楽天爺さんの気まぐれ日記

・田舎暮らしを楽しんでいます。

心に響く!!名経営者の言葉No.111

2018-08-26 | 先人の知恵に学ぶ

 PHP『心に響く・名経営者の言葉』
        第7章 先見の明を養う・No.007

「トップが現状肯定したときからその会社の老化が始まる。
          経営者というのは絶えざる現状否定者であるべきです」
         山口敏明 元東ソー社長・会長(1928~2000)

 山口敏明は昭和3(1928)年に中国東北部奉天市(旧満州)で生まれ、
終戦後に東京商科大学(現在の一橋大学)へ入学。
アルバイトに明け暮れていたが、満州に残った母が自決したことに強い
ショックを受け、勉強に打ち込み始めた。
 大学を卒業した山口は東洋曹達工業(現在の東ソー)へ入社した。
当時の同社は、戦前の主力商品であるアンモニア製造の再開(昭和25年)
小野田セメントと提携してセメント事業への進出(昭和28年)など、
躍進のきっかけをつかもうとしていた時期だった。
 山口は入社直後から頭角を現し、社内の精鋭を集めて新設された企画部
のスタッフに選ばれるなど、エリート街道を走っていた。
それからまもなく、山口の実力が試されることになった。三重県四日市
地区に、エチレンの生産能力30万トン規模の巨大な石油化学工場を設立し
ょうというプロジェクトが持ち上がったのだ。
山口は、自社だけでこのプロジェクトを成功させるのは不可能と考え、
大協石油(現在のコスモ石油)と協和発酵の2社と協力して、新大協和石
油化学を設立。昭和43年に工場完成に導いた。
 その後、くも膜下出血で一線から退いたが、昭和59年に東ソーと新大協
和石油化学の社長に同時就任。平成2(1990)年には新大協和石油化学の
吸収合併に成功した。
 山口は攻めのビジネスパーソンとして有名だった。
それをあらわすのが、海外事業部長(昭和49年)時代に推進したIJPC
(イランジャパン石油化学)プロジェクトである。当時から政情不安で
先行きが危ぶまれていた事業だったが、山口は積極的に参加。
周囲には「無謀」という意見も多かったが、山口はしっかりと安全策を
とっていた。その後、IJPCはイラン・イラク戦争で操業を停止すること
になったが、山口があらかじめ出資比率を減らしていたので、東ソーは
致命的なダメージを受けずにすんだのである。

 ビジネスにとって挑戦は大切だ。
だが無謀な挑戦は会社の屋台骨自体を揺るがすことになる。
リスクを減らしながら挑戟を続けるという姿勢が大切なのである。


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