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いのりむし文庫

いのりむし斧舎 ⒸNakajima Hisae

明治・大正・昭和 露西亜とともに 太田覚眠師顕徳碑 (四日市市京町 法泉寺)

2015-10-21 | よっかいち 人権の礎を訪ねて
太田覚眠は、法泉寺住職諦念と母けいの次男として1866(慶応2)年に生まれました。幼名は猛麿といいます。東京外国語大学でロシア語を学んだ後、1901(明治34)年、36歳で法泉寺の住職となりました。
1903(明治36)年、西本願寺の命でシベリア開教師としてウラジオストクに渡り、日露戦争、第一次世界大戦、ロシア革命という激動の時代をロシアで過ごしました。

覚眠を一躍有名にしたのは、日露戦争時の日本人居留民救出でした。
1904年日露戦争勃発により、ロシア各地の日本人居留民に対して帰国命令が下りましたが、ウラジオストク、ハバロフスクの居留民は帰国できたものの、ブラゴヴェシチェンスクなどの奥地の居留民が取り残されてしまいます。覚眠は、2月13日単身で奥地に向かい、現地のロシア人の支援を得ながら居留民800人を連れてウラル山脈を越え、ドイツを経て、12月6日長崎に寄港しました。この出来事は、全国の新聞で報じられたため、多くの人の知るところとなりました。

覚眠は、こうしたロシアでの体験を、国内の講演会や執筆活動を通して日本人に伝えました。戦争と革命の時代に、ロシアで、宗教者であった覚眠は、どのような考えに基づいて行動したのでしょうか。

日露戦争後、ロシアでの慰霊碑(忠魂碑)建立に際し、日本とロシアの戦死者を同様に供養すべきと主張したことが、自著『露西亜物語』(1925年刊行)に記されています。かつて薩摩の島津弘義父子が、高野山に建立した朝鮮人の供養塔に感銘を受けたこと、親鸞や日蓮が敵対する者のためにも祈ったことに触れながら、次のように述べています。

  私は朝鮮役の碑の例を以て、宜しく敵味方双方の為めの忠魂碑として建立すべしと云ふ事を主張した。さすれば此碑が日露親善の一媒介と成るだらうと云つたが、軍事費の中には敵の為めに忠魂碑を立てる金は無いと云ふ事で、薩摩守の真似は出来ないのである。外交と云ひ軍事と云ひ随分窮屈千萬なものだと私は思つた。(『露西亜物語』)

日露戦争後、四日市でも忠魂碑が次々と建立されますが、日本人の死者を賛美し「征清」「征露」「敵愾」などの言葉で、憎しみを増幅し戦意を高揚させていきます。戦争と「慰霊」を考えるにあたって、覚眠の意図したことを心に留めておきたいと思います。

法泉寺の太田覚眠師顕徳碑は1955(昭和30)年に建立され、1993(平成5)年に境内の現在の場所に移設されました。

 (2015年10月20日 中島久恵 記)




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(撮影2015年9月)
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靖博地蔵尊 1944(昭和19)年飛行訓練中に墜落死した陸軍大尉 (四日市市浜一色町)

2015-10-03 | よっかいち 人権の礎を訪ねて



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四日市の中心部に流れる海蔵川の南側堤防の下に、「靖博地蔵尊」と彫られた地蔵がある。
建立年は不明だが、近所の方のお話では、昭和20年代にはあったという。

戦争中の1944(昭和19)年1月21日、この付近で、戦闘訓練中の九七式戦闘機2機が衝突して墜落、2名が亡くなっている。この事故で亡くなった操縦士の1人が、林靖博陸軍大尉で、召集されて間もない明野陸軍飛行学校の北伊勢分教所(鈴鹿郡川崎村)の訓練生であった。

『ふるさと橋北』(橋北地区郷土史編集委員会 2013) によると、亡くなった林大尉は名古屋出身の27歳で、不憫に思った当時の有力者が発起し、婦人会などの協力を得て地蔵尊が建立されたという。
その後しばらくは、毎年8月13日に、地元住民と遺族による供養の行事が続けられた。
遺族が出席できず行事はなくなった現在(2015年)も、清掃や前掛けの洗濯などは欠かさず、地元の人びとによって大切にされていることが判る。

『明野陸軍飛行学校の歴史と飛行 第200戦隊戦史』(1979)では、この事故は次のように記録されている。

・・
1月21日 18年度召集佐尉官(北伊勢教育中)独立飛行第52中隊附陸軍大尉林靖博、九七式戦闘機操縦、同熊谷陸軍飛行学校附陸軍大尉片桐敏雄、九七式戦闘機を操縦は小隊空中戦闘訓練中、衝突し両機共、四日市海蔵橋付近に墜落両名共殉職す。
・・

(中島久恵 記)




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(2015年3月撮影 中島) 
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これまでに書いたもの

2015-07-10 | いのりむしについて
中島久恵(Nakajima Hisae)

 ●「骨・血・筋・臓器の利用史と化製業の社会的役割について」 
  (『明日を拓く』 第65号 東日本解放研究所  2006年)

 ●『モノになる動物のからだ 骨・血・筋・内臓の利用史』 批評社 2005年
 
 ●「動物の利用に関する仕事」
     (『四日市の部落史 民俗編』 四日市市 2001年)

 ●「近世名古屋のについて」 (『岐阜史学』86号 岐阜史学会 1993年)
 
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鈴木壽壽子『星のふるさと』 四日市の夜空のメッセージ

2015-03-21 | 四日市公害
3月21日にリニューアルオープンした四日市市立博物館プラネタリウムのオープニング番組“アースメッセージ”では、鈴木壽壽子さんの『星のふるさと』(1975年)の言葉が、印象的に引用されています。

四日市にお住まいであった壽壽子(すずこ)さんは、1971年の火星の大接近を機に、夜空の観測を始めました。

当時、公害訴訟の只中にあった四日市の夜空は、星が好きな壽壽子さんを悲しませるものでした。
星と語らい、祈るように言葉をつないだ壽壽子さんは、また、夜空の観測を通じて自分のできること、自分のしなければならないことは何かを考え、行動しました。

