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齋藤真由美

 選手生命に関わる大事故を乗り越えてコートに戻った齋藤真由美は、イトーヨーカドーからダイエー、当時2部だったパイオニアへとプレー環境を変えていった。同業界の企業のチームへの移籍、2部のチームでプレーすることを選んだことに対して批判や反対もあったが、それを決断させたある名将の言葉とは。

© Sportiva 提供

波乱のバレーボール人生を振り返った齋藤さん photo by Matsunaga Koki

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――約6年半をかけて右肩のケガや交通事故を乗り越え、1996年にコートに復帰した時のことを覚えていますか?

「ようやくプレーができるようになった時、私はもう26歳。当時は20代前半で引退する選手も多く、30歳近くまでやっていると『まだやってるの?』という心ないことを言う人も多かった。だから、『私にはもう時間がない』と思っていました」

――齋藤さんはキャプテンを担っていましたが、その後、ダイエーに移籍しますね。

「イトーヨーカドーも4強に入るチームでしたが、その上を目指す空気が少し足りていないように感じて。私は上位を目指すのではなくて、人生をかけてとことんやりたいと決意していましたから、物足りなさがありました。私は年齢が上になって怒られなくなっていましたけど、お互いの意見をぶつけることができて、頑張らないとレギュラーになれないくらいの環境に身を置かないといけない。そう思い、移籍先にダイエーを選びました」

――ダイエーを選んだ理由は?

「もっとも大きかったのは、当時のアリー・セリンジャー監督の存在です」

――ロサンゼルス五輪でアメリカ女子を、バルセロナ五輪でオランダ男子を率いて銀メダルを獲得した名将ですね。

「私が復帰したのがダイエーとの試合で、結果は負けました。ただ、その試合後、セリンジャー監督が『ダイエーが勝ったのは関係ない。あれだけの大ケガを負った齋藤が、ここまで戦えるようになったことに、私はもっとも喜びを感じる』と勝利者インタビューで言ったんですよ。

 実はイトーヨーカドーのトレーナーさんが、セリンジャー監督から『トレーナーの人生すべてをかけて、齋藤をコートに立たせるケアをしなくちゃいけない』と言われたことがある、と聞いたこともあって。自分のチームの選手でもないのに、『バレー界にとって必要な選手だ』と言ってくれている人がいると知った時に、『この人に自分のバレー人生をかけたい』と思って、セリンジャー監督に連絡をしました」

【移籍を決意させた名将の言葉】

――反応はいかがでしたか?

「最初はつっぱねられました。イトーヨーカドーとダイエーは同じスーパーマーケット業界で誰もが知るライバル関係にありましたから、『イトーヨーカドーのエースでキャプテンの齋藤が、ダイエーに移籍するなんてとんでもない』となるのも当然です」

――当時、世間でも大きなバッシングがあったことを覚えています。

「その後、直接セリンジャー監督と話をしましたが、『あなたがいなくなったあとのチームを考えたことがあるのか? 影響力を考えると、自分がどれだけチームにほしいと思っても、それを口にすることはできない』と言われて。それに対して私は、『チームを強くするのは私だけの責任じゃない』と。中心選手がいなくなっても勝てるチーム作りをするのは、スタッフや選手たち自身がやるべきことで、私はそれを背負いきれないと伝えました。私が常に『勝ちたい。頂点を目指す』と言っても、チームがなかなか変わらないのを感じていましたしね。

 それでも、『あなたがアクションを起こさない限り道は開かない』と言うので、イトーヨーカドーに戻って『自分に合うチームを探したいので、やめさせていただきます』と伝えました。そうしたら翌日に、"引退"と報道されてしまって......そこは、『またバレーをやりたくなりました、と言えばいいか』と思っていましたけどね」

――ハートが強いですね(笑)。その後はどうなったんですか?

「あらためてセリンジャー監督に頼んだら、『バレーボールにそれだけの情熱があるのであれば、受け入れない人はいない。君はプロでやっていく価値がある』と、そこで初めてプロ契約をさせていただきました。これまでは自分の意見を言うことが『反抗的だ。生意気だ』と捉えられてきましたから、受け入れてくれたことがうれしかったです。

 当時のダイエーには吉原知子選手、佐々木みき選手、松川一代選手など日本のトップの選手が揃い、スタメンは約束されていなかった。でも、それは自分にとってはやりがいでしかありませんでした。本当の強さ、楽しみ方はこうなんだと、プレーで見返したいという思いがありました」

【バレーボールへの"恩返し"で2部チームへ】

――1997-98年シーズンの第4回Vリーグで優勝。しかし、ダイエー本体の不況の影響で休部が発表されます。

「聞いたのはリーグの途中でしたが、『どうせだったら優勝しよう』とチームが一丸となりました。私はダイエーで、黒鷲旗なども含めて4回も優勝を経験できて、その間にMVPもいただきました。『もう無理だ』というぐらい追い込みましたし、本当に濃厚な時間でしたね。

 その期間で、セリンジャー監督からはいろんな言葉をもらいましたよ。特に、『ハートはエンジンだ。思うように体が動かなくても、ハートのエンジンさえフルに活動していれば、必ず結果を出したい時に体は動いてくれる。それを信じて』 という言葉が印象に残っています」

――セリンジャーさんは名言の宝庫ですね。

「そうですね。あとは、決して理不尽な要求ではなく、経験や年齢が上の選手にハードワークを求める監督でした。若手はそれについていくという構図ができていた。経験豊富な選手たちはみんな"何クソ根性"が強かったので、そういう指導で燃え上がる人たちばかり。『自分が一番だ』と思っている個性が強い選手も多かったですから、ただの"仲良しチーム"ではありませんでした」

