いのりむし文庫

いのりむし斧舎 ⒸNakajima Hisae

移転した北旭の観音堂と大橋神明社遥拝所  (曙町)

2013-09-23 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

臨海軍需工業地帯の建設と新田の村  

   移転した北旭の観音堂と大橋神明社遥拝所  (曙町) 

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 北旭は、江戸時代に塩浜村と馳出村の地先海岸を開拓してできた新田(大橋新田)で、1875(明治8)年、辰巳新田(高旭・浜旭)と合併して旭村となりました。その後、1889(明治22)年の町村制施行で、塩浜、馳出、旭と六呂見の一部が合併して塩浜村となります。

 農と漁の村であった塩浜に、工業地帯化の大きな波がもたらされたのは、1926年のことでした。東京湾埋立株式会社の朝野総一郎による四日市港造成計画において、旭地区がその対象となったのです。計画書には塩浜地先埋立について、「民有水田及び養魚池」を買収すると記されていました。
 この埋立事業計画に対して、四日市市は市域の拡張と都市計画を策定、塩浜村との合併もすすめられます。
 けれども埋立予定地となった旭地区では、売却をすすめようとした地主と農民たちが激しく対立し、永小作権確認訴訟に始まった争議が長期化します。また四日市市への合併反対運動も起きました。旭地区の強い抵抗に、合併はしたものの、埋立計画は暗礁に乗り上げました。

 反対運動に転機が訪れるのは、塩浜地区の新たな工業化計画として工場誘致が始まる1937年以降になります。
 工業港の修築と工業用地の造成等を目的に四日市築港株式会社が設立され、市長や地元企業人らによって旭地区の土地問題の和解が図られました。折りしも、1938年の国家総動員法の公布によって、臨海工業地帯も又、急速に戦時体制へと移行していきました。

 同年8月、旭地区土地問題が解決に向かいつつあることを伝えた伊勢新聞(1938・8・3)は、「物心両界の国家総動員態勢」の今、「国防一色」となった「非常時緊張時代の波」が、旭地区の小作人を強く刺激し、建設計画中の石原産業と日本ステンレス(東邦重工業)の事業が「国家的、国防的に緊急且重要」であることを、小作人たちが理解したと記しています。翌39年、裁判は取り下げられました。

 ところが、戦時体制はさらに臨海工業化計画にも大きな計画変更を迫ります。1939年、海軍が新しい燃料廠(第二海軍燃料廠)の建設に選んだのが塩浜で、四日市築港株式会社の所有となった土地が、燃料廠の建設候補地に含まれていたのです。
 結局、四日市築港株式会社は土地の売却に応じ、全ての関係者は、海軍に協力せざるを得ませんでした。石原産業・東邦重工業の建設計画に燃料廠の進出を追加した区画整理事業が、急ピッチで進められました。(註1)

 こうして移転することになった旭地区ですが、移転場所の選択が難航した上に、引越作業も困難を伴ったため、特に北旭の移転が大幅に遅れました。川を挟んで北の曙町への、北旭最後の移転となったのが観音堂でした。
 北旭は新田の村であった旭村の3地区の中でも、もっとも地盤が低く、たびたび堤防が決壊して海水が流れ込んだため、苦労は絶えなかったといわれています。そうした村の人びとが祈りを込めたのが、村の観音堂であったといいます。
ようやく観音堂の移転を終えてまもなくの1945年6月以降、四日市は七回の空襲を受け、かつて北旭の人びとが暮らした場所に建設された東邦重工業のステンレス工場は破壊され、操業不能に陥ったのでした。

 移転した北旭観音堂(曙町)に、隣接して建立された大橋神明社遥拝所の石柱(1945年8月建立)には、「昭和十六年大東亜戦争ノ国策ニ添ヒ大池ヲ始メニ耕地屋敷ノ総テ」を(東邦重工業の建設のため)大同製鋼(*2)に譲ったと記されています。

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労富農産、学知人遊、勤倹忠実、奉公至誠、敬神崇祖

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立正安民、光明浄化、以和為貴、精神努力、粛正自省

(写真撮影 2011年5・11月)

*註1
 国家総動員法の時代、海軍は、四日市の臨海部に第二海軍燃料廠用地として60万坪、同じく丘陵地に海軍軍需部関連施設として45万坪を買収した。これらの地には、田畑を耕し、養魚を営む人々の暮らしがあった。突然もたらされた軍の買収交渉に驚きながらも、家も寺も村のまるごとを移転させることに承諾する以外に道は無かったのである。1939(昭和14)年1月29日、初めて海軍と臨海部対象地の関係者が参加した交渉委員会の記録 (『四日市市史 資料編 近代)には、速攻で建設を進めようとする海軍の姿がリアルに残されている。

