将来の市長候補の一人だが善人の皮を被った「狼」のTTクンから、まちづくりと地域づくりの違いを問われ、よく考えもせずに「単に対象エリアの大小」などとテキトー
に答えたが果たしてそうだろうか。帰途、車を運転しながら考えてみたが、コンピュータのプログラムになぞらえて言えば、もしかしたら「まちづくり」はOS(オぺレーテ
ィングシステム)である民主主義の強化であり、「地域づくり」は個別アプリとしての住民自治の充実なのかも知れない。帰宅して風呂に入っていても妙に気になるよ。
政府系金融機関に勤務する在野の政治学者竹井隆人氏は、朝日新聞に寄稿して「民主主義」について次のように述べている。
世には時流に乗った言葉のみが幅を利かせ、その勢いに人々はただ呑まれている。昨今、いよいよ言葉が溢れ、それへの感受性が失われている。「コミュニティ」
なる言葉もそうだろう。コミュニティ(共同体)の大切さを否定する人は少ない。だがその連帯の強化を主張することは、果たして「正しい」のか。「仲良し」の奨励、ま
たはそれによって成り立つ「仲良し社会」の意で多用されるようだが、この語感のよさゆえに「コミュニティ」に疑念を向ける人はいないだろうし、そうした世間の「空気」
におもねる知識人たちは、いたずらに「コミュニティ」を弄するのだ。
しかし、その「仲良し」を強化すればするほど、その社会が排外的になるのは無論のこと、内部では異論者を「KY(空気を読めない者)」として「粛清」することともなる。
この大勢順応が社会を支配すれば、人々は自らが社会を主体的に担う自由を放棄することになりはしないか。だからこそ、この「社会をつくる自由」が眠りこけた社会
は戦前だろうが戦後だろうが、政治学者の丸山真男が評したように「無責任体制」に堕してしまうのだ。
「コミュニティー」重視を叫ぶ者は、「社会をつくる自由」を踏み潰すことにいささかも頓着せぬほど悪者であるか、それに気づかぬほど愚者であるかのどちらかに違い
あるまい。では、同調圧力に屈する宿命を負い、他者との差異を競おうとする低俗なる自由とは一線を画した、「社会をつくる自由」は如何にすれば覚醒するのか。
その契機を私はデモクラシーに求める。
だが、それは戦後社会の基軸たる代議制デモクラシーとは別物だ。代議士選出やゴチャ混ぜとなった争点をめぐって、数年に一度あるかないかの選挙のみで「社会を
つくる自由」を果たしたなどと自任する人はまずいないし、投票日に「責任ある一票を」などとマスコミがいくら騒ごうと誰も応じやしない。
そこで直接制デモクラシーを志向した政治思想家もいる。ハンナ・アーレントは全市民が一堂に会してその社会の行き方を決する古代アテネの政治装置「アゴラ」を夢
想したし、ベンジャミン・バーバーはこの政治型式を「ストロング・デモクラシー」と命名して、その普及を説いた。
分譲マンションの管理組合では、全住民が直接に参加する総会といった、いわば「私的政府」が集合住宅を統治する。この「私的政府」をすべての地域に設置し、地方
自治体から大幅に権限を委譲すれば、究極の地方分権も可能だろう。「私的政府」での参加や熟議を介して、全住民に、他者や社会に対して自らの発議や決断が何ら
かの影響を与えたと自覚する責任を生じさせることにもなる。
この「集合住宅デモクラシー」が一定の領域に限定した社会(人間関係)であることは自明だが、それによって醸成される「社会をつくる自由」が、より大きな規模の社会
をつくる地ならしをすることも可能だ。なぜかといえば、「仲良し」では限定的な社会しか生まれず同一社会内の他者を自らの「分身」とみなす悪弊を伴うのに対し、「社会
をつくる自由」は他者が自らと異なる存在であることを前提とした社会構成原理を奉ずるからである。
ただ「仲良し」を言うだけなら幼児にさえできる。必要なのは、人々が社会に対する順応を放棄し「KY」とならざるを得ない状況をつくり出すことではないか。このまま人々
が「社会をつくる自由」を発現しえぬ、つまり、社会に何ら責任を負えぬのならば、人民主権を意味するデモクラシーという言葉も虚妄のまま果てるしかあるまい。
哲学が古来より命題とし、あるいは現代思想やらポスト構造主義やらに至っても思い悩んでいるのは、社会(構造)に対する主体性のある自己の実現であろう。それを
解くのは「社会をつくる自由」であると、私は確信している。
「共同性」とは「他者や社会に対して自らが責任を負おうとする道義欲」(P16)と同義であるならば、その範囲は、もはや国家ではない。国の行為に対して、
自らが責任を取るべきだという道義欲はまずない。となると、国 → 都道府県 → 市町村 と範囲を狭めていくと、ひとつの範囲として、筆者が述べる「集合
住宅」というのも可能性としてあるのかもしれない。(話は逸れるが、道州制の議論もこのあたりの延長線上にあるのだろう)
グローバル化が叫ばれる世の中で、ヒト・モノ・カネはもちろん、さまざまなものが液状化し、流動性が増す中で、どの範囲で、その流れをせき止めるのか、