『星のふるさと』は、2015年現在、絶版となっているため、新たに入手することは難しいですが、その一部を『鈴木壽壽子 星のふるさとのこころ』(8頁 無料)で読むことができます。

『鈴木壽壽子 星のふるさとのこころ』は、博物館・プラネタリウム・四日市公害と環境未来館の一階のご自由にお持ちいただけるパンフレットコーナーにあります。また、こちらからPDFをダウンロードできます。

また、『星のふるさと』の復刊を願う人のための復刊ドットコムは、こちらです。




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『きく・しる・つなぐ 四日市公害を語り継ぐ』

2015-03-20 | 四日市公害
『きく・しる・つなぐ 四日市公害を語り継ぐ』
 四日市再生「公害市民塾」発行  伊藤三男編

『きく・しる・つなぐ』は、2014年に開催された市民塾・土曜講座「四日市公害を忘れないために」の記録である。
この講座には、四日市公害をめぐる、立場の異なる体験を持つ語り手が参加した。
公害認定患者で公害訴訟原告の野田さん、公害で娘を失った谷田さん、公害訴訟弁護団の野呂さん、公害訴訟を支える活動をした澤井さん、岸田さん、山本さん、吉村さん、そして、大気汚染の影響が激しかった塩浜地区の現在の連合自治会長である佐藤さん、同じく塩浜の自治会長で元コンビナート企業勤務であった今村さんが、過去の体験と、今の気持ちを語ってくださった。
こうした多角的な構成は、四日市公害を、より深く理解するために貴重なものとなっている。




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よっかいち 人権の礎を訪ねて(一覧とリンク)

2015-01-15 | よっかいち人権の礎を訪ねて(一覧)

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四日市市内の戦争慰霊碑・慰霊施設一覧

2015-01-15 | 四日市市内の戦争慰霊碑一覧

このブログに掲載されている四日市市内の戦争慰霊碑・慰霊施設一覧とリンク
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2010年 前半

2014-11-23 | 2010年
◆萬古焼のまち





四日市市立博物館
   「江戸の文様 萬古の色」 うつわに込められた美と心
    4月24日(土)~6月13日(日)
 「四日市市の地場産業として有名な萬古焼。古萬古を中心に、その器に描かれた文様を手がかりに、萬古焼に込められた願いや祈りを探ります。」

四日市文化会館美術展示棟
   「古萬古展」 弄山・有節より永遠に
    4月17日~7月4日

 萬古の町の“市立博物館”では、これまでも度々企画展が開催されており、常設展にも技法の解説と作品を紹介する萬古のコーナーがある。

 博物館から歩いて3分の“文化会館の美術展示棟”では、まちづくり振興事業団が、年3回の常設展示と年1回の企画展示を開催。博物館の隣の“じばさん三重”1Fは、地元の名産品の販売コーナーがあり、萬古焼は、その主力商品である。

 萬古焼は木型を利用した珍しい陶法で知られ、18世紀桑名の豪商であった弄山(ろうざん)の「萬古不易」が創始。四日市で生産が開始されるのは幕末のこと。
 
 明治時代より多くの職人を擁した萬古業界では、1895(明治28)年の賃上げを要求する同盟罷業を初め、労働争議が頻発。1910年以降増加する朝鮮人の職工も多く、この地に定住した朝鮮人熟練工の中には、労働運動に中心的役割を果たした者もいたと伝えられる。1926年に設置された県の工業試験場四日市分場は、地元の要望もあり、1934年、“県立窯業試験場”として独立した。
 
 外国からの観光客も含め、120万人以上が訪れたと言われる国産振興四日市大博覧会(1936年)では、萬古焼陶磁器館も出現。
 
 『四日市市史』では、萬古焼に関わる歴史を多角的に取り上げている。

 1979年には伝統的工芸品産業に指定され、名称を「四日市萬古焼」と統一。
 1998年竣工“ばんこの里会館”の展示室で、技法と沿革を伝える展示パネルは陶製。萬古焼の販売はもちろん陶芸教室も開催され、地域交流の拠点でもある。
 
 日本の伝統的工芸品館が作成したデータで、萬古焼の「催事」に、「萬古まつり」と共に「萬古神社」が取り上げられているのには少々驚くが、毎年5月第2土日は、“萬古神社”(1935年建)を中心に陶器市(萬古まつり)が開催されている。

 この町にとって萬古焼は産業であり、そして美術、技術研究、宗教、祭、まちづくりである。

【4月】
◆小杉未醒のスケッチ「鮮人」
愛知県美術館「小川芋銭と珊瑚会の画家たち」展に行く。
 芋銭といえば河童、牛久。牛久といえば住井すえ‥など連想しながら会場へ。芋銭の「水魅戯」「狐隊行」「農村春の行事絵巻」『平民新聞』の挿絵や、平福百穂、森田恒友などの作品が紹介されている。
 
 そのひとつ小杉未醒のスケッチ「鮮人」について、「鮮人」とは差別ではないかとの指摘を受け、美術館が対応を検討中と報じられた。蔑称であり差別と指摘した詩人の主張と、美術館側の対応を報じた毎日新聞と中日新聞の内容が異なるため、事実関係がはっきりしないが、中日は、画題の変更も検討されていると伝えている。はたして「鮮人」とは、「差別語」なのかも含め、少し考えてみたい。(記事はこちら)
 
 まず、スケッチの画題が、いつ、誰によって付けられたのか不明らしいものの、小杉本人が了解していたとの指摘もあるようだ。いずれにしても、画題を勝手に変更するなどということが許されるはずもない。(画題の変更を検討中とする中日新聞の報道には疑問が湧く)
 ここで必要なのは、画題の変更や作品の撤去ではなく、今では使われることのなくなった「鮮人」という言葉について、どう説明するのかということだろう。そして、それは、この作品と描かれた時代を、さらに理解することにつながると思う。

 朝鮮人の略語として長く使われてきた「鮮人」の歴史的背景については、『朝鮮人差別とことば』(明石書店 1986年)の「『鮮人』ということば」(内海愛子)がくわしい。同書では、およそ次のように説明されている。

