先に信号機の「とおりゃんせ」のメロディについて考えてみたが、いろいろ調べてみると結局はこうだ。この曲が広まらなかったのは先にも書いたが、結局怖がられるということだ。♪行きはよいよい帰りは怖い 怖いながらもとおりゃんせ とおりゃんせ♪こんなメロディ、老人は怖くて渡れやしない、とか、盲目の人は「不気味で呪われているような気分になるとか。よって「カッコー」とかが広まったが、やはり周りの騒音で音が消されてしまい完璧とはいえない。しかし「とおりゃんせ」がなぜ中堅都市でしかもそれなりの名が通った街によく見られるのだろうか。不思議だ。
またまた旅行に行ってきてしまった。まあ青春○8きっぷがあまっているので使っただけのこと。
今回は長野県の松本と奈良井という木曽路の宿場町だったところに行ってきた。単刀直入に言おう。さびしい~。まあ松本に関しては国宝の城と開智学校というのが有名だからそれほどここで言うほどのものはない。ただここで松本に行ったときに感じたこととして、皆さんは信号の音を聞いたことがあるだろう。"ピッポー、ピッポー"とかは私の身近なところではよく耳にする。しかしこれはどうか。"ぷーぷーぷーぷぷーぷぷぷー、ぷーぷぷぷーぷぷ、ぷぷぷぷぷー”。表現は難しいのだが、「とおりゃんせとおりゃんせー、こーこはどーこのほそみちじゃー…」この曲は大都市では流れるところを聞いたことがない。中堅都市で割合名が通っている街(しかも大概駅前とか大通り)とかでよくメロディーだ。この曲の内容自体何かさびしくなってくるというのに(自分だけかもしれないが)なんでこんな曲を信号のしかも歩行者用に用いられているのか。歩行のリズムとかに合っているからなのだろうか。まあ車がブンブンの大都市の都心部ではこんなのを流したらどっちにしろ周りの騒音で聞こえやしない。まあとにかくこのメロディーには何が意味あるのだろう。
もうひとつの訪問地、奈良井宿にはたまた寄ったようなものなのだ。まあ昔ながらの宿場町の雰囲気を満喫できるそうなので寄ってみただけ。奈良井駅に着いたときパラパラと雪がちらついていた。気温は7℃くらいだった。駅舎の待合室の電気はついておらず、今日は(それ以外の日ももしかしたらそんなにいないのではないだろうかと思わせるくらい)人がいなかった。地元の人が数人道を歩いていただけ。観光客はもしかしたら俺だけ?!まあとにかく宿場町の通りを歩いてみた。多くがみやげ物屋か宿を経営しているようだったが、店も閑古鳥が~。繁忙期と閑散期の差が著しい。大変だ。だれもいない通りを俺ひとりがパラパラと風に舞いながら落ちる雪にかかりながら歩く姿を客観的に考えたとき、孤独感と寂しさが一気に込み上げてきた。はやく出よっとおもっても電車は毎時一本あるかないか。たまらん。街自体も古いため木材が貫禄たっぷりに黒く磨きがかかりそれと曇天のグレーが微妙にマッチしてますます色彩的にドスンとした暗さを引き立たせる。この背景の中に割烹着を着た腰の曲がったおばあさんでもいたらオーマイゴッドだねえ。まあとにかくここはこういうところは向こうの人には悪いけどひとりで来るところではないとつくづく思ってしまった。
今回は長野県の松本と奈良井という木曽路の宿場町だったところに行ってきた。単刀直入に言おう。さびしい~。まあ松本に関しては国宝の城と開智学校というのが有名だからそれほどここで言うほどのものはない。ただここで松本に行ったときに感じたこととして、皆さんは信号の音を聞いたことがあるだろう。"ピッポー、ピッポー"とかは私の身近なところではよく耳にする。しかしこれはどうか。"ぷーぷーぷーぷぷーぷぷぷー、ぷーぷぷぷーぷぷ、ぷぷぷぷぷー”。表現は難しいのだが、「とおりゃんせとおりゃんせー、こーこはどーこのほそみちじゃー…」この曲は大都市では流れるところを聞いたことがない。中堅都市で割合名が通っている街(しかも大概駅前とか大通り)とかでよくメロディーだ。この曲の内容自体何かさびしくなってくるというのに(自分だけかもしれないが)なんでこんな曲を信号のしかも歩行者用に用いられているのか。歩行のリズムとかに合っているからなのだろうか。まあ車がブンブンの大都市の都心部ではこんなのを流したらどっちにしろ周りの騒音で聞こえやしない。まあとにかくこのメロディーには何が意味あるのだろう。
