-VERI-情報0705-06
バラの香りが過ぎて紫陽花(アジサイ)の色合いが目立ちます。
先日は京都の知恩院と、近江の日野町に行く機会がありました。
京都、地下鉄東山駅2番出口から外に出ると、すぐに古川町商店街入り口があります。風情のある狭い商店街をしばらく歩いて、アーケード通り抜けると、そこは柳のある白川の縁です。
この白川の流れを左に見ながら川沿いに少し歩いて知恩院前バス停のある東大路に出ます。ここから左に進むと、知恩院の入り口となる新門が左手に見えてきます。
今年からちょうど800年前、1207(建永2)年2月、法然とその弟子たちが流罪や死罪となり、専修念仏の停止の令が出されました。法然は土佐へ流罪(流罪地が讃岐に変る)となり、弟子の親鸞は死罪を免れて越後に配流されました。法然75才、親鸞35才のときの出来事です。
哲学者の梅原猛は、「日本的霊性が火と燃え上がった時代は、やはり鎌倉時代からであり」、法然は、西欧キリスト教史の「ルターのごとく、この宗教改革運動のトップバッターであるとともにトップスターである」と述べています。(「法然の哀しみ」序章)
源信(平安時代中期の天台宗の僧、恵心僧都942-1017)によって日本人の3分の1は念仏に帰し、永観(禅林寺の中興の祖1033-1111ようかん)によって3分の2が念仏に帰し、この法然(1133-1212)によって日本人の全部が念仏に帰依したと、伝えられるほどの大きな影響でした。
当時、仏教の教えは、極楽を9段階に分けて、徳を積み学のある人は上の上の極楽に往生できるけれども、徳も積まず学もない人がただ口で念仏を称えるだけでは、せいぜい下の下の極楽にしか往生できないと、教えていました。これは自業自得で必然のことでした。
法然は、罪多い愚人たちを極楽往生させようとして、阿弥陀様は難行苦行して仏になられたのだから、阿弥陀の本願、仏の慈悲を信じて、一心に「南無阿弥陀仏」と口でお称えすれば、犯した罪はことごとく除かれて極楽浄土に往生することは疑いないと、仏の慈悲を説きます。
仏の慈悲は道俗貴賤を問わず、専修念仏によって凡夫往生、悪人往生、女人往生ができるとの教えが広がる様相は、比叡山延暦寺の衆徒には権威を否定するものとして、鎌倉時代の到来で戒律重視を強めていた南都興福寺の僧たちには、戒律を破壊するものとして映りました。
既存の仏教僧たちの不満の高まりは、専修念仏の停止、高声念仏の禁止の訴えとなり、そのような中での後鳥羽上皇による法然流罪の院宣でした。10ヶ月後には流罪勅免となりますが、配流先で布教を続ける法然は都に戻ることを許されず、讃岐から摂津箕面(みのお)の勝尾寺に移されました。それから4年後、法然の入洛が許され、親鸞も流罪が許されます。
法然は大谷の禅房に入って間もなく衰弱がひどくなり、1212(建暦2)年1月、法然80歳のとき、弟子の源智の求めに応じて「1枚起請文(いちまいきしょうもん)」を授け、その翌々日に入寂しました。
「一枚起請文」を受けた源智は、法然の恩に報いるべく阿弥陀立像を造立し、請願文と法然に縁のある4万6千の生存者及び死者の名を記した紙札をその阿弥陀立像の胎内に収め、法然1周忌の供養を行いました。
阿弥陀如来にはもちろんのこと、最も上の極楽に往生しているであろう法然上人に、現世や来世の結縁の人びとを再び訪れて、共に往生できるように請願する源智の「南無阿弥陀仏」が聞こえてきそうな信仰心です。
しかし、専修念仏禁止の令は、法然滅後7年目にも、12年目にも出され、15年目には延暦寺の衆徒によって法然の墳墓が荒らされ、弟子たちが流罪となる嘉禄(かろく)の法難が起きました。
