
・この国は今、事故米と呼ばれる工業用に使われる汚染米のことで騒然としている(無功徳の著書は2008年に刊行されている)。それが食用として売られ、病院や老人保健施設、保育園などの給食に出された・・・。こういう人間の状態を仏教では餓鬼という。わが身の欲得しか頭にないのである。
・餓鬼の周違には不思議なほど餓鬼が集まってくる。・・・こんな状況だと、やっぱり人間の本性は悪なんじゃないかと思う人も多いに違いない。実際政府が思いつく対策は、取り締まりや検査を強化するという性悪説的な対処でしかないはずだ。しかしそうした自らの責任棚上げの表面的な厳しさが犯罪をさらに悪質化せせることを忘れてはならない。
・餓鬼に対する根本的救済は「施餓鬼」しかないのである。施餓鬼とは、悪者を罰することでもないし、被害者だけに何かを施すことでもない。  人間すべてを大きな繋がりとみなし、そのつながりの網全体に、無功徳の布施をすることだ。見返りや直接の効果を期待することなく、とにかく皆によかれという行為を皆で行うのである。
・たとえ騙されても信じつづけようとする人々を、それでも騙すというのならば、そのときは根本的に考え直すしかない。こうなってくると他人を信じるのは命がけである。
・しかし私は、それでも人を信じたい。特定の個人ではなく、誰の心の奥底にも眠っているものを、である。それにはまず、阿呆と云われても、強い意志で底抜けに信じてみるしかない。規制がきついからではなく、こんなことがなくなる日がきっと来る、と。

<所感>
・事故米などは経済の世界の餓鬼の乱舞ですが、政治リーダーの政治とカネの問題などは政治の世界の餓鬼の乱舞です。いずれも「わが身の欲得しか頭にない」人々の所業です。
・「餓鬼に対する根本的救済は施餓鬼しかないのである」「こうなってくると他人を信じるのは命がけである」「しかし私はそれでも人を信じたい」という言葉は、真理の厳しさとそれを受けとめようとする玄侑宗久禅師の覚悟を示しているように感じます。
・仏教的世界観の六道輪廻という考え方を現代風に解釈し直せば、人間のこころの世界には六道が存在し、その行いによって六道を輪廻すると考えられます。
・「六道」とは、六つの道→ 1)天界道 2)人間道 3)修羅道 4)畜生道 5)餓鬼道 6)地獄道です。平穏な時代ならば多数の人々は人間道を歩んでいられますが、従来の体制の危機が迫る現代のような時代では、畜生道や餓鬼道に堕ちている人々が増えていると考えられます。
せめて人間道を維持し天界道へ上るためには覚悟を決めて施餓鬼の行為を行わなければならないのが仏教的視点から見た現状のようです。(なお仏教では、天界道に入っても修行を怠れば修羅道以下に堕ちるし、修行を行って菩薩道に入ればはじめて六道輪廻から脱却できるとしています)。
・六道輪廻の考えを迷信と取るよりも、人間のこころの発達や堕落を解釈する厳しい哲理として捉えなおすことができると思います。





禅的な生き方をあらためて学ぶ(3)

2010-07-22 14:26:36 | Weblog
信頼のおけるリーダー不在で漂流する日本の未来に懸念を抱くばかりですが、しばらくの間、発想の視点を180度変えて、玄侑宗久著「無功徳」から禅的な発想のポイントを学んでおります。

<相補的な見方>

●結果を期待しないでやる
合理化、効率化という美名の下に、深刻な苦悩を生みだし続ける現代・・・。個性を求めることをやめ、儲けることも程ほどにしてして、大人も子供も、もっとワケが分らない時間を体験しよう。人生は大人も子どももややこしい。相補性に満ちてこそ充分に楽しくなるのだから。