もうひとつの訪問地、奈良井宿にはたまた寄ったようなものなのだ。まあ昔ながらの宿場町の雰囲気を満喫できるそうなので寄ってみただけ。奈良井駅に着いたときパラパラと雪がちらついていた。気温は7℃くらいだった。駅舎の待合室の電気はついておらず、今日は(それ以外の日ももしかしたらそんなにいないのではないだろうかと思わせるくらい)人がいなかった。地元の人が数人道を歩いていただけ。観光客はもしかしたら俺だけ?!まあとにかく宿場町の通りを歩いてみた。多くがみやげ物屋か宿を経営しているようだったが、店も閑古鳥が~。繁忙期と閑散期の差が著しい。大変だ。だれもいない通りを俺ひとりがパラパラと風に舞いながら落ちる雪にかかりながら歩く姿を客観的に考えたとき、孤独感と寂しさが一気に込み上げてきた。はやく出よっとおもっても電車は毎時一本あるかないか。たまらん。街自体も古いため木材が貫禄たっぷりに黒く磨きがかかりそれと曇天のグレーが微妙にマッチしてますます色彩的にドスンとした暗さを引き立たせる。この背景の中に割烹着を着た腰の曲がったおばあさんでもいたらオーマイゴッドだねえ。まあとにかくここはこういうところは向こうの人には悪いけどひとりで来るところではないとつくづく思ってしまった。
最近は時間が経つのがはやい。この前日曜日だと思っていたらもう金曜日とか。年とともに月日が経つのがはやいと感じるのは私だけではないだろう。ではなぜこんなはやく感じるのか。よく考えてみると、小中学生のころは月曜から土曜(たまに金曜)毎日5,6時間の授業をしっかりと受けてきた。ノートもまあそれなりにとっていたし、集団で実験とかしてグループ発表とかよくしていた。それに学校の行事も基本的に1,2ヶ月に一回の割合であったのでそれにむけての練習やらなんやらで毎日が何か忙しかったような記憶がある。つまり面倒くさいと思ってもなんだかんだで毎日集中していたということだ。しかし集中していれば時が経つのもはやいという文句はどうなってしまうのか。ということはただ集中していたのではなく思い出に残るものを毎日していたということになる。しかも1日ごとで何か完結してしまうものではなく毎日の積み重ねを経験していた。それがあの9年間という時期が非常に長いと感じた理由のひとつであろう。
それに較べて高校大学生活はどうか。高校三年間もあっという間に過ぎたという感じだが、大学の3年間はもっと短く感じている。もう4年生なのか。この前入学したばっかりという感じだ。その生活の中で本はよく読んできた。その点は集中する時間は設けてきたといえよう。しかし、小中学生時代と較べてみると明らかに集団行動はないし毎日の積み重ねのような活動もまったくない。思い出といっても学校生活よりも自分で海外旅行したとかの記憶のほうがはるかに鮮明である。受験勉強も目的もなく(実際はあったが、ここでは一般的な感覚を述べているだけ)ただひたすらに何かをしていたという気分だった、と終わった今ではいえるかもしれない。よって集中すればいつの間にか一日が過ぎていたという感覚は矛盾がひそんでいる。
それに較べて高校大学生活はどうか。高校三年間もあっという間に過ぎたという感じだが、大学の3年間はもっと短く感じている。もう4年生なのか。この前入学したばっかりという感じだ。その生活の中で本はよく読んできた。その点は集中する時間は設けてきたといえよう。しかし、小中学生時代と較べてみると明らかに集団行動はないし毎日の積み重ねのような活動もまったくない。思い出といっても学校生活よりも自分で海外旅行したとかの記憶のほうがはるかに鮮明である。受験勉強も目的もなく(実際はあったが、ここでは一般的な感覚を述べているだけ)ただひたすらに何かをしていたという気分だった、と終わった今ではいえるかもしれない。よって集中すればいつの間にか一日が過ぎていたという感覚は矛盾がひそんでいる。