 この日の「交渉」は、まず市長の挨拶から始まった。次いで海軍中佐・篠田の「充分意見ヲ述ベヨ」という挨拶の後、説明を始めたのは、中佐・大須賀であった。

 土地ノ値段ニ付テ接衝シタイ 交渉委員ト訂正セヨ
 心境ヲ話ス
 時間ニ掛値ガアル 今後時間ヲ励行セヨ 
武人ハ強イ 新聞其他ニ強イト云フコトハ載ツテ居ナイ併シ情ヲ持ツテイルソノコトハ新聞等ニ記載セラレテ居ル
 第一 用地ハ必ズ海軍ノモノニシナケレバナラヌ ソレハ登記ヲシテ売買ノ観念ニナル 売買ノ前ニ軍事施設ニシテ作戦計画ヲ進メル
 第二 土地収用法
 第三 総動員法ニ依ツテ必要地ヲ収用スル
 海軍ニモ情ケガアルカラ第二、第三ノ方法ニ依ラズトモ皆様ト充分接衝シテ進メタイ
 海軍ヲ援ケル気持デ腹蔵ナイ危惧ヲ述ベヨ 事変以来沢山ノ施設ヲシテ居ルガ
民間側ノ工業用地ヲ買収スル場合ト軍トハ買収ノ上ゲ気持ガ違フト思フ 
軍部ト民間トハ作戦計画ヲシナイコト 
一度ニ施設ヲシ民間ノ様ニ遅レハシナイ
 二、三時間デ話シキメテ貰ヒタイ 徹夜シテデモ話ヲ纏メタイ
 其ノ話ノ結果退場ノ必要アレバ退場スル
 土地ノ価格ハ委員ノ代表者カラ書面デ出シ貰ヒタイ
 海軍側モ価格ヲ出ス
一、田、畑、宅地ノミノ値段ヲキメタイ

 海軍の買収計画を拒むことはありえず、ただ土地の値段など条件交渉があるのみだった。それでも、地元代表者の中には、区民を集めて相談した結果、長く住んだ所であるから何とか移転しないようにして欲しいとの希望を述べる者もいた。しかし、発言は黙殺され、話の流れは即座に土地の値段や移転地などの条件へと移った。

 市史の解説によると、この交渉委員会は秘密裏におこなわれたという。海軍は「何カ証拠トシテ委員様ダケデモ承諾書ガホシイ」と、参加者に買収承諾の文書を求めるほどの性急さであった。しかし、地元からの参加者たちは、そもそも区民から買収を承諾する委任を受けて来た訳ではなかったので、穏便に区民に了解を求めるためにも、ここで書類の作成に応じることはできないと留保を願って、この日の交渉を終える他に、術はなかったのである。

*註2 
 東邦電力系であった東邦重工業は、電力の国家管理により1942年に東邦電力が解散した後、大同製鋼に移行した。

参考
『四日市市史 通史編近代』
『しおはま80年の変遷 -塩浜村の四日市市合併80年史-』 

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平和と自由のために第二次世界大戦で戦い、かつ死んだ人々に捧ぐ (石原町)

2013-09-22 | 四日市市内の戦争慰霊碑(データ)

人がその仲間達のために命を捨てるほど崇高な愛はない。
平和と自由のために第二次世界大戦で戦い、かつ死んだ人々に捧ぐ。

Nothing is more sublime than to sacrifice
ones own life for the sake of others.
This is dedicated to those who fought
and died bravely in the name of peace
and freedom during World War II.

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石原産業と戦争捕虜収容所についてはこちら
http://human-animal.blog.ocn.ne.jp/inorimusibunnko/2013/08/post_5018.html

(撮影 2013年5月)

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護国神社  京町 八幡神社

2013-09-21 | 四日市市内の戦争慰霊碑(データ)

護国神社 1962年1月

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四日市市長平田佐矩之書

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(撮影 2013年9月)

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楠町靖国社 楠町北五味塚 楠郷総社

2013-09-17 | 四日市市内の戦争慰霊碑(データ)

楠町靖国社

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詳細は不明ですが、1982年に現在地に移設されたことが記されています。

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鳥居に「明治二十七八年役紀念」らしい文字が見えます。

(2013年8月撮影)

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護国英霊碑  常磐小学校横

2013-09-16 | 四日市市内の戦争慰霊碑(データ)

護国英霊碑  
1954年12月19日 常磐地区

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(2013年)7月撮影

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(2013年7月撮影)
 
