10/5付のブログ記事 の続きです。
のぶみ作『ママがおばけのなっちゃった!』に感じる違和感の根源が、母子癒着……というか男女の恋愛~性愛に近いもの、incest的とまで深読みできるとの分析が腑に落ちたり、作品にはまる世代の文化的背景を想像して「分断」を感じたりしたところから続けます。
藤木直実さんの報告の残り三分の一は、今年の春に発売された紙芝居『ちっちゃい こえ』(アーサー・ビナード脚本/童心社)が紹介されました。
この紙芝居は、丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」から場面を借りて、試作上演を繰り返し、着想から7年がかりで完成した作品。発売以来、アーサー・ビナード氏本人が精力的に上演されており、わたしもご本人の演じられるのを見たことがありますし、マイ紙芝居として所有しています。
のぶみ氏は、ファンを集めた集会で製作中の下絵本を「読み聞かせ」して、ファンの反応を作品にフィードバックするという手法を作品作りをしています。それと似た手法でこの紙芝居が作られている点から、藤木さんは比較対象されたのかと思います。
が、わたしは、複雑な心境になりました。
というのも『ちっちゃい こえ』のプロモーション映像(ドキュメンタリー)を童心社のウエブサイトで見て、ショックを受けたことをがあるのです。
それは、ビナード氏が試作品を保育園で上演した場面です。
紙芝居が見られるとニコニコ顔の園児たちが集まって、いざ紙芝居が始まると、その内容に恐怖を感じて表情がこわばる子、泣き出す子、保育士さんにしがみつく子たちが映し出されました。
ビナード氏はこの紙芝居の試演にあたって、保育士さんや保護者の方々に十分に説明されたとは思いたいのですが、それでも、未就学児にこの紙芝居のモニターになってもらうというのはどうなんだろうか? と。
童心社の編集さんはそれを許してしまわれた。そのことが、ショックでした。
なので、わたし的には『ちっちゃい こえ』も『ママおば』同様、未就学児対象の作品ではないし、小学生対象に演じるにしても事前になんらか説明をし、出来れば親子で見てもらいたい紙芝居だと思っています。
2人目の報告者は神保和子さん。幼児教育を専門とされ、現在は図書館運営会社で児童書担当者の育成に関わる仕事をされ、またご自宅で家庭文庫を運営していらっしゃいます。
2015年『ママおば』が発売されたころに、おつれあいを亡くされ、4人のお子さんたちの苦悩に接してグリーフケア(身近な人を失くして悲嘆に暮れる人が、その悲しみから立ち直れるようそばにいて支援すること)の必要性を感じられたとのこと。
そんな時に、死を軽視し、死が子どもへの脅しに使われている作品を知り、血が逆流する思いをされたのでした。
神保さんの報告は、【第一の視点】子どもの発達と死生観ー幼児に「死」は理解できるか と、【第二の視点】新自由主義時代の教育観―自己責任にゆだねられた教育 の二部構成です。
まず、【第一の視点】子どもの発達と死生観ー幼児に「死」は理解できるかから。
1948年(第二次大戦直後)のハンガリーのマリア・ナギーという方の調査・研究や、2004年(阪神大震災後)の兵庫・生と死を考える会のアンケート調査を紹介。
それによると、3~4歳の子どもはアニミズムの世界を生きている。「7歳までは夢の中」「七つまでは神さんの子」とか言うの聞いたことがありますが、「死」と「生」の理解がまだ未熟な、ぬいぐるみやお布団にも魂があって語りかけたり語りかけてきたりといった、ふんわりな世界のことでしょうか。
とにかく死んでしまったら、もう生き返らない。取り返しがつかないと理解できるようになるのは早くても5歳。小学生になっても、実感できていない子どももいるとのことです。
近頃は「命の大切さを教える」という、な~んか先回りしたことを言う方もおいでです。
でもそれを「絵本で」というのは違うと、わたしは思います。
実は、日々の暮らしの中に「死」はいたるところにあります。
わたしたちが食べるものは、だいたいすべて「かつて生きていたもの」「新鮮な死骸」と言っていいです。
だから「いただきます」っていう。必要なだけを残さずに食べる
着ている服だって、天然素材はだいたい生きものでした。使っている道具、木製品も皮製品も生きていたものです。だから、いいものを大事に長い年月使い続けたい。
小動物を飼育する。ペットの犬猫・小鳥・金魚・いもむし。飼うと愛着がわき、殺虫剤が使えなくなる。
そういう実体験で「命」や「死」を感じるほうがいいのではないかな。
神保さんのお話を聞いて、わたしはそう感じました。
絵本が好きすぎるあまり「絵本は万能!」と思わないことだよな~って。
※今日はここまで、続きはまたのちほど
※次は神保和子さんのお話 「新自由主義時代の教育」の内容と、わたしの感想を綴る予定。
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