今日久しぶりに(2,3年というもんではなく10年ぶりぐらいか)家族写真をホテルに撮りにいった。もともと被写体になることは苦手なので自分自身の写真はあまりないのだが、ましてや家族写真でかつ正装で行くとなるとこりゃ俺にとっては一大事だ。しかし格好にあまり妥協はしたくはないので昨日ドレスシャツを買いに行った。今回買ったのは正統派のボタンダウンシャツ。ブルッ○スブラ○ーズの定番を買った。1万円だった。買うときに店員さんは俺を社会人だと思い込んでいたらしい。それから店員のおねえさんと少しの間立ち話をしてあとにした。
その写真屋には朝一番に入った。今日は結婚式があるそうで早目に予約しておいた。緊張するなあ(余計な緊張をかけさせる)、我慢我慢と思って辛抱していたが15分ぐらいで終わったので緊張が一気にほぐれた。そのあとホテルのロビーで親父がゴッド・マザー(祖母)を撮り始めた。弟や妹と一緒に撮っていた。自分は一回しか撮られていない。家に帰ってみてみると写真屋で撮ったときよりもリラックスして自然体に写っていた。写真は単なるボックスに視線を向けて一瞬のときを刻む装置であるが相当な緊張をもよおしてくる。もし写真のボックス(レンズ)がもっと大きければその緊張は緩むだろうに。狭い焦点に集中するというのはある意味顔を硬くさせる。頭についてもそうではないか。年とともに複雑な小さなものに目を向けることで頭の構造は深くなると同時に硬くこわばってしまうのだ。
その写真屋には朝一番に入った。今日は結婚式があるそうで早目に予約しておいた。緊張するなあ(余計な緊張をかけさせる)、我慢我慢と思って辛抱していたが15分ぐらいで終わったので緊張が一気にほぐれた。そのあとホテルのロビーで親父がゴッド・マザー(祖母)を撮り始めた。弟や妹と一緒に撮っていた。自分は一回しか撮られていない。家に帰ってみてみると写真屋で撮ったときよりもリラックスして自然体に写っていた。写真は単なるボックスに視線を向けて一瞬のときを刻む装置であるが相当な緊張をもよおしてくる。もし写真のボックス(レンズ)がもっと大きければその緊張は緩むだろうに。狭い焦点に集中するというのはある意味顔を硬くさせる。頭についてもそうではないか。年とともに複雑な小さなものに目を向けることで頭の構造は深くなると同時に硬くこわばってしまうのだ。
昨日は東京という世界一の都市の清潔感について書いたが、今日は消費という面から考えてみたい。東京には何でもある。世界中のあちこちのものが東京のどこかには必ずあるということである。そんなことは絶対にありえないが、そう思わせるくらい何でも手に入る。もちろんお金があればの話だが。実をいうと、先月ドイツに言ったときぜひとも自分用の土産を買いたいなあと思ってベルリンをショッピングしていた。もちろんベルリン全エリアを制覇したつもりはないことは断っておく。結局は旅程の問題と時間のこともあって買っていないのだが、製品の種類が少ないということが第一の印象だ。例えばドイツで有名な皮革製品をみてみると、デパートなどには文房具コーナーなどにはモンブ○○やポル○○デザインなどの世界的有名ブランドの製品は置いてある。しかし、ドイツ以外の皮革ブランドがほとんど見られない。ブル○リやエル○スは世界中の都市で見られるが。それにドイツ製の皮革ブランドが思ったほどおいていなかった。そんなこともあって次の都市(フランクフルト)に行けば何かあるだろうと思って結局買う時期を逃してしまったというのも一理あると思う。もしかしたら東京にいったら何かあるかもしれないとひそかに期待していた。
