81. この6つのおかげでヒトは進化した(後) (チップ・ウォルター著 2007年8月)
THUMBS、TOES,AND TEAR (by Chip Walter Copyright©2006) 梶山あゆみ訳
本書は53.で紹介したのですが、文字数が多すぎたため、文字を大きくすることができませんでした。(拡大記号が入るため、文字数が2万文字を超えた) しかし、ここに今回分割した後半に、人間がどのようにして、コミュニケーションをとり、言語を生みだしたか?
どうも人間には、言語を生みだす、基本的な能力が存在しているのではと、感じられます。したがって、それぞれの民族に、れぞれの言葉があり、それは文化です。一方、文字は2~3文明で、発生したものが発展、伝搬したので、文字は文明です。
『 1990年代、ジョゼフ・ガルシアという研究者はあることに気づいた。聴覚が正常で健康な赤ん坊は、耳の正常な親のもとに生まれるよりも、耳が不自由でアメリカ手話を使っている両親のもとに生まれたほうが早い時期から話をしはじめるのである。
おもしろいのは、話と言っても声を使うのではなく、両親と同じように手話で話すことだ。ガルシアはその後の研究を通じて、赤ん坊が誰に教わるでもなく手話で「おなかがすいた、のどが渇いた、オムツが濡れた」と話しはじめること、しかもそれが、口から言葉を発する八ヵ月も前であることを発見した。
つまり、赤ん坊の脳はすでに話ができるほど発達しているのに、まだのどから声が出せないために手をつかっているのである。 』
『 手振りや手真似が本物の言語へと進化していく過程を、鮮やかに示す事例がある。ニカラグアでは1975年のサンディニスタ革命のあと、耳や言葉の不自由な子供たちのためにふたつの聾学校が設立された。
その学校で、驚くべき物語がくり広げられたのである。もしも科学者がどこからともなく現れて、まったく新しい言語が無から生まれていくのを見守ることができるとしたら、このニカラグアの聾学校のケースほどそれに近いものはないだろう。
ニカラグア政府とサンディニスタ民族解放戦線との内戦は八年間続いた。1985年には新政府が樹立され、耳や言葉の不自由な子供を助けるための施設がスタートする。
首都のマナグアにふたつの聾学校が設立されると、全国から子供たちが続々と集ってきた。世界で手話として認められている言語は200種類あるが、長い内戦のために、この子供たちはそのどれも教えてもらったことがなかった。
家族や友人とのコミュニケーションをとる必要に迫られて、ごく荒削りな手真似を各自が編みだしていただけである。しかも、食べる、飲む、寝るといったジェスチャーがせいぜいで、それ以上のこみ入った表現はできない。
あいにく、聾学校の教師たちはあまり役に立たなかった。彼らは旧ソ連の専門家から助言をもらって、生徒に指文字を教えようとした。指文字とは、言語のアルファベットを一文字ずつ指の形で表現する方法である。
問題は、子供たちにはアルファベットが何かも、単語が何かも、そもそも言語が何かもまったくわからないことだ。口はおろか手で綴ることもできない。
それでも子供たちには、どうしても人と意志を通じあわせたいという強い思いがある。そこで彼らは驚くべきことを始めたのである。
自分たちの手を使って、お互いに話を始めたのである。はじめはそれぞれが家で使っていた素朴な手真似をもち寄った。
次にそれらを土台にして、まったく新しい独自の言語を編みだしていった。教師たちはわけがわからないまま、呆気にとられて見ているばかりだ。
1986年6月、ニカラグア教育省はアメリカ手話の専門家であるジュディ・ケグルを招き、何が起きているのかをつきとめてもらうことにする。
ケグルは、子供たちの手話のやり方をおおまかに把握して、彼らが使っている手話表現の簡単な辞書を作ってみようと考えた。最初にケグルが訪ねたのは、年長の子供たちが通う中学校である。
