メディア リテラシー“Media Literacy” メディアを読み解くメッセージ

テレビ、新聞、雑誌 メディア・ウォッチドック “Media Watchdog”
~“真実”と“正義”はどこに~

飛鳥寺 蘇我馬子 法興寺 百済 三宝興隆の詔 慧慈 慧総

2017-07-27 05:27:06 | 評論
古代史探訪 飛鳥寺建立の真実
 588年(崇峻元年)、飛鳥寺の建立が始まる。国内では初の本格的な寺院である。物部守屋を討伐した翌年である。
 真神原にあった飛鳥衣縫樹葉の家が解体され、寺院建立の整地作業が始まる。
真神とはオオカミの意、神の使いとして畏怖されるオオカミが群生する神聖な地が伽藍造営の地に選ばれた。

 同じ年、百済は僧恵総、令斤等を遣わし、仏舎利を献上した。朝貢物を進上するとともに、僧6人、寺工(てらたくみ)(寺院建設技術者)2人、鑪盤博士(ろばんはかせ 塔の鑪盤や相輪造営する工人)1人、瓦博士3人、画工(えかき)(仏画、仏具の制作者)1人を派遣した。
 百済は、すでに577年(敏達7年)、経論、律師、禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工の6人を進上している。
 飛鳥寺造営工事の技術者は整った。

 蘇我馬子は、善信尼を、帰国する百済の使者、恩率首信らに託し、仏法の修行に渡来させた。善信尼は、まだ当時15歳だった。
隋や唐への遣隋僧・遣唐僧に先立つもので、海外で仏法を修行した最初の僧である。百済で十戒、六法、具足戒を受けた。 591年、2年間の留学を終えて帰国し、蘇我馬子が提供した大和国桜井寺(現在の明日香村・豊浦?)に住み、大伴狭手彦(おおとものさでひこ)の娘・善徳(ぜんとく)をはじめ多くの女性を得度、出家させ、仏法興隆に貢献したといわれる。

 590年(崇峻3年)、飛鳥寺の造営工事が始まった。この年、「杣取り(そまどり)」(杣山 木材を切り出す山 杣取り 杣木を伐採すること。また、造材すること)が始まり、ヒノキの大木が切り出された。

 592年(崇峻5年)、「杣取り」から2年後、仏堂(金堂)と歩廊を起工した。
 この年、崇峻天皇が暗殺される。

 593年(推古元年)、「刹柱」を建て、「仏舎利」を心礎に納める儀式が執り行われた。儀式の際、蘇我馬子は、頭髪は僧形にして、「百済服」を着ていた。(元興寺縁起)

 この時代寺院建築の手順は、仏舎利を柱頭に納めた刹柱塔を建て、寺院造営を天に告げる。そして仏舎利を心礎に納めた層塔を造り、地に向かい寺院建立を告げ、金堂や回廊を備えた伽藍を造営する。
刹柱塔の用材は、層塔の心柱に利用される。
この年、推古天皇が即位、厩戸皇子が「太子」となり「摂政」を任じられる。

 594年(推古2年)、「三宝興隆の詔」を出す。諸群臣は、競って仏舎(寺)を造営した。「三宝」とは、「仏・法(経典)・僧」のことである。

 595年(推古4年)、高句麗から、慧慈が渡来し、厩戸皇子の「師」とする。
同じ年、慧総が、百済から渡来する。

 596年(推古4年)、「層塔」が完成し、「中金堂、西金堂、東金堂、塔、講堂、中門、回廊」からなる伽藍が完成する。
飛鳥寺「造り意(おわる)」(日本書紀)と記されている。
蘇我馬子の子、善徳が「寺司」に任じられ、慧慈、慧聡の二人の僧は、飛鳥寺の「住持」に就いた。慧慈は、厩戸皇子の師になるために渡来したのではなく、飛鳥寺の「住持」就くことがが目的だったのであろう。

 598年、厩戸皇子、斑鳩の地に刹柱が建て、斑鳩寺の建立開始。

 605年(推古14年)、丈六釈迦如来像の造立を発願する。
高句麗の大興王は、仏像の鍍金用の黄金300両を倭国に贈った。(日本書記)高句麗僧、慧慈が本国に情報を伝えたのだろう。高句麗の倭国接近戦略である。

 606年(推古14年)、鞍作止利が銅像と繍像の丈六仏が完成、「金堂」に安置する。「金堂」は、遅くともこの頃までに完成したと考えられる。

 610年(推古18年)、高句麗の僧、曇徴・法定が来朝。

 飛鳥寺の伽藍の配置様式は、塔の周りに三金堂(中金堂、西金堂、東金堂)を配置する一塔三金堂方式で、回廊で囲まれている。この様式は、高句麗の清岩里廃寺(平壌市)に類例があるとされてきた。
これにたいして一塔一金堂方式の伽藍配置の四天王寺式は百済から伝わった様式だ。
二つの寺から出土した瓦は、百済風の瓦で、百済から渡来した「瓦博士」に対応する。

 2007年11月、百済の扶余に位置する王興寺という百済時代の寺院跡で、重要な発見が相次いだ。
 百済時代、扶余は泗沘と呼ばれ、都が置かれていた。
 百済の王によって建立された王興寺の伽藍は、発掘調査により、中央に五重塔、背後に金堂、塔の東西に付属の建物が配置されていたことが明らかになった。飛鳥寺との関係が指摘されている。
 また舎利容器や数々の工芸品が発見され、飛鳥寺の五重塔の下からの同様の遺物が発見されており、飛鳥寺と百済の仏教文化の関連性を示す貴重な手がかりとなった。
 飛鳥寺の伽藍配置も、百済から伝わったと考える方が、仏教伝来の経緯を見ると納得できる。しかし、その伽藍配置は、高句麗から百済に伝わった可能性が大きい。

 1956年の飛鳥寺遺構の発掘調査で、塔の地下式心礎から、木箱に収められた舎利容器が発見された。舎利とともに埋葬された硬玉、瑪瑙、水晶、金、銀、ガラスの玉、金環(耳飾り)などの舎利荘厳具が発掘されている。
こうした埋葬物は古墳の埋葬物と似ている。馬具や武具なども収められていたとされている。倭の独自性がある。
現在の飛鳥寺は、旧中金堂の位置に建てられている。飛鳥大仏が安置されているが、建立当時から残っているのは頭部と目や額の一部のみだ。

 厩戸皇子の建立した斑鳩寺(若草伽藍)の着工は、厩戸皇子が斑鳩宮に移住した605年とされている。(670年 焼失)
伽藍配置方式は、塔と金堂が一直線に並ぶ四天王式配置である。
再建された法隆寺は、法隆寺方式と呼ばれる伽藍配置方式だ。

飛鳥寺、斑鳩寺、四天王寺の造営順序は?
 最近の発掘調査の結果、飛鳥寺、斑鳩寺、四天王寺で使用された軒丸瓦(のきまるがわら)は、いずれも同じ「瓦笵」(がはん 瓦用の木型)で作られたいたことが明らかになっている。瓦の製作を指導したのは、588年に百済から渡来した「瓦博士」だろう
四天王寺の瓦は、飛鳥寺や斑鳩寺の瓦より一時期新しく、四天王寺の金堂は、斑鳩寺の金堂造営が一段落してから、造営されたと見られている。
三寺の造営順は、飛鳥寺、斑鳩寺、四天王とされ、四天王寺は斑鳩寺の造営が一段落してから行われたと考えられる。
 飛鳥寺、斑鳩寺、四天王の造営で、「飛鳥文化」の花が、一気に開いたのである。

「先進国家」のシンボル飛鳥寺
 600年、第一回遣唐使が派遣され、隋皇帝、文帝から「これ大いに義理なし」と叱責され、倭国は、政治制度の改革や都の整備、仏教興隆に全力を挙げて取り組む。
 飛鳥寺は、606年ごろ、金堂も完成し、伽藍全体が完成したと考えられる。鞍作鳥が制作した丈六の釈迦繍仏像も完成し安置された。
 そして、その翌年、607年、遣隋使、小野妹子が派遣される。
 唐に対して、倭国が、「先進国家」であり、朝鮮半島三国の上位にあることを認めさせるために、仏教文化の充実度を示して国力を誇示することは必須であった。
 そのシンボルとして飛鳥寺を建立したのである。
 隋は、当時、仏教全盛時代であった。

 608年、唐史、裴世清は小墾田宮を訪れたとされている。 完成して間もない飛鳥寺を来訪した可能性が大きい。壮大な伽藍で、国力を誇示する飛鳥寺のインパクトは大きかったのではないか。

外交政策を担っていた蘇我氏
 570年(欽明31年)、高句麗の朝貢使が渡来したが、越(こし、現・福井県敦賀~山形県庄内)の海岸に漂着した。ヤマト王権は、高句麗の朝貢使が滞在する賓館、「相楽館」(さがらか、相良郡、現・京都府南端)に、群臣を派遣し、貢物を調査した上で、「国書(上奏文)」と「調物」を受けた。
572年(敏達元年)、敏達天皇は、「大臣」、蘇我馬子に、高句麗の「国書」を解読するよう命じ、蘇我馬子は配下の百済渡来人、王辰爾に解読させた。
 「国書(上奏文)」はカラスの羽に書かれており、そのままでは読めないようにされていたので、誰も読むことができなかった。王辰爾は、湯気で湿らせて布に写し取るという方法で解読し、敏達天皇と蘇我馬子から褒めたたえられた。
(日本書紀)
 王辰爾は、553年(欽明14年)、蘇我稲目(そがの-いなめ)の命で、船賦(ふねのみつぎ)をかぞえ記録したことにより,船の長(つかさ)に任じられ、船史(ふねのふびと)の姓を賜っていた。
 この記述からヤマト王権の外交関係は蘇我馬子が担っていたと思われる。
 蘇我馬子は、「嶋大臣」と呼ばれた。
 飛鳥川の畔の明日香村島庄に邸宅、「飛鳥河傍」に居を構えた。 邸宅の庭に小嶋の浮かぶ池があったので「嶋大臣」と呼ばれた。「勾の池」、「上の池」など複数の池があったとされている。
 島庄にある島庄遺跡の発掘調査の結果、池は発見されたが、嶋は存在していない。謎である。

■ 難波吉士木蓮子
 飛鳥(あすか)時代の官吏。
 敏達天皇4年(575)、任那に使者として派遣され、敏達13年(584年)新羅へ使したが、至りえずして任那に赴いた。崇峻天皇4年(591)、任那を再興しようとして、紀男麻呂ら4人の大将軍が、2万余の兵を率いて筑紫に出陣したとき、任那に遣わされ任那のことを問うた。推古天皇8年(600)、新羅王が任那を攻めたとき、天皇は大将軍境部臣らを遣わし新羅を撃たしめた。新羅はわれに降伏し、六城を割いたが、天皇はさらに難波吉士神を新羅に、難波吉士木蓮子を任那に遣わして、事の状を検校せしめ、両国はわが国に貢調したとある新羅と任那があらそった際にも任那に派遣され、事情をしらべたという。

推古天皇の時代の寺院数

 624年(推古32年)、日本書紀によれば、「寺46か所、僧816人、尼569人、あわせて1385人」としている。
そのすべてを厩戸皇子建立と「聖徳太子伝私記」は記している。
厩戸皇子の時代の7世紀前半の創建された寺の遺構は、これまでに約31か所発見されているとしている。(仏教考古学の森郁夫氏)瓦葺でない簡素な「草堂」もあったと思われるので46は妥当だろう。
 その大半が畿内である。
 諸豪族は、競って寺院を造立した。

仏教が「国家宗教」に 「仏教興隆の詔」 孝徳朝
 645年(大化元年)、「乙巳の変」後、孝徳天皇は、飛鳥寺に使者を派遣して、僧尼を集め、欽明朝以来の仏教受容における蘇我氏の貢献を讃え、仏教への崇拝と普及を述べた。「仏教興隆の詔」(日本書紀 大化元年八月条)である。
 
「詔」では、「朕は更にまた仏教を崇め、大いなる道を照らし啓こうと思う」
と述べ、仏教受容の経緯を述べた。

▼ 百済聖明王の「仏教伝来」の際は、群臣は同意しなかったが、蘇我稲目のみこれを信じ、天皇は稲目にその法を奉らせた。
▼ 敏達朝でも蘇我馬子は仏教を崇めた。余臣は信じず、仏教は滅びようとしたが、天皇は馬子に法を奉らせた。
▼ 推古朝では、馬子は天皇のために、丈六の繍仏と銅仏を作った。

