葛南雑記 行徳・南行徳・浦安

散歩雑記「南行徳・浦安・行徳・江戸川区」その他の地区仕事で行った所

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三番瀬の浦安よりの干潟が消えた? 

2011年05月20日 09時17分54秒 | 三番瀬

 5/17読売新聞朝刊の京葉版に「三番瀬干潟 一部が消失」という記事が大きく載っていました。同様の報道は5/3フジテレビのFNNニュースにて現地映像を交えて伝えられています。
 
 読売新聞によると、消えた干潟は行徳塩浜行徳漁港沖の100m~200m四方の小さな干潟と、浦安市日の出に沿った「日の出干潟」(こんな名前初めて知りました。新浦安の住人が、こう呼んでいるのでしょうか。)が大潮の日も現れなかったそうです。どちらも浦安よりの干潟です。
 市川市の担当者が行徳・南行徳の漁師さんに聞いた話では「干潟は全体的に縮小した。」「数10センチ沈下した。」「海底が硬くなった。」などと、いかにも地震の影響であるような感じです。
 考えられる理由としては、「地震により砂が固まり沈下した。」「津波の影響で、干潟が流された。」と2点が上げられています。実はもう一つ原因がありそうです。
三番瀬航空写真修正
 三番瀬とは市川市沖の船橋市と浦安市の埋め立て地に挟まれた約1800ヘクタールの浅瀬です。(干潟ではありません。)
地図のように江戸川が流れ込んでおり、どんどん干潟が造成されそうな雰囲気ですが、この江戸川は行徳橋の可動堰でせき止められており川の水が流れるのは年に1,2回集中豪雨や台風の時だけです。普段は旧江戸川からディズニーランドの方へ流れています。三番瀬に土砂が流れ込むことは、ほとんどありません。
 今日の地元紙行徳新聞にも「干潟が確実に小さくなった」「東日本大震災の三番瀬への影響」という記事が掲載されました。湾岸道路の下にある干潟が30cmほど沈下したというのです。「江戸川放水路の上を通る湾岸道路の橋脚では、張り付いた無数のフジツボの下に、以前は干潟に埋まっていたであろうきれいな橋脚が約30cm露出しており、海底沈下の様子がはっきり見て取れる。」干潟の砂が東日本大震災の6分を超える長い横揺れで収縮したか、江戸川放水路の澪に流れ込み川底の深さが平均化したのかは不明です。千葉県に水深測量と調査を依頼するという結論は、読売新聞と同じです。
三番瀬海底地形
 上の図は2000年に作成された、三番瀬周辺の海底地形図です。高度成長時代に始まった東京湾の埋め立ては、海中の砂を吸い上げて、その砂で埋め立て陸地を造成するやり方です。中学生の頃、大きなパイプから砂と海水がすごい勢いで出ているのをみたことがあります。水の引いた埋め立て地は、当時は意外と自由に出入りでき(柵もない)、砂地のため大雨が降ってもすぐ水が引くので、野球をするには最適でした。
 上の図の紫色の大きな窪みは埋め立て用の砂を採取した大穴です。15mから20mの深さがある大穴です。三番瀬の中央左のまっすぐな窪みは江戸川放水路の澪です。三番瀬浦安よりの途中で途切れたような澪は、1590年頃まで江戸川の支流であった野鳥観察舎付近の川から続くものです。
 浦安の高洲から日の出沿岸のひときわ大きな穴が、現在の新浦安を埋め立てた砂の供給地です。三番瀬の沖まで及んでいます。フジテレビのニュースではこの地区の護岸の崩落がひどかったようです。おそらく海底でも崩落現象が起こり三番瀬を含む周辺の土砂が大穴の底に沈み込んだと思われます。
 千葉県の調査では、この大穴の水深調査も行われるでしょうが、結果が発表されるかどうかは疑問です。