常磐小学校正門前に、表忠碑と並び建立されましたが、2001(平成13)年、常磐小学校の運動場整備に伴い、駐車場横に移転されました。表忠碑は痛みが激しかったため立て替えられましたが、護国英霊碑は、そのまま移築されました。

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(2009年2月撮影)

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表忠碑 常磐小学校横

2013-09-16 | 四日市市内の戦争慰霊碑(データ)

表忠碑 2001年 
発起人 従軍者
(移設にあたり1909年建立の碑を建て替え)

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常磐小学校正門前には、表忠碑と護国英霊碑が建立されましたが、2001(平成13)年、常磐小学校の運動場整備に伴い、駐車場横に移転されました。

 そのひとつである日露戦争表忠碑は、常磐村(芝田、赤堀、久保田、大井手、松本、伊倉、中川原)の従軍者らが発起人となり、8名の戦死者を「忠死者」として表忠するため、1909(明治42)年9月に旧常磐村役場玄関前(現・常磐小学校校門前)に建立されたものです。既に痛みが激しかったため、移築にあたり建て替えられました。


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(2009年2月撮影)

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残された奉安殿 ”光雲殿”  (赤堀 誓元寺境内)

2013-09-05 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

残された奉安殿
   光雲殿  (赤堀 誓元寺境内)


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(2011年3月撮影) 

 誓元寺の納骨堂「光雲殿」は、1935(昭和10)年、常磐尋常高等小学校に建立された奉安殿を、1946年、現在地に移築したものです。老朽化が激しくなった2004(平成16)年に改修がおこなわれましたが、建設後70年以上が経過しているため、2011年7月、国の登録有形文化財【註1】となりました。

 昭和初期の建築物として注目される光雲殿ですが、重要なことは、この建物が奉安殿として建設されたことにあります。それは、大日本帝国憲法下の国民精神教育を象徴するものでした。

 明治から1945(昭和20)年8月15日まで、天皇・皇后の写真が「御真影(ごしんえい)」として特別の意味を持っていた時代に、「教育勅語」と「御真影」を保管する場所として建設されたのが「奉安殿」でした。当初、多くは市町村役場などに保管されていましたが、独立した施設が設置されるようになり、「奉安庫」「奉安所」「奉安殿」と呼ばれました。

 「御真影」(正式には「御写真」)は、天皇の権威を示すものとして、明治維新直後から、府県庁や鎮台などに下付されます。1882(明治15)年以降、学校への下付が始まり、臣民教育に利用されるようになりました。こうした下付は、一方的強制的なものではなく、まず学校から自発的な願い出があることが前提とされていました。しかし、このことが文字通りの意味での「強制ではない」を意味しないことは、言うまでもないでしょう。
 紀元節・天長節・新年の三大節祝賀式、さらに昭和2年以後は明治節を加えた四大節におこなわれる儀式において、「教育勅語」が読み上げられ(「奉読」)、天皇・皇后の「御真影」に最敬礼しなければならなかったのです。

 三重県は1927(昭和2)年、小学校長会議において「御真影奉置」について次のように指示しました。


  
学校に奉載せる御真影は、洵(まこと)に国民精神教育の源泉にして、平素児童生徒訓練の中心を茲(ここ)に求め、学校の内外を挙げて、日夜尊崇(そんすう・そんそう)し奉り、至誠奉公せさるへからさるは言を俟(ま)たさる所なり。従って其の奉置に関しては、校地内清浄なる場所を選ひ、設備鄭重(ていちょう)にして堅牢を旨とし、周囲亦児童をして自ら尊厳の気を感得せしむるの設備あるを要す。各位は常に意を茲に留め、設備の汚損せる場合は直に之を修理し、不備の箇所は之を整ふると共に、日常管理を厳重にして、奉仕懈る所なく、児童生徒をして常に敬虔の至誠を捧けて奉拝せしむる様訓練せられむことを望む。
 「一、 御真影に奉置に関する件」(『四日市市教育百年史』)
                  *()内のふりがなは、引用者

 
四日市でも初めは市役所に保管されていましたが、1927年から40年にかけて市内各地の小学校に奉安庫又は奉安殿が建設されました。建設費は、学区内の有志や奨励会などの寄付で、構造、建築様式はさまざまであったといいます。いずれの学校でも奉安殿の周囲は玉垣や石柵などで囲われ、樹木を植えたり庭石を配置するなどしていました。

 奉安殿に厳重に保管された「御真影」「教育勅語」は、火災や災害はもちろん空襲に際しても、これを守ることが厳しく求められ、「御真影」を守り抜くことを第一とする学校防空実施要項も作成されました。
 文部省の学校防空指針(1943年)によると、被災した場合の報告事項は、①御真影,勅語謄本,勅書謄本の安否,②死傷者,③建物の被害の程度の順となっており【註2】、「御真影」や「教育勅語」が重要視されていたことがわかります。

