世界選手権で 高橋選手が 優勝 金メダルを獲得しました
五輪の金メダリスト と 銀メダリストが 出場していないと 高橋選手が優勝して当たり前という雰囲気があり 本人は 五輪後 緩んでしまった感情を どう建て直したかという興味もありました
見ていて スピードが落ちているというのがハッキリとわかり やはり疲れが出ているのではないか?と思いましたが
4回転に果敢に挑戦(残念ながら 回転不足 認定されませんでした) ジャンプで危ない!というのも ヒヤヒヤしました
結果 五輪の金メダリストの得点を上回っての優勝
本当におめでとうございます
狙って獲ったメダルです 以前はガラスのハートと称されるほど 精神的に弱い面があった高橋選手ですが 大怪我で一年間を棒にふり リハビリで過ごしたことが 彼を強くしたように思えます
とにかく 落ち着いていた それが印象でした
さて 今日から 女子が始まります
結果は出る前からわかっている そうです
金は金へいきます
転ぼうと 揺れようと ぶれようと 指パッチン バッキューン で誤魔化そうと
跳んでも跳ばなくても 金は金なのです
お約束が出来上がっている 悔しい・・・
真央ちゃん 頑張れーーー 無心で演技 怪我をしないで帰国してください
今の女子フィギュアの採点は 不可思議な現象がまかり通り それが あたかも常識であるかのような報道です
しかし 作られた女王には 世界中で 常に疑惑という称号が付いて回っているのも現実です
本人は実力だと勘違いしている 可哀想な女王様
とっとと引退してください
五輪後 見つけたブログ記事ですが ここに書かれている内容を読んで 納得することができました
ー ー - - - - - -
タチアナコーチを「旧採点時代の遺物」と見下す視点で、さも新採点システムには無感覚・無対策であるかのような論調を時々見かけるが、そんなばかな話があるはずはないとお分かりになるだろう。
コーチは誰もが今の、教条的でとんでもなく複雑怪奇な採点システムに対応しようと苦慮しているのだ。
タチアナコーチが浅田選手に与えた恩恵は計り知れない。
『くるみ割り』をオルゴールの人形よろしく、くるくる踊っていた少女は、タチアナコーチの元で、重厚なクラシックの音の幅にも負けぬ表現力を身につけた。
『鐘』の超絶プログラムを(たとえ3Aを抜きにしても)、あの迫力でなぞることが出来る選手が他にいるだろうか。
キム選手の『007』は、たとえば村主選手のような表現力なら、もっとウイットに富んだ小粋な作品に仕上げるだろう。
村主選手の『パダン・パダン』は、退廃的なムードを纏って、彼女らしい情感に充ちたEXだった。
彼女の演技はしばしば「女優性」という言い方で解釈されるが、けれん味も灰汁の強さも含め、人間性の奥深さを表出し得なければ、それは所詮、田舎の猿芝居に終わってしまう。
浅田選手の『鐘』は、このような女優性が描く世界とは違う。
優劣ではなく、元々表現の方向性が違うのだ。
(北野武の無節操な発言は、早く撤回してもらいたいものだ。)
ジャンプについて言及した記事と重なったしまう部分が多いので、簡潔に述べる。
要するにジャンプ同様、演技についても、選手にはそれぞれタイプがある。
選手たちを単純に比較して、どちらがより表現力があるかどうかなどと書き散らすことが一番のまちがいだ、ということである。
ストイコの言葉が簡潔明瞭に言い表していたと思うが、
「真央のスケートはイノセンスでグレース。ヨナはセックスアピールが利いているね」という、表現力ではなく、表現性の区分けである。
表現の方向性が異なっているのに、表現力が低いとネガティブなキャンペーンをされた方はたまったものではない。
(勿論こんなレベルの話、多くのファンはとっくに分かっている筈。
金メダルの選手の方が当然上でしょ~みたいなコメントはくれぐれもご勘弁ください。)
つくづく分かっていないのは、既成概念に凝り固まったマスコミ(北野武も含め)や、新ルールに対応しろと迫られる選手の困窮にも全く手を差し伸べようとしないお偉方である。
そしてもう一つ、これはファンの間でも意見の分かれるところだが、「審判と観客を“意図して”魅せる」必要性についてである。
フィギュアが競技である以上、観客を味方に付け、審判の心を掴む必要があることは当然の話だ。
衣装も、選曲も含め、プログラムに観客や審判への迎合性が見えず、ジャッジを意識したパフォーマンスではないと判断される部分があるというのは、メダル奪取を目的の一とするならおそらく致命的だ。
