先日は厳虎さんのブログの件で、松本さんから頂いたといわれる常住御本尊様について書きました。話が引き戻されたついでに現在の目下の話題である神奈川会館に御安置された日胤上人の御本尊様について少しばかり触れてみたいと思います。
まずは次の浅井会長講演を読んでみて下さい。
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最初に、先ほど全員で勤行の時に拝み参らせた御本尊様について、ちょっとその謂れを説明しておきます。
この御本尊様は、明治九年に五十四代・日胤上人が書写あそばされた御本尊であります。
授与書を拝見するとこうある。
「右は今般御大事守護の功績に依り授与する処なり 大信者 吉野萬吉」と。
「御大事」とは何か。すなわち戒壇の大御本尊の御事であります。
どういうことかと申しますと、明治維新のころの日本は、神道一色になって、“仏教なんかみんな潰してしまえ”という風潮があったのです。
ことに富土大石寺を狙う国粋主義者の暴力的なグループがあった。そのような中で、あの日霑上人が、なんとしても戒壇の御本尊をお守り申し上げなければいけないとの御意から、密かに大御本尊を安全な場所にお遷し申し上げんとされた。このとき、険難の道中を、身を挺して御守護申し上げたのが、この吉野萬吉という方をはじめとする数人の強信の方々だったのであります。
日霑上人はこのとき御隠尊であられた。よって日胤上人が御本尊を書写されて
「御大事守護の功績に依り授与する処なり」
と、その大功を賞嘆されたのであります。
この御本尊はその後、妙縁寺に納められ、住職の松本日仁尊能化がこれを護持されていた。松本日仁尊能化は顕正会(当時妙信講)の指導教師であられ、顕正会が国立戒壇のゆえに理不尽なる解散処分を受けたとき、宗門僧侶の中でただ一人、「顕正会が正しい」と云って、顕正会と命運を共にして、宗門を擯斥された老僧であります。
この松本日仁尊能師が、解散処分のとき、“将来の広宣流布の御奉公のため”にと、多くの御本尊を私に託して下さった。その中の一幅が、この御本尊なのであります。
いま私は、この御本尊様を拝んで、明治の初めにおける日霑上人・日胤上人の御心労、そして命かけて戒壇の大御本尊を御守護申し上げた吉野萬吉という方の護法心が、胸に迫る思いであります。
日胤上人は「大信者」と特賞されております。まさに命がけの護法に、深く感動せられたのでありましょう。
(平成7年8月15・25日合併号)
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これは平成7年の男子部の合宿における浅井会長の講演です。その後もそうでしたが、合宿のおりにはこの日胤上人の御本尊様を合宿会場にお掛けして朝晩の勤行をなしておりました。ゆえに、この後の四者の合宿においても多少の説明はありましたが、この時の合宿が一番詳しく説明されていたと思います。
今回の神奈川会館におけるこの御本尊様に関する説明との一番の違いは、脇書きにおける「吉野萬吉」さんの存在を全面的に押し出しているということでしょうか。
日蓮正宗信徒としての立場から両者を比較しますと、むしろ今回の神奈川会館の説明の方が違和感を感じます。
この御本尊様は紛れもなく吉野萬吉さんが御宗門にとって功績を残したとのことから、吉野萬吉さん個人に与えられた御本尊様でございます。
吉野萬吉さんがお亡くなりになった後は、そのご家族がこの御本尊様を御護りしていく意思を持っていれば、御宗門より許されてその後もその家の御本尊様として御安置していくことは可能です。もちろんのことそのご家族はこの御本尊様に御題目を唱えていけば功徳は積めることでしょう。また、正しく信仰をされている親しい方が、その家で一緒に勤行を申し上げたとしても同様に功徳は積めるのは当たり前でございます。
しかしながら、全く吉野萬吉さんとは縁もゆかりもない顕正会員が不特定多数の参詣する謗法の会館に据え奉って御題目をあげたところで功徳が積めるとは考えられません。何かが狂っております。
そういった違和感を強く感じるのです。
平成7年の合宿時においてはそこまでの配慮は必要なかったのかもしれません。その時だけ掛け奉ってその後はおしまいしてしまうのですから…。
しかしながら、今回は会館に永続的に御安置して不特定多数の者に拝ませるのですからそうはいかない…。
そういった観点からも、この御本尊様が本来は吉野萬吉さん個人に与えられた御本尊であることをなるべく会員には覚られないようにしたかったのでしょう。
そして何とも皮肉なのは、吉野萬吉さんは御相承の法体である戒壇の大御本尊様を宗外の敵から御守護して褒賞を授かったのでありますが、その功績の証である御本尊を今度は戒壇の大御本尊様の御内証と而二不二の尊体でまします御法主上人猊下を誹謗し貶めようとする逆賊に奪われ、その砦に掲げられ辱められているということでございます。