そして、「詔」では「仏教興隆」の仕組みを整えている。
▼ 沙門狛大法師、福亮、恵雲、常安、霊雲、恵至、寺主僧旻、道登、恵隣、恵妙をもって十師とする。別に恵妙法師を百済寺の寺主とする。
この十師は、僧侶たちを教え導いて仏教の修行を必ず法に如く行わせよ。
▼  造営中の寺で中断しているものは、朕が皆助け造らせよう。
▼ 寺司と寺主を任命する。諸寺を巡行して「僧尼、、田畑」の調査をして報告せよ。
▼  久目臣、三輪色夫君、額田部連甥を「法頭」に任じる。

 この「詔」で、「乙巳の変」以前は蘇我氏が担っていた「仏法」の統括は、大王が担い、大王が直接、寺院や僧尼を管理すると宣言したのである。
注目されるのは蘇我氏の仏教興隆に果たした業績を高く評価し、仏教興隆の歴史を飛鳥寺本尊の完成をもって締めくくっていることだ。
これまでは、僧正、僧都、律師の三人を任じる僧綱制をとっていたが、「十師」制に改め、寺院造営の援助を約束した。
飛鳥寺を始め、大勢の僧侶が集まっている場所で、蘇我氏への批判は一切言わなかった。蘇我氏の役割を大王が引き継ぐと宣言したのである。
蘇我氏を逆賊として誅殺したという日本書紀の歴史認識はとはまったくそぐわない。
孝徳天皇の「仏教興隆の詔」で、倭国は「仏教国家」の道を歩むことを内外に宣言したのである。 

蘇我氏の功績 仏教が日本の礎を造る

 当時、東アジア全体では大乗仏教の全盛期だった、中国や朝鮮半島の国々は、結局、仏教国家にはならなかった。日本だけが仏教国家として生き続けた。その礎を築いたのは蘇我氏他ならない。(梅原猛 「日本史のなかの蘇我氏」 消えた古代豪族 「蘇我氏の謎」 歴史読本編集部 角川書店)

 蘇我氏は物部氏など他の氏族から度重なる激しい反対に合いながらも、粘り強く崇仏の道を追求したのは、単に政治的な背景だけでなく、蘇我氏なりの仏教に対する強い信仰心があったのではないだろうか。
 「仏教国家」の道筋を付けた蘇我氏は、古代日本の国家の方向を決めた歴史上、最も大きな功績を上げた「功労者」である。
 「蘇我氏」は「悪者」というイメージは捨て去るべきである。


(参考文献)
「蘇我氏の古代」 吉村武彦  岩波新書 2015年
「蘇我氏四代 臣、罪を知らず」 遠山美都男 ミネルヴァ書房 2018年
「謎の豪族 蘇我氏」 水谷千秋 文春新書 2006年
「ヤマト王権 シリーズ日本古代史②」 吉村武彦 岩波新書 2010年
「蘇我氏 ~古代豪族の興亡~」 倉本一宏  中公新書 2015年
「蘇我氏四代 臣、罪を知らず」 遠山美都男 ミネルヴァ書房 2006年
「消えた古代豪族 『蘇我氏』の謎」 歴史読本編集部 KADOKAWA 2016年
「天皇と日本の起源」 遠山美都男 講談社現代新書 2003年
「飛鳥 古代を考える」 井上光定 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「飛鳥史の諸段階」 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「飛鳥 その古代史と風土」 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「大化改新 ―六四五年六月の宮廷革命」 遠山美都男 中公新書 1993
「日本史年表」 歴史学研究会編 岩波書店 1993年







2017年7月25日
Copyright (C) 2017 IMSSR



******************************************************
廣谷  徹
Toru Hiroya
国際メディアサービスシステム研究所
代表
International Media Service System Research Institute
(IMSSR)
President
E-mail thiroya@r03.itscom.net  /  imssr@a09.itscom.net
URL http://blog.goo.ne.jp/imssr_media_2015
******************************************************


遣隋使 厩戸皇子・蘇我馬子・小野妹子・裴世清は? 

2017-07-24 06:55:27 | 評論
古代史探訪 遣隋使の真実
古代日本の「国家」を生み出した遣隋使
~遣隋使の真実 厩戸皇子・蘇我馬子・小野妹子・裴世清は?~


 遣隋使、日本が古代国家の枠組みを築き上げるにあたって。極めて重要なインパクトを与えた「外交戦略」である。
 600年の第一回遣隋使派遣では、隋の高祖文帝は倭国を、「此れ大いに義理なし」と叱責した。倭国王権は大きな衝撃を受け、驚異的なスピードで国政改革に乗り出し、「冠位十二階」、「十七条憲法」、「朝令改定の詔」を制定し、新しい王宮、「小墾田宮」を造営し、「仏教興隆」に取り組んだ。
607年、第二回遣隋使に任じられた小野妹子が渡航した。再び、隋皇帝煬帝に、小野妹子が「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」と上奏したのに対し、隋皇帝煬帝は立腹し、「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じた。
 しかし、小野妹子が帰朝する際に、返使、裴世清を同行させ、初めて中国の使者が倭国に渡来した。倭国は大国、隋の「国交樹立」に成功したのである。
 裴世清の帰国に際して、小野妹子は再び、遣隋使として渡航した。
 この時、遣隋使に伴われて、僧旻、高向玄理、南淵請安など8人の留学生・学問僧が同行した。
僧旻、高向玄理、南淵請安は帰国後、「乙巳の変」の理論的指導者となったり、孝徳朝の改新政府で、政策立案に携わったりした。
改新政府の政策は律令制国家の樹立の基礎になった。
 遣隋使派遣は、明治維新政府の「開国政策」と並ぶ、日本の歴史を考える上で、エポックメーキングな事項であることに間違いない。

第一回遣隋使派遣
 600年(推古8年) 第一回遣隋使が派遣された。
 遣隋使は、推古朝の時代、倭国(俀國)が国家の仕組みや技術、仏教を学ぶために隋に派遣した朝貢使である。
 600年(推古8年)から618年(推古26年)の18年間に5回以上派遣された。
 遣隋使は、大阪の住吉大社近くの住吉津から出発し、住吉の細江(細江川)から大阪湾に出て、難波津を経て瀬戸内海を筑紫那大津へ向かい、玄界灘に出て、百済沿いに隋の都、大興城(長安)に向った。

 日本書紀には、第一回遣隋使派遣の記述がない。
 しかし、『隋書』「東夷傳俀國傳」には、倭国の遣使が隋の高祖文帝に接見した時、隋史が上奏した内容や隋の高祖文帝の問いが詳細に記されている。

 「開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司 訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」

 開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号(な)づく。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。 使者言う、俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聴。跏趺(かふ、仏教における最も尊い坐り方であり、両足を組み合わせ、両腿の上に乗せる)して坐し、日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて云う、我が弟に委(ゆだ)ぬと。高祖曰く、此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。」

 この時派遣された使者に対し、高祖文帝は所司を通じて俀國の風俗を尋ねさせた。
 俀王(通説では俀は倭の誤りとする)姓の阿毎はアメ、多利思北孤(通説では北は比の誤りで、多利思比孤とする)はタラシヒコ、つまりアメタラシヒコで、天より垂下した「彦」(天に出自をもつ尊い男)の意とされる。阿輩雞弥はオホキミで、「大王」とされる。
その上で、使者は政のありかたを説明した。
 「倭王は天を兄とし、日を弟としている。日が出るまでは、倭王は跏趺(かふ 仏教における最も尊い坐り方で、両足を組み合わせ、両腿の上に乗せる)して坐し政務を行い、日が出れば、政務を止めて、弟に委ねる」とした。
日が出るまでは政務を行うが、日が出てからは、政務を止めても、自ずから国の安寧は保たれると、倭国は「徳」の高い国であることを自信を持って述べたつもりだっただろう。
 ところが、高祖文帝は、俀國のその政治のあり方が納得できず、道理に反したものに思った。そこで「此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ」と、改めるよう訓令したとしている。
高祖文帝は、倭国の政治の在り方を、まったく「荒唐無稽」と一蹴し、倭国の使者を叱責したのである。
倭国は、遣隋使の派遣で、倭国の存在を認めさせ、隋と「対等関係」で国交を築こうとしたと考えられる。この目論見は、もろくも崩れ、第一回遣隋使派遣は「失敗」に終わったと考えられる。
 この隋の倭国に対する見方は、当時の王権に大きな衝撃を与えた。
 推古天皇、厩戸皇子、蘇我馬子は、急ピッチで、国家制度の体制整備に乗り出す。

 日本書紀に600年の遣隋使の記録がないのは、(1)隋の皇帝から叱責され、遣隋使派遣が「失敗」に終わったのを隠すため、(2)蘇我馬子が遣隋使派遣を主導し、厩戸皇子は関わっていなかったため、がその理由として考えられる。
 筆者は、日本書紀の編者は、遣隋使の派遣を厩戸皇子の「功績」にするため、厩戸皇子が関わっていない600年の遣隋使派遣を抹殺したと考える。
 日本書紀は、蘇我氏は「悪者」、厩戸皇子は「聖者」という論理を貫いていた。

「大王」に擬せられた厩戸皇子
 「隋書倭国伝」を読む限り、どう考えても、倭国の「大王」は、「男帝」である。当時の「大王」は女帝、推古天皇、古代史の大きな謎で、未だに論争が続いている。
 筆者は、唐使、裴世清と「礼を争い」、困り果てた朝廷の「苦肉の策」と考えられる。
 当時の倭国の朝貢使を迎える儀式の慣例は、「大王」は直接、朝貢使には接見せず、朝貢使が携えた「国書」は、群臣が受け取り、その後「大王」に奏上することになっている。これに対して、隋の慣例は、「大王」が直接、朝貢使に接見をする。
 裴世清は、隋の慣例に乗っ取り、直接、「大王」に接見して、「国書」を上奏することを要求したと思われる。そうしないと隋の皇帝から遣わされた使者の役目を果たすことができないからである。裴世清にとっても「死活問題」だ。
 厩戸皇子や蘇我馬子が考え出した策は、「大王に擬する王」を裴世清に接見させ、あたかも裴世清に「大王」に接見したように思わせることだ。事前の両者の交渉で合意されていたかもしれない。(「飛鳥を訪れた裴世清」の章を参照)
 「大王に擬する王」は、明らかに厩戸皇子であろう。
 裴世清は、隋に帰朝して、高祖文帝に、まよわず「倭国の大王は男帝」と上奏したのである。
 日本書紀に記述がないのも、「記録に残したくない」事情があったからであろう。

新羅征討にこだわった倭国
 同じ年の600年(推古8年)、新羅、任那に侵攻する。倭国は任那救援の新羅征討軍を派遣した。
朝廷は、境部摩理勢を新羅討伐軍の征夷大将軍に任じた(実際には遠征していない)副将軍は穂積臣。
 新羅に1万余の軍を送り、新羅の5つの城を攻め、攻略した。
 新羅王は、降伏し、多々羅(タタラ)・素奈羅(スナラ)・弗知鬼(ホチクイ)・委陀(ワダ)・南加羅(アリヒシノカラ)・阿羅々(アララ)の6つの城6つの城を割譲し、朝貢することを約束した。(日本書紀)
 倭国は「新羅は罪を知って服従した。無理やりに撃つのは良くない」 
として、難波吉師神を新羅に、難波吉士蓮子を任那に派遣して、検校(事情を調べること事)した。
 新羅は「任那の調」を朝貢したが、再び任那を侵略する。

来目皇子、当麻皇子を将軍に新羅征討軍を起こす
 602年(推古10年)、朝廷は、厩戸皇子の同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、筑紫に向ったが、途上、妻・舎人姫王の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。
 この新羅征伐計画は、結果として挫折したが、厩戸皇子の真意はもともと 積極的でなかったという説が、多くの論者に支持されている。新羅征伐計画は、王権の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという。
坂本太郎氏は「私はもともと仏教信仰の聖徳太子が、かような軍事行動には加勢しなかったからではないかと思う」とし、「事故が起こって、これを中止することは、むしろ聖徳太子の望む所であったのではあるまいか」(「聖徳太子」 坂本太郎 吉川弘文館 1979年)としている。
 確かに、仏教興隆を熱心に取り組んでいたとされる聖徳太子の人物像は、新羅征討という軍事的強硬策とは相いれない。
 しかし、来目皇子や当麻皇子を厩戸皇子一族から派遣しているので、厩戸皇子が新羅討伐の主導者であったことは間違いないだろう。
厩戸皇子は「仏教を厚く信仰する『平和論者』」という「先入観」に囚われるのは、史実を読み誤る懸念が大きい。
 「聖徳太子(厩戸皇子)」は「信仰としての聖徳太子」と「史実としての厩戸皇子」を峻別する姿勢が必須だろう。
 