●「儲からないけどやる」「なんだか分からないけど、やる」
・今の世の中は、自分にとってそれがどんな利益をもたらすか、という計算がどんな場面でもなされており、しかもその計算は、あたるものだと思い込んでいるのである。学校の生徒たちも、よく「それをするとどうなるのか」と訊くらしい。結果次第でやるやらないを決めるため、打算的な思いを巡らしているのだろう。大袈裟に聞こえるかもしれないが、これは教育の現場にまで市場原理がなだれこんできたということだ。
・それに対する相補的な見方といえば、「儲からないけどやる」「なんだか分からないけど、やる」ということだろうか。
・大人が自信をもって子供にさせたいことは、結果を期待せずにやるということを命じるべきだろう。結果的に子供はそこから何かを得るだろうが、それは利益を目指すのとは全く違う行為になるはずである。
・社会全体がおとなしい=大人しい=打算的だとするなら、そこに必要な相補的な在り方は「ややこしさ」かもしれない。さっきはわけのわからない時間と書いたが、思えば「ややこしい」というのは大人からみた「ややこ=赤子」の様子ではないだろうか。

<所感>

・「相補的な」というキーワードでインターネット検索をしたところ、次の記事に目が止まりました。
上智大学 伊藤潔 言葉の散策より
「complementary =相補的な、補完的な」は、「補助的な、補足的な」ではなく,重要なものがあり、そのcomplementaryも重要という意味を持ちます。これは,相互に補い合っているという感覚です.2つが共に揃って全体が構成されるという意味合いです.

・あるものの全体を把握するためには、重要な視点だけではなく、それと相補的な関係にある視点の二つが共に揃わないと、ものの全体を把握できないということを知っていれば、判断と決断の場面で誤ることが少なくなると思います。
・功利的打算的な視点で見るばかりでは、生きる道を誤るということになります。
 


禅的な生き方をあらためて学ぶ(2)

2010-07-21 16:34:05 | Weblog
信頼のおけるリーダー不在で漂流する日本の未来に懸念を抱くばかりですが、しばらくの間、発想の視点を180度変えて、玄侑宗久著「無功徳」から禅的な発想のポイントを学んでいきたいと思います。

●絶対的なモノサシはない(相補的な見方1)
・ああすればこうなるのだから、ああならないためににはこうしないようにしよう、というコントロール思想。 そんな考え方ばかりで息苦しい今の世の中だからこそ、相補的な認識をあらためて自覚すべきではないかと思う。
・相補的な見方とは、量子物理学者のニールス・ボーアの提唱した考えであり、微小な量子たちの振る舞いが粒子にも見え波動にも見えるという事態をめぐって、世界で唯一成しえた整合的解釈といえるだろう。つまり、粒子であることと波動であることが相対立するのではなく、お互い相補って「全体性」に近似していくと見たのである。
・これによって物事の実相は、通常の観察では知り得ないものだということが判明したといえるだろう。世の中に客観的な観察などというものはなく、観察者の使う器具の性能や観察者自身の思惑にも左右される、一過性の出来事という位置づけになる。
・それまでの古典物理学の世界では、物体の振る舞いが「因果性」に従っていると見る。たぶん我々がモノを考えるということはこの因果律を使うことだから、この範囲内では世界は頭で理解できると見なされていた。
・自己の観察を絶対化し、因果律ばかり使うのは人間の本能かもしれないが、人知の及ばない世界への想像がはたらかず、相補的発想のない人が強いコントロール思想を持つと恐ろしいことになる。
・東洋には、実は古くからこの相補的な見方が一般的にあった。・・・死についても、病を治す力を象徴する薬師如来に任せてばかりでは苦しいから、たぶん人間は阿弥陀如来を創造したのだろう。・・・治療からターミナルケアへの移行はそれによってスムーズになされるのである。
●どんなモノサシも絶対化してはいけない
・ダイヤモンド(金剛)のように輝く真理を求める意思と母親の胎のように現状を暖かく容認する態度の、双方が人間には必要だということだろう。
・国家というモノサシ、学力というモノサシ、老人や福祉というモノサシ、あるいは心や愛情を測るモノサシまで、最近ではあまりに一律なモノサシが押し付けられてはいないだろうか。


<所感>
・信頼のおけるリーダー不在で漂流する日本の実相は、一元的な見方で見る限り絶望的と見えますが、相補的な見方にたてば、そこから何かが生まれる余地があるように思われます。


禅的な生き方をあらためて学ぶ

2010-07-18 15:33:08 | Weblog
政治の動向に関心を寄せてきましたが、こころから支持できる政党が不在であり、信頼のおけるリーダー不在で漂流する日本の未来に懸念を抱くばかりか絶望的になりかかりますが、こういうときにはしばらくの間、発想の視点を180度変えて、こころの平安を取り戻す必要があります。