ちょうど生徒たちは理髪の講習を受けていた。ケグルはアメリカ手話を淀みなく使いこなせたが、子供たち相手では何の役にも立たなかった。彼らが使っているのは、自分たちでこしらえた手真似だけだったからである。
それらは独創的ではあったけれど、アメリカ手話とは似ても似つかないことにケグルはすぐに気づく。似てないどころか、まったく洗練されてない。本物の発話はもちろん、本物の手話でさえ基本パターンと呼べるものがあるのに、それがない。何のルールもないように見えた。
ケグルが目にしているのは、いわばピジン手話、あるいは原始手話とも言うべきものだった。言語学者ビッカートンが紹介したハワイ移民のピジン英語のいわば手話版である。
だから、子供たちの手振りには本当の意味での文法や規則体系が見られないのだ。少なくとも、その時点ではまだ。だが、ピジン言語はたった一世代のあいだに自らを変化させることがあるのにビッカートンは気づいた。
はるかに成熟した言語へと変貌を遂げ、洗練された構文と文法を備えるようになる。そういうふうに進化した言語をクレオール言語と呼ぶ。ケグルもその変化の過程を目の当たりにした。ただし、それをああいう場所で見ることになろうとは予想だにしていなかった。
ケグルは中等学校を訪ねたあと、サン・フーダスにある小学校に向かった。耳の不自由な年少の子供たちが勉強している。小学校の訪問中、ケグルはマジェラ・リーバスという名の少女に目を留める。
マジェラは学校の中庭で手話をしていて、それは年長の子供たちには見られないリズムとスピードを備えていた。自分なりのルールブックが頭のなかにあるのではないか。ケグルはそう考えた。ある意味では実際にそうだったのである。
やがてわかったのが、年少の子供たちは年長の子供たちが作った「ピジン手話」を新しい次元にもっていこうとしていた。1986年当時、大学院でケグルの生徒だったアン・センガスは、のちにこうふり返っている。
「言語学者にとっては夢のような状況だった。ビッグバンを目撃しているみたいだった」。センガスは「サイエンス」誌に発表した論文のなかで、年少の子供たちは概念や物や動作をいくつかの単位に分解し、その個々の単位を手話で表現していた。と説明している。つまりは、本物の言語を作りつつあった。
それにひきかえ、年長の子供たちにはそれができず、一つの動作を写実的な身振りで表現することが多かった。
たとえば「転がりおちる」という動作を表したい場合には、動きの種類や方法(転がる)を示す身振りと、方向や進路(おちる)を示す身振りを同時に行い、手をバタバタさせたり、ジグザグの線を描くようにして下向きに動かしたりする。
私たちが会話をしているときに、何かの例を見せたくて身振りをするのに似ている。だが、複雑なコミュニケーションをするにはこうした動作ではややこしすぎるし、ほかの人が正確に真似するのも難しい。
たとえるなら、舌を噛みそうな長い単語なのに、非常に狭い意味しかもっていないようなものである。意味が限定されるので、そういう単語が頻繁に使われることはない。多目的に使えないのだ。
年少の生徒たちは、年長の子供たちより手の動かし方が上手だったばかりか、その意味を見直して、ひとつの動作をいくつかの小さな単位に分けた。そうすれば、ほかの単位と組み合わせてもっといろいろな考えを表現できる。
「転がりおちる」をひとつの長い手振りで表すのでなく、「転がる」に当たる手話表現(いわば単語)をひとつ作り、「落ちる」の手話表現も別に作る。
「転がる」のときは手で円を描き、すぐに続けて「落ちる」の身振りをする。具体的には、手を胸に当ててから、空気を切るように下向きに手を伸ばす。敬礼でもするような感じだ。
こちらのほうが、本物の手話言語や本物の口頭言語の仕組みにはるかに近い。写真、絵画、パントマイムなどの非言語コミュニケーションとはそこが異なる点だ。
発話の場合、情報はばらばらな小単位として入ってくる。文字の音や単語なのだ。それらは、単語がつながって句、句がつなかって文というように、しだいに大きな単位になるように並べられている。すべてがひとつの秩序に従って配置されている。
