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葛南雑記 行徳・南行徳・浦安

散歩雑記「南行徳・浦安・行徳・江戸川区」その他の地区仕事で行った所

行徳祭礼河岸

2014年10月30日 21時44分34秒 | ナンギョー散歩

今日も相変わらず暇でしたので,散歩中に気がついたことを書きます。
 最近,南行徳の旧道や江戸川の土手を歩かれて,下の高札のような案内板をごらんになった方が多いと思います。
南行徳の寺社や歴史的名所に建てられています。文章の内容から見ると,新井在住の郷土史家・釣り名人の鈴木和明氏の数多くの著書をもとに案内板の文章は編集されているようです。
どれも大変参考になる物ばかりですが,下記の祭礼河岸の案内板だけは明らかに間違った内容であり,正しい内容に変えて欲しいと思います。

「貨物専用の河岸。
 最初の祭礼河岸は寛永八年頃(1631年)
までに光林寺の南,稲荷神社の西にあたる
押切十三番,十四番付近に設置されたと推
定されます。元禄三年(1690年)この付
近に移設されました。」
 
この文章の元との資料に一つが,文化七年(1810年)に刊行された「葛飾誌略」の次の記述です。

一,新川岸。川場也。元禄三庚午年此所へ移る。故に新川岸といふ。

上の記述により,1690年に,祭礼河岸も今の場所に移されたと理解されているのです。最初にその説を唱えたのは遠藤正道氏(市川市湊新田生まれの郷土史のパイオニア)で,その衝撃的な著書「葛飾風土史 川と村と人」のなかで,幕府は江戸川を現在の形に開削した1625年頃,戦略上の判断から,現在の今井橋の少し上流に堰を作り,船の往来が出来ないようにし行徳船は,当代島の船圦川を通って海に出てから現在の野鳥観察舎に流れている川から関ヶ島まで運行したと結論づけています。(多くの行徳本を書かれている鈴木和明氏も、この説を支持し最新の著書でも主張は変わっていません。)その際,案内板の通り貨物専用の河岸まで特定しています。しかし,これは判断が偏りすぎており間違いといわざるを得ません。
 
 まず第一に海は危険ということです,時化が続けば一週間以上船が出せなくなります。徳川家康は江戸に入ってすぐ小名木川の開削を命じています。安全で安定した輸送のために河川交通の整備を急ぎました。戦国時代,塩の自給は大命題です。六浦・金沢・大師河原・行徳・蘇我・五井などで細々と塩が作られていましたが,生産量が一番多く江戸に近い行徳に目を付けるのは当然のことです。その頃江戸から太日川に出るには,小名木川,古川を通って下今井付近に出ます,(1629年には新川が完成しています。)その頃行徳・妙典の塩田の近くまで江戸川に通じる塩を運ぶための水路が掘られており、危険な海に出ることなく行徳の塩を江戸まで運びました。
 
 第二に1600年江戸幕府が開かれると同時に,利根川沿いの上州各地,渡瀬川・思川沿いの下野各地には河岸がいくつか出来ています。1641年には江戸川上流部の開削も完成し古利根川を迂回せず直接江戸川に入ることができるようになりました。1641年から1654年の工事で赤堀川が通水する前から佐原をはじめ香取・鹿島の河岸が増えてきます。1689~1690年に幕府によって行われた「河岸吟味」では,86カ所の公認河岸があり,これらは旧河岸と呼ばれました。(行徳河岸もこの中に含まれています。厳格に判断すると「新河岸」と呼ぶのは間違いです。)これらの河岸からは当然江戸川を使って江戸へ荷物を運び,江戸で買い付けた物を各地へ持ち帰ります。1690年まで江戸川が今井で封鎖されていたら,東日本の物流は馬と海上だけになってしまい,江戸の発展はおぼつかなかったでしょう。常識的に考えれば子供でもわかることと思います。

 ではなぜ「葛飾誌略」の著者は行徳河岸を新河岸と書いたのでしょうか?1590年家康が締め切るまで現在の市川市押切あたりから行徳駅南を通り野鳥観察者あたりに出る川がありました。江戸川の土砂が流れ込み堆積したため、そんなに大きな川ではなかったと思われます。この川が海からの表玄関であったため、現在の稲荷神社周辺に旧河岸があり川が締め切られると同時に移転したと思われます。江戸時代の始まる200年以上前から行徳湊や香取神社の川関で働いていた人々の子孫は新しい場所を「新河岸」と呼んでいたのでしょう。」

 祭礼河岸は何のために作られたのでしょうか?塩田から通じる水路は高谷から妙典・本行徳・関ヶ島を通って締め切られた川に通じその周辺が1590年までの行徳河岸です。そこからまっすぐ江戸川に新しい運河を堀り、塩を中心とした荷物の積み出し港にしたのです。江戸川の内側に積み出し地が作られるほど、行徳の塩は貴重品だったのです。



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昭和40年(1965年)前後と思われる祭礼河岸の写真です。押切自治会のホームページから転載しました。

中央奥が煉瓦作りの水門です。内匠堀から行徳中の水路に繋がっています。よく肥やし船(主に蓮田の肥料に使っていた。)が係留され、かぐわしい臭いが漂っていました。不思議に臭いとは思いませんでした。水門の上のひときは高い木は押切稲荷様の千壽銀杏です。水門の右側のこんもりとした大木は我が家の裏にあったシイの木です。まだ東西線は通っていないようです。行徳は延々と真っ平らな土地です。

 


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