 「厩戸皇子」の検証は、古代史の解明する上で、最大の課題である。

■ 603年(推古11年)12月5日、「冠位十二階」を制定
 氏姓制によらず才能によって人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったとされている。
 「日本書紀」では、制定者の記述がなく、「上宮聖徳法王帝説」では、厩戸皇子と蘇我馬子としている。

■ 604年(推古12年)4月3日、「憲法十七条」制定
「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」(『日本書紀』)とし、「憲法十七條(十七条憲法)」を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している
 津田左右吉などはこれを「後世における偽作である」としている。
 同じ年、「改朝禮。因以詔之曰「凡出入宮門、以兩手押地、兩脚跪之。越梱則立行」(日本書紀)とし、「朝礼」を改め、宮門を出入りする時は、「両手と地面につけ、両脚を跪く」という作法を詔によって定めた。

厩戸皇子 斑鳩宮へ遷る
 厩戸皇子が斑鳩宮に移った理由は、当時権勢をふるった蘇我馬子との対立が原因とする説明が多くなされていた。大王を中心とする中央集権国家を目指した厩戸皇子は、豪族諸臣の利益を代表する蘇我馬子との権力争いに負けて、傷心のうちに斑鳩宮に移り、政治の表舞台から身を引いて仏法に没頭したとされている。
 厩戸皇子と蘇我馬子の対立は、両者の政治的立場の決定的な相違によるものだろうか、蘇我馬子は厩戸皇子の一貫した敵対勢力だったのだろうか、疑念がある。

 斑鳩宮のような宮殿は、同母兄弟の最年長の皇子だけが、基本的に造営することが認められた。用明天皇の長子である厩戸皇子はその資格を満たしていた。
 戦前の法隆寺大修理の際に発掘調査が行われ、東院地下から掘立柱建物、石敷、井戸などが発見され、焼けた瓦や壁土も出土したことで、643年に蘇我入鹿の襲撃を受けて焼失した斑鳩宮跡とされた。
 近年、さらに「大溝」も発見され、北側にも掘立柱建物が確認された。
 斑鳩宮は最小でも1町四方の大規模な宮殿であることが明らかになった。
 斑鳩にこれほど大規模な宮殿を造立することができたのは、厩戸皇子が大王家の中で、地位・身分が上昇し、権勢が高まった結果で、厩戸皇子にはさらに大きな使命と役割が与えられたと考えられる。
初の女帝である推古天皇の王位継承者として大王を補佐し、国政に参加するのが厩戸皇子の役割であった。蘇我馬子は、推古天皇、厩戸皇子、そして蘇我氏の三者のトロイカ方式で、王権を統治するシステムを築いたのである。
厩戸皇子には、この地位にふさわしい大規模な王宮、斑鳩宮が用意された。
この「破格の待遇」を与えたのは蘇我馬子でしかありえない。
また推古天皇は小墾田宮を造営し、蘇我氏は飛鳥寺を建立した。
三者のトロイカ方式の証が、斑鳩宮、小墾田宮、飛鳥寺であった。

 厩戸皇子、王権の中で、「外務大臣」の役割で、国政に携わったと思われる。
斑鳩は、中国・朝鮮半島の外交ルートの要所、厩戸皇子が拠点を構える格好の場所であった。

 筆者は、厩戸皇子は、「仏教興隆」という課題も担っていたと考える。
厩戸皇子は、高句麗の渡来僧、慧慈を「師」として迎えた。慧慈を高句麗から招聘し、厩戸皇子に配したのは、蘇我馬子の「策」であろう。厩戸皇子に最先端の高句麗の仏教を習得させ、王権内の「仏教大臣」として、「仏教興隆」を推進させる。倭国が「近代国家」に脱皮するためには、「仏教興隆」も必須の「国策」だった。
 蘇我馬子が、斑鳩寺の建立は支援したのもこうした理由からだ。
 厩戸皇子は、政治の世界から身を引いて、「仏教」に没頭したわけでなない。倭国の国策としの「仏教興隆」を担った「仏教大臣」だったのではないか。
 さらに、厩戸皇子は、仏教だけでなく、百済の五経博士、覚哿から儒教の経典の教えも受けている。厩戸皇子は「宗教大臣」かもしれない。

 厩戸皇子の「斑鳩宮移住」は、あくまで当時の権力者、蘇我馬子との合意と支援のもとに実行されたと考えざるを得ない。

 厩戸皇子は斑鳩宮の造営で、大和川沿いに難波と大和の間の重要な交通路「滝田道」を押えた。新羅、隋への外交ルートを確保したと考えられる。
 斑鳩宮と小墾田宮の間には、「太子道」と呼ばれる西に22度傾いている斜めの道、「筋違道」で結ばれている。「筋違道」は奈良盆地を南北に走る「下つ道」・「中つ道」・「上つ道」を横切っている。
 「下つ道」・「中つ道」・「上つ道」は、条里制下に建設された東西南北の碁盤目状の主要道である。
 小墾田宮まで約20キロ、厩戸皇子は、「摂政」としての政務に当たるため毎日、愛馬の黒駒に乗って、従者の調子麿を従えて「筋違道」通ったと伝えられている。
 しかし現実には、厩戸皇子の側近や群臣が往復していたものと考えるのが自然だろう。
今も「太子道」伝説が残っている。時折、従者を連れて小墾田に向かう聖徳太子の行列が民衆の間に長く伝え告がれたのだろう。

 斑鳩宮、斑鳩寺の造営は、大王の権力の象徴となる空間を厩戸皇子の拠点に設けたということであり、推古天皇の皇位継承者として、厩戸皇子の王権への「野心」は失われていない見るべきだろう。そこには蘇我馬子との権力抗争に敗れ、斑鳩に隠遁し、仏法にいそしんだという姿は見当たらない。

■ 606年(推古14年) 鞍作止利が銅像と繍像の丈六仏を造立、飛鳥寺の金堂に安置する。
 飛鳥寺の金堂はこの頃までに完成し、飛鳥寺の伽藍全体が完成したと思われる。飛鳥寺は、倭国の「仏教興隆」の象徴だった。
 これに先立って、605年、推古天皇が鞍作止利に丈六像の造立を命じると、高句麗の大興王は、仏像の鍍金用の黄金300両を倭国に贈った。(日本書記) 高句麗僧、慧慈からの情報だろう。

遣隋使小野妹子 隋に渡航
 607年(推古15年)、小野妹子は大唐国に倭国大王の「国書」を持って渡航した。遣隋使の派遣は、600年に引き続き第二回目である。
 600年の遣隋使の記録は、「隋書倭国伝」のみに記載され、なぜか日本書紀には記されていない。
第一回遣隋使派遣の際に、隋の高祖帝は所司を通じて俀國の風俗を尋ねさせた。倭国の使者は俀王を「姓阿毎 字多利思北孤」号を「阿輩雞彌」と云うと述べ、政のありかたを説明した。ところが、高祖帝は、俀國の政治のあり方が納得できず、道理に反しているとして、「此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ」と訓令した。
 この隋の倭国に対する見方は、当時の王権に大きな衝撃を与えた。
遣隋使の派遣で「東の独立国」、倭国の存在を、隋に認めさせて、朝鮮半島外交に優位に立とうという目論見は崩れた。第一回遣隋使派遣は、「失敗」と、当時の支配者層は認識したと思われる。
 日本書紀に記述がないのは、こうした理由かもしれない。
 隋の反応を受けて、推古天皇、厩戸皇子、蘇我馬子は、王権の改革を急ぎ、中央集権国家としての形を整えた。「冠位十二階」、「十七条憲法」、「小墾田宮の造営」、「仏教興隆」、まさにに驚異的なスピードで、倭国の政治構造を作り上げた。
608年の第二回遣隋使派遣は、こうした「改革」を終えた上で行われた。
 再度の挑戦である。

 小野妹子が携えた「国書」は隋皇帝煬帝に宛てたもので、『隋書』「東夷傳俀國傳」にその内容が記されている。

「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)

 これを見た隋皇帝煬帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたという。
 なお、煬帝が立腹したのは倭王が「天子」を名乗ったことに対してであり、「日出處」「日沒處」との記述に対してではないとされている。
 「日出處」「日沒處」は、単に東西の方角を表す仏教用語である。
 ただし、あえて仏教用語を用いたことで、隋の「冊封体制」には入らないことを明かにしたという説もある。

返使、裴世清渡来
 翌608年(推古16年)、小野妹子は、その後、返書を持たされて、煬帝の家臣である裴世清に伴われて、帰国の途に向った。
 鴻臚寺掌客の裴世清を正史とし、12人の使節団が同行していた。
 煬帝は、「非礼な国書」を上奏した倭国に激怒したが、倭国を説諭するとして、裴世清を派遣した。しかし、その真意は、対高句麗戦略にあった。当時、隋は高句麗と抗争を繰り広げていて、高句麗の背後に位置する倭国との関係強化は必要と考たということだろう。高句麗と関係を結んでいた倭国の情勢も探りにきたと考えられる。

飛鳥を訪れた裴世清
 608年、煬帝は隋使、裴世清を派遣し、倭国に渡来した。
 裴世清は百済を経て、朝鮮半島南岸沿いに、対馬、一支(壱岐)国を経由して、「竹斯国」(ちくし)に至る。「竹斯国」は「筑紫国」と思われるが、現在の福岡市、古代の「奴国」のあたりと思われる。
 倭王は、難波吉士雄成を筑紫に遣わし、一行を出迎えさせた
 その後、瀬戸内海を航海して、十余国を通過したあと難波津に着いた。

 難波の江口では飾船三十隻が一行を歓迎した。
倭王は中臣宮地連烏磨呂、大河内直糠手、船史王平を掌客(賓客の接待にあたる官人)に任じ、難波津に遣わし、数百人を従え、儀仗を設けて、太鼓や角笛を鳴らして迎えた。大礼額田部連比羅夫が歓迎の辞を述べた。
 裴世清一行は、唐使のために新しく造られた賓館、難波館に入り、旅の疲れを癒した。
十日後に、裴世清一行は、難波津から川船で大和川を遡り、終着地、海柘榴市(桜井市金屋付近)で下船し、大和に入った。 海柘榴市では、大礼、額田部連比羅夫(ぬかたべのむらじ・ひらぶ)が、飾り馬、七十五匹二百余騎を従えて迎えた。
 海柘榴市から小墾田宮には、陸路を通って向かったと思われる。
 海柘榴市は、山の辺の道や上ツ道、山田道、初瀬街道が交差する陸上交通の要衝、物資が集まり、我が国最古の交易市場が成立していた。

 8月12日、裴世清は導者、阿部鳥臣、物部依網連抱に従って、小墾田宮の「南門」から入り、隋から持参した国信(くにつかい)の物を「朝庭」に置いた。信物は国王間で交わされる献納品で、黄金や絹などである。 裴世清は国書をもって2度再拝し、立礼で参列者に遣使の旨を奏上した。
 隋使の奏上を受けて、阿部鳥臣が進み出て、裴世清から国書を受け取り、大伴囓連が「大門」の前の机に奉じて退く。皇子、諸王、諸臣がことごとく金の髻花を頭に飾り、錦、紫、繍、織の衣服に冠位を表す五色の綾羅を付けていた。(冠位に応じた色の服とされている)

 推古天皇は「大門」の奥に位置する「大殿」に出御している。しかし、「大殿」と「朝庭」とは「大門」で隔てられているので、推古天皇がこの儀式に参列することはない。
 「朝庭」の儀式終了後、「大臣」、蘇我馬子と奏上役の群臣などが、「大殿」に参内して、大王、推古天皇や皇子に隋使の「国書」を奏上したと考えられる。
 従って、裴世清が大王、推古天皇と直接会うことはない。
 この日の儀式には、皇子、諸王、諸臣が参加していたという記録があるが、大王への接見の式次第は記録にない。