 1910年の「日韓併合」以前は「朝鮮人」又は「韓人」が用いられていた。「併合条約」(8月29日公布)の記述は「韓国」「韓人」であった。しかし「併合条約」公布の日に、勅命により「韓国ノ国号ハ之ヲ改メ爾今朝鮮ト称ス」とされた。その後まもなく(9月19日)東京朝日新聞に「鮮人」が登場、朝鮮人の略称として定着していった。

 そして、内海は「朝鮮人」の略語に「朝」ではなく「鮮」が使われたことをもって、単なる略称でない蔑視と差別意識があったと主張する。しかし、そうした理由で「鮮人」を差別語とする主張は有効だろうか。
 「華人」「米人」など、略称に一番目以外の語を用いることは珍しくない。一番目の語が他にも使われることが多く他の用例と紛らわしい場合は、その使用を避けるだろう。当時「朝」は「朝廷」に関して多用されており、日本に来ることを「来朝」と表現していたことは内海も指摘しているが、そうした事情の影響を退け、「鮮」は差別としている。しかし、あざやかを意味する「鮮」自体に蔑視感があろうはずもなく、差別語と断じるのは無理がある。

 では、「差別語」でなければ問題はないのだろうか。

 ここで大切なのは、差別語だから使ってはいけない、差別語ではないから良いということではなく、「鮮人」ということばが使われた背景を理解することだと思う。日本jが韓国を殖民地化していく過程の中で広まり、蔑視と差別にまみれて使用されてきた「鮮人」に、不快感を抱く人々がいることを、今、わたしたちは受け止めることができるはずだ。そして、こうした丁寧な作業を重ねることで、小杉が描いた時代を理解し、未来へと向かうことができるようになるのだと、わたしは思いたい。

◆ベルガモット
ちょっとだけ香が欲しいときのために、好みのアロマスプレーをつくった。ベルガモット5滴、ペパーミント3滴、ティートゥリー2滴。純度の高い精油を少量ブレンドした。このスプレーが気に入っているのは、香が持続しないこと。ひととき気分を変えると、すぐに消える。

 以前からコロン類を使う習慣はなかったが、最近、多様な匂いの過剰さが気になることが多くなり、ますます特定の匂いに支配されることを好まないようになった。
 
 日々の暮らしの中で、時折、楽しませてくれる香は多い。季節の花、椎茸や南瓜の焼ける匂い、珈琲豆の袋を開けた幸せな一日。そんな場所に、特別につくられた匂いは馴染みにくい。数メートル先から存在を知らせるほどの過剰な匂いを身にまとった人は、沈丁花や梔子、一杯の煎茶の香を、どのように受け取っているのだろうかと思う。
 
 わたしがベルガモットを好きでいられるのは、それが、ひかえめな存在でいてくれたから。
 ひかえめな香を楽しむためには、それが許される穏やかさが必要なのだと思う。

◆電気アレルギー②
先月、電気アレルギーについて書いたところ、さっそく「電流に対して平均より敏感なため、電気器具からリークしている微弱電流に反応しているのではないか」とのご指摘をいただいた。ありがとうございます。
 腰痛・肩こりなどに使われる低周波治療は、馬の治療にも使われるそうで、低周波治療が好きになる馬が多いものの、嫌がる馬もいるとのこと。わたしはもちろん全く苦手である。電気を嫌がる馬って、親近感が湧く。友だちができたみたいで嬉しい‥
 とは言え、電気に反応して身体に不調が表れるなんて容易には信じてもらえないと思うので、この電気アレルギーな日々の体験を、どんな風に書いていこうかと思案しているところ。

◆埴沙萌『植物記』
この数年、年間を通して最もたびたび手に取る本が、埴沙萌の『植物記』。
 魅力的な写真と簡潔な説明で伝えてくれる植物の季節の表情には、何度開いても発見がある。身近な自然に関心をもったときに発せられる「あれ?」を刺激する入り口が満載。

◆「慰霊」のかたち②
 戦争慰霊碑を数ヵ所訪ねる。
 遺族会作成のリストによると「英霊碑」があるという神社の急な階段を上って行くが、慰霊碑らしきものは見当たらず、あきらめかけた時、傾斜の一番下の端に小さな碑があることに気づく。
 「おもいでのしるべ」と記された碑は、1959年建立。亡くなった58名の名前だけが刻まれていた。有縁の人等によって、ひっそりと建てられた碑は、「死」が賛美されることを望んではいないのだ。

「よっかいち人権の礎を訪ねて 四日市市内の戦争慰霊碑」のデータを追加しました。
泊村戦没者碑(泊村公会所)、平和之礎・忠魂碑(小古曽神社東)、釋堅忠勇送信士の碑(波木町了信寺)、倶會一處(貝家町上品寺)、おもいでのしるべ(采女町八幡神社)

【3月】
◆戦闘機の居場所





戦争時、多数の陸海軍の施設があった鈴鹿市には、今も当時を伝える場所がある。
 現在はNTTの施設となっている第一鈴鹿海軍航空基地の格納庫や、海軍工廠があった地域では住宅地の中に、ぽつりと軍の倉庫が残されていたりする。鈴鹿市の面積の1割近くを軍の施設が占めていた。そのひとつであった北伊勢陸軍飛行場の周囲には、多くの掩体(えんたい)がつくられた。
 
 掩体は、激しさを増す空襲から航空機を分散して避難させるための格納施設で、コンクリート製、土製がある。土製が多い掩体は、戦後次々と取り壊され畑などに使用されたが、鈴鹿市三畑町に現存するコンクリート製の掩体は、当時の姿を伝える貴重なもの。戦争直後、内部は天井近くまで土が詰まっていたらしく、実際に使われることはなかったと言われている。私有地に残されており、登録有形文化財となっている。
   
 掩体のほとんどは鈴鹿市内につくられたが、鈴鹿と接する四日市市水沢野田町にも当時の姿を残している場所がある。共同墓地の奥の林の中の土製掩体は、今では地元でもほとんど知る人はいない。案内されなければ気づくこともないだろう。戦争は過去のものであると思える平和な時代を、わたしたちは長く享受してきた。