そうした心境のとき、書店で何気なく目に入った玄侑宗久著「無功徳」海竜社刊を購入し、読み始めました。温泉でこころの垢を落とす気分とななっています。

●人間本来の性が善であるのか悪であるのかは、簡単にどちらが正しいと決めかねる問題である。性悪説の根拠は誰にでも容易に見つかるだろうが、性善説は一種の信仰のようなもだ。そして人は、どちらの立場でものを考えることによって、全く違う世界を作り上げるだろう。
●アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の人々は性悪説の立場であり、人間は厳正に管理、監視されるべき存在である。・・・いつのまにかこの管理・監視の思考が日本にも色濃く流れ込んでいる。
●仏教では、人間の善なる行為がもたらす結果について功徳と利益(りやく)という二つの言葉で捉える。この利益と言う文字は「りえき(pofit)」のイメージのほうが強いだろう。
しかし本来の利益(りやく)は、誰かの損失分ではない。誰の行為とも特定できない多くの無名氏からの無償の贈与と考えていいだろう。行為者は善い結果が自分に戻ってくることは殆どないと知りつつそれでも善行を行い、その結果が無限の網の目を伝わって知らない人々に向かうことになる。思えばこれこそ、仏教の想定する人間関係の基本なのである。
●世の中に起こることの殆どは「自業他得」で、たまに「自業自得」があるだけといってもいいだろう。自業他得が利益(りやく)で自得するのが功徳である。悪い行いの結果も大部分は自業他得になるから、けっして悪いことをするまいと考えるのだ。また、自分では説明のつかない嬉しい結果を、どこかの誰かの行いの結果として享受する場合に、日本人はこれをご利益とお陰さまと呼んで感謝する。これは「他業自得」のケースである。
●現在の世界では、自業他得や他業自得というよく分らない関係性は無視され、ひたすら自業自得、つまり功徳を求めるシステムが採用されているのではないだろうか。・・・善い結果は自分の努力次第、悪い結果はすべて自分のせいというのは、潔く聞こえはするが、「縁起」という仏教的認識からは遠く隔たった妄見と言わざるを得ない。・・・自分については潔く聞こえる言葉でも同じ考えで他人も見るわけだから、とりわけ失敗いた人に対する「自業自得」「自己責任」という言い方には非常に無慈悲な空気が漂う。
●「無功徳」というのは禅宗の開祖である達磨さんと武帝との問答の一節である。武帝は仏教を熱心に学び、仏教普及のためにとても功徳を積んだ方だった。武帝はそんな自分にどんな功徳があるのかと訊ねた。達磨さんは愛想もなく「無功徳」と答えたのである。
●簡単にいえば「功徳を積んでいる」という武帝の意識が、功徳そのものを帳消しにしていたと云えるだろう。・・・まじめな努力家が最も陥りやすい陥穽がこの「功徳」の穴と云えるだろう。・・・おそらく現代社会も、誰もがこの功徳の穴に落ちて苦しんでいるのではないだろうか。こうすればこうなるはずなのにそうならない。努力が報われない。あるいは自分を認めない社会が悪い・・・。
●そんなふうに思うのは、世の中を功徳だけで見ているからではないか。自分の行為の結果の大部分はご利益として自業他得になることを前提に考えれば、それは当たり前のことではないか。本来自分に戻ってくる功徳はたまさかのものなのだと、もう一度きちんと肝に銘じるべきなのである。

<所感>
・言われてみれば、自分の行為の結果の大部分は自業他得になるのであって、本来自分に戻ってくる功徳はたまさかなものであるということは、逆らうことのできない真理でした。縁起の理法を頭で理解しても、この真理に気づいていない自分に気がつきました。
・他業自得のお陰さまと自業他得の行為のバランスが崩れるときに社会の崩壊が始まるようで、自業自得一辺倒の考え方がそのバランスを崩す大きな要因だと思われます。崩れかけたバランスを再構築するためには、自業自得の意味での報いを求めず、自業他得の真理に素直に従うこころを持ったリーダーの出現が必要のようです。前途遼遠ですが仏教的考え方の真理から見れば、大変困難ではあるが不可能ではないと思われます。


選挙結果評論記事のピックアップ(3)

2010-07-18 10:04:21 | Weblog
共感を覚えた選挙結果評論記事のポイントピックアップを続けます.