東京はほんとうにモノの種類が多い。世界中の皮革製品が一デパートに集まることもある。思えば、世界経済からみると日本、特に東京(最近は名古屋も注目されるが)には世界中の高級ブランドの直営店や旗艦店がどんどん出店している。人口が多くブランドに目がない日本、東京ならではの特徴である。またセレクトショップも最近は特殊化してきており店ごとにその性格を違えてきたように思える。正直、ドイツ製品も幾つか見たが本場で見たものよりも種類が多かったように思える。その点において東京もしくは日本は面白いのだ。もちろん個性を持たずにブランドにひた走る日本人を賞賛してしていることは決してないことだけは最後にとどめておきたい。
東京はほんとうにモノの種類が多い。世界中の皮革製品が一デパートに集まることもある。思えば、世界経済からみると日本、特に東京(最近は名古屋も注目されるが)には世界中の高級ブランドの直営店や旗艦店がどんどん出店している。人口が多くブランドに目がない日本、東京ならではの特徴である。またセレクトショップも最近は特殊化してきており店ごとにその性格を違えてきたように思える。正直、ドイツ製品も幾つか見たが本場で見たものよりも種類が多かったように思える。その点において東京もしくは日本は面白いのだ。もちろん個性を持たずにブランドにひた走る日本人を賞賛してしていることは決してないことだけは最後にとどめておきたい。
私は東京という街が好きだ。それほど頻繁に行っているわけではないが、毎回訪れるたびに新しい発見と魅力を感じてしまう。また東京を嫌悪を感じてしまうところもないわけではない。物価が高く(特に生活費だと思うのだが)、水がおいしくないなどなど。私自身東京に住んだことがないのでこのようなことが既存の知識としていえてしまうのだろう。仮にそこに住んだとしてもそれが感じないではいられないと思うのだが。つまり生活的基準から考慮すれば東京は住みにくいというひとつの結論にたどりつけるが、VIP級の人たちから見ればどう感じられるのだろうか。興味が深い。で、本論に戻ると、私が東京を面白いまちと思う理由のひとつに、この狭い土地に1000万以上に人たちが共生しているにもかかわらず、比較的清潔を保ち治安としても安全性を保っていることがあげられる。道路にはあまりごみくずや糞などが落ちておらず、見た目もよい。以前パリやニューヨークに行ったとき街の汚さには唖然とした。パリのシャンゼリゼ通りに犬の糞がボタボタと落ちてる(この表現からどでかい塊が想像されよう)。目の前には日本人大好きのルイ○○トン本店が待ち構えている。ニューヨークのウォールストリート。ここは世界の金融センターのひとつといわれ、映画の一場面としてもたびたび出てくる(例えば『大HARD3』。連邦準備銀行が一舞台でした)が、メインストリートを一区画移動すると殺風景でファーストフードの残骸がところどころに落ちている。まあこのことは私がしっかりと比較していないということも一理あるだろうが、外国人いわく東京は思ったよりはるかにきれいだと言っていたことを考えると私の意見も間違いではないと言えよう。東京・銀座、丸の内、日本橋、渋谷、新宿、池袋、品川。その周辺にはたくさんの飲み屋街が形成されている。その周辺は汚いと思いきや、毎日しっかり掃除がされているのだろうか、朝の飲み屋街は昨夜の混沌を忘れさせるかのように静まり返っている。日本人のすごいところ、それは清潔感を保とうとする姿勢が行動となって示される伝統をもっていること。話によると駅やデパートなどのエスカレータの手すりを掃除する日本人の姿は外国人には珍しいという。今でも朝打ち水をしている店を何軒も見かけるがその粋な計らいが日本のひとつの誇れるところだ。たそれら誇れるところを日本人自身気づいていないところに日本人の性格を感じられないではいられないのである。
「東京の面白さ」の続きは次回も続きます。