本物の言語がもつもうひとつの特徴は、物体や動作や場所などを小さい単位に分けることで、コミュニケーションの応用が利くようになることだ。
同じ単語を異なる文脈のなかで使って、別の意味を表現させられるようになる。このおかげで、「もつ」という言葉を純粋な体の動作として用いもすれば(「ハンマーを手にもった」)、精神的な意味で用いるのも可能になる(「気をしっかりもて!」)。
だから隠喩や直喩や文脈といったものが成り立つのであり、それが成り立つからこそあらゆる言語が洗練され、効果的になる。
ニカラグアの子供たちの場合、「転がる(roll)」を表すジェスチャーを作りなおしたおかげで、それをほかのさまざまなジェスチャーと組み合わせて使えるようになった。
たとえば、「巻き上げる(roll up)」や「寝返りを打つ(roll over)」などである。最後には「そのアイデアを頭のなかで転がした(I rolled the idea around in my head.)」という比喩の用法も現れた。
身振りは写実的な要素よりも抽象的な色合いが濃くなり、物真似的なものが減っていくつもの用途に使えるようになる。
言語にふたつの工夫――個々の部分に分けることと、いろいろな場面で使うこと――を取り入れると、その言語は限られた数の単語で無数の考えを表現でき、無数の光景を描写し、無限の物語を語れるようになる。 』
『 ニカラグワの聾学校の子供たちは、今日に至るまでの二十年のあいだ、手話表現に絶え間なく磨きをかけてきた。年若い世代が入ってくるたびに、手作りの素朴な手話は改善され、もはや荒削りで不完全な身振りといった面影はない。
今では語彙も豊富で、時間や感情、皮肉やユーモアといった、ありとあらゆる概念を表現できる。何よりも驚くのは、これを子供たちだけの力で成し遂げた。誰かが中心になって計画したわけではない。
誰かが椅子に座って文法を書いたり、辞書を作ったりしたわけでもない。研修を実施した者もいなければ、研修を開発した者もいなかった。
何とかしてコミュニケーションを図ろうと、子供たちが苦労してやりとりするなかから、ただ自然に生まれていった。
誰かと意志を通わせたいという、人間ならではの強い思いにつき動かされ、彼らは自分たちの力で正真正銘の言語を生みだした。現在では正式に「ニカラグワ手話」と呼ばれている。
この言語を何もないところから作りあげた。しかも、明確な意図があってそうしたわけでもない。情報を小さな部分に分け、階層構造になるように規則正しく順番に並べる。
この単純ではあるが重要なルールは、どこかに書かれているわけではない。にもかかわらず、彼らはそのルールをもとに、世界のどんな言語にも引けを取らない表現力豊かなコミュニケーション方法を編みだした。
ニカラグワの子供たちは、言語がゼロから進化する過程を見せてくれたと言っても過言ではない。同時に、過去をかいま見せてくれたとも言える。
私たちの祖先もこの子供たちのように、意志を伝えたいというやむにやまれぬ思いを伝えたいという思いを抱えながら、それを叶えられるだけの声も言語ももたなかった。
だが、長い時間をかけて彼らはその方法を見つけた。どうやら、考えや気持を表現するための基本的なるリズムや構文や、さまざまな構成要素は、単語や音節を声にして言うだけの仕組みよりも脳の深いところに根ざしているようだ。
人間の精神は何としても情報を共有しようとする。自分の扱える範囲であればどんなものでもいいから、何らかの表現手段を見つけようとする。
両親が手話を使っている赤ん坊が手話で南語を話すように、また、言葉の不自由なニカラグワの素晴らしい物語からもわかるように、手は表現手段として好まれるらしい。
何らかの理由で声の出せない人にとって、手は声帯のかわりになる。ということは、私たちは一言も言葉を発しないうちであっても、コミュニケーションできる仕組みが体に組みこまれているのではないか。