 1945年、ポツダム宣言が受諾されたことで、連合軍総司令部(GHQ)によって、軍国主義的教育が次々と排除されるようになります。同年10月「教育勅語」の「奉読」の禁止、12月「御真影」の返却、1946年1月「奉安殿」の撤去です。三重県は7月に「御真影奉安殿の撤去に関する件」を発し、取り壊し作業が始まりました。

 こうした中、常磐小学校の奉安殿は、学区内にあった誓元寺境内に移設され、「光雲殿」と命名されて納骨堂となりました。常磐小学校から誓元寺まで1kmに満たない距離ですが、重さ7千貫といわれたコンクリート製の建物をコロ引きで2日かけて移動させたといいます。移設費用には、既に解散していた国防婦人会の残した財産が充てられたということです。
 
 教育勅語は、1945年10月「奉読」が禁止された後、その取り扱いが問題となりますが、1948年6月、教育勅語等排除に関する決議(衆議院)と、教育勅語等の失効確認に関する決議(参議院)により失効が確認されました【註3】。

  *参考 『四日市市教育百年史』

現在は納骨堂である光雲殿の内部
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(2012年1月撮影)

【註1】
 登録有形文化財は、原則として建設後50年を経過した建築物、土木構造物及びその他の工作物の中で、以下の条件に合致するものが対象となります。
(1) 国土の歴史的景観に寄与しているもの
(2) 造形の規範となっているもの
(3) 再現することが容易でないもの
 光雲殿は、「造形の規範となっているもの」として登録され、その様式は、次のように解説されています。
 

  
切石積基壇上に建つ鉄筋コンクリート造平屋建。4隅に柱型を造り出し、正面に切妻破風を飾る持送り庇を突出する。屋根は陸屋根軒を左右に出し、中央をドーム状に造る。外壁はモルタル洗出し。簡明な意匠でまとめられたRC造奉安殿。
(国指定文化財等データベース)


【註2】
「戦時下の京都師範学校の教育 ―1945(昭和20)年における学校長作成文書を資料として―」村上登司文 2011 


【註3】
●教育勅語等排除に関する決議(1948年6月19日衆議院決議)
 民主平和国家として世界史的建設途上にあるわが国の現実は、その精神内容において未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。これが徹底に最も緊要なことは教育基本法に則り、教育の革新と振興とをはかることにある。しかるに既に過去の文書となつている教育勅語並びに陸海軍軍人に賜わりたる勅諭その他の教育に関する諸詔勅が、今日もなお国民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、従来の行政上の措置が不十分であつたがためである。
 思うに、これらの詔勅の根本的理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すもととなる。よつて憲法第九十八条の本旨に従い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。
 右決議する。

●教育勅語等の失効確認に関する決議(1948年6月19日参議院決議)
 われらは、さきに日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定して、わが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義的教育理念をおごそかに宣明した。その結果として、教育勅語は、軍人に賜はりたる勅諭、戊申詔書、青少年学徒に賜はりたる勅語その他の諸詔勅とともに、既に廃止せられその効力を失つている。
 しかし教育勅語等が、あるいは従来の如き効力を今日なお保有するかの疑いを懐く者あるをおもんばかり、われらはとくに、それらが既に効力を失つている事実を明確にするとともに、政府をして教育勅語その他の諸詔勅の謄本をもれなく回収せしめる。
 われらはここに、教育の真の権威の確立と国民道徳の振興のために、全国民が一致して教育基本法の明示する新教育理念の普及徹底に努力をいたすべきことを期する。
 右決議する。

(2012年2月記 2013年9月加筆)

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忠魂碑 小古曽神社東

2013-09-02 | 四日市市内の戦争慰霊碑(データ)

忠魂碑 1908(明治41)年9月 小古曽区

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裏には「明治三十七八年役戦死者」が記されています

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「平和之礎」の奥に見えます。

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平和之礎 小古曽神社東

2013-09-02 | 四日市市内の戦争慰霊碑(データ)

平和之礎 1961年3月 小古曽町自治会

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裏には、「殉国者芳名」が記されています。

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釋堅忠勇操信士 波木町 了信寺

2013-09-02 | 四日市市内の戦争慰霊碑(データ)

釋堅忠勇操信士 1910(明治43)年10月 
発起人 波木区在郷軍人

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明治38年3月7日戦死した陸軍歩兵一等卒勲八等の操信士の碑であることが、記されています。

(2013年8月撮影)

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