法然の廟堂は源智によって再興され、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜されるのは、法然滅後22年目(1234)のことです。後に、知恩院は浄土宗を信仰する徳川家康の寄進によって寺領が拡大し、二代将軍が三門(山門)を、三代将軍が御影堂(本堂)を建立します。京では知恩院、江戸では増上寺が徳川家の菩提寺となります。
さて、東大路の知恩院新門から歩いていくと、大きな重層の三門が見えます。見上げるようにして三門を通って、大きな石段を登り詰めると視界が開けて、境内の左手には御影堂が見えます。
御影堂の右に見える、山手に向かう階段を登っていくと法然の墓所の入り口の前に出ます。ここに、徳川時代となる前までは本堂であった勢至堂(せいしどう)があります。静かなたたずまいのお堂のある場所が、法然が念仏を始めた地であり、臨終の地です。また、墓所入り口に近い石段を登った高いところに御廟が見えます。
この勢至堂の裏側には客室となる山亭があります。一般参観者は下の御影堂から、右後方にある方丈庭園に有料で入り、そして、庭園の中にある山道を登り詰めたところにある山亭入り口の門から中に入ることができます。
静かな山亭の庭園から遠くに京の町を眺めていると、800年の時間を超えて、同じように京を眺めていたであろう法然上人が身近に感じられます。悟りを得るための難行苦行も世のため人のため、真の極楽は世のため人のために生きるところと観念しつつ、帰路につきました。
次の訪問先は、近江商人の発祥の地の一つとなる日野町です。京都、地下鉄東山駅から山科へ、JR東海道線に乗り換えて山科からJR浅草線経由で貴生川(きぶかわ)へ、単線の近江鉄道に乗り換えて車窓から広々とした田畑を眺めていると日野の駅に到着します。所要時間約1時間半。
田舎の町に来たと思って日野の町を歩き始めると、しっかりした瓦屋根と板塀の町並、数多い立派な寺院、あちこちに見られる春祭りの曳き山の倉庫が目に入ります。その静かな町並は日野町人の本宅と、その文化の香りを今に伝えていました。
縁あって訪ねた浄光寺(日野町河原)は、蒲生家によって安置されたと伝えられる本尊は薬師如来ですが、その後さびれていたところを江戸初期に黄檗宗の禅寺として再興され、同じ頃に再建された勅定寺の由緒をもつ禅寺の正明寺(日野町松尾)とは、今も深いつながりをもっています。
江戸中期の日野商人は、京へは1日で、江戸へは10日の行程で遠方への行商の旅を重ねました。日野産物の漆塗りのお椀に続く、売薬の行商で財を蓄え始め、遠方に拠点を広げて味噌醤油清酒を扱いうようになった歴史を、近江日野商人館に展示されていた数々の資料で知りました。
治安が安定し、都市から農村・漁村まで商品・貨幣経済が浸透したのは三代将軍家光から五代将軍綱吉までの時代です。自立した商業経営者の経営理念が語られるようになるのも、この頃からです。(「日本経営理念史」土屋喬雄著)
井原西鶴の浮世草子「日本永代蔵」(1688)では、青壮年時代はわき目もふらず知恵才覚をはらかせ、算用をこまかにし、勤勉力行して家職に励み、商売繁盛を図り、始末をして老年までに金をため、身代をつくりあげ、老後は隠居して上品に遊楽し、施与し、社寺詣りをするのが、商人一代の理想像として語られています。
日野商人の代表者の一人、初代中井源左衛門は、1715(亨保19)年、19歳のときに自己資金2両で行商を始め、88歳のときには11万5千両余りの資本を蓄積し、1805(文化2)年、90歳のときに子孫へ「金持商人一枚起請文」を書き残し、陰徳善事をなす善人になることを訓戒しています。