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三番瀬のお話

2010年04月09日 21時36分53秒 | 三番瀬

 暇な日が続いていますのでネタがありません。仕方がないので地域の話題です。皆さんはたぶん聞いたことがあると思います,「三番瀬」のお話です。私は,浦安の当代島で生まれ,市川市湊・新井と移り住み,半世紀以上葛南(葛飾南部)の地に住んでいますが,三番瀬が話題になり始めた1990年代に初めて「三番瀬」という名詞を聞きました。私以上に長くこの地に住んでいる老父母も聞いたことがない言葉でした。
 「三番瀬」は,船橋の漁師が江戸時代の中頃から使っていた呼び方で,今は埋め立てられて地名になっている「高瀬」「西浦」そして一番沖の漁場を「三番瀬」と呼んでいました。船橋には漁業に関するたくさんの古文書・資料が残されており,図書館で閲覧することができるそうですが,なかなか行く機会がありません。
 浦安ではなんと呼んでいたかというと「蛎内」,行徳では塩作りと関連して「新浜」と呼んでいたそうです。次の図は三番瀬の範囲です。赤ラインは行政上の境界を海上にのばしたものです。こうしてみると,三番瀬の65%程は市川市の沖合であり,国単位でいえば市川国の領海になります。しかし現実には三番瀬の漁場の大半は船橋側が漁を行っています。これには歴史的背景があり,行徳・南行徳の漁師はいささか肩身が狭いのです。
三番瀬の範囲web2
この図のように行徳・南行徳漁協の猟区は浦安よりの片隅でありいかにも細々と続けている感じです。
市川市漁業権漁業図
 江戸時代から明治30年ごろまで,旧行徳領の沖三番瀬で漁業をしていたのは浦安と船橋の漁師でした。行徳は幕府の手厚い保護のもと塩作りに励んでいました。行徳の人々は自分たちの塩田の目の前の海にもかかわらず,網などを使って大量の魚介類を獲るのは御法度でした,現実に江戸時代文化10年(1813年)押切・湊・湊新田・欠真間の住人が船橋の漁師にお金を払って目の前の海で網を使って魚を捕ったことがばれ,猫実村・東宇喜田村に訴えられています。
 船橋の漁業はかなり古くから行われていたようで徳川家康がこの地を訪れたときには50戸前後の漁師の家があったそうで,すかさず魚を献上し船橋は御菜の浦に指定され将軍家御用達の漁場となりました。
 これに対し現在の浦安(浦安という地名が誕生したのは,明治22年1889年のことです。)堀江・猫実・当代島の歴史も古く鎌倉時代前の1157年には集落が形成されていたといわれます。鎌倉時代は,その海に飛び出した地形から主に鎌倉船の寄港地又は発着点として発達しますが,その頃から津波などの水害に度々襲われ何度も全滅しかけています。漁業が盛んになったのは江戸時代からで,江戸川河口に近いため塩ができなかった浦安の人々は魚貝をとり,地の利を生かし小名木川を使って江戸へ出荷します。最も盛んな頃は姉崎・木更津などの各地へ魚を買い付けに行き江戸間で運んだそうです。その縁でしょうか今でも浦安には築地の魚市場に店を持っている人が多く,かなり儲かっているようで大きなビルやお屋敷を建てている方が目につきます。
 浦安ではこうやって順調に漁業が発展していき,浦安までは江戸前といわれるようになりました,この浦安の姿を見て,穏やかではないのは「御菜の浦」の船橋の漁民達です。この頃漁場は川などから続く澪筋が境目になっていました。船橋の漁民達は三番瀬は浦安の境川の澪筋までが船橋の漁場であり「御菜の浦」であると主張し天明二年(1782年)代官に訴え出て,当時の代官宮村孫左衛門は船橋側の主張を全面的に認め境川の澪筋までは「御菜の浦」と判決を下しました。これにぶったまげた浦安の人々特に猫実村は漁場が無くなり,自分の家の目の前が船橋の海になってしまったのです。堀江・猫実・当代島の漁師達の戦いが始まります。(代官宮村孫左衛門の妾が船橋の漁師の娘であったという水戸黄門に出てくる悪代官のような話もあります)
 これは蛎内事件といわれ「浦安町史上」に詳しく載っていますが,猫実の長三郎・長兵衛・善三郎という三人の犠牲者がでてしまいました。漁民達は根気強く訴訟を続け天明八年(1788年)船橋と浦安の漁場の境界は高谷村からの澪筋であるとの裁決が出てやっと勝つことができたのです。その後浦安と船橋との争いは何度かあったが採決は逆に浦安側が有利になったようです。
猫実三義民
 浦安市真義真言宗花蔵院の入口に立っている「公訴貝猟願成の塔」です。勝訴した天明八年十二月に村人達が建立しました。この花蔵院の当時の住職も村人の支えになって戦いました。
下の写真は行徳港から見た三番瀬です。普段は干潟になっていません。
漁港1
行徳漁港です。(少し離れて南行徳漁港があります。)市川市塩浜に作られて40年以上たちます。狭い上に使い勝手が非常に悪く,三番瀬が埋め立てられたら沖に新しい港が作られる予定でした。
漁港3
2010年1月に撮影した行徳漁港の海です,私が子供の頃とは比較にならないほど,きれいになっていました。このときは,とれたての行徳海苔を市川市内の各学校や鮮魚店へ運ぶ仕事でしたが,生海苔を少しいただいて,佃煮風に煮て食べましたが,抜群の味でした。市川市では毎年一回ですが市内の鮮魚店などで行徳の生海苔を販売します。12月の中旬頃です。
漁港4
 最後に三番瀬に対する個人的見解ですが,せっかく奇跡的に残った海であり出来るだけ後世に残していきたいと思います。なぜ三番瀬が埋め立てられずに残ったかというと,「三番瀬」と呼ばれているとおり,船橋漁民が反対したからです。ライバルの浦安が1971年に漁業権を全面放棄し,三番瀬の大部分は船橋漁民の独壇場のようになっています。埋立反対の動機がどんなものであれ,名称になじめなくても,遠浅の海が残ったのは嬉しいことです。
 現在,三番瀬のNPO法人や行政は,三番瀬の埋立は無いということを前提に活動しています。中心テーマは「三番瀬の再生」です。しかし昔の海を取り戻すには難題がいろいろあるようです。まず干潟であるはずの三番瀬の水深が昔より深くなっています。原因の第一は地盤沈下です,現在は収まっていますが昭和20年代から40年代にかけては合計2m近く沈下したところもあるようです。第二に土砂の流入が止まったことです。江戸川・中川には幾重にも水門が設けられ海まで流れ出る土砂は極端に少なくなっています。水門のない荒川の土砂は浦安の埋立地に行く手を遮られ,葛西沖に広大な三枚州を形成しています。第三に三番瀬のあちこちに埋め立て用に海砂を採取した後が深みとなっており,そこに土砂が流れ込んでしまいます。
 

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