浅田選手のFSの衣装は(別に五輪のジンクスに意図して反駁したわけではないだろうが)一貫して、「挑戦者のイメージがある」という赤だった。
そして「重苦しい」「暗い」「真央のイメージじゃない」と叩かれ続けたプログラムは『鐘』。
さらに伝家の宝刀3Aを武器に、彼女は周囲の期待に追従するところの微塵もない孤高さで、ジャッジに媚びも諂いもしない演技を貫いた。
(ちなみに『仮面舞踏会』『鐘』の選曲に関しては、タチアナコーチがロシア勢にとことん冷たい北米の会場反応を熟考し、重厚な音楽で楽曲の壁を造り、浅田選手が狼狽しないで演技に集中できるようにしたという慧眼による解釈がある。
まさきつねはこれを支持する。)
さて、そこで「審判と観客を“意図して”魅せる」必要性から問題に上ってくるのは、メダル奪取を第一とする作戦や、ジャッジ受けや観客の乗りを緻密に計算した頭脳的なパフォーマンス、いわばキム陣営的な感覚が、今後は浅田選手にも必要なのかそうでないのかという、選択である。
まさきつねはかつて、亡きM・ジャクソンの超有名な「Don’t Think, Feel!」という言葉を上げ、考えすぎる演技ほど手足の自由を奪うものはないのだから、ジャッジがどうの観客がどうの、マスコミや有識者が何だかんだと考えて、おもねり、意図して演技することほど虚しいことはない、
浅慮では真の感動や、魂を揺さぶられる衝撃までは意図できまいと、とある方のブログ記事にコメントした。
数値的な結果を当て込んだ意識的な作り込みよりも、
浅田選手のみならず、安藤選手や鈴木選手の演技からも迸り出る、無意識に観衆が「魅せられる何か」、
それこそが五輪の空気と思いもかけない化学反応を起こし、観衆の感性に素直に届くと感じたからだ。
あまりにも論拠のない、空疎な理想論に聞こえるだろうか。
そう捉えられても仕方ない。
近代的な合理精神はスポーツ界の実利性に同調する。
数値を結果とする競技は、頭脳も言葉も、感覚さえ情報社会に溢れるデータに侵されている。
数値を超えた才能や技術、芸術的価値などは自然に弾かれてしまう。
数値で測れないものは、審査の対象足り得ない。
かくして演技の画一化(金太郎飴化)が始まっていく。
その頂点が、いわゆる銀河点と呼ばれる、不可侵の歴代最高得点だ。
キム選手が(キム選手じゃなくても誰かが)、同一の模範演技を同一の完成度で繰り返すことが出来るなら、得点はレベル8、レベル9と際限なく更新されていく。
(演技内容の難度を上げる必要はないのだ。そんなことは現在の国際ジャッジは求めていない。
あくまで同じ構成で同じ演技を失敗せず繰り返す。)
なぜなら、今のジャッジがしていることは、模範演技とのずれを測ることであり、ずれが小さければ小さいほど高レベル演技と判断し、GOE加点を付ければ良いからだ。
(ところで模範演技そのものがはなからキム選手の演技を想定しているなら、ずれは最小限で済む。加点が大きくて当然の理だ。)
革新も進化も得点対象ではない。
当然、模範を超える超絶演技や技巧は不要。
奇跡はメダルの条件ではないからである。
(ポゴレリッチが予選で落とされ、ジャッジの主観でショパン弾きにふさわしいと思われる演奏家が優勝者に選ばれたのと同じ理屈だ。)http://blogs.yahoo.co.jp/maquis44fumi/245335.html
そしてこのジャッジ判断は、とりあえず結果を伝え聞かされた観衆に少なからず揺さぶりを掛ける。
表彰台の真ん中に立つ選手と、厳然と上がっていく国旗のインパクトは絶大だ。
3Aが、難度が特別性が(なぜ評価されないのか)というコーチの叫びも届くまい。
近年、若い人を中心に蔓延している、「空気を読め」的な環境配慮と状況判断は、自分自身のセンサーを働かせることを怠惰にし、とりあえず周囲のマジョリティー判断に盲従する。
観衆は自己の感性よりも、他から得た情報や数値、結果に依存して、選手たちの演技を観る。
恐ろしい話だ。
※ ※
まさきつねの話を妄想だでっちあげだと声を高くされる御仁は、ご自分に一度、問い質してみられると好い。
あなたの感受性は乾いていないか。
柔軟性を失ってないか。
何かに依存して、他人の話を鵜呑みにして繰り返していないか。
わずかなプライドも手放して、心が震えた瞬間を、涙が溢れた感動をみすみす見過ごして、美しいものに純粋な気持ちで触れる歓びを、忘れてはいないか。
「自分の感受性ぐらい 自分で守れ ばかものよ」
(茨木のり子)