「もろもろの人々沙汰し申らるるは、金溜る人を運のある、我は運のなき抔(など)と申すハ、愚にして大なる誤りなり。運と申す事は候はず。金持ちに成らむと思はば、酒宴遊興奢を禁じ、長寿を心掛け、始末第一に、商売を励むより外に仔細は候はず。
此外に貪欲を思はゞ先祖の憐みにはづれ、天理にもれ候べし。始末と吝(しわ)きの違いあり。無智の輩ハ同事とも思ふべきか。吝(りん)光りは消えうせぬ。始末の光明満ぬれば、十万億土を照すべし。かく心得て行ひなせる身には、五万十万の金の出来るハ疑ひなし。
但運と申事の候て、国の長者と呼るゝ事は、一代にては成がたし。二代三代もつづいて善人の生れ出る也。それを祈り候には、陰徳善事をなさんより全(まったく)別儀候はず。
後の子孫の奢を防んため、愚老の所存を書き記し畢(おわんぬ)」。
<現代文>(多くの人たちが思っているように、金を溜める人は運があり、私には運がないなどというのは、愚かであり大きな誤りです。運ということではありません。金持ちに成ろうと思えば、贅沢をやめて長生きを心がけ、節約を第一にして商売に励むことだけです。
これ以上のどん欲を思うと先祖の助けもなく、天の道理にも外れます。ケチには未来がなく、節約にはこれを続けると広大な未来が開けます。このように思って行うことができる人には、5万10万くらいの金持ちになることは疑いありません。
ただ運ということについて、国の大金持ちと呼ばれることは、一代で成ることは難しく、二代三代もつづいて善人が生まれねばなりません。それを願い祈るにおいては、目立たない善い行いや神仏も人びとも認める善い事をするほかに何もありません。
後の子孫の奢りを防ぐために、老いた私の心に思うところを書き記しました。)
また、その跡を継いだ次男の二代源左衛門は「中氏制要」に次のように商人道を記しています。
「商家は財を通じ有無を達するの職分、その余沢を得て相続を立てる」。
「人生は勤め有り。勤め則ち匱(とぼ)しからずの勧めは利の本なり。能く勤めておのづから得るは、眞の利なり」。
「相場、買置きの売術はいわゆる貪売の所為、人の不自由を締めくくり、他の難儀を喜ぶものなれば、利を得ても真の利にあらず。何ぞ久しからんや」。
「人は人たる務めを大切に心がけべく申し候。恩を忘れず冥加を思ひ、世の交わり恭敬に、かりそめにも自立自慢の心なく、人の難儀を思ひやり、人の喜びを楽しみ、自己の自由を止め、その力に任せて窮迫を憐れみ救ふ志ならば、上は天の御心に叶へ、下は諸人の気受け能く、商道の利運もその中に有るべし」。
ここには、人としての務めが説かれており、天の御心に叶い、諸人の心に受け入れられるならば、商道の利運もその中にあるという経営理念を見ることができます。
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いかがでしたか。
GEのジャック・ウェルチの価値観を消化しきれないのは、なぜだろうと思いめぐらしているうちに、両親の5回忌に各地を訪ね、近江商人の価値観に再び出会う機会を得ることになりました。また、日野商人の主力商品が「薬売」だったことも、何か縁を感じるものがありました。
三方よしと云われている近江商人の経営理念は、神仏の慈悲と加護、信仰と善行、謙虚さと思いやり、人の喜びを楽しむ自己犠牲などを行動規範とする、信仰・善行・利運の三位一体のものであることが再発見でした。
製薬大手のタケダは、1781年、32歳の初代近江屋長兵衛が大阪・道修町で薬種仲買商を開業したことに始まります。四代目長兵衛のころ、明治時代となって近江屋を武田に改姓し、いち早く洋薬を取扱って今日の武田薬品工業に至ります。
この近江屋が日野商人であったかどうかは分かりませんが、、。
バラの香りが過ぎて紫陽花(アジサイ)の色合いが目立ちます。