――1998-99年シーズンは、オレンジアタッカーズと名前を変えてスタートしますが、セリンジャー監督は同シーズン限りで退任。齋藤さんを含む主要選手も一斉に移籍しました。

「その頃には『アスリートとして十分にやれた』という思いもあったんですが、私はバレーボールに生かされてきたので、"恩返し"じゃないですけど、自分の経験を若い子たちに伝えることがしたかった。セカンドキャリアで指導することも意識して、2部のパイオニアレッドウィングスを移籍先に選びました。当時のパイオニアは毎年のように入れ替え戦で負けていたチームでしたが、『何とか昇格して、日本一を狙いたい』という思いを強く感じていたので」

【日本一になるための「改善要求」】

© Sportiva 提供

当時2部だったパイオニアを1年で昇格に導いた(『バレーボールマガジン』提供)

――吉原知子さん、佐々木みきさんが1部の東洋紡に移籍するなか、齋藤さんが2部のチームに移籍することを周囲はどう見ていたんですか?

 

「それを伝えた時、セリンジャー監督は怒りましたよ。『なんで下のチームに行くんだ? 私が教えてきたすばらしい選手たちはみんな上を目指しているのに、お前は何をやってるんだ。若い選手の上であぐらをかきたいのか』って。私は育てて勝つことにチャレンジしたい気持ちを伝えましたが、ちょっとケンカ別れみたいな感じになり、『俺の言うことを聞かない選手は、みんなあとで土下座する思いをするぞ』とも言われました」

――先ほどは名言の宝庫と言いましたが、そんな辛辣なことも言うんですね......。

「そうですね(笑)。でも、私のなかでは計画があって。若い選手たちを率いてチームを昇格させて、そのチームにセリンジャー監督を呼んで日本一を目指したかったんです。だけど、当時のパイオニアはトレーナーもドクターもいなくて、寮もプレハブ小屋のようでした。それでも1年目は、プロ選手として加入した自分の力や価値を認めてもらわないといけないと思い、環境は我慢してチームを引っ張って、無事に1部に昇格することができました。

 そこからは、日本一を目指せるチームにするために環境改善の提案をしました。日中に働いていた選手たちをバレーボールに専念させること、東北が本拠地(山形県・天童市)なのに暖房がなかったのでそれを完備すること、トレーナーや栄養士もつけ、外科や婦人科といった医療のコミュニティを確立させること。『そこまでしないとトップには行けない』という話をしましたね」

――選手という立場で、よくそこまでの要求ができましたね。相手によっては、また「反抗的な選手」と捉えられてしまうリスクもありそうですが。

「それが、当時の石島聡一社長はすべてを受け入れてくれて、本当によく動いてくださいました。日立の山田重雄さん(モントリオール五輪で日本女子を金メダルに導くなどした監督)のところに自ら出向いて、日本一になるための話を聞いたり。社長を胴上げしたいという思いが強くなりましたね」

【治療中の兄から「俺のために優勝してくれ」】

――そして2000年には、計画通りにセリンジャー監督が指揮官に就任します。

「セリンジャー監督はダイエー退任後、シカゴのプロチームの指揮を執ることになったんですが、私は『1年だけの契約にしてほしい』と頼みました。『私は必ずパイオニアを1年で昇格させてあなたを呼ぶから』と。大見得を切りましたが、何とか実現できてよかったです(笑)。

 彼がチームにくれば、自然と選手が集まってくる。吉原選手や佐々木選手、廃部になった日立からは多治見麻子選手など、日本代表クラスの選手たちが移籍してきました。そうしてチームは何度も優勝を経験する強豪になっていったんですが、セリンジャー監督は"本当の強さ"を作っていける人でしたね」

――齋藤さんは2003-04シーズンに選手兼任コーチとして、チームをリーグ初優勝に導き、現役を引退します。

「当時33歳の私に、チームが優勝の花道を作ってくれました。引退を決めた年は、私にバレーを勧めてくれた兄が脳腫瘍と白血病になり、すぐに引退して『看病をしたい』とも思いました。いろんな葛藤がありましたが、兄は『お前はまだ必要としてくれている人がたくさんいる。ひとりでも自分を必要としてくれる人がいるのなら、そのために頑張れ。何よりも、俺のために優勝してくれ』と言ってくれた。

 あの年の優勝で、"誰かのために"という力がどれだけ大きいかを実感しました。兄に優勝を報告したら、『厳しい治療に向き合う勇気をもらった』と話していましたね。兄はその後、41歳で他界しますが、今でも兄が残してくれた言葉どおり『ひとりでも必要としてくれる人がいるなら頑張る』という思いを持ち続けています」

(後編:「客寄せパンダ」にされた過去、益子直美と取り組む「怒らない指導」>>)

■齋藤真由美(さいとう・まゆみ)

1971年2月27日生まれ、東京都出身。1986年に15歳でイトーヨーカドーに入社し、エースアタッカーとして活躍。17歳で日本代表に選出された。その後はダイエー、山形県・天童市が本拠地だったパイオニアに移って活躍し、2004年に引退。引退後は解説者や天童市の教育委員などを経て、益子直美の「監督が怒ってはいけない大会」に参加。自身は「株式会社MAX8」の代表を務める。

 

「どういう大人、指導者に出会うかということは、その子の人生が決まるくらい大事なことだと思います。かつてセリンジャー監督は、『自分が携わっている時に活躍した選手がどれだけいるかじゃなく、引退した選手たちがどういう道を歩いていくかで、私の指導の価値が変わるんだ』と話していました。
 その言葉どおり、励まされる指導を経験した子どもたちが、大人になってどんな指導者になるか、スポーツに関係のない仕事でもどんな上司になるかで、初めて指導者は評価されるべきだと思っています。私もセリンジャー監督に恩返しをするため、今後の人生でそれを示していきたいです」

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