●日経新聞7月18日 田中愛治早大教授に聞く「参院選、勝者いない」より

・民主党だけでなく、自民党も比例で得票を減らしており、勝者はいなかった。民主党も自民党も物質的恩恵を与えれば有権者が投票してくれるとの認識がいまだ強く、有権者がそれを見透かした結果ではないか。麻生政権の定額給付金や、鳩山政権の子ども手当など、一連のバラマキ政治に有権者が拒否感を持ち始めている。
・自民党が長期政権を維持できた理由はバラマキ型の利益配分政治だった。・・・民主党も政権をとって同じようなことをしようとした。以前のような組織化された有権者が多い時代には有効だが、今は違う。
・いまの政治で最も影響力をもつのは無党派層だ。都市部で学歴が高く政党支持が固定しない人たちは、物質的な恩恵では投票しない。・・・民主党の敗因は管直人首相の発言のブレが不信につながったことだ。
・消費税発言に難色を示した小沢前幹事長と対決してでも自らの信念を曲げない姿勢を有権者に示すべきだった。後半になって消費税に関する発言がブレて、信念がないのに提案したと思われた。
・大きな政府でも小さな政府でもとにかく根拠や信念を持って意思決定しているかどうか
が重要だろう。小泉氏のように党内で反対があっても自らの政策を曲げず、最後は解散・総選挙で勝負するという覚悟をもった姿勢が支持を得られた。首相にはそれが無かったし、鳩山前首相の普天間基地問題に関する言動も、信念も根拠もないのに提案したように見えた。

<所感>
・組織化された有権者の減少を背景に、バラマキに拒否感をもつ無党派層の影響力が増大する時代では、トップリーダーのあり方が選挙結果を左右するという見解には、条件づきで賛成です。
・しかし選挙結果を左右する要因はトップリーダーの姿勢だけではありません。政権交代以後の民主党政権の行動に対する選挙民の不信感増大が大きな要因であると思います。
・毎日新聞のみんなの広場投書欄に掲載された「私は前回の衆院選で民主党に投票し、今回はみんなの党に投票しました。私も国民も民主党に独裁的に国政を任せることへの強い恐怖があったからではないでしょうか。民主党はいざ与党になると、財政や雇用と言う国民共通の課題より外国人参政権や夫婦別姓などイデオロギー優先の姿勢と強行採決をためらいなくやってしまうことに、衆参両院の過半数を取ったら取り返しのつかないことになる予感がしたからです」という意見は、民主党大敗の最大の原因を指摘していると思います。
・小沢幹事長時代の言論の自由が無いというイメージ、強引な国会運営、政務3役中心の下手な官僚の使い方、口蹄疫問題で顕在化した危機管理の弱さ、マニフェストの限界露呈、普天間基地問題をめぐる迷走などを惹き起した民主党政権という組織体全体に対する不信感
があると思います。自公政権の行動についても大筋では似たようなことが言えます。



選挙結果評論記事のピックアップ(2)

2010-07-16 19:34:51 | Weblog
共感を覚えた選挙結果評論記事のポイントピックアップを続けます。

●毎日新聞 7月15日みんなの広場投書欄 会社員 大河原均氏47(埼玉県川口市)より
・私は前回の衆院選で民主党に投票し、今回はみんなの党に投票しました・・・私も国民も民主党に独裁的に国政を任せることへの強い恐怖があったからではないでしょうか・・・民主党はいざ与党になると、財政や雇用と言う国民共通の課題より外国人参政権や夫婦別姓などイデオロギー優先の姿勢と強行採決をためらいなくやってしまうことに、衆参両院の過半数を取ったら取り返しのつかないことになる予感がしたからです・・・

●毎日新聞 7月15日みんなの広場投書欄 派遣社員 的場英成氏39(福岡県宗像市)より
・国の債務残高(借金)が今年3月末時点で882兆9235億円あり、この10年で倍増した、と本紙に載っていた。私は疑問に思った。記事に借金を増やした人の責任には触れていなかったからだ・・・私は責任論に言及せず増税を掲げる政党には今後の選挙で絶対投票しない。