先日は京都の知恩院と、近江の日野町に行く機会がありました。
京都、地下鉄東山駅2番出口から外に出ると、すぐに古川町商店街入り口があります。風情のある狭い商店街をしばらく歩いて、アーケード通り抜けると、そこは柳のある白川の縁です。
この白川の流れを左に見ながら川沿いに少し歩いて知恩院前バス停のある東大路に出ます。ここから左に進むと、知恩院の入り口となる新門が左手に見えてきます。
今年からちょうど800年前、1207(建永2)年2月、法然とその弟子たちが流罪や死罪となり、専修念仏の停止の令が出されました。法然は土佐へ流罪(流罪地が讃岐に変る)となり、弟子の親鸞は死罪を免れて越後に配流されました。法然75才、親鸞35才のときの出来事です。
哲学者の梅原猛は、「日本的霊性が火と燃え上がった時代は、やはり鎌倉時代からであり」、法然は、西欧キリスト教史の「ルターのごとく、この宗教改革運動のトップバッターであるとともにトップスターである」と述べています。(「法然の哀しみ」序章)
源信(平安時代中期の天台宗の僧、恵心僧都942-1017)によって日本人の3分の1は念仏に帰し、永観(禅林寺の中興の祖1033-1111ようかん)によって3分の2が念仏に帰し、この法然(1133-1212)によって日本人の全部が念仏に帰依したと、伝えられるほどの大きな影響でした。
当時、仏教の教えは、極楽を9段階に分けて、徳を積み学のある人は上の上の極楽に往生できるけれども、徳も積まず学もない人がただ口で念仏を称えるだけでは、せいぜい下の下の極楽にしか往生できないと、教えていました。これは自業自得で必然のことでした。
法然は、罪多い愚人たちを極楽往生させようとして、阿弥陀様は難行苦行して仏になられたのだから、阿弥陀の本願、仏の慈悲を信じて、一心に「南無阿弥陀仏」と口でお称えすれば、犯した罪はことごとく除かれて極楽浄土に往生することは疑いないと、仏の慈悲を説きます。
仏の慈悲は道俗貴賤を問わず、専修念仏によって凡夫往生、悪人往生、女人往生ができるとの教えが広がる様相は、比叡山延暦寺の衆徒には権威を否定するものとして、鎌倉時代の到来で戒律重視を強めていた南都興福寺の僧たちには、戒律を破壊するものとして映りました。
既存の仏教僧たちの不満の高まりは、専修念仏の停止、高声念仏の禁止の訴えとなり、そのような中での後鳥羽上皇による法然流罪の院宣でした。10ヶ月後には流罪勅免となりますが、配流先で布教を続ける法然は都に戻ることを許されず、讃岐から摂津箕面(みのお)の勝尾寺に移されました。それから4年後、法然の入洛が許され、親鸞も流罪が許されます。
法然は大谷の禅房に入って間もなく衰弱がひどくなり、1212(建暦2)年1月、法然80歳のとき、弟子の源智の求めに応じて「1枚起請文(いちまいきしょうもん)」を授け、その翌々日に入寂しました。
「一枚起請文」を受けた源智は、法然の恩に報いるべく阿弥陀立像を造立し、請願文と法然に縁のある4万6千の生存者及び死者の名を記した紙札をその阿弥陀立像の胎内に収め、法然1周忌の供養を行いました。
阿弥陀如来にはもちろんのこと、最も上の極楽に往生しているであろう法然上人に、現世や来世の結縁の人びとを再び訪れて、共に往生できるように請願する源智の「南無阿弥陀仏」が聞こえてきそうな信仰心です。
しかし、専修念仏禁止の令は、法然滅後7年目にも、12年目にも出され、15年目には延暦寺の衆徒によって法然の墳墓が荒らされ、弟子たちが流罪となる嘉禄(かろく)の法難が起きました。