 8月16日の「朝廷の宴」が催された。「朝廷の宴」には、皇子、諸臣が参加する。大王、推古天皇も参加した可能性はある。
 2年後の新羅史の場合も「朝廷の儀式」と「宴」が催されている。
「隋書」における倭国王との接見の場は、「朝廷の宴」の可能性もある。
 この「宴」で推古天皇に、裴世清が会っていたら、倭国王は「女帝」だということを知りえただろう。しかし、この事実を裴世清が隠す理由ない。 裴世清は倭国王は「男帝」と記しているのである。
 女王、卑弥呼は、「王となりよし依頼、見ゆることあるもの少なし」といわれていた。即位依頼、その姿を見せることはほとんどなかった。
 やはり、推古天皇も裴世清の前に姿を見せることはなかったと考えられる。
 この時代の王権の「慣例」とされていたのだろう。
 一方、唐の賓礼については、「大唐開元礼」で詳しい規定があり、「蕃国」の使者は中国皇帝に国書を奏上し、献物を献上する際に、皇帝は出御する。また皇帝が開く宴には皇帝が参加する。
 皇帝本人が使者に直接、倭国の使者に問を発したかどうかは別にして、隋の皇帝に直接謁見していることは間違えないだろう。
 魏志倭人伝でも、邪馬台国の使者、難升米と牛利に、魏の明帝が引見し、労をねぎらったという記述が残されている。
 それでは、律令制度が導入される前の倭国の外交儀礼はどのようなものだったのか。
 倭国の大王は、人前に姿を現さず、7世紀では外交使節の前にも姿を現さない「見えない王」だったのだろう。
 一方、中国では、皇帝は蕃国使に謁見するのが外交儀礼だ。
 裴世清は、国書を携えて倭国を訪れた公式の使者だから、任務を果たすためには、倭国王に接見しなければならない。
 しかし、倭国には使者に謁見するという外交儀礼がない。
 632年に、遣唐使の返礼で、唐使、高表仁が訪れたが、倭国の王子と「礼を争い」、国書を奏上する機会を持たず帰国した。舒明天皇の王子と衝突したのである。
 裴世清の際は、倭国王権は、「妥協」して外交儀式を行ったのであろう。
 厩戸皇子や蘇我馬子が苦肉の策として考え出したのが、厩戸皇子があたかも「大王」のごとく、振る舞って、裴世清と謁見することだ。裴世清が帰国後、隋煬帝に上奏した「男帝」という内容と祖語はない。
 厩戸皇子や蘇我馬子が、裴世清を欺く意図はなく、裴世清が、勝手に、厩戸皇子を「大王」として誤解をした可能性もある。
 筆者は、裴世清が謁見したのは、当時の王権での外交統括、厩戸皇子で、それを企んだのは蘇我馬子だと考える。
 
 その後難波に戻り、9月5日に外交施設である難波津の大郡で宴が再び催されている。唐使への慰労と別れの宴と思われる。
 そして、9月11日、裴世清一行は帰国の途についた。その一行に、小野妹子が、僧旻(仏教と易を学ぶ そうみん)、高向玄理(学者)(たかむこのくろまろ)・南淵請安(学問僧)など8人の留学生・学問僧を同行させ隋へ渡航する。
 倭国と隋との関係はこうして一気に動き始めた。

小野妹子の「返書」紛失事件
 百済を経由して、難波に到着した小野妹子は、朝廷から遣わされた掌客で蘇我馬子の側近とされる中臣宮地連烏磨呂に、突然「返書を百済に盗まれて無くした」と伝えた。
 これを聞いた群臣は、 激怒し小野妹子を流刑に処することしたが、推古天皇は、「今は隋の使者が来ている。使者に聞こえたら朝廷の対面が損なわれる」として不問にしたという。
 百済は南朝への朝貢国であったため、倭国が隋と国交を結ぶ事を妨害する動機は存在したと思われる。
「国書紛失」の理由として、(1)百済犯行説、(2)煬帝から叱責された文書の内容が明らかになれば、大王や諸臣見せて怒りを買う事を恐れた妹子が、返書を破棄してしまったという説、(3)聖徳太子と相談して失書を演出したとする説、(4)国書は二種類あり、正式な国書は裴世清が持参してきたが、それとは別に煬帝の叱責を記した返書は妹子に託されたとする説、などがある。
 しかし、小野妹子は、裴世清一行の帰国に際し、再び送迎使節の大使に任じられ、裴世清たちを隋都大興城まで送っている。二回にわたる遣隋大使の大役を果たした妹子は、帰国後、「冠位十二階」では第5位の「大礼」から第1位の「大徳」に昇進した。「大徳」とは、「冠位十二階」の最高位である。失書事件を犯した人物が、「大徳」に任じられるはあり得ない。
 厩戸皇子、蘇我馬子の同意の上での「盗難」事件としたというのが妥当だろう。
その真偽は明らかでない。

「倭王」「天皇」問題
 日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問 ふ」)とある。これに対する倭国の返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す」と記されている。
これを「天皇」の呼称が史料に最初に現れたとして、これをもって「天皇」の呼称の使い始めとする説がある。しかし、他の史料では、「天皇」の呼称は見られないことから、日本書紀の編者が、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」と改竄したとも考えられている。

 「皇帝問倭皇 使人大禮 蘇因高等至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇 思弘德化 覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇 知皇介居海表 撫寧民庶 境內安樂 風俗融合 深氣至誠 遠脩朝貢 丹款之美 朕有嘉焉 稍暄 比如常也 故遣鴻臚寺掌客裴世清等 旨宣往意 并送物如別」(日本書紀)

 「皇帝、倭皇に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。倭皇は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。」

 唐側の史料では「倭皇」となっており、「倭王」として「属国の臣下」扱いにはしていないことが明らかである。『日本書紀』によるこれに対する返書の書き出しは「東の天皇が敬いて(つつしみ)西の皇帝に白す」(「東天皇敬白西皇帝」)『日本書紀』とある。

 裴世清に随行して、遣隋使、小野妹子や吉士雄成などが再び渡航した。(第三回遣隋使)
 この時、留学生として倭漢直福因(やまとのあやのあたいふくいん)・奈羅訳語恵明(ならのおさえみょう)高向漢人玄理(たかむくのあやひとくろまろ)・新漢人大圀(いまきのあやひとだいこく)、学問僧として新漢人日文(にちもん、後の僧旻)・南淵請安など、8人の留学生・学問僧が同行した。

新羅、「任那」朝貢再開
 610年、新羅は「任那」(金官伽耶)の使者を伴って朝貢をした。当時、新羅は「任那」(金官伽耶)を占拠し、「任那」(金官伽耶)は新羅の支配 下にあった。
 新羅は、「任那」(金官伽耶)が、「独立国」として存在するように装ったのである。
 この背景として、倭国の遣隋使の派遣を受けた隋が新羅を諭したとされている。
 いずれにしても新羅は占拠していた「任那」(金官伽耶)に対する倭国の権益を認め、両国は揃って「任那の調」を再開した。
 遣隋使の派遣で、倭国のプレゼンスを朝鮮半島諸国に見せて優位に立つという戦略は、「任那の調」復活では成功したようである。

■ 610年(推古18年) 第4回遣隋使を派遣する。(『隋書』煬帝紀)
 日本書紀には記述がない。
■ 614年(推古22年) 第5回遣隋使、犬上御田鍬・矢田部造らを隋に遣わす。
■ 615年(推古23年) 犬上御田鍬が帰国する。その際に百済使、犬上御田鍬に従って渡来する。(『日本書紀』)

 『隋書』煬帝紀に記述がない。隋が混乱していて、遣隋使は、大興城(長安)までたどり着かなかった可能性がある。
■ 618年(推古26年) 隋滅滅亡。
 隋の二代皇帝煬帝は南北に通る大運河を開き大規模な外征を行なったが、3度に渡る高句麗遠征に失敗し、土木工事や外征の強行に対する不満から民衆の反乱が各地で起きて、618年に滅亡し、唐王朝に代わった。
 
 最後の遣隋使の派遣から16年後、630年、最後の遣隋使、犬上御田鍬は第1回遣唐使に任じられ渡航する。遣隋使は遣唐使に受け継がれていった。
 622年、厩戸皇子は死去し、645年、蘇我蝦夷と蘇我入鹿も、「乙巳の変」で王権の舞台から消え去り、新たな時代が始まる。
 そして、ついに、663年、倭国と唐は、「白村江の戦い」で激突する。



(参考文献)
「蘇我氏の古代」 吉村武彦  岩波新書 2015年
「蘇我氏四代 臣、罪を知らず」 遠山美都男 ミネルヴァ書房 2018年
「謎の豪族 蘇我氏」 水谷千秋 文春新書 2006年
「ヤマト王権 シリーズ日本古代史②」 吉村武彦 岩波新書 2010年
「蘇我氏 ~古代豪族の興亡~」 倉本一宏  中公新書 2015年
「蘇我氏四代 臣、罪を知らず」 遠山美都男 ミネルヴァ書房 2006年
「消えた古代豪族 『蘇我氏』の謎」 歴史読本編集部 KADOKAWA 2016年
「天皇と日本の起源」 遠山美都男 講談社現代新書 2003年
「飛鳥 古代を考える」 井上光定 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「飛鳥史の諸段階」 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「飛鳥 その古代史と風土」 門脇禎二 吉川弘文館 1987年





2017年7月21日
Copyright (C) 2017 IMSSR



******************************************************
廣谷  徹
Toru Hiroya
国際メディアサービスシステム研究所
代表
International Media Service System Research Institute
(IMSSR)
President
E-mail thiroya@r03.itscom.net  /  imssr@a09.itscom.net
URL http://blog.goo.ne.jp/imssr_media_2015
******************************************************

美濃加茂市長に無罪判決 逆転有罪判決 検証・メディアの報道姿勢 

2016-11-28 18:44:25 | 評論
岐阜・美濃加茂市長に無罪判決、逆転有罪判決、
そして出直し選挙で再選
検証・メディアの報道姿勢




美濃加茂市長選、上告中の藤井浩人氏再選
 2017年1月29日、受託収賄罪などに問われ、逆転有罪判決を受けた岐阜県美濃加茂市の藤井浩人・前市長(無所属)の辞職に伴う“出直し”市長選挙で、藤井氏が新人の市民団体代表・鈴木勲氏(72)(無所属)を破って再選を果たした。
 投票率は57・10%。
 「多くの方にしっかりやれと激励され、責任の重さを感じている。信を得たと胸を張って市長職を全うしたい」。当選が決まると、藤井氏は事務所に集まった支持者らを前に、笑顔で語った。
 最高裁に上告中の藤井氏は「裁判を闘いながら市長を務めることへの信を問う」として昨年12月19日に辞職。「少しも後ろめたい点はない。現場第一主義で、市民の生の声を聞いてきた」などと判決に触れながら実績を強調し、高い知名度を生かして着実に浸透した。鈴木氏は「予算編成の重要な時期に強引に辞職するのは市政の私物化。藤井氏に市長の資質はない」と訴え、批判票の結集を図ったが、支持を広げることはできず、及ばなかった。(読売新聞 1月30日)
 公職選挙法の規定で、藤井氏の任期は1期目の残りの6月1日まで。5月にはまた市長選が行われるが、当選しても、有罪が確定した場合は失職する。
 
美濃加茂市長に逆転有罪 名古屋高裁
 2016年11月28日、岐阜県美濃加茂市の市長が浄水設備の導入をめぐり業者から現金を受け取ったとして受託収賄などの罪に問われた裁判で、名古屋高等裁判所は1審の無罪の判決を取り消し、執行猶予のついた懲役1年6か月の有罪を言い渡した。
 岐阜県美濃加茂市の市長、藤井浩人被告(32)は市議会議員だった平成25年4月、プールの浄水設備の導入をめぐって便宜を図った見返りに、名古屋市の業者から現金30万円の賄賂を受け取ったとして受託収賄などの罪に問われていた。
 1審の名古屋地方裁判所は去年3月、「現金を渡したとする業者の供述は不自然で信用できない」として無罪の判決を言い渡し、検察が控訴していた。
 2審でも業者の供述の信用性が争点となり、市長側は「業者の供述は変遷しており虚偽だ」と主張する一方で、検察は「現金の準備やメールのやり取りなど客観的な証拠から供述の信用性は高い」とした。
 28日の2審の判決で、名古屋高等裁判所の村山浩昭裁判長は1審の無罪を取り消し、懲役1年6か月、執行猶予3年、追徴金30万円の有罪を言い渡した。
 判決のあと、藤井市長は会見を開き、「現金の授受は一切ないので、裁判所の判断は受け入れられない。きょうは市民に『やっと裁判は終わった』と報告できると思ったが、このような結果になってしまった。私自身は、今後も戦いながら市長を続けたいと思っている。地元に戻って、市民に自分の気持ちをしっかり説明したい」と述べた。
 また、弁護団長の郷原信郎弁護士は「予想外であり、到底承服できない判決で大変、驚いている。全く許しがたい判決で、直ちに最高裁判所に上告する手続きをとりたい」とした。
(出典 NHKニュース 2016年11月28日)


