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金沢篤「忽滑谷快天ノート(3)—漱石と快天—」(改題改組修訂版)

2020-05-19 | 談話・その他
      忽滑谷快天ノート(3)*―漱石と快天―

            金沢 篤


 山内舜雄先生の『続道元禅の近代化過程』(慶友社 2009)によれば、同じ慶応三年生まれの忽滑谷快天(1867〜1934)と夏目漱石(1867〜1916)が、前後して同じ第一高等普通中学校(後の旧制一高)に学びながらも、漱石は東大に進学したのに対して、快天の方は慶應義塾大へと進学したという。そのせいもあってか、<両者の交流>を証立てる直接的な記録を何一つ残していないという。残念なことだが、仕方ない。そんな折、漱石への敬慕を率直に表明する辰野隆(1888〜1964)の『忘れ得ぬ人々』(角川文庫1939//1950)所収の「漱石の印象」と題されたエッセイの中に、以下のような一節を見出したので、紹介したい。

 神田の靑年會館で、先生が『創作家の態度』といふ題で講演したのは、僕が帝大法科の一年か二年の時分だつたらう。僕は一番前列の席に陣取つて、我が漱石の講演を一語も聽き漏らすまいと耳を傾けた。朝日新聞主催の講演會だつたので、最初に池邊三山居士が開會の辭を述べた。堂々たる偉丈夫で、國士の面影があつた。それから内藤鳴雪翁が東洋趣味に就いて飄逸な氣炎を吐いたが、翁は話の途中で、ふところから藥壜を取りだすと、『例に依つて少々持藥を用ひやす』と云つて、一口二口藥を飮んだ。後できいたら、翁の藥といふのは酒だつた。翁の次ぎには何とか快天といふ半俗半僧のやうな男が道話じみた話をしたが、僕は早く次の講演が聞きたかつたので、快天の道話がすむのを待ちかねた。最後に夏目先生が演壇に現れた。
 ——先頃、或る雜誌を讀んだら、夏目漱石といふ男は風上に置けぬ奴だ、と書いてありました。風上に置けない! 全で人を糞尿船か何かと思つてるんです。
 斯う言つて先づ聽衆を笑はせてから、『今日の話は少々むづかしいぞ!』と斷つて、徐ろに『創作家の態度』に就いて語りだした。【13頁】
 僕の今まで聽聞した講演では、漱石先生のこの講演の右に出るものは一つもない。(47-48頁)

 講演上手の漱石の一面を如実に伝えるまことに興味深い証言だが、前座を務めることになった快天の方はすっかり形なしである。辰野のウィキペディアには、「建築家の父・辰野金吾と母・英子の長男として東京市に生まれる。赤坂中之町小学校卒業後、府立一中、第一高等学校を経て1908年に東京帝国大学法科大学仏法科に入学し、1913年に卒業。文学研究を志し、帝大仏文科に再入学し、1916年卒業後は大学院へ進み、講師になった。」とあるから、明治四十一年(1908)か明治四十二年(1909)の出来事になる。
 漱石の講演の演題が「創作家の態度」とわかっているのだから、ことは簡単。『漱石全集 第十一巻 評論・雜編』(岩波書店1966)巻末の解説(小宮豊隆)には、「『創作家の態度』は、漱石が、明治四十一年二月十五日神田の青年会館に於いて、東京朝日主催の講演会で講演したものの筆記を、更に書き直したものである。これは同じ年の四月の『ホトトギス』に掲載された。」(638頁)とある。だが、全集所収のものには、辰野が伝える漱石の面白い前振りの部分は削除されていてない。漱石も快天の講演を聴いていたのだとすれば、顔馴染みの?快天や、快天のその日の講演についても巧みに言及した可能性はある。だが今は、漱石より快天。辰野の回想から知れる、明治四十一年(1908)二月十五日(涅槃会の当日!)に、東京朝日主催の講演会で、漱石の講演に先立って、「半俗半僧のやうな男」忽滑谷快天が、「道話じみた話」をしたという事実に注目したい。

