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破壊衝動と自己

2006-10-18 23:31:04 | 雑記
 ときたま、急に何か物を壊したい気持ちに駆られることがある。対象は何でもいいわけ
じゃなく、とくに綺麗なものや壊れやすいもの、傷つけちゃいけないようなものに目が向
けられる。
 別にイライラの理由が特にある訳ではなく、ただ単に急速に破壊衝動だけが膨れ上が
り、その一瞬を逃すと膨れ上がった衝動は空気の抜けた風船のようにしぼんで、また胸の
奥にしまわれていく。
 たとえば、家には家業の都合からガラス製品がたくさんある。それらは売り物だったり
展示品だったりと、ともかく『破壊してはいけないもの』なのだが、同時に『壊れやすく
・綺麗』というきわめて破壊衝動をくすぐる存在なのだ。
 勿論、それを衝動のままに破壊する訳にはいかない。だがその機会を逃すと爆発し損ね
た衝動は引っ込んだ胸の奥で燻り続け、また衝動が再燃した瞬間に二重にも三重にもなっ
て煽りだすのだ。そういった類の危険な衝動をずっと胸のうちに抱え込んでいる訳にはい
かない。どこかで解消してやらなければならない。
 そういった時、自分は直ぐ様100円スーパーに駆け込み、自分の衝動に上手く折り合い
をつけられるような物を買ってくる。例えばそれは縁の薄いブランデーグラスや割れやす
いガラス細工だったり、例えばそれはキラキラと光を反射する真っさらな鏡だったり。そ
うした『壊したらいけないが壊してもよいもの』を買い漁り、破壊衝動がしぼんでしまわ
ぬ内に急いで自宅へとって帰すのだ。
 自宅に戻ると、古新聞を手に隣の駐車場に足を運ぶ。破壊衝動が求めるのは天気の良
い、よく晴れた日の外だ。決してぐずぐずとした薄曇りの日でも、窓を閉めきった部屋の
中でもいけない。必ず手順とルールがありそれを順守することが大事なのだ。
 古新聞を引き、まず買ってきた物をじっくりと眺める。これから自分によって破壊さ
れ、その形を失う物の本来の形をじっくりと瞳に焼き付けるためにだ。こういった行為は
ある種神聖な行為だ。誰にも邪魔されることなく、破壊する対象物を通して自分の中の破
壊衝動――引いては自分自身に向き合う。それがそれであるという唯一の存在理由を、自
分のエゴだけでぶち壊すといえのは背徳感と相まってえも云われぬ感情が沸き起こる。だ
が、ただその事だけに支配されるのではいけない。あくまで破壊衝動を自己の管理に置い
た状態で、精密な仕草と手順で処理しなければならないのだ。それは自分のエゴでこれか
ら破壊されていく物への最低限の礼儀であり、また自分自身のその衝動への戒めだ。
 一つにつき短くとも5分間、そうやって自己を省みた後、おもむろに立ち上がり、一つ
づつ両手でかかげて地面に向けて投げ付ける。ガチャンという音と共にそれは壊れただの
ガラス片になり、その瞬間に自分の中からスッとなにか固いものが抜けていく感覚を覚え
る。
 時々割れた欠片がこちらに飛んでくることがある。そうした場合もよほどの事が無い限
りは避けずに受けとめる。跳ね返ってきたそれは、自己が移り込んだガラスの最後の抵抗
なのだ。それを受けとめられるのは自分だけだし、自分はそれを受けとめなければならな
い義務と責任がある。
 ガラスを全て割り終えた後も、この儀式は続く。壊れたガラスに写るきらめきはまた、
自分の破壊衝動によって生まれた、新たな意識の一部分に他ならないからだ。壊れた欠片
がまばゆい光を放つというのは一種皮肉だが、だからこその趣があるのだと自分には思え
る。ガラスを通し省みた自分を自分自身で砕いた後に生まれるきらめき。それこそが真に
この破壊衝動の目的、得る事の出来るかけがえの無いものなのだ。破壊衝動の本質なの
だ。
 一連の儀式めいた作業を終えれば、残されるのは現実。割れたガラスの後片付けだ。こ
れだけはどうしようもない。情けなさと無益さを悔やみながら、あちこちに飛び散ったガ
ラスの破片を残らず集めて新聞紙に包みごみ箱に投げ入れる。

 こうして破壊衝動の隆起、解消、自己との向き合い、儀式的静寂は終わりを向かえ、ま
た次なる日常へと自身は埋没していくのだ。
 そして行き詰まり、そんな時にかぎって顔を覗かせる破壊の衝動を通して、今の自分と
いう脆い存在を乗り越えようとするのだ。