三重北勢健康増進センター
(三重県立大学医学部附属塩浜病院 跡地)
(写真提供 澤井余志郎さん)
大気汚染が激しかった時代に、空気清浄病室を設置していた塩浜病院があったのが、現在の健康増進センター(ヘルスプラザ)です。道を隔てた隣は、第1コンビナートです。
1964(昭和39)年、SO2(二酸化硫黄)濃度が1ppmを越えるほどの激しいスモッグ状態にあった3月31日、塩浜病院に気管支喘息で入院していた60歳代の男性の症状が急激に悪化し、4月2日、亡くなりました。遺言により病理解剖され、大気汚染が原因の初めての死亡例として、大気汚染研究全国協議会で報告されました。
同年5月、 四日市市と三重郡楠町が、ばい煙規制法の規制地域に指定されます。四日市市では、翌1965(昭和40)年5月、公害患者の治療費を負担する制度がはじまる(18人を認定、うち14人が入院患者)など、医療体制が強化される中、 同年6月には、塩浜病院に空気清浄病室(24床)が設置されました。
ぜんそくの発作は、特に夜から明け方にひどくなるため、日中は漁に出たり、家族の世話をし、夕方になると空気清浄病室に駆け込むという生活を送る人もいました。
1967(昭和42)年、塩浜病院に入院していた磯津地区の9人が、公害問題の解決を願いコンビナート6社に損害賠償を求めて提訴しました。5年後の判決までに、塩浜病院に入院していた原告2人が亡くなりました。
1972(昭和47)年7月24日判決の日、NHKの実況中継は、病状の悪化で裁判所に行くことができなかった原告の声を、塩浜病院の病室から全国に伝えました。
(写真提供 澤井余志郎さん)
塩浜病院は、1948(昭和23)年に旧海軍燃料廠共済病院を継承し、三重県立医学専門学校・三重県立医科大学附属塩浜病院(後に三重県立大学医学部附属塩浜病院、三重県立総合塩浜病院など数回名称変更)となりました。その後、1994(平成6)年に四日市市日永の丘陵地帯に移転し、三重県立総合医療センターと名称を改めました。塩浜の跡地利用の計画策定は、次の2つの観点から検討されました。
① 塩浜病院は、塩浜地区を中心とする公害患者をはじめとする地域医療に長年にわたって貢献してきたこと。
② 高齢社会を迎え、一人ひとりがより積極的な健康づくりのライフスタイルを確立することが求められていること。
こうして跡地には、運動実践を重点とする健康づくり支援施設が整備されることになり、1999(平成11)年4月、三重北勢健康増進センターがオープンしました。車イスで利用できるプールなど全館バリアフリーで、当時のハートビル法(高齢者、身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律)の認定を受けています。
(2013年2月記)
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