 しかし1945年、地上戦で米軍に占領された沖縄に、米陸軍工兵隊が本土攻撃の基地として滑走路を建設したのが普天間だった。それから65年、沖縄は県の面積の1割以上を占める米軍基地とともにある。それがなぜなのかを忘れないようにしたい。

◆本の敵
この町の図書館は、書庫で防虫剤を使っている。
 一時期、図書館中が防虫剤のにおいに包まれていたのは、開架スペースにまで漏れるほど大量に使用していたからだろう。古い本を借り出すと、ページを開いただけで臭う。先日、調べもののため書庫に入ったら、本棚のあちこちに防虫剤があり、しばらく居るとクラクラしてきた。それにしても、毎日この環境で本を扱う司書さんたちは平気なんだろうかと思う。これまで図書館の本で防虫剤という経験は無かったので、驚き、とても困り、しばらく他の図書館を利用していた。

 酸性紙など本の素材も図書館を悩ます。15年ほど前、昭和初期から30年代にかけて刊行された重厚な装丁の化学総覧を手にした時、背表紙は一部ポロポロと剥がれ始め、変色したページはゴーフルのようにパリパリと折れそうだった。そんな本を読み複写するなんて、まるで破壊者になった気分だった。けれども本は読むためのもの。これまで誰かが開いた形跡のないこの本を、このまま眠らせておくよりはと言い訳しながら捲ったあの総覧、その後、誰かが手にすることがあっただろうか。

 本の歴史に登場する敵は多い。ずばり『書物の敵(The Enemies of Books)』(ウィリアム ブレイズ 1880年初版)なる本もある。この本で、輝かしき「敵」とされたのは、火、水、ガスと熱気の悪行、埃と粗略の結果、無知と偏狭の罪、紙魚の襲撃、害獣と害虫の饗宴、製本屋の暴虐、蒐集家の身勝手、召使と子供の狼藉であった。

 現在、国立国会図書館は、蔵書の電子化を急ぐ。1948年から実施されている納本制度に、電子データを含めることも検討されている。電子化の作業は、古いものから進められている。
 
 蔵書の劣化問題について、国立国会図書館が2005年から06年にかけて実施した調査で、本文紙と製本の状態を報告している。物理的強度・酸性度・変色・劣化によって発生するにおい(ギ酸、シュウ酸、酢酸、バニリン酸など揮発性有機酸)などの本文紙の状態と、表紙の形態、綴じ、本文紙の束ね方、本文と表紙の接合、見開き度などである。
 古い本には独特の臭いを感じることがあるが、やっぱりそうだったんだ。

 それにしても、こんな風に敵との格闘が取りざたされるのは、少なくとも本が、戦い続ける力を失ってはいないということでもある。デジタル化は、本を物理的な劣化から救い出し、これまで以上に多くの読者を獲得する可能性を与えるだろう。が、「でも‥」と考えたくなるのは、心配性の本好きの習慣である。さて、10年後、本とその敵たちはどうなっているだろうか。

◆電気アレルギー
今年も花粉アレルギーの季節がやってきた。
 花粉も苦手だが、もっと苦手なのが「電気」である。こちらは季節に関係なく一年中。
 
 電気にアレルギーというと、電化製品の操作が苦手な人や、乾燥する冬に起きやすい静電気、最近時々話題になる「電磁波」が思い浮かぶが、そうではなくて「電気」に触れると身体上に不快な反応を起こす。たとえば、こうやってPCのキーボードを叩いたり、マウスを操作したりすると、しびれる、むくむ、湿疹ができる、皮膚がピクピク痙攣する、指先にチリチリとした刺激、身体に一部に冷やっこい刺激、捻挫のような痛みなどを感じるのである。
 
 今はずいぶん軽減したのでPCで作業ができているが、痛みがひどかった1年半は、ほんとうに何もできなかった。仕方がないので、どうしても操作しなければならない案件以外は、PC入力を全て手書きに代えた。ピーク時には、掃除機や電灯のスイッチにも反応していた。
 
 しかも困ったことに、本人は深刻に悩んでいるのに、周囲のほとんどの人から、好意的な反応でも「信じられないけど、あるのかも?」という怪訝な顔、時には「ありえない」と即断され、笑い話にされる。

 おそらく、ほとんどの人にとって、「電気」に反応なんて信じられないのだと思う。
 けれども、あの花粉症だって、花粉でアレルギーが起きるなど、とても信じられないと考えられていた時代もあった。医療現場でも理解されなかった。

 でも、花粉はもちろん、そば粉や卵、太陽だってアレルギーに苦しむ人がいるのである。
 ほんとうに困っていた一年半、会う人会う人に話をしてみた結果、少数ではあったけれど、この「電気」の刺激に体験的に共感してくれる人がいた。

 ある人はリモコンやパソコンで時々何か感じると言い、ある人は自宅のパソコンのタッチパッドを操作すると指先にチリチリとした刺激を感じるという。彼女はみんな同じように感じていると思っていたので、家族に聞いたら「そんなことはない」と言われ驚いていた。

 いったい何に反応しているのかはよくわからないが、「電気」が発する何かに刺激を感じる人が少数ながらもいるのだと思う。(私の感触では4%くらい)
 それは通常は「不快」程度にすぎないが、体調不良など他の要因と重なると、不快が「苦痛」になることもあるのではないか。だから、少数派でも存在するかもしれない「電気」アレルギーについて、自分の経験をご紹介したいと思う。

◆内藤ルネ
内藤ルネ ロマンティックよ永遠に
四日市市立博物館 2010年2月13日~3月22日

 1953年『それいゆジュニア号』のイラストレーターとしてデビューした内藤ルネ(1932~2007)は、『ジュニアそれいゆ』『洋装』『私の部屋』などで、女の子が大好きな「かわいい」イラストを描き、ファッションや生活スタイルを提案、ファンシーグッズも生み出した。