<所感>
・民主党大敗の原因を庶民視点で指摘している上記二つの意見に深く共感しました。日本の庶民は大人の見識を保有しています。

●毎日新聞7月15日 専門編集委員 金子秀敏氏の木語欄「さきがけて敗北」より
・今回の参院選挙は民主党の大敗に終わった・・・管直人内閣は死に体である・・・敗因は首相自身が認めているように、消費税を争点にしたことだ。管氏ほどのベテランが消費税論議の恐ろしさを知らないはずはない。それなりの戦略があったはずだ。「負けるが勝ち」戦略ではないか・・・小沢前幹事長は単独過半数をとれと改選2人区に民主党候補を2人建てたのに、管首相は戦略変更した・・・負ける(過半数割れ)が勝ち(連立による政局安定)の戦略である。そう考えなければ説明がつかない。
・1994年細川非自民政権が国民福祉税問題で分裂、崩壊したの後、政権中枢の新党さきがけグループがひそかに自民党とひそかに連絡をとり、社会党をさそって「自社さ」連立政権を作った・・・管首相も枝野幹事長もさきがけ出身だ。さきがけは自民党との親和性があり自民と長い確執を続けた小沢氏とは体質が違う。消費税円卓会議で自民党にすり寄った管首相の戦略は、かってのさきがけを思わせる。だが誤算だった。負けすぎた。政権奪回の勢いがついた自民党は、管政権の延命に協力するような連立には応じられないだろう。大乱世の始まりだ。

<所感>
・管首相の唐突な消費税率10%への引き上げ発言と、批判を浴びた後のお粗末な腰だめの低所得者対策を語る姿を眺め、その幼稚さに呆れかえった次第でした。しかしいくらなんでも本心からの幼稚性とは思えず、何か裏があるのではないかと感じておりました。金子専門編集委員の解説は、その裏に対する有益な解説記事として感銘を受けました。




選挙結果評論記事のピックアップ(1)

2010-07-12 17:21:27 | Weblog
選挙結果評論記事から共感を覚えた記事のポイントをピックアップして、今後政治を考える視点の成熟のために役立てたいと思います。

●ダイヤモンドオンライン7月11日号 民主敗北を招いた「マニフェスト選挙」の不実(原英次郎 (ジャーナリスト)から

・今回の選挙は以前にも増して多くの人がどの党に投票すればよいか迷ったのではないだろうか
・各党のマニフェストを読んでも、余りにも項目数が多く、一番知りたいことが分からない。各党が掲げる政策が実行されれば、どのような「国のかたち」になるのかが、さっぱり描けない。
・構造変革期にこそ、本来は各党が理念を明示し、理念が「国のかたち」に反映され、その国のかたちを実現するために、個々の政策が提案されるべきだ。だが、マニフェストを見ると、事態は全く逆になっている。一つひとつの課題に対して、一つひとつの心地の良い答えが並んでいる一方、個々の政策がお互いにどのような関連があり、全体でどのような「国のかたち」を目指しているかとなると、焦点が拡散して像を結ばない。

・理念あっての政策なのに政策あって理念なし。
・経済・財政政策を判断する場合、一つの基準として、公平性と効率性があるが、パイ全体をいかに大きくするかが効率性の問題で、いかにパイを分配するかが公平性の問題と言える。そして、経済学は公平性問題については、逃げ腰で明確な基準を持たない。だからこそ、そこに政治の役割があるのだ。
・分配の公平性をより重視するなら、高福祉・高負担型の大きな政府になるだろうし、効率性を重視するなら、低福祉(自助努力)・低負担型の小さな政府になるだろう。その中間的な中福祉・中負担で中くらいの政府という形もあり得る。各政党はどこに立ち位置を定めるのか。これが、政府と民の役割分担を決める「国のかたち」である。
・立ち位置が決まってこそ、各政策の役割が生きてくる。 もう一つ、経済・財政政策で問題なのは、将来的な姿が数字で示されなかったということだ。求められているのは大きな絵姿である。
・さらに、問題なのは各党のマニフェストが、本当に時代と民意の変化を汲みとれているかどうかという点だ。