捜査あり方が問われる
 3月5日、岐阜県美濃加茂市の雨水浄化設備設置事業を巡る贈収賄事件で、業者から30万円を受け取ったとして受託収賄罪などに問われた藤井市長(当時は市議会議員)に対し、名古屋地裁は、無罪の判決を下した。
 一方で、贈賄側の「元社長」は、起訴された藤井市長への贈賄容疑をすべて認め、すでに判決が確定しているという、贈賄側の判決と収賄側の判決が正反対となる異例の事態となった。
  裁判所は、今回の判決で、贈賄を認めた「経営コンサルタント会社社長」の供述について、「信用性に疑問があり、その他の証拠を考慮しても、現金授受があったと認めるには、合理的疑いが残る」と述べた。
 起訴状では、藤井市長は美濃加茂市議だった2013年3~4月、名古屋市の設備会社社長(贈賄、詐欺罪などで実刑判決確定)から、市立学校への浄化設備の導入に協力を依頼され、担当者に検討を促すなどした見返りに現金を受け取ったとされていた。藤井市長の公判は、藤井市長に金を渡したとする社長の供述の信用性が争点となっていたという。
 藤井市長は、28歳で全国最年少の市長として注目を集めた、その市長が2014年6月、受託収賄罪などで逮捕される。現職の市長が逮捕されるのは極めて異例である。8月後、保釈請求が認めら公務に復帰したが、保釈の条件に、前代未聞の「30人の接触禁止」が付けられた。その中に副市長も含まれており、市議会では、市長と副市長は、5メートルも離れて座っていたという。
 そして無罪判決。警察や検察の捜査のあり方や姿勢が厳しく問われてしかるべきだ。

焦点の「現金接受の信用性問題へのメディアの報道姿勢
この判決について、各メディアは、各社とも大きく扱って報道し、解説を加えた。
 報道内容は、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、産経新聞、NHKニュース、報道ステーション、ニュース23ともほぼ同様の問題点の指摘をしていた。
 第一点は、裁判で争われた「現金接受」の信用性の問題点である。
 贈収賄事件は、一般に、物証がほとんどなく、立証が難しい。
 今回の裁判では、「現金接受」が本当にあったのかどうかが焦点になった。
 「現金接受」については、「会社社長」の供述のみで、「物的証拠」はない。しかし、肝心の供述が曖昧で、当初は、現金を渡したのは、藤井市長と2人だけの会食の場と供述。しかしその後は3人だったと変更した。また現金を渡した回数も2回に変わり、1回目については、「よく覚えていない」とした。また検察側は、「会社社長」の金融機関の出入金記録や、藤井市長とのメールのやりとりなども証拠として提出し、十分、供述は信用できるとした。
 しかし判決では、供述の信用性について、「賄賂と認識して現金を渡す行為は非日常的で強く印象に残るはずなのに、曖昧だったのは不自然」と指摘。「供述は変遷していると言わざるをえない」としている。
 また、法廷で、捜査段階で供述が変遷した理由を聞かれると、会社社長は「当初ははっきり覚えていなかった。警察の取り調べでメールや資料を見せられて思い出す作業をした」と証言した。
 この点について、各メディアの記事とも、曖昧な「供述」に頼り、合理的な説明ができなかった検察の対応を問題視していた。

 しかし、各社の記事やニュースを見ても、「会社社長」の「現金接受」に係る供述がどのようになされて、どのように二転、三転していったのか良く分からない。公判を継続的に取材していた記者は分かっているだとうが、読者や視聴者には理解できないだろう。この判決の重要なポイントだけに丁寧な解説が必要と思われる。
 
 その中に、筆者が評価したいのは、日本テレビのいわゆるワイドショー「スッキリ!」である。しっかり、約25分もの時間を割いて、この判決の内容を、ゲストの弁護士と共に分かりやすく伝えた。
 この番組を見て、「現金接受」に関する「会社社長」の信用性がいかに無いかが良く分かった。
 「スッキリ!」によると、「会社社長」当初、「賄賂を渡したのは一度」としていたが、「二度に分けて渡した」と証言を変えた。また「現場にいたのは『会社社長』と藤井市長の二人」としていたが、「同席者がいて3人」に変えた。さらに「現金接受」は、「同席者」が席を外した時に行ったとしたが、「同席者」は「一回も席を離れていなかった」と証言した。
 筆者は、ワイドショーも最近、よく視聴する。かつてのワイドショーは、芸能ネタばかりだったという印象が強い。しかし、ここ数年は、ニュースを、ニュース番組も顔負けにしっかり報道する。最近では、川崎・中学生殺害事件だ。ワイドショー的な演出は、ニュース番組より、分かり易さと見やすさを視聴者に与えている。時折、放送倫理上脱線もないわけではないが、その親しみやすさも求める「貪欲な」姿勢は、筆者は大いに評価したい。二回も三回も読み直さないと理解できない新聞記事はその発想を学ぶ必要があるのではないか。

「会社会長」の「虚偽の供述」をした動機をどう見るか
 第二点は、「会社会長」の「虚偽の供述」をした動機である
 「会社社長」は贈賄の供述を始めた昨年3月、1000万円の融資詐欺事件で起訴され、余罪についても追及されていた。判決では、この事件での余罪の立件を免れるため、中林受刑者が虚偽の供述をした可能性も指摘した。「捜査機関の関心を他の重大な事件に向けようとして、虚偽供述した可能性は十分考えられる」と結論付けている。
 テレビ朝日の報道ステーションでは、「事実上の司法取引的なこともあって」こういう流れができたのかどうか」の「会社社長」と検察との間で何らかの「取引」があった懸念を古館キャスターが指摘している。「会社社長」と検察の間でどんな話があったのか、なかったのかは、国民は知る由もない。
 また産経新聞(3月6日付け朝刊)は、「見立てから引き返す勇気」の教訓を見つめ直せ」という見出しで、「捜査当局は今一度、虚心坦懐(たんかい)に自らの捜査手法を見つめ直す必要もあるのではないか」と論評している。
 この裁判が極めて「異常」な展開を見せている以上、裏でなにがあったか、なかったか知りたいと思うのは筆者だけではないと思う。厚生労働省元局長の郵便不正事件への無罪判決やそれにからむフロッピーディスク(FD)改ざん事件、東電社員殺害再審無罪判決など、検察の姿勢がここ数年、問題化している中で、新聞、テレビ、雑誌等メディアはこの問題をしっかり検証し続ける必要があるのではないか。

「政治倫理」の観点から検証を
 贈収賄の立件要素には、「請託」、「賄賂の接受」、「職務権限」である。
 この内、「賄賂の接受」についてだけが、裁判で争われた。
 しかし、もう一つ大きな問題、「請託」については、まったく報道されていない。
 筆者には、「請託」があったのか、あったとすればどんな内容か、それを裁判所はどう判断したのか伝えていない。
朝日新聞には、「(会社社長が)『何でもご遠慮なく相談下さい』と送ったメールは『さまざま解釈ができる』」という記述があるが、判決で「請託」に関してどう判断したか分からない。
 仮に「請託」があったことが認定されたとすれば、藤井市長の政治責任は厳しく問われるべきではないか。「現金接受」があろうがなかろうが、公共事業を巡って「請託」があった相手の「会社社長」とレストランで飲食し、これに関連した会話をしたとすれば、政治家として余りにも軽率である。単に「陳情」を聞いたと釈明するのだろうか。
 この問題は、贈収賄事件として立件できたたかどうかと別問題である。藤井市長は、美濃加茂市のトップ、政治倫理を率先して守らなければならい一人である。「無罪」判決で喜んでいる場合ではない。
 この判決の報道を巡って、藤井市長の政治責任に言及した記事は見当たらない。
 司法の問題だけに収斂したメディアの報道姿勢にも問題があるのではないか。



■ 関連記事参照
「憲法改正」世論調査の“読み方
NHKスペシャル その看板が泣いている!
米ワシントンポスト紙WEB版に沖縄意見広告が「普天間辺野古移転反対」のバナーが掲載
大川小学校の悲劇 検証・大川小学校事故報告 検証はまだ終わっていない 東日本大震災4年
美濃加茂市長に無罪判決 検証・メディアの報道姿勢!
阪神大震災20年 ~震災報道担当者からのメッセージ~
“まわりみち” ~横浜市青葉区 保木地区 桃源境~





2015年3月6日(2017年1月30日改訂)
Copyright(C) 2015 IMSSR



******************************************************
廣谷  徹
Toru Hiroya
国際メディアサービスシステム研究所
代表
International Media Service System Research Institute
(IMSSR)
President
E-mail thiroya@r03.itscom.net  /  imssr@a09.itscom.net
URL http://blog.goo.ne.jp/imssr_media_2015
******************************************************


大川小学校の悲劇 検証・大川小学校事故報告 検証はまだ終わっていない 東日本大震災4年

2016-10-23 20:17:56 | 評論
大川小学校の悲劇 検証・大川小学校事故報告
検証はまだ終わっていない 東日本大震災4年


 それは悪夢のような一瞬の出来事だった。

 宮城県石巻市大川地区。悠々と流れる北上川、田園と周辺の山並み、豊かな自然に育まれたた穏やかな光景が広がる。女川町から、海岸線沿いに南三陸町抜ける国道398号線が通る交通の要所でもある。北上川を架かる新北上大橋はこの河口付近で唯一の橋である。
 日本海の河口までは、約4キロメートルだ。
 この地区の中心になっていたのが、石巻市立大川小学校。円形のモダンなデザインの2階建の校舎で、在校生108人。地域の人々に愛着を持たれ、見守られてきた学校だったという。
 小学校のある場所は、北上川の右岸の堤防のすぐ脇の低くなっている平地で、大川地区釜谷の集落の真ん中にある。学校からは、堤防に遮られて北上川は見えないし、海岸線も見えない。

 あの日、この小学校に、北上川を遡上してきた大津波が襲った。10メートルを超える巨大津波、地震発生の約50分後だった。

 学校の校庭に集合していた子供たちは、近くの「三角地帯」と呼ばれる小高い場所に避難を始めていた。その最中、子供たちの列を巨大津波が襲った。子供たちは瞬時に津波にのまれ、そして74人の児童が犠牲になった。あまりにも悲惨なできごとだった。
 東日本大震災で、これだけの大きな犠牲が学校でおきたのは大川小学校だけである

 大川小学校には、震災から四年を過ぎた今も、犠牲になった子供たちに手を合わせようと訪れる人が後を絶たない。県外から震災の教訓を学びに訪れるグループや視察に来る防災関係者が、大型バスでやってくる。
こうした人たちに対する案内役は、津波で子供を失った親が努めることが度たびあるという。
 遺族たちが伝え続けたているのは「命の大切さ」である。
 「今 生きているこの日々は、震災で亡くなった2万人の人たちが生きていたであろう、生きたくてしかたがなかった、生きたかった日々を私たちは生きている」(NHKスペシャル 『悲劇をくり返さないために ~大川小学校・遺族たちの3年8か月~』)と語っていた。

 「なぜ多くの子供たちが犠牲になったのか。なぜ50分の時間がありながら逃げられなかったのか。なぜ大川小学校だけなのか。」
 その原因の解明が、必ずしもすべて済んでいるとは言えない。まだ多くの点が分かっていない。
 二度と同じ悲劇を繰り返さないために、原因解明をさらに進めて、大川小学校の悲劇を教訓として語り継ぐべきである。それが、犠牲になった子供たちの命に報いることになるのではないか。