ということを考えなければならない。
に答えたが果たしてそうだろうか。帰途、車を運転しながら考えてみたが、コンピュータのプログラムになぞらえて言えば、もしかしたら「まちづくり」はOS(オぺレーテ
ィングシステム)である民主主義の強化であり、「地域づくり」は個別アプリとしての住民自治の充実なのかも知れない。帰宅して風呂に入っていても妙に気になるよ。
政府系金融機関に勤務する在野の政治学者竹井隆人氏は、朝日新聞に寄稿して「民主主義」について次のように述べている。
世には時流に乗った言葉のみが幅を利かせ、その勢いに人々はただ呑まれている。昨今、いよいよ言葉が溢れ、それへの感受性が失われている。「コミュニティ」
なる言葉もそうだろう。コミュニティ(共同体)の大切さを否定する人は少ない。だがその連帯の強化を主張することは、果たして「正しい」のか。「仲良し」の奨励、ま
たはそれによって成り立つ「仲良し社会」の意で多用されるようだが、この語感のよさゆえに「コミュニティ」に疑念を向ける人はいないだろうし、そうした世間の「空気」
におもねる知識人たちは、いたずらに「コミュニティ」を弄するのだ。
しかし、その「仲良し」を強化すればするほど、その社会が排外的になるのは無論のこと、内部では異論者を「KY(空気を読めない者)」として「粛清」することともなる。
この大勢順応が社会を支配すれば、人々は自らが社会を主体的に担う自由を放棄することになりはしないか。だからこそ、この「社会をつくる自由」が眠りこけた社会
は戦前だろうが戦後だろうが、政治学者の丸山真男が評したように「無責任体制」に堕してしまうのだ。
「コミュニティー」重視を叫ぶ者は、「社会をつくる自由」を踏み潰すことにいささかも頓着せぬほど悪者であるか、それに気づかぬほど愚者であるかのどちらかに違い
あるまい。では、同調圧力に屈する宿命を負い、他者との差異を競おうとする低俗なる自由とは一線を画した、「社会をつくる自由」は如何にすれば覚醒するのか。
その契機を私はデモクラシーに求める。
だが、それは戦後社会の基軸たる代議制デモクラシーとは別物だ。代議士選出やゴチャ混ぜとなった争点をめぐって、数年に一度あるかないかの選挙のみで「社会を
つくる自由」を果たしたなどと自任する人はまずいないし、投票日に「責任ある一票を」などとマスコミがいくら騒ごうと誰も応じやしない。
そこで直接制デモクラシーを志向した政治思想家もいる。ハンナ・アーレントは全市民が一堂に会してその社会の行き方を決する古代アテネの政治装置「アゴラ」を夢
想したし、ベンジャミン・バーバーはこの政治型式を「ストロング・デモクラシー」と命名して、その普及を説いた。
分譲マンションの管理組合では、全住民が直接に参加する総会といった、いわば「私的政府」が集合住宅を統治する。この「私的政府」をすべての地域に設置し、地方
自治体から大幅に権限を委譲すれば、究極の地方分権も可能だろう。「私的政府」での参加や熟議を介して、全住民に、他者や社会に対して自らの発議や決断が何ら
かの影響を与えたと自覚する責任を生じさせることにもなる。
この「集合住宅デモクラシー」が一定の領域に限定した社会(人間関係)であることは自明だが、それによって醸成される「社会をつくる自由」が、より大きな規模の社会
をつくる地ならしをすることも可能だ。なぜかといえば、「仲良し」では限定的な社会しか生まれず同一社会内の他者を自らの「分身」とみなす悪弊を伴うのに対し、「社会
をつくる自由」は他者が自らと異なる存在であることを前提とした社会構成原理を奉ずるからである。
ただ「仲良し」を言うだけなら幼児にさえできる。必要なのは、人々が社会に対する順応を放棄し「KY」とならざるを得ない状況をつくり出すことではないか。このまま人々
が「社会をつくる自由」を発現しえぬ、つまり、社会に何ら責任を負えぬのならば、人民主権を意味するデモクラシーという言葉も虚妄のまま果てるしかあるまい。
哲学が古来より命題とし、あるいは現代思想やらポスト構造主義やらに至っても思い悩んでいるのは、社会(構造)に対する主体性のある自己の実現であろう。それを
解くのは「社会をつくる自由」であると、私は確信している。
「共同性」とは「他者や社会に対して自らが責任を負おうとする道義欲」(P16)と同義であるならば、その範囲は、もはや国家ではない。国の行為に対して、
自らが責任を取るべきだという道義欲はまずない。となると、国 → 都道府県 → 市町村 と範囲を狭めていくと、ひとつの範囲として、筆者が述べる「集合
住宅」というのも可能性としてあるのかもしれない。(話は逸れるが、道州制の議論もこのあたりの延長線上にあるのだろう)
グローバル化が叫ばれる世の中で、ヒト・モノ・カネはもちろん、さまざまなものが液状化し、流動性が増す中で、どの範囲で、その流れをせき止めるのか、
ということを考えなければならない。