「東京の面白さ」の続きは次回も続きます。


最近は卒論のこともあって文献集めとその精読に忙しい。私のテーマが多岐にわたる分野なのでその資料だけでも膨大になる。今はインターネットなどで検索が楽になったが以前は図書館の紙の文献目録などで探さなければならなかった。今から思えば相当な努力と精神が必要だったのだろう。資料集めに何年も費やした学者もいるに違いない。要するにそれくらいの忍耐も必要であるということをその歴史が教えてくれる。しかし私のような研究を職としていない者にとってそれは耐え難い苦痛である。バイトのような私事であれど一日の何時間かはそれに割くことにもなる。図書館も公共のであれば5時には閉まる。常に時間の有効利用を考えなければ。私は思う。このつらい資料探しもいかに早い筋道でその目的にまでたどり着けるかの訓練ともなっているのではないか。これはあそこに、あれはここになどと私達は日常生活の中で常に何かを探している。時に偶然発見することもあるであろう。しかし何かを発見したときの喜びのようなものは他に味わえない快感である。そして次へのステップの意欲を駆り立てるのである。

最近、ブログの書き込みがなかなかできない。時間がなかなかとれないことも一理あるだろうが、正直面倒くさいというのも大きな理由だろう。私は面倒くさがりやなので。
ところで4日間ほど東京の方へ行ってきた。今回は何か美術館とかへ行くつもりはまったくなく、ただ買い物をしにいっただけだ。やっぱり東京はいいですなあ。なんでもそろっているので。しかも幾たびに何か新しいショップができていて注目度は大である。で、その結果としてカットソー2枚とその他雑貨をふたつほど購入した。本当はもう少したくさん買うつもりだったが、諸理由により買えなかった。まあいいんだけど。あと海外の人と飯を食べに行き観光に付き合ってあげた。英会話のいい勉強になった。それが一番の収穫か。
ところで4日間ほど東京の方へ行ってきた。今回は何か美術館とかへ行くつもりはまったくなく、ただ買い物をしにいっただけだ。やっぱり東京はいいですなあ。なんでもそろっているので。しかも幾たびに何か新しいショップができていて注目度は大である。で、その結果としてカットソー2枚とその他雑貨をふたつほど購入した。本当はもう少したくさん買うつもりだったが、諸理由により買えなかった。まあいいんだけど。あと海外の人と飯を食べに行き観光に付き合ってあげた。英会話のいい勉強になった。それが一番の収穫か。
実は、明日からちょっとヨーロッパの方へ行ってくる。この言葉というのは何だか不思議なもので、100年前の世界から考えるとこの言葉はおかしく受け止められるだろう。つまりよほど世界は近くなっているということだ。20世紀の科学技術の発達はめまぐるしく、その度合いはそれ以前までで発達した度合いよりもはるかに大きい。そのおかげで世界の時間的距離は大幅に短縮された。つまりそんな世界だからこそ最初のような表現は可能なのである。
当時、旅というのは人生一大事の大事であった。今から考えれば日本と正反対のブラジルまで1日かければ行けるが、当時つまり船の時代はそこまで何ヶ月もしくは年を要するものであった。歴史的に見ても、そこへたどり着くまで決してあきらめることなく悲願の達成を果たした人物も知られている。このことを考えると「人生一大事」というのは決して大げさなことではない。しかし、今のわれわれは違う。かつてのようにそれほど目的(地)を真剣に考えることはなくなった。むしろ考える必要はなかった(もちろんそんなことはけっして言えない地域もあるが)。最近は、旅は、いや旅というより旅行もしくは観光(英語のツアー)はビジネス界に大きな影響をもたらしている。産業界きってのドル箱市場であり、各観光業界はお互いしのぎを削って市場競争の中をかけまっている。観光の資本主義化。世の中もこんな時代になりました。おまけに日本人は大の観光(バカ買い)好き。かつ日本人は国際化の本当の荒波にもまれていない、つまり疎いためにいい意味でも悪い意味でもターゲットになりやすい。これから観光界はどうなっていくのでしょう。省エネ的観光をもう少し考えておいた方が、人口減少化が進むこれからの時代に得策のように思える。