 「かわいい」「なつかしい」がダブルで踊る内藤ルネ展へのわたしの関心は、この展覧会が何を伝えようとしているのかだった。

 1960~70年代当時の思い出話をしながらゆく女性の二人連れ、あちらこちらで「これ、カワイー」などと言いながら足早にまわる女の子のグループ。予想通りの会場の雰囲気の中を通っていくと、最後のコーナーで紹介されていたのが雑誌『薔薇族』だった。
 『薔薇族』は、1971年に創刊されたゲイのための雑誌である。内藤ルネが男性であることは知っていたので驚きはしなかったが、ペンネームを使い分けて『薔薇族』の挿絵や表紙を描いていたことは知らなかった。
 
 女の子の求めるロマンチックやカワイイで彩られた世界とは一見異なるが、夢見る内藤ルネが『薔薇族』で描いたのは、明るく健康的な男の子だった。ゲイの世界でも、内藤ルネ色を発揮したのだ。それは、内藤ルネの一部としてあるべくしてそこにあった。

【2月】
◆博物館外部システム論
犬塚康博『博物館外部システム論』を読む。読後、報道で、最近国立動物園設立を求める声があることを知る。

 『博物館外部システム論』は、博物館の配置に関する理論のこと。1928年、博物館事業促進会の「本邦ニ建設スヘキ博物館ノ種類及配置案」から始まり、その後しばらく博物館理論の中心を占めた。それは、博物館を一定の構造にもとにあるべきものと定義し、法の力による援助(取り締り)をなす中央集権的なものであった。しかし、戦後日本の博物館は、そうした外部システム論を採らず、内に向かうことで発展してきたのである。ところが昨今注目される動きとして、大阪府にみられる博物館見直しを、外部システム論から読み解いている。

 さて、国立動物園だが、『博物館外部システム論』によると、「本邦博物館、動物園及び水族館施設に関する方針」(『博物館研究』 博物館協会 1946年)と、「観光外客と博物館並に同種施設の整備充実」(日本博物館協会編 1947年)において言及がある。

 「本邦博物館、動物園及び水族館施設に関する方針」では、東京に配置される国営の「中央動物園」がみられ、「観光外客と博物館並に同種施設の整備充実」では、「国立中央動植物園」として、小石川の植物園、恩賜上野動物園、三崎の東大理学部附属の水族館があげられている。

 そして、その後今日に至るまで、国立の博物館はいろいろあるが、動物園は、まだ無い。日本の動物園の中核的存在である上野動物園も、農商務省博物局(1882年)、宮内庁(1886年)を経て、1924年に東京市に渡った。現在は東京都立で、指定管理者制度により東京動物園協会に管理委託されている。

 国立動物園の設立を求める動物園関係者の一人である岩野俊郎(到津の森公園)によると、国は専門性が必要で飼育に予算が必要な動物を、地方ではもっと身近な動物をということであるらしい。(朝日新聞 ひと 2010・1・9)
 珍しい動物を見せようとすることで、「客」の要望に応えることを優先にしてきた動物園が少なくないことは、かねてより動物園の内からも外からも批判がある。改善しようとしてきた動物園の努力もある。そうした中で、今この時期に国立動物園を求める動きが、動物園の関係者の中から起きてきたということが気になる。
 
 なぜ、戦後、国立動物園は無かったのか。それは日本の「動物園」がどのようにみなされて、実際どのように在ったのかということでもある。
 
 そんなことを考えていて思い出したのが、日本モンキーセンターと京大霊長類研究所、そして日本カモシカセンターのこと。ライオンもゾウも、パンダもコアラもいない動物園。動物園というイメージとは隔たっているかもしれないが、動物園のこれまでとこれからを考えるには、こんな動物園に注目してみたいと思う。

◆日本モンキーセンター
久しぶりに、日本モンキーセンター(犬山市)へ。







 2月のモンキーセンターでは、お馴染みヤクニホンザルの「たき火にあたるサル」たちが見られる。このたき火は、もう50年を迎えるということで、園内には50年を振り返るコーナーも。
 ジェフロイクモザルとシャマン(フクロテナガザル)は頭上を行き交い、ボリビアリスザルやワオキツネザルは、運がよければすぐそこ間近にやってくる。(触れるくらいの距離だが、もちろん触らないでね)この日の学芸員によるミュージアムガイドは、尻尾のお話。

 サルについてのあれやこれやが解る学習施設「ビジターハウス」の設置も古い。骨格標本、生態からサルと人の交流史、民俗までサルに関わる守備範囲は広い。隣に位置する霊長類研究所と混同されやすいが、両者の関わりは深い。
 
 1956年に設立された日本モンキーセンターは、1962年には生態学、心理学、実験動物学、飼育管理学などの専門研究員を抱える研究施設であった。1966年に京大霊長類研究所が設立されたことで研究の中心が移るまで、日本の霊長類研究の重要な部分を担ってきたといえる。研究の拠点が移行したことで、モンキーセンターでは、研究そのものよりも、研究の成果を発信する博物館としての役割が大きくなった。
 モンキーセンターについて、もうひとつ注目しておきたいのは、設立当時重要視されていた医学研究などにおける、実験動物の研究及び供給という点でも成果を上げていたこと。
 1957年、モンキーセンターは、日本動物園水族館協会、日本博物館協会、実験動物研究会に加盟している。
 
 登録博物館 財団法人日本モンキーセンター 附属博物館世界サル類動物園への興味は尽きない。

◆日本かもしかセンター
2006年閉園した日本カモシカセンター(三重県菰野町)の剥製5体を含む資料が、菰野町図書館で紹介された。

   「カモシカセンター再び」展 2010年1月30日~2月14日
   主催 NPO法人・県自然環境保全センター
 
 1960年に発足した「鈴鹿山系かもしか保存学術研究会」から発展した財団法人「日本カモシカセンター」は、カモシカの生態研究や飼育・繁殖を目的に、御在所岳山頂に開設されたカモシカ専門の動物園。鈴鹿山系を生息地とするニホンカモシカはもちろん、タイワンカモシカ、シーロー、シャモア、ゴーラル、シロイワヤギ、ジャコウウシ、サイガを飼育していた。世界のカモシカ類10種類のうち8種類の飼育は世界最多。
 1962年ニホンカモシカの飼育のためにカモシカ園を開設し、1965年には世界で初めてニホンカモシカの飼育下での繁殖に成功。1973年、日本カモシカセンター自然博物館開設、財団法人日本カモシカセンター設立。以降、世界各地のカモシカの飼育・繁殖に取り組み、サイガを除く7種の繁殖に成功している。1986年には菰野で「国際かもしか学術シンポジウム」を開催するなど、カモシカの研究では注目されてきた。