■ 校庭に避難した子供たち
2011年3月11日14時46分、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の地震が発生した。大川小学校ででも、激しい揺れに襲われ、教室にいた児童や教職員は大駆け足で校庭へ避難した。余震で建物の倒壊の危険もあった。校庭で教師の点呼を受けて、児童は整列して待機したが、中には、はだしでのままの子供や、頻繁に遅い余震の恐怖で泣いていたり、気分が悪くなって吐いていた子供もいたという。学校に子供たちを迎えにきた保護者に、子供たちを引渡し、27名が学校を離れた。ほかの児童は、校庭に並び、寒さと恐怖に襲われながら、指示を待った。
地震発生後、3分後には、気象庁は「大津波警報 予想津波高6メートル」を出した。その3分後、防災無線で「大津波警報」が流される。この時点で、学校側も「大津波警報」が出されたことを知ったと思われる。大川小学校には、防災行政無線の子局が設置されており、聞こえたという証言もある(大川小学校事故検証報告書 2014年2月)

 一方、学校には、周辺の釜谷の住民も駆けつけていた。中には、学校の体育館に避難をしてきた釜谷の住民もいた。石巻市の「防災ガイド・ハザードマップ」では、大川小を地区の住民の避難所として「利用可」としている。学校側は体育館が地震で被害を受け、避難所としては危険で使用できないと説明し避難者は受け入れなかったという。

15時14分には、「予想津波高10m」に変更された。当初は。テレビだけで放送、その後ラジオでも放送された。但し、防災行政無線では伝えたかどうか分からない。
また、河北消防署の消防車や石巻市役所河北総支所の公用車が「大津波警報」を伝えながら大川地区を通行している。
 こうした「大津波警報」を、学校側がどこまで把握していたか定かではない。


■「裏山」になぜ逃げなかったか
 教師たちは、何度も校舎内へ再び入って、寒さに震える子供の上着や靴などを持ち出し、子供に配ったり、お手洗いに連れて行ったり子供たちの世話に奔走していた。
この日は、大川小学校の校長は休暇で休んでおり、教頭が緊急対応の指揮をとっていた。
学校に駆け付けた住民や、助かった児童など複数の証言で、「校庭では危ないから、裏山に逃げよう」とう声が子供たちからも上がったという。「俺たちいつも裏山に上っている。ここにいたら死ぬ」と訴えていたという。実際、裏山に上ろうとして、教師に連れ戻された子供もいたという。これに対し、教師側は、「裏山に逃げよう」という声や、その一方で「学校にいた方が安全だ」という意見も出ていたという。教頭は、「この山に子供たちを上がらせても大丈夫でしょうか?」「崩れる山ですか?」と、住民に問いかけていたという。住民たちは、「ここまで津波が来るはずがないよ」「大丈夫だから」と答えていた様子だったという。学校側と住民との間で裏山への避難を巡って口論になったという証言もあるという。
 こうした混乱状況の中で、緊急対応の責任者の教頭は、何も答えず、新たな指示を出さなかったと思われる。
裏山には登る道がなく、登るは危ないと考えたかもしれない。しかし、事故後の調査委によれば、「体育館の裏手の山には登ったことがある」とか、「登っている様子を見たことがあるので登れると思っていた」と答える子供たちがかなりいたのである。
また震災の前の年には、3年生の社会科授業で、教師と子供たきが裏山に上っていたり、授業の一環として裏山でシイタケ栽培をしていたこともあったという。子供たちが「山に逃げよう」と言ったのも、極めて信用性が高いと思われる。
 一方で、激しい揺れで、裏山の木が倒れていたという証言もある。
 しかし、事故調査員会が実施した「現地調査において確認された多数の倒木は、震災以前から倒れていると考えられるものも含めて、強風等を原因として発生したものとみなされる」(大川小学校事故検証報告書 2014年2月)としている。地震による地割れ、土砂崩れの形跡も見当たらないため、地震による倒木はなかったと思われる。
 要は、津波襲来の危機感をどれくらい認識していたかだろう。
 裏山に「大勢の子供たちを登らせて、怪我をさせたらどうするのだ」とか「ドロだらけになって服が汚れたらどうするのか」、「津波がこなかったら誰が責任をとるのだ」という思いが教頭や教師の頭をよぎり、判断を迷ったのは容易に想像できる。子供たちの安全を守ることは重要だが、緊急時は違う。日ごろの「事なかれ主義」が「とっさの」判断を躊躇させたと言えるのではないか。「命」に係わる問題なのだ。
 その一方で、スクールバスは、なんと学校に待機していたのである。

■ ただ一人生き残った教師の手紙
 現場でどのような議論が交わされたか、学校側は何をしようとしたのか、住民は何を主張したのか、関係者のほとんどが犠牲になっているため、今となっては、完全に明らかにするのは難しい。
 その時校庭にいて、一部始終を知っているのは、奇跡的に生き残った教師1名と児童4名だけである。
 生き残った教師は、子供たちの保護者と大川小学校校長あてに書いた手紙(2012年6月3日付)が新聞に掲載されている。
この教師は、裏山にとっさに避難して奇跡的に命を取り留めたが、現在は休職中だという。
 手紙の中で、「何を言っても、子供の命を守るという教師として最低のことが出来なかった罪が許されるはずはありませんが、本当に申し訳ございませんでした。今はただただ亡くなられた子供達や先生方のご冥福をお祈りする毎日です。本当に申し訳ございません」と犠牲になった遺族や関係者に謝罪した。
 また、校庭で避難を巡ってどんなやりとりがあったのかその一部が明らかになった。
 「サイレンが鳴って、津波が来ると言う声がどこからか聞こえて来ました。私は校庭に戻って、教頭に『津波が来ますよ。どうしますか。危なくても山へ逃げますか』と聞きました。でも、何も答えが帰って来ませんでした。それで、せめて、一番高い校舎2階に安全に入れるか見て来るということで、私が1人で2階を見て来ました。戻ってくると、すでに子供たちは移動を始めていました。近くにいた方に「どこへ行くんですか」と聞くと「間垣の堤防の上が安全だからそこへ行くことになった」ということでした。どのような経緯でそこへいくことになったかは分かりません」
そして、最後に、「最後に山に行きましょうと強く言っていればと思うと、悔やまれて胸が張り裂けそうです」と綴っている。

■ 津波に襲われた74名の子供たちと11名の学校関係者
 15時32分、ラジオで「大津波警報 予想津波高10m」が伝えられた。多分、学校関係者はこの情報を聞いて、校庭から約200メートルほど離れた新北上大橋のたもとにある「三角地帯」と呼ばれる小高い丘に避難を決断した。小高いとはいっても、大川小学校の屋上程度の高さしかなかった。
北上川では、巨大な濁流がすでに猛烈な勢いで遡上して様子が住民に目撃されている。
 先導の教師を先頭に児童74名が列を組んで、釜谷地区の集落の中を進んでいった。
 出発して間もなく、「ゴーッ」というすさまじい轟音とともに、北上川の堤防を越えて巨大な津波が子供たちを襲い、濁流が渦巻いた。
 濁流は、大川小学校の屋上を超え、「三角地帯」もゆうに越えていた。
 列の後ろにいた児童4人と教師1人は、裏山に駆け上って、奇跡的に助かった。
 児童70名、学校関係者1名が犠牲となる悲劇だった。

 6年生の息子を失った母親は、「ちゃんとそれを知りたいだけなんですね。そうするとたぶん亡くなった息子に対してもちゃんと報告して供養になるじゃないかと思って。誰が悪いとかそういうわけじゃなくてどういう過程でそういうふうになったか、その理由なんですね。だから決して人を責めたりするのは息子も喜ばないと思うんで」とインタビューに答えていた。(NHKスペシャル 『悲劇をくり返さないために ~大川小学校・遺族たちの3年8か月~』)
 多くの遺族が、なぜわが子が犠牲になったのか、納得のいく説明を得られないままでいるのだ。


■ 「まさか、津波に襲われる………」 欠如した津波への危機感
 釜谷地区には、地震発生時、住民や働いていた人、来訪者など232人がいた。このうち197人が死亡した。死亡率78%にも及び、大きな犠牲をだした。
 大津波に襲われるとは、思ってもいなかったのであろう。
 地元にある釜谷交流会館に避難した人や大川小学校に避難しようとした人がいたという。住民が地元に留まっている様子は、大川小学校の教頭や教職員も知っていたと思われる。「地元の人も避難しないのだから、ここにいれば安全」、そんな根拠がまったくない思い込みが学校側の関係者に生まれていたもの無視できないのではないか。
 事故調査員会では、2013年8月から10月にかけて、大川地区・北上地区住民を対象に津波についての意識についてアンケート調査を実施した。
 その結果、「あまり心配していなかった」と「まったく心配していなかった」が70%以上を占めた。
また、震災の前年の2010年2月28日に南米チリで発生した地震に伴う「大津波警報が発令された際に、避難場所へ避難したかどうかについて尋ねた。大川地区では「自宅にいた家族は誰も避難しなかった」が70%前後に及んだ。
 この地区の住民の意識の中に、津波の脅威を認識している人はほとんどいなかったと考えられる。
 また教職員に対する調査でもほとんどが、「あまり心配していなかった」と「まったく心配していなかった」だった。
(以上 大川小学校事故検証報告書 2014年2月)
 こうした意識調査からは、学校側、住民、ともに津波に対する警戒感がほとんどなかったと思いわれる。「ここがまさか、津波に襲われるとは……」、正直な本音であろう。
 大川小学校の事故原因の最大のポイントは、こうした津波に対する危機感の欠如、「まさか……」という意識だったと考える。そして「空白の50分」が作り出され、避難が決定的に遅れて、悲劇が生まれたと思う。

■ 学校にいた全員が助かった門脇小学校
 大川小学校の悲劇と対比されるのは門脇小学校である。
 門脇小学校は、同じ石巻市の旧北上側の河口付近の海岸線沿いにある児童数約300人の学校である。
 この門脇地区は、東日本大震災発生の約15分後津波の第一波が押し寄せ、その約30分後には高さ6.9メートルの大津波に襲われた。
門脇小学校は、地震直後の津波警報発令の一報を知ると、すでに下校していた児童を除き、約240人を誘導し、学校の裏の高台の日和山公園にいち早く避難させた。かねてから訓練していた通りの避難行動である。児童が避難するに際しては、児童を引き取りに来た保護者も同行させた。
海岸線が近いため津波到達時間は早い。一刻の躊躇も許されなかった。高台に全員避難すると、間もなく「ゴーッ」という轟音と共に、濁流が街を覆い、電柱をなぎ倒し、住宅を押し流していたと関係者は証言する。
 地震発生時、校内にいた児童は全員が助かったのである。
地震発生2日後の13日、児童は別の場所に避難していた親や家族と再会し、抱き合って無事を喜んだという。
しかし、避難前に保護者に引き渡した児童9人の安否は確認できなかった。
また、学校に避難して来る住民のために校舎に残った教職員も、住民約40人と校舎裏側から間一髪で脱出した。
  門脇小学校の校舎は、濁流で流されてきた自動車がぶつかる音が鳴り響き、漏れたガソリンに引火したとみられる火災が起き全焼した。
 門脇小学校では、海岸線からわずか800メートルという場所にあるため、日頃から津波への備えを行い、避難訓練もしっかり実施していたのである。

■ 問われる津波への備えの甘さ 行政の責任
 石巻市の地域防災計画では、宮城県の「第三次地震被害想定調査」に示された宮城県沖(連動)を想定地震とし、この想定に基づいた津波浸水予測図を用いてハザードマップが作成され、地区の住民に配布されていた。大川小学校は、津波の予想浸水域からまったく外れており、むしろ津波災害時の避難所に指定されていた。
 このことが、津波災害に関して、逆に「安心情報」となってしまった懸念が生まれる。ハザードマップは一定の想定のもとに作成されたもので、想定した地震の規模を上回る地震が発生した場合にはまったく意味がないことをしっかり理解しなければならない。「まさか……」という思い込みが生まれ、避難行動などに遅れが生じる。「想定を超える自然災害」はいつでも起きる可能性があるのだ。
 また大川小学校の立地・校舎設計に際しては、洪水や津波は想定されていなかった。
 大川小学校では、事故の約1年前のチリ地震による津波警報(大津波)発表時に避難所が開設され、事故2日前の地震の際には児童・教職員が校庭へ避難した。教職員間で地震・津波の際の対応が話題となっていた。