この話はここまでにしておいて、ところでみなさんは子供の頃、もしくは今でも旅行(遠足)や運動会の前日になかなか眠れなかった経験はないだろうか。あれは結構不思議なことだ。つまり興奮していることにもなるのだが、しかし興奮すれば大人だってある意味興奮するし前者の意味でもわくわくという興奮が起こる。ここで不思議というのはそういう興奮した気持ちはいつだってもっているはずなのになぜ子供の方が眠れないという症状が多く見られるのだろうか。私は医学的なことはよくわかわないが、やはり推測されるのは社会環境にある程度の緩み、つまりゆとりみたいなものが生じているときに起こりやすいというのが第1条件ではないか。つまり自分の周りの環境的条件がプラス傾向にあるときにおこりやすいということだ。しかしこの場合なら子供ばかりという状況は説明できない。では子供は大人と何が違うのだろうか。頭の構造か。考えられるのはその辺であろうが、要は子供は大人よりも世間知らずで見るもの全てが興味深い、よく言えば純粋ということだ。大人の頭の中は腐りかけているから(年齢によって差異はある)。「明日は僕の、私の前に何が現れてくるのだろうか。楽しみだなあ」とか「明日はかけっこで一番になってやる。彼にだけは負けたくないなあ」などと思いは大人の想像以上だろう。よってそれが精神的な第2条件となる。子供は常に前にしか物事を考えない。楽しみを追い求めているからだ。それとは対照的に大人は確かに前方向への思考体系だが、分かれ道が用意されている。「明日はこうしよう。しかし、こうなった場合どうしようか……」などと複雑に考える。プラス方向のベクトルだけでなく後ろ方向のベクトルも用意されているのだ。もちろん大人の中には永遠に子供のように生き続けるというポリシーを持った人もいるにはいるが。
しかし、最近はこの両者にも当てはまらない人が増えているように思える。つまり幻想しか見えていない人のことである。何をしようにも面白がらない、楽しみをもたない、持っているのか持っていないのか分らない。旅行にあてはめて考えてみるならば、どこへ行くにも興味が持てない、みんなとのホテルでの会話などを楽しいともおもわない。彼らはいったいどんな気持ちなんだろうか。しかし、きっと彼らにも何らかの楽しみの気持ちはあるのだろう。私には気づかない気持ちが。
では出兵を前にして楽しんでまいります。もしかしたらこれが最後の記入かもしれません。笑

当時、旅というのは人生一大事の大事であった。今から考えれば日本と正反対のブラジルまで1日かければ行けるが、当時つまり船の時代はそこまで何ヶ月もしくは年を要するものであった。歴史的に見ても、そこへたどり着くまで決してあきらめることなく悲願の達成を果たした人物も知られている。このことを考えると「人生一大事」というのは決して大げさなことではない。しかし、今のわれわれは違う。かつてのようにそれほど目的(地)を真剣に考えることはなくなった。むしろ考える必要はなかった(もちろんそんなことはけっして言えない地域もあるが)。最近は、旅は、いや旅というより旅行もしくは観光(英語のツアー)はビジネス界に大きな影響をもたらしている。産業界きってのドル箱市場であり、各観光業界はお互いしのぎを削って市場競争の中をかけまっている。観光の資本主義化。世の中もこんな時代になりました。おまけに日本人は大の観光(バカ買い)好き。かつ日本人は国際化の本当の荒波にもまれていない、つまり疎いためにいい意味でも悪い意味でもターゲットになりやすい。これから観光界はどうなっていくのでしょう。省エネ的観光をもう少し考えておいた方が、人口減少化が進むこれからの時代に得策のように思える。