法然の廟堂は源智によって再興され、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜されるのは、法然滅後22年目(1234)のことです。後に、知恩院は浄土宗を信仰する徳川家康の寄進によって寺領が拡大し、二代将軍が三門(山門)を、三代将軍が御影堂(本堂)を建立します。京では知恩院、江戸では増上寺が徳川家の菩提寺となります。
さて、東大路の知恩院新門から歩いていくと、大きな重層の三門が見えます。見上げるようにして三門を通って、大きな石段を登り詰めると視界が開けて、境内の左手には御影堂が見えます。
御影堂の右に見える、山手に向かう階段を登っていくと法然の墓所の入り口の前に出ます。ここに、徳川時代となる前までは本堂であった勢至堂(せいしどう)があります。静かなたたずまいのお堂のある場所が、法然が念仏を始めた地であり、臨終の地です。また、墓所入り口に近い石段を登った高いところに御廟が見えます。
この勢至堂の裏側には客室となる山亭があります。一般参観者は下の御影堂から、右後方にある方丈庭園に有料で入り、そして、庭園の中にある山道を登り詰めたところにある山亭入り口の門から中に入ることができます。
静かな山亭の庭園から遠くに京の町を眺めていると、800年の時間を超えて、同じように京を眺めていたであろう法然上人が身近に感じられます。悟りを得るための難行苦行も世のため人のため、真の極楽は世のため人のために生きるところと観念しつつ、帰路につきました。
次の訪問先は、近江商人の発祥の地の一つとなる日野町です。京都、地下鉄東山駅から山科へ、JR東海道線に乗り換えて山科からJR浅草線経由で貴生川(きぶかわ)へ、単線の近江鉄道に乗り換えて車窓から広々とした田畑を眺めていると日野の駅に到着します。所要時間約1時間半。
田舎の町に来たと思って日野の町を歩き始めると、しっかりした瓦屋根と板塀の町並、数多い立派な寺院、あちこちに見られる春祭りの曳き山の倉庫が目に入ります。その静かな町並は日野町人の本宅と、その文化の香りを今に伝えていました。
縁あって訪ねた浄光寺(日野町河原)は、蒲生家によって安置されたと伝えられる本尊は薬師如来ですが、その後さびれていたところを江戸初期に黄檗宗の禅寺として再興され、同じ頃に再建された勅定寺の由緒をもつ禅寺の正明寺(日野町松尾)とは、今も深いつながりをもっています。
江戸中期の日野商人は、京へは1日で、江戸へは10日の行程で遠方への行商の旅を重ねました。日野産物の漆塗りのお椀に続く、売薬の行商で財を蓄え始め、遠方に拠点を広げて味噌醤油清酒を扱いうようになった歴史を、近江日野商人館に展示されていた数々の資料で知りました。
治安が安定し、都市から農村・漁村まで商品・貨幣経済が浸透したのは三代将軍家光から五代将軍綱吉までの時代です。自立した商業経営者の経営理念が語られるようになるのも、この頃からです。(「日本経営理念史」土屋喬雄著)
井原西鶴の浮世草子「日本永代蔵」(1688)では、青壮年時代はわき目もふらず知恵才覚をはらかせ、算用をこまかにし、勤勉力行して家職に励み、商売繁盛を図り、始末をして老年までに金をため、身代をつくりあげ、老後は隠居して上品に遊楽し、施与し、社寺詣りをするのが、商人一代の理想像として語られています。
日野商人の代表者の一人、初代中井源左衛門は、1715(亨保19)年、19歳のときに自己資金2両で行商を始め、88歳のときには11万5千両余りの資本を蓄積し、1805(文化2)年、90歳のときに子孫へ「金持商人一枚起請文」を書き残し、陰徳善事をなす善人になることを訓戒しています。
「もろもろの人々沙汰し申らるるは、金溜る人を運のある、我は運のなき抔(など)と申すハ、愚にして大なる誤りなり。運と申す事は候はず。金持ちに成らむと思はば、酒宴遊興奢を禁じ、長寿を心掛け、始末第一に、商売を励むより外に仔細は候はず。