■ 大川小学校の校長と石巻市教育委員会の対応が問題
 大川小学校が津波に襲われた日に休暇で不在だった校長が大川小学校の現地に初めて入ったのは3月17日、震災発生から2か月後だった。余りにも遅い。
 地震当日は、校長は、釜谷地区に入ろうと試みてはいる。しかし、北上川堤防に向かう道路は大渋滞で、通行不能と判断してあきらめる。釜谷地区の対岸にある石巻市河北総合支所総合センター・ビックバンに向かい、教育委員会に連絡をとろうとした。しかし、電話は通じなかった。ビックバンで一夜を明かし、情報収集を行った。その後も、ビックバンや河北総合支所、警察署、遺体安置所を回り、情報収集をしたという。事故調査員会報告書によれば「ビッグバンには、子どもの安否が不明の中で待ち続ける保護者が多数いたが、校長は、生存児童には話しかけるものの、これら保護者にはほとんど声を掛けることもなかったという証言がある」と記されている。教育委員会への電話は、相変わらず通じなかったという。初めて事故について報告があったのは、3月15日、2か月以上経ってからである。生存者の数だけ記された簡単な報告だった。3月16日、初めて校長が石巻市教育委員会を訪れ、翌日、初めて大川小学校を訪れる。
(大川小学校事故検証報告書 2014年2月)

 犠牲者や行方不明者の把握、救助活動の支援に全力を挙げるのは校長として当然の責務である。勿論、石巻市教育員会にいち早く報告するのは必須だろう。余りにもお粗末である。
 教育委員会の報告が適切にされていたなら、教育委員会の認識も違うものになり、事故に対する対応策が違ったものなったかもしれないという期待は残る。

 震災当時、教育委員会の体制も問題があったと思われる。教育長が病気休暇中で、教員出身ではない事務局長が教育長代理を務めていた。「各学校の状況の把握、迅速な意思決定、学校現場への指示などに一定の否定的な影響を及ぼした可能性がある」と事故調査員会の報告書では指摘している。また「震災の約1週間後には大川小学校の被害状況が特に大きいことが明らかになってきたのであるから、石巻市教育委員会はその被害状況に対応した対策本部を立ち上げ、対策を打ち出すべきであったと考えられる。そして石巻市教育委員会がそのような対策をとっていれば、遺族・保護者との関係ももっと変わったものになっていた可能性がある」とも指摘している。


■ 立ち上がった遺族 石巻市教育員会の第一回説明会
 犠牲になった子供たちの遺族は、「なぜ逃げられなかったのか」疑念がどう。しても残る。
「あの日、何があったのか知りたい」、学校側に説明会の開催を求めた。

 2011年4月、石巻市教育員会は、初めて「保護者説明会」を開催し、教育委員会からは事務局長と学校教育課長等が出席した。
 説明会の狙いは、今の時点で把握している情報を説明することと保護者の要望を聞くということだったという。直前になって、急遽、ただ一人生き残った教師も出席することになった。教師は、当日の状況について自ら説明したが、「『裏山』で木が倒れているのを見た」とか「『裏山』に逃げた際に、波を被り、靴もなくなった」、「一緒にいた児童は水を飲んで全身ずぶぬれだった」と証言したが、他の証言という食い違う内容なので、遺族たちから証言の信ぴょう性について疑惑を招いた。また「説明会終了後は、言葉を発することもできないほど憔悴していたという。

■ 助かった児童への聴き取り
 2011年5月、助かった児童に聴き取り調査が行われた。また大川小学校の用務員、山へ避難した支所職員、地区住の中学生へも聞き取り調査が行われた。
 児童の聴き取りに当たっては、子供たちへの心の負担には配慮したとしているが、聴き取り後、体調を崩した児童が複数いる。
聴き取りに際して、聴き取り担当者は手書きでメモをしていたが、報告書作成が終わると、手書きメモは廃棄したという。また、聴き取りの際に録音は行われていなかった。「その結果後に聴き取り記録の正確性や質問項目について疑問が呈されただけでなく、意図的な廃棄やねつ造まで疑われることになった」(事故検証委員会報告書)
 かなり杜撰な聞き取り調査だったことが伺える。大川小学校の悲劇の真相を解明しようとする熱意がまったく感じられない。70人の尊い犠牲を無駄にしない、事故の検証をする最も重要な狙いなのではなかろうか。

■ 立ち上がった遺族 石巻市教育員会の第二回説明会
 2011年6月4日、第2回の保護者説明会が、石巻市長も出席して行われ
た。石巻市教育委員会は、この説明会で多くの児童が犠牲になったことを謝罪した。しかし、最大の疑問である「なぜ校庭に50分間も留まり続けていたのか」についての明確な説明はなかったという。
 またこの説明会では、市長による「自然災害における宿命」、発言が問題になった。遺族からの「失敗と認めろ」、「人災だと言え」との追及に対しての一連の答えの中で発せられた一言である。
 また、終了時、保護者からの「今後説明会はあるんですか。これで説明会は終わりですか。」との問いに対し、主催者側が「説明会は予定しておりません。これで終わりです。」と発言した。
 説明会終了後、石巻市教育員会の責任者は、記者団に囲まれて「説明会は終わりですか。3回名はない?」と聞かれ、きっぱりと「終わりです。ありません。」と答えた。また「参加者はそれで納得しているのか?」という問いには、「その後、なにもなかったので……」と話した。(NHKスペシャル「悲劇をくり返さないために ~大川小学校・遺族たちの3年8か月~」)

■ 聞き取り調査メモ廃棄問題

 8月21日、聴き取り調査のメモを廃棄したことが報道された。第2回説明会で、口頭で、「山への避難を訴えた男子児童がいた」という説明があったにもかかわらず、その根拠となる記録がなくなってしまったという事態が発生した。遺族の間に都合の悪い事実を隠蔽しているのではないかとの不信感が生まれた。

■ 遺族たちの自主調査
 教育委員会の説明に納得できない遺族は、定期的に集まるようになった。
 「50分も時間があったと言っているが、50分間、一体何をやっていてのか」という疑問は解き明かされないままだった。
 「空白の50分間」を自分たちで調べ始めた
 調査していくと、津波を恐れて「裏山に逃げよう」と発言した児童や教員が複数いることが分かった。動けなかった理由がきっとある それが分からないと教訓にならない、遺族たちの思いである。

■ 説明会の再開
 その後、遺族たちの求めに応じて説明会を再開、しかし、核心の「避難がなぜ遅れたのか」「裏山になぜ逃げなかったのか」についての説明はない。
 2012年8月 6回目の説明会での教育員会の対応に、遺族たちは大きな不信感を抱く。
 問題となったのは、助かった児童や保護者から話を聞いてまとめた報告書。
 「裏山に避難したがっていた子」がいたという助かった5年生の証言が記載されていなかった。
 教育員会は、「記憶は変わるものだとは私は思っている」とし、当時、児童からの聞き取ったメモを処分したのでその事実は確認できないとした。
 結局、裏山に避難しなかった理由はうやむやになった。

■ 大川小学校事故検証委員会発足
 2013年8月、平野文部科学大臣(当時)が大川小学校を訪れて慰霊し、捜索現場などを視察すると共に、遺族とも直接対話をした。その後、文部
科学省としても事故検証をサポートしていくことを表明し、児童遺族と文部科学省・宮城県教育委員会・石巻市教育委員会の4者で円卓会議が開催された。
 2014年2月、国が関与して、第三者の専門家による「大川小学校事故検証委員会」が作られた。大川小学校の事故原因究明は新たな段階を迎えた。
 委員長は、室崎益輝氏。ひょうご震災記念21 世紀研究機構の副理事長で神戸大学名誉教授である。
 第三者機関として、原因究明を進め、再発防止への提言をまとめることになった。

■ 大川小学校事故検証報告書
 2015年2月、大川小学校事故検証委員会は最終報告書を発表し、遺族に説明した。
 報告書では、避難開始の意思決定が遅かったことと、津波を免れた裏山ではなく、危険な河川堤防近くを避難先に選んだことを「最大の直接的な要因」と結論づけた。また、学校の防災対策の問題点や、同校が避難所に指定されているのに行政からの災害情報の伝達が不十分だったことも指摘した。
 最終報告書案には、唯一助かった教諭から聞き取った結果も盛り込んだが、遺族らは、避難決定がなぜ遅れたかが明らかになっていないと批判。調査資料の公開などを求めている。
 そのうえで、防災関連の教育を教職課程の必修とすることなど24の提言を示した。
報告書をまとめた室崎委員長は、検証委が震災から2年近くたった昨年2月に発足したことなどを踏まえ、「調査に一定程度の限界があったことは否めない」ともしている。室崎委員長は記者会見で「再発防止のあり方を提示するのが目的。市教委などの対応を見届けたい」と理解を求めた。
(朝日新聞 2014年2月23日)

 しかし、遺族は納得しなかった。
 これでは、「死の恐怖でずっと50分待っていた子供たちが浮かばれない」   
 室崎氏は、原因を明らかにするには限界があったとしている
 検証を進めても十分な証言を得られなかったとし、その背景には率直に証言することには難しい構造があるとした。
 「いくら責任追及につながらないといってもそこで発言することが、たとえば市の教育員会だとか、学校の先生を責めることにつながるのではないか思われた時にその部分については明確に発言すること控えることがあるのではないか。それは日本の社会全体がこういう時に“犯人を捜さないといけない”、誰か悪者にしなないといけない、そういう風潮がある中で自分たちが悪者にされるのではないかという危機感があるとなるべく自分たちを守ろうとする」
と語った。(NHKスペシャル「悲劇をくり返さないために ~大川小学校・遺族たちの3年8か月~」)
 こうした重大な事故検証を行う際に、証言者の責任を問わない「免責」の制度を日本でも導入し、積極的な証言を促すことも必要だと提言している。

■ 学校側の責任を裁判で追及へ
 震災3年目の2014年3月、遺族の内23人は、学校側を裁判で訴えることを選択した。
県と市に総額23億円の賠償を求める訴訟を仙台地裁に提訴。地震から津波の到達まで約50分あったのに適切に避難させなかったと主張し、「明らかな人災」として災害時の学校管理下での犠牲の原因を問いかける
 訴状によると、2011年3月11日の地震発生後、教職員らは児童たちを裏山などの高台に避難させず、防災行政無線で大津波警報が流れる校庭に待機させた。近くの川に異変がないか確認するなどの情報収集もしておらず、注意義務を果たせば児童は助かったと指摘。国家賠償法などに基づき、設置管理者の市と教職員の給与を負担する県に、児童1人当たり1億円の賠償を求めている。
(朝日新聞 3月11日)
 訴訟には、奇跡的に生き残った「あの日何が起きたか」を証言している5年生男子の父親も加わった。
石巻市は、裁判の答弁書で「予見できなかったのもやむを得なかった」としている。
訴訟になったことで、当事者である学校側との遺族との対話は途絶えた。
 「今後、訴訟に影響があるので、コメントは差し控える」、学校側の姿勢は変わった。

 東日本大震災からあっという間に4年。3月11日、遺族は4年の歳月を経て、未だにわが子の最後に迫ることができない。
 震災の検証はまだ終わっていない。







2015年3月10日
Copyright (C) 2015 IMSSR





*********************************************************
廣谷  徹
Toru Hiroya
国際メディアサービスシステム研究所
代表
International Media Service System Research Institute
(IMSSR)
President
E-mail thiroya@r03.itscom.net  /  imssr@a09.itscom.net
URL http://blog.goo.ne.jp/imssr_media_2015
*********************************************************


産経新聞前ソウル支局長 名誉毀損は“有罪”? 違法性阻却 産経新聞の責任

2015-12-30 06:16:26 | 評論
産経前ソウル支局長 名誉毀損は成立している 「違法性の阻却」は適用されず メディアの責任
~検証 産経新聞記事朴大統領名誉毀損事件~