神奈川会館の御本尊様の御悲憤はいかばかりでありましょう…。
神奈川方面の顕正会員はなるべく参詣しない方が良いかと思います。とてつもなく恐ろしい事が参詣後にはその身に起きるような気がしますよ。
最後になりましたが、今回の浅井会長の講演では吉野萬吉さんのお名前を一言も言ってはおりませんでしたが、まさかとは思うのですが、脇書きを名前の部分だけ削除している…なんてことは無いと思いますが…、もし機会があれば「右は今般御大事守護の功績に依り授与する処なり」の後に 「大信者 吉野萬吉」との名前がしっかり記されているかを現役顕正会員には確認して頂きたいと思います。
その上で万が一書いていなければ、学会の二番煎じをしてしまったとのことですから、是非とも私達にその旨を教えて頂きたいものでございます。
まずは次の浅井会長講演を読んでみて下さい。
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最初に、先ほど全員で勤行の時に拝み参らせた御本尊様について、ちょっとその謂れを説明しておきます。
この御本尊様は、明治九年に五十四代・日胤上人が書写あそばされた御本尊であります。
授与書を拝見するとこうある。
「右は今般御大事守護の功績に依り授与する処なり 大信者 吉野萬吉」と。
「御大事」とは何か。すなわち戒壇の大御本尊の御事であります。
どういうことかと申しますと、明治維新のころの日本は、神道一色になって、“仏教なんかみんな潰してしまえ”という風潮があったのです。
ことに富土大石寺を狙う国粋主義者の暴力的なグループがあった。そのような中で、あの日霑上人が、なんとしても戒壇の御本尊をお守り申し上げなければいけないとの御意から、密かに大御本尊を安全な場所にお遷し申し上げんとされた。このとき、険難の道中を、身を挺して御守護申し上げたのが、この吉野萬吉という方をはじめとする数人の強信の方々だったのであります。
日霑上人はこのとき御隠尊であられた。よって日胤上人が御本尊を書写されて
「御大事守護の功績に依り授与する処なり」
と、その大功を賞嘆されたのであります。
この御本尊はその後、妙縁寺に納められ、住職の松本日仁尊能化がこれを護持されていた。松本日仁尊能化は顕正会(当時妙信講)の指導教師であられ、顕正会が国立戒壇のゆえに理不尽なる解散処分を受けたとき、宗門僧侶の中でただ一人、「顕正会が正しい」と云って、顕正会と命運を共にして、宗門を擯斥された老僧であります。
この松本日仁尊能師が、解散処分のとき、“将来の広宣流布の御奉公のため”にと、多くの御本尊を私に託して下さった。その中の一幅が、この御本尊なのであります。
いま私は、この御本尊様を拝んで、明治の初めにおける日霑上人・日胤上人の御心労、そして命かけて戒壇の大御本尊を御守護申し上げた吉野萬吉という方の護法心が、胸に迫る思いであります。
日胤上人は「大信者」と特賞されております。まさに命がけの護法に、深く感動せられたのでありましょう。
(平成7年8月15・25日合併号)
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これは平成7年の男子部の合宿における浅井会長の講演です。その後もそうでしたが、合宿のおりにはこの日胤上人の御本尊様を合宿会場にお掛けして朝晩の勤行をなしておりました。ゆえに、この後の四者の合宿においても多少の説明はありましたが、この時の合宿が一番詳しく説明されていたと思います。
今回の神奈川会館におけるこの御本尊様に関する説明との一番の違いは、脇書きにおける「吉野萬吉」さんの存在を全面的に押し出しているということでしょうか。
日蓮正宗信徒としての立場から両者を比較しますと、むしろ今回の神奈川会館の説明の方が違和感を感じます。
この御本尊様は紛れもなく吉野萬吉さんが御宗門にとって功績を残したとのことから、吉野萬吉さん個人に与えられた御本尊様でございます。
吉野萬吉さんがお亡くなりになった後は、そのご家族がこの御本尊様を御護りしていく意思を持っていれば、御宗門より許されてその後もその家の御本尊様として御安置していくことは可能です。もちろんのことそのご家族はこの御本尊様に御題目を唱えていけば功徳は積めることでしょう。また、正しく信仰をされている親しい方が、その家で一緒に勤行を申し上げたとしても同様に功徳は積めるのは当たり前でございます。
しかしながら、全く吉野萬吉さんとは縁もゆかりもない顕正会員が不特定多数の参詣する謗法の会館に据え奉って御題目をあげたところで功徳が積めるとは考えられません。何かが狂っております。