 ところで、その辰野の「漱石の印象」というエッセイの末尾に「昭和十年秋」と記されているから、その講演会があってから三十年近くも経ってからの回想である**。ある意味では驚くべき記憶力であるが、果たしてどこまで信じていいものか。「東京朝日主催の講演会」とのことだから、実は朝日新聞を直に調べるべきである。また、漱石研究も既にごまんと蓄積されているのだから、むしろそちらから当日の講演会の様子を窺ってみるべきである。昭和四十五年(1970)【14頁】に大学に入学したわたしにとっては、その年に第二部までの二冊が出た江藤淳の『漱石とその時代』を忘れることは出来ない。その後実に長い時間をかけて第五部までを完結させた江藤淳のその著作は、今や漱石フアン必携の書であろう。明治四十一年のことなら、第四部(新潮選書1996)。「8 虚子と藤村の間」という見出しの下に、その講演会のことは記されている。名著の誉れの高い辰野の「忘れ得ぬ」回想録も、やはり必ずしも当てにならない。漱石の講演を待ちかねて、辰野に虚仮にされたかの快天の講演であるが、真実のところ、辰野は漱石の講演を聴くために、忽滑谷快天の「道話」を我慢して聴く必要などなかった。快天の出番は、池邊三山、内藤鳴雪、漱石と続いた後の四番目である。しかも漱石の「創作家の態度」も、その講演会のトリでもなかった。江藤淳は朝日新聞の記事に基づいて、当夜の講演会を「第一回朝日講演会」とし、当初の正午から午後五時までの予定時間のうちの、実際に講演に要した時間配分などにまで思いをいたし、三番目の漱石が、大学の授業の一コマ分に当たる一時間四十分を使ったという事実を指摘している。時間枠で縛られた漱石に続く他の講師たちが相当に割を喰った勘定になる。すなわち、五番目の三宅雪嶺が「演ずること三十分余」、六番目の杉村楚人冠が「時間切迫の故を以て極めて簡略」、七番目の村松柳江は割愛を余儀なくされて次回廻しとなった。午後五時半に閉会したそうだが、そこから計算するに、漱石のすぐ後の四番目を務めた忽滑谷快天は「三、四十分からたかだか一時間以内にしかならない」とのことである。池邊(主筆)、漱石、杉村、村松は、当時朝日の「社員」だから、まだよしとしても、内藤、快天、三宅は、「社外」の講演者である。漱石しか眼中になかったのか、辰野の回想では、講演会の全容も、快天の講演順もはてなである。江藤淳の記述からも、漱石と快天の関係などは浮かび上がらないし、快天は、他のどの講師ほどにも注目されていないように見える。江藤淳の紹介からは、ただ、引用された朝日新聞紙上の講演会の広告案内に記載された「宗教談」と、その「社外」快天の漫画風スケッチが、新聞紙上に掲載されているとの情報しか得られない。

 以下には、結局朝日新聞(『聞蔵Ⅱ』利用)から、当日の快天について知れるところを補っておこう。なお、漱石の当日の演題は「作家の態度」であって「創作家の態度」ではない。江藤淳も『ホトトギス』に掲載する際にタイトルを【15頁】変更したと指摘している。辰野の回想は、個人的な手控えや、『ホトトギス』誌上の講演録による学習が反映したものだろう。「第一回朝日講演會」に関しては、朝日新聞紙上、二月十一日、二月十五日の朝刊で案内広告が掲載された他、翌日の二月十六日の第三面に、「朝日講演會主旨」(池邊?)の全文と神田青年會館前の写真が掲載され、第四面には、快天、内藤、漱石、池邊の漫画スケッチと、十二時半から午後五時半までの講演、各講演者の演題と要旨などが、報告されている。内藤の演題は「俳句趣味」、快天のは「活きたる宗教」、三宅は「不得要領」、杉村は「新聞の製造に就て」、村松は「新聞紙の歴史」(次回廻し)である。さらに二月十七日の同紙第八面には、「朝日講演會雜觀」と題した興味深い記事が掲載されている。「弁士の講演振」として、「忽滑谷快天は椅子に腰をかけられたまゝ」とだけ記されているが、辰野が伝えた漱石の面白い前振りについては、やはり以下のように触れられている。

▲糞桶だと思つてる 漱石氏の講演中「何處かの新聞に僕の事を風上に置けぬ奴だと書いてあつたが、僕を糞桶だと思つて居るンだらうが、我輩は此通り立派な男でハイカラに出來て居る」と、ワーッと場中ざわめく。

 結局漱石と快天の交流など何処吹く風だが、以上、わたしが辰野の回想記に始まるこのエピソードを敢えて報告したのは、山内舜雄先生が、前掲書の中で、快天の貴重な基本資料となる「略年譜」の作成にあたって、「この部分を、快天自身が自ら抹殺したところを、筆者は執拗に復活をこころみた。//できれば漱石や子規と同級であった東京高等普通中学、後の旧制一高時代の快天を語らずして、果して快天の人生を云々することができるのであろうか。疑いなきをえない。それは人間の根底を形作る一番大切な時期ではないのか。が、これに触れた資料は、あれほど多くの人が、快天の追悼文を書いていながら、それどころか四三歳までの慶應義塾大学時代に触れたものは、大森禅戒が、大学林で五歳年上なので、快天の姿はすでになく、ただ快天の慶應義塾大学で勉強していることに、ちょっと触れた以外、誰も触れてはおらぬ。これでは話にならない。」(232-233頁)と記しているのを忘れていないからだ。とはいえ、わたしの得た今回のささやかな知見が今後どのように展開するかは、わたし自身にも皆目見当もつかないのである。(了)【16頁】