だとすれば、ホモ・エレクトスやその子孫たちも、言語をマスターする前に手を使ったコミュニケーションをマスターしていた可能性がある。 』
『 脳は食い意地の張ったコストのかかる器官だ。体のどの部分よりもエネルギーをむさぼり食って熱くなる。現代人の脳は、成人が一日に必要とするエネルギーのじつに25パーセントを消費している。同じ重さで比べると、脳は筋肉組織の16倍ものカロリーを食いつくしている。
熱いサバンナでは、動物が長い距離を走ると体温がかなり上がってしまう。大きな脳を持つ動物ならなおさらだ。どれだけ背が高くても、どれだけ汗腺があってもだめで、まず間違いなく熱射病で倒れる。
そのために、独創的な冷却システムを突然変異で獲得したと、女性人類学者のディーン・フォークが唱えている。彼女の考えによれば、おおよそ200万年前に私たちの祖先が死肉をあさりはじめた頃、網状の頭蓋血管が発達し、それが脳や顔面や頭蓋骨を流れる血液を冷やしたのではないかという。
心臓は、私たちの体温が上がりすぎると、体や顔を流れる比較的冷たい血液を頭蓋骨の「導出静脈」と呼ばれる微細な静脈網に送り込む。
導出静脈は、細かく枝分かれしながら頭皮近くの頭蓋骨全体に分布している。ここからさらに熱が発散し、冷えた血液は静脈から脳に戻って、脳内の温かい血液に置きかわる。非の打ちどころのない天然ラジエーターと言える。
フォークは、現代の類人猿と、現代人と、私たちの祖先の頭蓋骨を詳しく比較したうえでこの仮説を立てた。化石の頭蓋骨には静脈や動脈はとうの昔になくなっているものの、かつて使われていた血管の通り道は一部はっきりと残っている。
人間と類人猿では、脳に血液を運ぶ仕組みが異なっているのにフォークは気づく。その違いがとくに顕著なのが、体温が上がったときだ。
類人猿の場合には、ラジエーターの役目をしてくれる導出静脈網が私たちよりはるかに発達しておらず、冷えた血液を脳に送る仕組みが概してあまり効果的でない。
現代人の場合、この導出静脈のシステムが十分発達していて効率もいいので、体熱の大部分を汗として放散させることができる。
体を冷やす仕組みはこれだけではない。私たちは進化の過程で毛皮を失い、ますます直立した姿勢になり、汗腺の数を増やしていった。
頭蓋の冷却システムも、これらと一緒に進化したとフォークは考えている。しかし、このラジエーターはとりわけ重要だった。
このシステムができなければ脳はある程度までしか大きくなれず、ホモ・ハビリスのレベルを大幅に超えることはなかっただろう。理由は簡単。次の世代に遺伝子を伝える前に熱射病で死んでしまうからだ。
ホモ・エレクトスと、それに続く初期のホモ・サピエンスは、肺、声帯、唇、舌をコントロールする能力を少しずつ高めていった。
では、彼らはどうやって話し方に磨きをかけていったのだろうか。そのヒントは赤ん坊の南語にあるかもしれない。
南語のいわば進化版が現れたと考えるのだ。人間の新生児ののどの構造は祖先の猿人とほとんど同じで、肺に続く通路と胃に続く通路が別々にある。
このおかげで、ミルクを飲みながらもスムースに呼吸ができ、窒息する心配がない。ところが、生後3ヵ月くらいになると喉頭の位置が下がり、咽頭が人間特有の形になる。
これで十分な空間ができるため、舌を前後に動かせるようになり、大人並に母音を発音するための舌の形がすべて作れるようになる。
赤ん坊は次の数ヵ月間で、自分出だす音と周囲で話されている言葉を比べ始める。フィードバックループが動きだし、音のやり取りのなかから語彙が姿を現す。
しかも、その言語がもつ文法と構文の枠のなかで表現される。文法と構文は、人間の脳に生まれながらに組みこまれているとの説があるが、まさにそう思えるのだ。
この変化がひとりでにはじまる。誰かが赤ん坊と一緒に机に向かい、ルールブックを広げて単語や文法の仕組みを教えるわけではない。ごく自然で、しかも万国共通の現象だ。 』(第80回)