この話はここまでにしておいて、ところでみなさんは子供の頃、もしくは今でも旅行(遠足)や運動会の前日になかなか眠れなかった経験はないだろうか。あれは結構不思議なことだ。つまり興奮していることにもなるのだが、しかし興奮すれば大人だってある意味興奮するし前者の意味でもわくわくという興奮が起こる。ここで不思議というのはそういう興奮した気持ちはいつだってもっているはずなのになぜ子供の方が眠れないという症状が多く見られるのだろうか。私は医学的なことはよくわかわないが、やはり推測されるのは社会環境にある程度の緩み、つまりゆとりみたいなものが生じているときに起こりやすいというのが第1条件ではないか。つまり自分の周りの環境的条件がプラス傾向にあるときにおこりやすいということだ。しかしこの場合なら子供ばかりという状況は説明できない。では子供は大人と何が違うのだろうか。頭の構造か。考えられるのはその辺であろうが、要は子供は大人よりも世間知らずで見るもの全てが興味深い、よく言えば純粋ということだ。大人の頭の中は腐りかけているから(年齢によって差異はある)。「明日は僕の、私の前に何が現れてくるのだろうか。楽しみだなあ」とか「明日はかけっこで一番になってやる。彼にだけは負けたくないなあ」などと思いは大人の想像以上だろう。よってそれが精神的な第2条件となる。子供は常に前にしか物事を考えない。楽しみを追い求めているからだ。それとは対照的に大人は確かに前方向への思考体系だが、分かれ道が用意されている。「明日はこうしよう。しかし、こうなった場合どうしようか……」などと複雑に考える。プラス方向のベクトルだけでなく後ろ方向のベクトルも用意されているのだ。もちろん大人の中には永遠に子供のように生き続けるというポリシーを持った人もいるにはいるが。
しかし、最近はこの両者にも当てはまらない人が増えているように思える。つまり幻想しか見えていない人のことである。何をしようにも面白がらない、楽しみをもたない、持っているのか持っていないのか分らない。旅行にあてはめて考えてみるならば、どこへ行くにも興味が持てない、みんなとのホテルでの会話などを楽しいともおもわない。彼らはいったいどんな気持ちなんだろうか。しかし、きっと彼らにも何らかの楽しみの気持ちはあるのだろう。私には気づかない気持ちが。
では出兵を前にして楽しんでまいります。もしかしたらこれが最後の記入かもしれません。笑



なんでこの時期にこんなことをいきなり書こうとしているのかは自分でもよく分らない。先に書いた徒然なるままに物思いにふけったつもりで書いたことにしよう。上記のタイトルのように、美人っていったいどんな人?その定義を述べよといわれても千差万別だ。去年ぐらいかある雑誌で美人特集をだしていたが、どうやらお国、地域によっても美人は違うことがしっかり証明されていた(証明というほどでもないが)。しかし、異国の人から見ても美人といえる人はちゃんといる。ようは美人とは万国共通のキーポイントを兼ね備えている人しか美人の資格はないのではないか。自分では直感的にそう思ってしまった。その雑誌の中ではちゃんとコンピュータで顔の輪郭から各パーツの位置を割り出して万国共通の美人ラインというのを割り出していた。詳しくは覚えていないのでここでどうのこうのと議論するつもりはないが、ここで言いたいのは、いくら皮膚の色、顔かたちが多少違いはあっても人間は人間なんだということだ。「僕はB線ラインですから」と言ってもそういう女性には美人の要素が多少なりとも含まれていたのかもしれない。つまり、個人によって美人の定義が違うというのは、万国共通の美人の要素プラス各個人の美人ラインが折衷された形成された人間像なのだろう。しかし、そんなことをごちゃごちゃ考えていても美人とブスという言葉には共通性があることは確かである。