無罪判決 産経前ソウル支局長
 12月17日、ソウル中央地裁は韓国の朴槿恵(パククネ)大統領の名誉を記事で傷つけたとして罪に問われた産経新聞の加藤達也前ソウル支局長(49)に対し、無罪判決(求刑懲役1年6カ月)を言い渡した。李東根(イドングン)裁判長は判決公判の冒頭、韓国外交省が文書を提出し、日本側が善処を求めていることに配慮してほしいと要請してきたことを明らかにした。
判決では 「わが国が民主主義制度をとっている以上、言論の自由を重視せねばならないのは明らかだ」と述べている。
また公人である朴氏に対する名誉毀損罪の成立は認めなかったが、前支局長のコラムを「虚偽だった」と断じ、さらに私人としての朴氏の名誉が傷つけられたことを認定している。
「言論の自由」を認めた当然の結論だろう。しかし、名誉毀損については、完全に“無罪”ではなかったのである。

  問題になったのは前支局長が執筆し、昨年8月3日の産経新聞の電子版に掲載された「朴槿恵大統領が旅客船沈没当日、行方不明に…誰と会っていた?」という見出しの記事だ。
  客船セウォル号沈没事故に関連するコラムで、朴大統領が事故直後に姿を見せなかった「空白の7時間」に関するさまざまな「うわさ」があるとして、韓国紙・朝鮮日報のコラムを引用して「朴大統領と男性の関係に関するもの」というコメントを付け加えた。
 この記事に対し、大統領府は「責任を追及する」と公然と反発し、市民団体の告発を受ける形でソウル中央地検が捜査し、2014年10月、「朴大統領を誹謗(ひぼう)する目的で虚偽事実を広めた」として、情報通信網法における名誉毀損(7年以下の懲役または5千万ウォン以下の罰金)で在宅起訴した。
起訴された前支局長は長らく出国を禁じられた。
報道を巡る名誉毀損については、日本は勿論、世界の先進国では、民事上の損害賠償で解決を図るのが通例で、刑事事件として訴追するのは極めて異例である。
 韓国の名誉毀損罪は被害者以外でも告発できる。今回は市民団体による告発だった。韓国の法律では、被害者の意思に反して起訴はできないと定めているので、朴大統領が早い段階で処罰を望まないと表明すれば、前支局長は起訴されなかった。起訴は朴大統領の了解のもとに進められたと考えても合理性はある。
今回の判決で、裁判長は判決の言い渡しを始める前、外交省から検察側を通じて、裁判所に提出された文書を読み上げた。極めて異例の展開である。
日本政府は、韓国側による訴訟取り下げなど、今後の日韓関係への影響を考慮し、善処を強く求めてきた。
 これに対し、韓国外交省当局者は韓国法務省に文書を提出して、日韓関係に配慮するよう異例の要請を行ったことを明らかにした。この要請は、法務省から検察当局、裁判所に渡った。外交省当局者は「韓日関係を担当する機関として、日本側からの要請を法務省に伝えるのは業務の一部だ」と説明した。
緊張化している日韓関係を反映して揺れ動いたまさに政治的な裁判であった。
 
12月22日、ソウル中央地検は、判決を受け入れ、控訴しないとする文書を同地裁に提出し、無罪判決が確定した。
この“無罪判決”の直ぐ後に、従軍慰安婦問題で、「最終的かつ不可逆的に」解決が確認され、日韓関係の改善の歴史的な進展が実現された。
政治的には極めて意義のある“無罪判決”だったが、名誉毀損についてメディアの責任問題は放置されたままだ。


名誉毀損は“成立”している?
 12月18日、産経新聞は、「前支局長に無罪 言論自由守る妥当判決だ 普遍的価値を共有する契機に」という見出しで「改めて、この裁判の意味を問いたい。公判の焦点は何だったか。それはひとえに、民主主義の根幹を成す言論、報道の自由が韓国に存在するか、にあった。裁かれたのは、韓国である」と「主張」で掲載した。
民主主義社会の根幹である言論を守り、批判、論評の自由を確保するのは鉄則だろう。その点では筆者はまったく異論はない。
しかし、加藤前支局長のコラムを読むと、掲載された内容については大いに疑念がある。今回の判決では、韓国の法律に基づけば、名誉棄損は成立しないという判決だったというういだけで、仮に日本の刑法に基づけば名誉棄損は成立していると考えるのが合理的だろう。産経新聞のコラムは日本語で掲載され、日本国内で報道された。メディアとしての責任は、日本の国内の法体系や倫理で検証されなければならない。
産経新聞は、「言論の自由は守られた」と胸を張るのには、筆者は相当違和感を覚える。メディアとして責任は本当に果たされていたのだろうか。≪韓国検察に猛省求める≫としているが、産経新聞も「猛省」する必要があるのではなかろうか。


加藤前ソウル支局長の記事は?
 産経新聞の記事(12月17日)の表現を引用すると「304人の死者・行方不明者を出したセウォル号沈没事故当日の昨年4月16日、(1)朴大統領の所在が分からなかったとされる7時間がある(2)その間に、朴大統領が元側近の鄭(チョン)ユンフェ氏と会っていたとの噂がある(3)そのような真偽不明の噂が取り沙汰されるほど、朴政権のレームダック(死に体)化は進んでいるようだ-というのが内容」である。

 以下にその要旨を記載しよう。

 「朴槿恵大統領が旅客船沈没当日、行方不明に…誰と会っていた?」(要旨)
 旅客船事故当日の4月16日、朴大統領が7時間にわたって所在不明となっていたとする「ファクト」が飛び出し、政権の混迷ぶりが際立つ事態となっている。
 7月7日の国会運営委員会に、大統領府秘書室長の姿があった。政府が国会で大惨事当日の大統領の所在や行動を尋ねられて答えられないとは…。韓国の権力中枢とはかくも不透明なのか。
 こうしたことに対する不満は、あるウワサの拡散へとつながっていった。朝鮮日報の記者コラムである。「大統領をめぐるウワサ」と題され、7月18日に掲載された。
 証券街の関係筋によれば、それは朴大統領と男性の関係に関するものだ。
 ウワサの真偽の追及は現在途上だが、コラムは背景を分析している。『大統領個人への信頼が崩れ、あらゆるウワサが出てきているのである』
 朴政権のレームダック(死に体)化は、着実に進んでいるようだ。」
 (2014年8月3日に産経新聞ウェブサイトに掲載  出典 朝日新聞 2015年12月18日)

日本の裁判所では「名誉毀損」をどう考えているか?
 日本の刑法では、「第二百三十条 公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する」と定められている。
 刑法で定められている犯罪なので、逮捕される可能性もあるし、懲役刑を科せられる可能もある。
 また民法でも定められていて、名誉毀損が成立した場合は損害賠償請求の対象となる。
 但し現実には、名誉毀損を巡る争いは日本も含めて世界の先進国では、民事上の損害賠償で解決を図るのが主流で、刑事罰が適用されることはほとんど無い。

 その一方で、憲法が保障する基本的人権の主要な一部である「表現の自由」や民主主義の基礎である「国民の知る権利」をどう担保するかも極めて重要である。
 名誉毀損の法体系でも、「表現の自由」や「国民の知る権利」については十分配慮している。
「公共の利害に関する場合の特例」である。

「(公共の利害に関する場合の特例)
第二百三十条の二 前条第一項の行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。

2 前項の規定の適用については、公訴が提起されるに至っていない人の犯罪行為に関する事実は、公共の利害に関する事実とみなす。

3 前条第一項の行為が公務員又は公選による公務員の候補者に関する事実に係る場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。」


 新聞や雑誌、テレビなどのメディアが報道する場合に、要件を満たせば「名誉毀損」が「免責」されるという条文である。
 報道や論評、批判などの「言論の自由」を保証しようとするのがその目的である。
 法的な解釈としては、「違法性の阻却」されている。本来は違法性が存在するが、一定の要件を満たせば違法性は阻却され、免責されるという意味である。

◆ 名誉毀損の「違法性の阻却」の3要件
(1) 報道が公共の利害に関する事実を伝えていること=「公共性」
(2) 報道の目的が専ら公益を図るものであること=「公益性」
(3) 報道内容が真実であると証明されること。また、この証明がない場合でも、報道時点で、メディア側にその内容を真実と信じるだけの相当の理由があったこと =「真実性」
 この「違法性の阻却」の3要件から「産経新聞の記事」を検証してみよう。
 今回の裁判は、韓国内で行われたので日本国内は関係ないとは決して言えないだろう。産経新聞は、日本国内で発行される新聞で、記事を読んだのは日本の読者がほとんである。日本国内で名誉毀損がどのように扱われているか、検証することは意味があるだろう。

「公共性」「公益性」は認められるか
 セウォル号沈没事故の対応をきっかけに、「朴政権のレームダック(死に体)化は、着実に進んでいるようだ」とコメントする記事は、単なる政治家の私生活などを伝えるゴシップ記事とは違い、細かな表現はともかく、全体として政治コラムになっているという印象である。「証券街の関係筋によれば、それは朴大統領と男性の関係に関するものだ」という表現は、「公共性」「公益性」があるかどうかは判断が分かれるところだが、「朴政権の混迷ぶり」を伝える記事の中で、ファクトの一つとしてストリーに密接に結びついているので許容に範囲に入ると思える。ソウルの裁判所でも記事の「公共性」「公益性」も認めた。
「真実性」は認められない!
 問題は、「旅客船事故当日の4月16日、朴大統領が7時間にわたって所在不明となっていたとする「ファクト」が飛び出し、政権の混迷ぶりが際立つ事態」にとなったとし、その「ファクト」として、「大統領をめぐるウワサ」と題された朝鮮日報のコラムを引用して、「証券街の関係筋によれば、それは朴大統領と男性の関係に関するものだ」と記述した点である。
 朝鮮日報のコラムを引用したにしても「うわさ」で記事を書いている。
 日本の名誉毀損の「違法性の阻却」の要件に「真実性」の証明が定められていて、「報道内容が真実であると証明されること。また、この証明がない場合でも、報道時点で、メディア側にその内容を真実と信じるだけの相当の理由があったこと」が求められている。
 産経新聞の記事が掲載された当時、記者がその内容を「真実と信じるだけの相当の理由」が存在していたかどうかがポイントである。
 しかし、「相当の理由」は「うわさ」である。「うわさ」は「真実と信じるだけの相当の理由」として認められないのは間違いないだろう。
 「うわさ」と注釈をつけても、「公然と事実を摘示」したことには変わりはない。東亜日報に記事を引用と記載したところで、免責にはならないのは当然だ。
 結論を述べると、「うわさ」で書かれた記事は「真実性」の要件を満たさないので、「違法性の阻却」は認められず、名誉毀損が成立するのである。
 産経新聞の記事は無罪ではなくて、名誉棄損の罪に問われるのである。
 仮に国内の新聞が安倍首相を「うわさ」を元にプラーベートな事柄を批判したらどうなるかを想像して欲しい。
 朴大統領は韓国の元首、外国の元首を「うわさ」で批判するのはメディアの倫理として如何なものか。
 公判でも記事で書かれた「うわさ」が事実かどうか争われている。
 2015年3月、裁判長は公判で、元側近の男性らの証言や大統領府への出入記録などから朴大統領と男性は事故当日には会っていないとの見解を示した。加藤前ソウル支局長も、2015年4月、産経新聞に手記を掲載し、この見解に「異を唱えるつもりはない」として認めている。 つまり「事実」ではなかったことが明らかになっているのである。
 ちなみに、産経新聞の記事の引用元になった朝鮮日報は、名誉毀損に問われていないのは明らかに不公正である。日本のメディアを狙い撃ちにしたと思われても致し方ないだろう。

 新聞や雑誌、テレビなどのメディアの「報道の自由」と「国民の知る権利」を守るために、名誉毀損に関して「違法性の阻却」という“特権”をメディアは与えられている。それだからこそメディアに課せられた責任は重い。その重みをしっかり自覚し、報道の倫理を守らり、国民からの信頼感を維持しなければならない。「報道の自由」を守る責任はメディア側にもある。
産経新聞は検証員会を設置し、この問題の経緯を冷静に検証する必要があると思う。「うわさ」で記事を書いた記者の責任やその記事を掲載したメディアの責任は問われるべきだろう。
民主主義と「報道に自由」はメディア側で守らなければならない。




2015年12月19日
Copyright (C) 2015 IMSSR

******************************************************
廣谷  徹
Toru Hiroya
国際メディアサービスシステム研究所
代表
International Media Service System Research Institute
(IMSSR)
President
E-mail thiroya@r03.itscom.net  /  imssr@a09.itscom.net
URL http://blog.goo.ne.jp/imssr_media_2015
******************************************************