葛南雑記 行徳・南行徳・浦安

散歩雑記「南行徳・浦安・行徳・江戸川区」その他の地区仕事で行った所

行徳の俎

2012年06月12日 12時54分38秒 | 葛南雑記・行徳

「行徳の俎」という言葉があるが、現在使われることはまずありません。
 私が「行徳の俎」という言葉を知ったのは、高校時代に読んだ夏目漱石の小説でした。(私は「明暗」の中に出ていたと思っていたのですが、「改めて調べてみると「吾輩は猫である」に使われていました。)夏目漱石全集の注釈によると、「馬鹿で人ずれのしていること。千葉県下の町行徳では馬鹿貝がよく取れるので、ここのまないたは馬鹿貝ですれているというところから生まれた言葉。」という説明がされています。ここのところは私も高校時代に読んでいます。しかしその頃は馬鹿貝と赤貝と区別が付かず、カラがぎざぎざの赤貝のことだと思い込み、あんなギザギザの貝を俎の上で調理すれば、俎もすり減るだろうと思っていました。

上の写真がバカ貝です。市原市青柳地域でよくとれるので「あおやぎ」ともいいます。

葛南ではさっとゆでてわさび醤油で食べるのが一般的ですが、てんぷらもいけます。

なんといっても小柱がおいしいですね。

こちらが赤貝。

さてここで一つおかしいことがあります。
 「吾輩は猫である」が刊行されたのは明治38年1905年の10月です。その頃の行徳は塩作りが未だ盛んでした。南行徳の一部湊新田・香取・湊で海苔の養殖が始まっていますが、海苔以外の漁業は始まっていません。もちろん江戸時代は塩作り一筋でした。俎の上に馬鹿貝がのることはありません。
 ただ行徳領の三つの村は漁業が村の産業の中心でした。今は浦安市の猫実村・堀江村・当代島村では江戸の人口が増えるに従って魚介類の供給地となっていきます。その頃は猫実・堀江・当代島は江戸の人々にとって行徳の一部だったのです。浦安では馬鹿貝がかなり取れたそうです、最近でも日の出干潟で馬鹿貝が大量発生したことがあります。
 そうするとどう考えても、「行徳の俎」は猫実・堀江・当代島の家庭の俎のことを言っているのです。(猫実村・堀江村・当代島村が合併して浦安村ができたのは明治22年1889年です。)今では行徳よりも浦安という地名の方が全国的に有名になっています、「浦安の俎」に替えた方がいいのではないでしょうか。

・・・・・「吾輩は猫である」に「行徳の俎」が出てくる場面
吾輩の家に、主人の友人の迷亭先生が訪ねてくる。そこに主人の弟子の寒月君がやってきて、東風君の話になる。どうやら迷亭先生は訳の分からない単語を出したり、知識階級には余り知られていないことを言ったりするようです。
・・・・・「あの男はどこまでも誠実で軽薄なところがないから好い。迷亭などとは大違いだ」と主人はアンドレア・デル・サルトと孔雀の舌とトチメンボーの復讐を一度にとる。迷亭君は気にも留めない様子で「どうせ僕などは行徳の俎という格だからなあ」と笑う。「まずそんなところだろう」と主人が言う。実は行徳の俎という語を主人は解さないのであるが、さすが永年教師をして誤魔化しつけているものだから、こんな時には教場の経験を社交場にも応用するのである。「行徳の俎というのはなんの事ですか」と寒月君が真率に聞く。主人は床の方を見て「あの水仙は暮れに僕が風呂の帰りにがけに買ってきて挿したのだが、よく持つじゃないか」と行徳の俎を無理にねじ伏せる。「暮れといえば、去年の暮れに僕は実に不思議な経験をしたよ」迷亭が煙管を太神楽のごとく指の先で回わす。「どんな経験か、聞かしたまえ」と主人は行徳の俎を遠く後ろに見捨てた気で、ほっと息をつく。・・・・・

この一文の中で5回も「行徳の俎」が出てくる。江戸っ子の漱石にとって妙に気になった言葉のようです。


行徳産生海苔の配達with腰痛

2010年12月09日 21時37分23秒 | 葛南雑記・行徳
 3日前からひどくなった腰痛がまだ治りません。下に置いてある物を持ち上げるにも一苦労です。そうはいっても、仕事を休むわけにはいきません。今日は年一回の新海苔の配達です。行徳産生海苔を市川市内の個人のお魚屋さんに持って行かなければなりません。
 大きな湿布を、2枚奥さんに張って貰って、市川市塩浜の行徳港に向かいました。風がないのでそんなに寒くはありません。
2010行徳港
 行徳港です。小さな漁港です。隣に南行徳漁港があります。こんな狭い海なのに、二つの漁協に分かれています。まあ明治のはじめ、この地区で漁業が始まった頃からの歴史的背景があります。江戸時代を通じ、塩作りの地であった行徳領は、明治に入り塩の生産量が少ない南行徳地区で海苔を中心とする漁業への転換が模索されました。湊新田・香取・湊・押切がもっとも熱心でした。行徳地区は明治になっても塩作りが盛んで大正6年1917年の大津波まで続きます。その後昭和40年代まで、半農半漁の時代となります。
2010生海苔
 8時前に行徳港に着きましたが、もう今日採れた生海苔が、用意されていました。黒々とした艶のいい新海苔です。8時30分に市役所の方が到着し、梱包作業が始まりました。私の仕事は、発砲シチロールに詰められた海苔を均して蓋をして、ガムテープを貼るだけです。