そういった違和感を強く感じるのです。
平成7年の合宿時においてはそこまでの配慮は必要なかったのかもしれません。その時だけ掛け奉ってその後はおしまいしてしまうのですから…。
しかしながら、今回は会館に永続的に御安置して不特定多数の者に拝ませるのですからそうはいかない…。
そういった観点からも、この御本尊様が本来は吉野萬吉さん個人に与えられた御本尊であることをなるべく会員には覚られないようにしたかったのでしょう。
そして何とも皮肉なのは、吉野萬吉さんは御相承の法体である戒壇の大御本尊様を宗外の敵から御守護して褒賞を授かったのでありますが、その功績の証である御本尊を今度は戒壇の大御本尊様の御内証と而二不二の尊体でまします御法主上人猊下を誹謗し貶めようとする逆賊に奪われ、その砦に掲げられ辱められているということでございます。
神奈川会館の御本尊様の御悲憤はいかばかりでありましょう…。
神奈川方面の顕正会員はなるべく参詣しない方が良いかと思います。とてつもなく恐ろしい事が参詣後にはその身に起きるような気がしますよ。
最後になりましたが、今回の浅井会長の講演では吉野萬吉さんのお名前を一言も言ってはおりませんでしたが、まさかとは思うのですが、脇書きを名前の部分だけ削除している…なんてことは無いと思いますが…、もし機会があれば「右は今般御大事守護の功績に依り授与する処なり」の後に 「大信者 吉野萬吉」との名前がしっかり記されているかを現役顕正会員には確認して頂きたいと思います。
その上で万が一書いていなければ、学会の二番煎じをしてしまったとのことですから、是非とも私達にその旨を教えて頂きたいものでございます。
って3日にお山でお会いしましたもんね
(^^;)
いや~…鳥肌が立ちました~!
自分は合宿研修の度に御大事守護の御本尊様を拝すると自然と涙が出てきたのを覚えております。
早く神奈川顕正会員を救わなければいけないっすね!
不思議な事もあるものですね、私も合宿の勤行のときは御本尊様を拝すると涙が出て止まりませんでした。
あの時は何故か分からなかったのですが、今になって考えれば、御本尊様自身が涙を流していらっしゃったのでしょう。
私達はそれに感応したのでしょうね。
同じ体験をされた方は他にもいらっしゃるのではないでしょうか。
皆さんの体験談を伺ってみたいですね。
ただ、周囲の人達が涙していたという貴重な証言を頂きまして感謝しております。(^^)
私が南風さんと一緒に伺った本山塔中の古い信徒さんのお宅は常住御本尊様を何体も御護りされておりました。
そこの奥様とお話ししたところ、「つい数年前までは日寛上人の常住御本尊様もあったが、御護りしきれないのでお山にお返しした。」と仰っておりました。
このように古い信徒さんのお宅においては、その長い歴史の中でご先祖様が色々と功績を残されて、結果として複数の常住御本尊様を護持されてはいるが、お返しされる御本尊様もまたあるというのが普通のようです。
次に何故お山にまでたどり着かずに末寺様で止まっていたかということですが、当然のことながら信徒さんは御自身の所属寺院に御本尊様を返納されるわけです。しかしながら、そこの御住職様が正式に許可を頂いた上であれば(多分、御本尊様のことですから、御法主上人猊下の許可だと私は思いますが…。)、その末寺様の寺宝として管理されることもあるようです。
今回の日胤上人の御本尊様も、そのような経緯の中で妙縁寺に存在していたのではないかと思われます。ただ、何かしらの理由で妙縁寺に預けていたとも考えられますし、本当のところはご本人達でないと分からないと思います。
なお、ここが一番重要なところですが、いくら妙縁寺の管理されている御本尊様であっても、御本尊様に関する一切の権能は御法主上人猊下ただお一人にしか存在しないのですから、それを信徒さんへ勝手に貸し出したり、譲ったりなどということを御住職が勝手になさること自体が許されざる行為なのですよね。ですから、松本さんの行為自体が日蓮正宗の規則の上からは違反していることであり、顕正会が占有している御本尊様の全てが不法に略奪された御本尊様になってしまうのですよ。
この点を顕正会員はよくよく理解すべきだと思います。
「まるで葬式だナww」
と、思ったものでした。
合宿時の涙が何を因としたものかは、これから検証を重ねていくべきものだと思いますが、なにはともあれあの時は確実に何かしらの力が御本尊様から発していたことは間違いないようですね。
それが確認出来ただけでも有難いです。
十智郎さんが仰っておられるように、御本尊様の一切の権能は御法主上人猊下様にあるのですから、浅井会長の主張通りだとすれば、松本元住職は妙縁寺所蔵の御本尊様を妙信講に渡すのは間違いですね。
でもその常住御本尊を再下付する場合は、猊下様の許可がいるみたいです。