(*)本攷は『禅叢』第15号(駒澤大学禅友会 2018年3月4日)13-16頁に掲載された拙稿「漱石と快天」の改題改組修訂版である。本文中【 】内に埋め込まれた頁数は、初出誌の頁番号である。わたしが『駒澤大学禅研究所年報』第24号(2012)、第25号(2013)、第31号(2019)に書いた「忽滑谷快天ノート」(1)、(2)、(4)の欠番を埋める(3)に該当するものと考えたので、敢えて改題して再録することにした。諒とされたい。なお、本攷執筆の機会を恵まれた駒澤大学禅友会の各位に心より感謝したい。

(**)新型コロナ禍の第6波が猖獗を極める昨今。令和3年度のあらゆる大学業務もおそらく収束に向かっているのだろう。わたし個人としても遣り残したことに何とか目鼻がついてきた1月も末の静かな週末。今朝は、昨日郵便で届いた三回目のワクチン接種券にしたがって、一回目&二回目の接種を行ったと同じ地元の医院に、2月初旬の予約を入れて無事受理された。
 気楽なように見えるが、ブログに新たに記事を投稿するのはけっこうエネルギーがいる。だが、以前の記事に註記ならと、一つ書く気になった。
 令和3年度は、夏目漱石の十大弟子の一人? 作家にして名随筆家である内田百閒に関係した本を読む機会が多くあった。そうした本の一つに『百鬼園座談』(論創社 1980年6月)がある。百鬼園先生が、戦後におこなった14本の座談(すべて3人の名前が出ているから「鼎談」と言うべきなのだろうか)が収録されたものだ。目次に、「琴・漱石・ノーベル賞 昭和二十二年/辰野隆 河盛好蔵 内田百閒」とある座談に注目したい。平山三郎氏の「編者あとがき」には、「二十二年十二月 小説新潮(新潮社)」(307頁)とあるから、『小説新潮』誌12月号に掲載されたものと想像されるが、直接雑誌に当たる余裕はなかった。平山氏によれば、雑誌掲載時には、鼎談ではなく「対談」「司会・河盛好蔵」(308頁)とあったようだ。本ブログ記事に引用した辰野隆の「漱石の印象」(昭和10年)の部分と類似の発言(戦後の昭和22年のもの)があったので、参考までに、以下に紹介しておきたい。(20220129)

河盛 ぼくはこの間、漱石先生の「創作家の態度」という講演を読んで感心したのですが。
辰野 りっぱなものです。ぼくはおよそ今まで、講演でこれはりっぱだ、非常にうまいものだと思ったのは漱石先生の「創作家の態度」。それからパリーのル・コロンビエー座でジャック・コポーがやった「シェークスピアについて」という講演だな。この二つの講演は実にりっぱなものだと思って感心したな。ただ「創作家の態度」にまくらがあるのだ。それが講演筆記には載っていない。あれは朝日新聞の講演だ。神田の青年会館でやった。あの講演は初め池辺三山が開会の辞を述べたものだ。それから内藤鳴雪がいちばん最初に立っていわゆる東洋趣味崇拝というような講演をやったよ。そうして私は例によって持薬を用いますと言って、一オンス入りの薬瓶を取り出した。酒なんだ。酒を飲んでやったね。それが済むと滑谷快天という半俗半僧の人が怪しげな仏説を説いたね。その次が漱石先生だ。
 きょうの講演はむずかしいぞとか・・・・・・初めに言って何か細かい字で書いたノートを手に持ちながら「この頃雑誌を読んだら、夏目漱石という男は風上におけない男だと書いてあったが、肥桶船じゃあるまいし・・・・・・」そういうまくらがあったのだ。それが「創作家の態度」には省いてあるね。二時間くらいかかったな。諄々として説き去り説き来って・・・・・・ぼくはいちばん前の列に陣取って一語も聴き漏らすまいと、最後まで聴いておったよ。
河盛 相当内容の高い文芸講演ですね。
辰野 当時アレが聴いておったんだ。岩波君たちの親友で木山熊次郎という文学士だ。なかなかまじめな人だったがね。それが帰りには当時学生だったぼくに言うたものだ。「おい、わかったかい」何を言やがる。こっちはてめえの方こそわかったかと言いたかった。
河盛 内田先生お聴きになりましたか。
百閒 いいえ。」(48-49頁)



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