 ニホンカモシカは、国の特別天然記念物に指定されており、「三重県民獣」でもある。

 ところで、戦後まもなく、日本の動物園ではニホンカモシカの飼育が望まれており、上野動物園でも積極的に収集・飼育を試みている。ニホンカモシカは欧米の動物園からの入手希望が強く、外国産の動物との交換において有力と期待されていたのである。しかし、上野動物園では、移送後、数日から一年以内に死亡するニホンカモシカが続出。早々に飼育は断念され、生息地付近での飼育という方針が固まった。

 山上に建設された日本カモシカセンターは、御在所ロープウェイの観光ポイントとしても、生息地に設置された飼育施設としても注目されるものであった。しかし、そのことで逆に、行きにくい、観光客の動向に左右されやすい、老朽化した施設の改修・改築が困難という問題に突き当たる。

 2006年11月に閉園。飼育されていたカモシカたちは、各地の動物園に引き取られ、剥製や骨格標本類214点が県立博物館に寄贈された。また、その他の研究資料類は、菰野のNPO法人・県自然環境保全センターが引き継いだ。







◆広瀬鎮『サルの学校』(中公新書 1981)
朝日新聞夕刊の連載ニッポン人脈記。1月末の「差別を越えて」第7回(1月26日)は、猿まわし師の村崎太郎。記事によると「村崎太郎が被差別の出身であることをカミングアウトしてから、1年余りたつ」という。「カミング・アウト」という表現に困惑する。このことば、最近、あちこちの媒体で村崎太郎のカミング・アウトが紹介されているので、おそらく本人の弁であろう。
 
 1970年代後半、すでに昭和30年代にはほとんど姿を消していたといわれる猿まわしの「復活」に関わった人々にとって、猿まわしと「差別」は、まっすぐつながっていた。それは「差別」を、いかに超えるのかを抜きには考えられないことだった。30年という歳月は、そうした経験が忘れ去られるには充分な長さだったのだろうか。

 広瀬鎮『サルの学校』は、「差別」とも、動物と共に生きる人に向けられた蔑みとも向き合って、猿まわしの復活をめざす人とサルのお話。朝日新聞の記事に関心を持たれた方には、是非おすすめしたい。

◆うぐいす
2月24日、うぐいすが鳴いている。寒い間、出勤時、行く先にあって眩しかった太陽が、ようやく高さを増す。

【1月】
◆三重県立博物館
老朽化で外壁が崩れ落ち、現在休館中の県立博物館だが、ようやく新博物館の開館をめざして動きが活発化してきた。1月30日には津で新博物館についての意見交換会「みんなでつくる博物館会議2009」が開催されたとのこと。

 すでに公表されている「新県立博物館基本構想」の中で気になったのは、「まちかど博物館」と「公文書館」

 博物館ネットワークの中に位置づけられている「まちかど博物館」。たとえば四日市地域まちかど博物館推進委員会によると、2009年末で72館が認定されている。個人コレクションあり、ものづくりの現場ありの多彩さは、「コレクション」への思いとか、市民参加、まちづくりという点でも注目といったところであろう。けれどもコレクションの多様さ自由さを楽しみつつも、それらが「まちかど博物館」という枠の中で語られることに、違和感を感じてしまうのはなぜだろうかと思う。

 そして、このたびの新博物館に一体的に整備されるという公文書館。市史などの編纂事業で収集した資料の保存と活用については、編纂時に公文書館の整備も合わせて検討しておきたいところだが、実際には刊行終了と共に編纂室が閉鎖され、収集資料の行き先は博物館か図書館かに落ち着くことも少なくない。この場合、保存はともかく、利用まで環境を整備するのは容易ではない。三重県の構想は、公文書館を単独で建設するよりも博物館と一体化させることで得られる財政的なメリットも意識しているが、資料の保存と利用が、博物館ネットワークの中で、どのような効果を生むことができるのか、しばし注目したい。

◆今年最大の満月
1月30日、仕事帰りに何気に空を見たら、前方にあまりに明るく大きな月。「何事?」と思い、調べてみると「今年最大の満月」。知ってしまえば、どうってことはないが、昔々遮るもののないところで、毎日、夜空を見て暮らしていた人は、こんな風に月が近付く夜をどう感じたのでしょう。写真の腕は一向に上達しないが、『鈴木壽壽子 星のふるさとのこころ』夜空のスケッチ又は写真とメッセージ募集の2月末締め切りに向かって、毎日空を眺めている。
 
◆割り箸とマイ箸
「マイ箸」などという言葉が使われるようになったのは、20年以上前のことと記憶する。
 当時は「変わり者」扱いだったが、この数年、一種のファッションのようにも感じられる。実際、マイ箸を持参し続けている人が、どれくらいいるのかはよくわからない。現場でお目にかかることは、ほとんどない。ただ、「エコ」を冠した正しい行為として奨励されている風なのがなんとも複雑である。持ち帰りなどで、必要以上に割り箸が付いてくるシステムは当然改善の余地ありだし、自宅や職場などいつもの場所では、食器と同様、箸も洗って使えばよろしかろう。しかし、それをあえて「マイ箸」と称して、箸の持ち歩きを提唱する人びとの脳裏には、「割り箸」=使い捨て=悪という図式があるのだろう。

 かつては箱膳というのがあって、日々の食事で使う食器類一式が、それぞれ個人の箱の中に納められ、箸も食器も毎回洗うものではなく、食後のお茶か白湯で、ちゃぷちゃぷ濯いでOKだった。昭和30年代になると、ライポンなどの台所用洗剤が発売され、やがて台所の必需品となっていたので、昭和40年頃、田舎の親戚宅で箱膳が出、食後、祖父が食器をそのまま箱に仕舞ったのを見た時は驚いた。それは、今とは違って食事に肉類など脂肪が少なく、それで汚れが落ちる程度であった時代の話。見習いたいほどの「エコ」だが、これを今そのまま真似したい考える人は少ないだろう。むしろ油脂を多用した食生活を見直す方が、よほど「エコ」ではないかと思える。
 