此外に貪欲を思はゞ先祖の憐みにはづれ、天理にもれ候べし。始末と吝(しわ)きの違いあり。無智の輩ハ同事とも思ふべきか。吝(りん)光りは消えうせぬ。始末の光明満ぬれば、十万億土を照すべし。かく心得て行ひなせる身には、五万十万の金の出来るハ疑ひなし。
但運と申事の候て、国の長者と呼るゝ事は、一代にては成がたし。二代三代もつづいて善人の生れ出る也。それを祈り候には、陰徳善事をなさんより全(まったく)別儀候はず。
後の子孫の奢を防んため、愚老の所存を書き記し畢(おわんぬ)」。
<現代文>(多くの人たちが思っているように、金を溜める人は運があり、私には運がないなどというのは、愚かであり大きな誤りです。運ということではありません。金持ちに成ろうと思えば、贅沢をやめて長生きを心がけ、節約を第一にして商売に励むことだけです。
これ以上のどん欲を思うと先祖の助けもなく、天の道理にも外れます。ケチには未来がなく、節約にはこれを続けると広大な未来が開けます。このように思って行うことができる人には、5万10万くらいの金持ちになることは疑いありません。
ただ運ということについて、国の大金持ちと呼ばれることは、一代で成ることは難しく、二代三代もつづいて善人が生まれねばなりません。それを願い祈るにおいては、目立たない善い行いや神仏も人びとも認める善い事をするほかに何もありません。
後の子孫の奢りを防ぐために、老いた私の心に思うところを書き記しました。)
また、その跡を継いだ次男の二代源左衛門は「中氏制要」に次のように商人道を記しています。
「商家は財を通じ有無を達するの職分、その余沢を得て相続を立てる」。
「人生は勤め有り。勤め則ち匱(とぼ)しからずの勧めは利の本なり。能く勤めておのづから得るは、眞の利なり」。
「相場、買置きの売術はいわゆる貪売の所為、人の不自由を締めくくり、他の難儀を喜ぶものなれば、利を得ても真の利にあらず。何ぞ久しからんや」。
「人は人たる務めを大切に心がけべく申し候。恩を忘れず冥加を思ひ、世の交わり恭敬に、かりそめにも自立自慢の心なく、人の難儀を思ひやり、人の喜びを楽しみ、自己の自由を止め、その力に任せて窮迫を憐れみ救ふ志ならば、上は天の御心に叶へ、下は諸人の気受け能く、商道の利運もその中に有るべし」。
ここには、人としての務めが説かれており、天の御心に叶い、諸人の心に受け入れられるならば、商道の利運もその中にあるという経営理念を見ることができます。
----------------------------------------------------------------
いかがでしたか。
GEのジャック・ウェルチの価値観を消化しきれないのは、なぜだろうと思いめぐらしているうちに、両親の5回忌に各地を訪ね、近江商人の価値観に再び出会う機会を得ることになりました。また、日野商人の主力商品が「薬売」だったことも、何か縁を感じるものがありました。
三方よしと云われている近江商人の経営理念は、神仏の慈悲と加護、信仰と善行、謙虚さと思いやり、人の喜びを楽しむ自己犠牲などを行動規範とする、信仰・善行・利運の三位一体のものであることが再発見でした。
製薬大手のタケダは、1781年、32歳の初代近江屋長兵衛が大阪・道修町で薬種仲買商を開業したことに始まります。四代目長兵衛のころ、明治時代となって近江屋を武田に改姓し、いち早く洋薬を取扱って今日の武田薬品工業に至ります。
この近江屋が日野商人であったかどうかは分かりませんが、、。
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