・今の若年層がが求めているのは、GDP的な意味での成長ではなく、失われた人間的な結びつきの回復といった社会の質の変化なのかもしれない。そうした意識の変化に対する「国のかたちを」を、我々“大人”も含めて政治は全く提示しえていない。
・テンコ盛りのマニフェストはもうたくさんだ。特に2大政党の民主党・自民党のマニフェストは、形を変えた利益誘導型政治とのそしりを免れまい。そもそも政党に構想力がないためか、政治家たちが理念ではなく、選挙に勝つのが目的で集まっているためなのか。
・危機を乗り切った企業の共通点は、基本に帰る、政党で言えば理念に帰って、基本的な所作を繰り返し確認することだ。
・同じ理念という“旗”の下に集い、理念に基づいたわかりやすい選択肢を有権者に提示する。それが、政治と政治家の役割ではないだろうか。

<所感>
・小生が今の政治にもどかしさを感じ、本気で支持する政党が存在しないと思う原因が、この記事ではっきり指摘されており、啓発されました。
党派を問わず今の政治家たち全員に、この記事を熟読させたいと思いました。

参院選挙の判断に参考になった新聞記事

2010-07-05 19:31:05 | Weblog
鳩山首相・小沢幹事長辞任、管内閣発足以降、民主党政権の新しい変化を6回のブログで考えて参りました。
民主党の参院選挙マニフェストや管首相の発言を追跡の結果、明確な理念が無くテクニカルな政策の羅列に終始しているので、疑念を抱く結果になりました。さて、どうしたものかと考えると、迷うばかりで結論がでません。
そうしたときに、大変参考になる記事を7月5日の毎日新聞夕刊文化欄で発見しました。

◇北海道大准教授中島岳志「ブレる世論 ポイントは新自由主義へのNO」より、ポイント抜粋

●世論がブレ続けている
・管内閣組閣当時には66%だった支持率がたった20日間で52%まで下落した。おそらく3か月から半年の間に、また急落するだろう(isoroku-hitoshi→なんと午後7時のニュースで、NHKの世論調査で支持率41%と報道されていた)。このような現象は今世紀に入って以来続いている。
・不安定な世論は常に調査直前の単一の問題に左右される。総合的な「意見」ではなく、その時々の「気分」が支持率となって現れ内閣を追いこんでいく。突然消費税増税という単一の問題が論点とされ、一方で一部の政党は公務員バッシングをひたすら繰り返す。
●我々は冷静で総合的なまなざしを取り戻す必要があるだろう
・今振り返るべきは、約1年前の衆院選挙である。そこでは「古い政治体質へのNO」とともに「新自由主義へのNO」という民意が示された。派遣村のインパクトによって多くの国民が格差を拡大させてきた新自由主義政策に否定的な意見をもつに至った。
・政権交代の結果登場した鳩山内閣は小沢支配への批判が強まり、鳩山・小沢両氏の政治とカネの問題が浮上すると批判は決定的となった。
・そのため内閣が崩壊し小沢支配が除去されると、とたんに支持率が回復した。しかし問題は時間の経過とともに、もうひとつの「新自由主義へのNO」という民意が拡散し、ふたたび構造改革路線を継承する政治家が「改革者」として支持されていることである。
●今度の選挙のポイントはこの「新自由主義へのNO」が継続するか否かだろう
・新党の中には新自由主義を「改革」とみなす政党が存在する。
・不幸の最小化を掲げる管内閣は新自由主義からは距離があるはずなのに、マニフェストではそのような理念が打ち出されていない。総花的でテクニカルな政策の羅列に終始し、国民に感動を与えるような理想が語られていない。(isoroku-hitoshi→理念なき現状に加えて、幹事長を辞任した小沢氏を信奉する衆議院議員グループが民主党内に120名~150名存在し、9月の代表選で古い政治体質の小沢グループが、党の主導権を回復する可能性が小さくはない)。
・自民党は麻生内閣の「安心社会実現」や「中福祉中負担」の路線を継承しているように見えるが、党内には河野太郎氏のような明確な構造改革論者が存在し、新自由主義への回帰のチャンスをうかがっている。
・自民党と民主党は、候補者を個別に判断しなければならないため、有権者はしっかりした選球眼が要求される。

<所感>
・民主党も自民党も新党も評価できない要素を内部にたくさん抱えており、正直言って心から支持出来る政党はゼロだというのが、これからの判断の前提としなければいけないと思いました。
・こういう状況のときには、最悪コースを選ばないようにするしか方法がないように思います。