 さて、マイ箸・割り箸問題だが、すでにあちこちで指摘されているように、こうした一見わかりやすそうな話は、実はそんなに単純ではない。マイ箸推奨の一方で、森林づくりのためにマイ箸、割り箸に限らず国産材(間伐材)の使用を呼びかける動きもある。割り箸だけではないが国産材製品の衰退が、国内の森林の衰退を招いている。また安さを求めた輸入割り箸の増加が、中国の自然環境にも悪影響を及ぼす。マイ箸か割り箸かではない問題が見えてくる。
 が、なにしろ現在日本国内で流通している割り箸のほとんどが輸入品なので、国産割り箸には滅多にお目にかからない。コンビニのミニストップが、国産割り箸「木づかい箸」を5円で販売しているのを見たことがある程度だった。見ただけで判別できるものでもないが、今月京都に行ったときに新幹線構内のうどん店で、注文したゆば・とうふうどんと共に出てきたのが、国産桧間伐材使用の割り箸だった。


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2011年 前半

2014-11-23 | 2011年
●3月6日 貨物鉄道博物館を遊ぼう

 貨物鉄道博物館(いなべ市)の月に一度の開館日。3月は「貨物鉄道博物館を遊ぼう」のイベント。
 13:17、 三岐線富田駅出発。四日市案内人協会による周辺解説を聞きながら、30分ほどで丹生川駅着。
貨車クイズラリー 、お子様用ミニ列車運行、貨車と積荷のイラスト展示 、DVD「貨物鉄道輸送と四日市」上映など。低価格設定(200円)で100枚用意されたDVDは早々に完売。子どもたちも多く、貨車の上で記念撮影。









【2011年2月】

●海軍燃料廠の払い下げ

   2月28日「四日市再生」公害市民塾例会
   四日市公害を考える勉強会②「海軍燃料廠について」

 四日市における石油コンビナートのはじまりは、旧海軍燃料廠の広大な跡地を利用して操業された「昭和四日市石油」である。

 四日市公害を考える勉強会の第2回は、海軍燃料廠の建設、空襲、敗戦、跡地利用の経緯。

 1938年、燃料供給の不足を補うための新たな燃料廠の建設地が塩浜に決定されたのは、その海が水深12メートルであったからだという。同年11月の用地買収開始から3ヵ月で買収を完了。当時の住民にとって、「協力」以外の選択はなかったであろう。1年以内の全戸移転となった。
 
 戦後、残されていた使用可能な石油精製施設、広大な敷地、整備された港湾という好条件に、跡地利用をめぐって多くの企業が払い下げを希望。しかし政府の方針決定が遅れたこともあり、交渉は難航。3ヵ所の燃料廠の内、徳山の26万坪、岩国の20万坪と比べて、四日市の65万坪は格段の広さであった。
 
 (*日本の石油化学工業の発展に大きな影響を及ぼした四日市の燃料廠の払い下げについては、平井岳哉「四日市旧海軍燃料廠の払い下げ過程について」がくわしい。)

 結局、1957年に至り、払い下げの許可を得たのは昭和石油であった。昭和石油と三菱グループの合弁で「昭和四日市石油」を設立、1959年5月、操業が開始された。

 さて、今も残る通称「海軍道路」は、沿岸部の海軍燃料廠と泊山の「山の工場」を結ぶ軍用道路であった。戦後開発が進んだ泊山周辺では、「山の工場」貯蔵庫跡など、昔の姿を知ることができる場所がわずかに残されている程度だが、山に向かう途中にある白髭神社周辺の変遷には関心を持ってきた。

 今回の講座で、白髭神社に残されている碑の揮毫が別府良三(海軍第二燃料廠長)であることを知る。戦後、公職追放解除後の別府は昭和石油の常務であったという。
 
 また現在、神社の周囲には県の施設や変電所、中電の社宅や三菱化学の寮があるが、戦後この辺りにCIEがあったとの話も出た。CIE(民間情報教育局)は、1946年、軍国主義教育の一掃と新教育の普及のため三重軍政部内に設置されたというが、そのCIEのことだろうか。しばらく泊山・白髭神社周辺に注目したいと思う。

●マンサク



2月27日 松阪市内

●2月27日 第16回 松浦武四郎まつり
 毎年2月最終日曜日に、松浦武四郎記念館の中庭で開催されている武四郎まつり。今年は静内民族文化保存会がアイヌ古式舞踊を披露。また、地元の中学生の吹奏楽演奏や小学生の群読と寸劇などの発表もあった。
 まつりに合わせて公開されている武四郎の生家まで10分足らず。民家に掲げられた屋号の看板を見ながら歩く。生家前で手づくりのあられを煎り、お茶を振舞ってくださった地元に人びとに、心からありがとうを言う。

   心せよ えみしも同じ 人にして この国民の 数ならぬかは

 これは、1864年に刊行された『西蝦夷日誌 四編』におさめられている武四郎の作。








●2月20日 貨物鉄道博物館ボランティア養成講座 

 貨物鉄道博物館ボランティア養成講座 最終回
   「貨物列車はなぜ姿を消したのか」 
     講師:三岐鉄道会長 日比義也氏
     2月20日(日) 四日市大学
     問い合わせ先 市民社会研究所

 2003年開館の貨物鉄道博物館(いなべ市)をさらに活用させるため、企画を委託された市民社会研究所のボランティア養成講座。最終回は貨物列車の歴史について。

 三岐鉄道の丹生川駅前にある貨物鉄道博物館は、一般からの寄付とボランティアによって運営されており、保存されている貨車も、必ずしも三岐鉄道で走っていたものではない。
 
 では、なぜ丹生川駅構内なのか。日比氏の説明によると、
   ①失われていく貨車の保存に熱心な市民がいた。
   ②丹生川駅は昔の貨物取り扱い駅で、貨物ホームや上屋が残されていた。
   ③三岐鉄道では今も貨物列車が走っている。特にセメント輸送では全国でもここだけとのこと。
 そうした諸条件がそろって、貨物輸送130周年の2003年に、この地に博物館が誕生した。

 しかし、ボランティアの運営では、開館日は月に一度の日曜日のみというのが現状。まずは、子どもの教育施設として、社会見学などでの活用をめざすという。沿線には、太平洋セメントの藤原工場、そして藤原岳。

 帰路、立ち寄った三岐鉄道の暁学園前駅を疾走する貨車。
 そして、切符は昔ながらの紙製。駅員さんが鋏を入れてくれる。






●「なつかしい暮らし」展

 四日市市立博物館 「なつかしい暮らし」   
 1月29日(土)~3月16日(水)

 小学生の学習支援として、このところ毎年開催されている企画展。これまで昭和30年代の生活を中心に館収蔵品などで紹介している。

 昭和30年代といえば「なつかしい」が定番の形容になっているかのようだが、今年のタイトルは、そのものずばり「なつかしい暮らし」。

 しかし、今どきの小学生にとって、昭和30年代が「なつかしい」はずもなく、親や祖父母世代への秋波か? はたまた担当者がそういう年代なのか? などと思いつつ会場へ。
 
 今年は、親だけでなく祖父母へのサービスも行き届き、昭和30年代だけではなく、昭和10年代も対象の展示構成。当然、戦中の暮らしに関するコーナーもある。単に「なつかしい」だけではない歴史の一面への「配慮」かもしれないが、だったら「なつかしい」などとくくらなければいいじゃないかと思う。

 「なつかしい」の連呼に、今では死語のはず(?)の「博物館行き」ということばを思い出した。親しまれる企画を模索する博物館が発する「なつかしい」とは、「博物館行き」のキャッチコピーな言い換えかしらと、ひとりごつ。

●2月5日 黒人映画講座・TOKUZO(名古屋)

「BLACK MOVIES joint」chapter-1
■案内人:小川真一(音楽評論家)森田裕(TOKUZO)
■スペシャルゲスト:柳下毅一郎(映画評論家)

 名古屋黒人映画愛好会の立ち上げとなる第一回の講座。
 概論の前半となる今回は、1910年代から70年代まで。
 黒人映画大好きな森田氏の企画構成力と準備された資料、柳下氏のオスカー・ミショーの興行師的人物解説などで楽しめる入門編でした。

【2011年1月】

●姫路の皮革産業

 第25回人権啓発研究集会のワークショップ「姫路・皮革産業の歴史をたどる」( 1月28日)で、姫路市高木地区・御着地区を行く。

 日本の皮革産業の歴史は、被差別の歴史と重なる部分が非常に大きい。しかしそれでも、どこから眺めるかによって見えるものも違ってくるのは当然のこと。

 作業時の臭い、重労働、賤視、伝統の技術、地場産業、大量生産への転換、後継者不足、付加価値のある製品開発、ブランド力、ファッション、外国人労働者(特にベトナム人)の増加‥

 「産業」というくくりでは語りきれない、只今の皮革産業である。

●コードバン
 馬革専門の新喜皮革で、コードバンの製造を見学する。

 コードバンは、馬の尻の特に繊維密度が高い部分を特別な技法で仕上げた革で、世界でも製造しているのは2社のみといわれる。

 一般に革は、皮の外側を利用するように加工されるが、コードバンの場合は、なめした皮の内側を磨き上げて仕上げる。皮の良質な部分を時間をかけてなめし、加工することで、独特の光沢のある革となり、靴、カバン、ベルト、財布などデザイン性・ファッション性の高い製品に使われている。

 新喜皮革では、原料の馬皮のほとんどが輸入。コードバンを安定的に生産するため、馬肉を食する習慣のあるヨーロッパから馬皮を入手しているという。
 皮革産業は、食用家畜の副産物で成り立っているのだということが強調されていた。





●西御着総合センター皮革資料室
 総合センターのリーフレットによるとセンターの設立は1979年だが、皮革資料室が開設されたのは2005年。隣保館モデル事業として国庫補助を受けている。

 特別対策としての同和対策事業が終了(2002年)し、当該地区での皮革産業も盛況を過ぎた頃に、隣保館モデルとして開設された。だからという訳でもないだろうが、ここに展示されているのは「過去」である。



●猫も大好きなストーブ
 寒い日が続く。
 犬山では、ヤクニホンザルは焚火、ワオキツネザルはストーブに寄ってくるが、巷の猫もストーブは大好きなのである。



●蜜柑とお茶
 昨年から今年にかけて訪れた地域で、こもごもに地場産業の低迷、後継者不足の声を聞いた。
 石油コンビナートで全国的に有名なこの町にも、南には蜜柑農家があり、山麓には茶畑が広がっている。
 けれどもここでも栽培農家のほとんどが高齢化している。しかも、最近お茶(緑茶)を飲む人が少なくなり、お茶が売れないのだそうだ。
 そういえば、出先でペットボトルのお茶を勧められた時に、冗談半分に「お茶にはこだわっているので」とお断りしたら驚かれ、「どこのメーカーがいいんですか?」と聞かれた。いやいや、そうではなくて、と説明しなければならないのは悲しい。
 緑茶は美味しい。寒い季節はぬるめのお湯、暑い季節は水で丁寧に淹れた緑茶は美味しい。

●2011年元旦 名古屋オケラ公園(西柳公園)

 

 今年もオケラ公園に小屋が建った。(2010年12月28日~2011年1月4日)

 名古屋で、野宿する日雇労働者への炊き出し活動が始まったのは、1976年1月。当初は、おにぎりと味噌汁を配って回っていた。開始から今日まで、炊き出しを担ってきたのはキリスト者たちと市民たち。

 仕事がなくなり寒さも厳しい年末年始、オケラ公園に小屋を建てるようになったのは1980年1月。緊急避難所として有志によって建設・運営された。やがて日雇労働者組合が結成され、拠点となる笹島労働者会館も設立された。

 この30年、周辺は大きく変わったが、この公園の年末年始の風景は、そのままだった。

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引っ越してきました

2014-11-04 | いのりむしについて
引っ越してきました。
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