葛南雑記 行徳・南行徳・浦安

散歩雑記「南行徳・浦安・行徳・江戸川区」その他の地区仕事で行った所

江戸川とコスモス

2010年10月24日 21時10分16秒 | 江戸川について

 栃木からの帰路、母親と奥様に頼まれた野菜を買うために、直売所に寄りながら帰る。
 日曜日なので道の駅は避けて、真岡に新しくできた山口直売所と下妻のJA直売所によった。白菜・小松菜・インゲン・キュウリ・大根・長ネギ・サラダ菜・からし菜などなど、かなりの量を買ってしまった。
茨城県境町を抜けて利根川を渡り関宿に入ります、そこから野田に向かい、道が江戸川の土手に近づいたところにある宝珠花橋で江戸川を渡ると、そこは現在は春日部市です。このあたりの村は、1640年代に現在の江戸川が開鑿されると、一つの村が千葉県側と埼玉県側に分かれてしまったところがいくつかあります。この旧庄和町の大凧会館の近くの小高くなったあたりに「小島山小流寺」があります。このお寺は山号が示すとおり小島庄右衛門が建立し晩年を過ごした場所です。小島庄右衛門は関東郡代伊奈忠治の配下でこの周辺の地区の代官として、江戸川の開鑿を直接指揮し、周辺の新田を開発した人物です。
小流寺1
小流寺です。山門からは両脇に芝生が敷き詰められ、行徳の寺に比べると、広々して明るい雰囲気です。
小島庄右衛門の墓に有る案内板です。その下の写真の左側が小島庄右衛門の墓です。
小流寺3
小流寺4
小流寺にやってきた目的の一つ、「小流寺縁起」の写真と解説です。原文を読もうとしましたが、全部漢字です。私の手に負えません。研究者の「小流寺縁起」についての論文によると、関宿から松伏町の金杉までの開鑿が始まったのは、寛永17年1640年であり、1647年頃に通水しました。関宿から野田橋あたりまでは台地を掘り下げなければならず、大変な難工事であったようです。工事は三代将軍家光の許可が下りて行われており、今で言えば国営事業といえます、こんな大事業がわずか3年ちょっとで開鑿が終了したのは国営事業ならではといえます。(現在のダムなどの国営事業は、延々として進まず、30年40年のあいだ地元に金を落とし続けます。)
小流寺2
吉川市市民農園の近くで見つけたコスモス畑です。草野球の野球場3面分はありました。野田橋から川を下っていく土手道のすぐ脇です。摘み取り自由なようで、乗用車の後部座席の半分を埋め尽くすくらい、何百本も摘み取っているおばちゃんが居ました。馬鹿じゃなかろうか?
小流寺5


南行徳香取神社祭礼(四ケ村の祭り)

2010年10月10日 22時03分47秒 | 葛南雑記・南行

 今日は三年ごとに行われる市川市欠真間・香取・湊新田・湊以上四ケ村の祭礼(香取神社祭礼)でした。相之川の日枝神社のお祭りも同じ日に行われました。昨日の宵宮から降り続いた雨が心配でしたが、昼前には上がり絶好の秋祭り日和となりました。
 相之川は明治のはじめまで、欠真間の小字でした。日枝神社という村社があるのですが、旧今井橋の近くに小さいながらも香取神社があり御輿を奉納します。
ウォーキングがてら祭り見物をしてきました。
御輿3
これは香取神社の宮御輿です。かなり大きく立派なものです。横棒がないので、担ぎ手は、かなり重くてきついようです。そのためか担いでいるのは男だけです。欠真間・香取・湊新田・湊と順番で各を回ります。各には村御輿もあり、宮御輿がよそのに行っているときは、村御輿を担いでいます。
御輿2
 ここに登場したのは、私が1歳から20歳まで住んだ湊の村御輿です。子供御輿と間違えるサイズですが、もみ手は真剣です。
地スリ
 四ケ村の御輿のもみ方は、基本的に本行徳のやり方と一緒です。白装束で、御輿をもむときは、揺すったりせず静に担ぎます。この写真は地スリです。私が参加した33年前はもっと地面ぎりぎりにさせられました。かなりきついものです。このあと一番上の写真のように高く差し上げ、二回放り上げます。うまくあがれば拍手喝采です。
御輿がこない
御輿がこないと寂しい限りです。
寄付
 懐かしい名前が並んでいました。この中には、江戸時代初めから、湊村の開発に尽力し湊の善照寺を建立し、名主を務めた家もあります。
相之川
 これは相之川の御輿です。衣装も自由で、御輿の担ぎ方も江戸風で揺すりながら揉んでいきます。かなり威勢がいいです。相之川には相祭会という御神輿同好会がありましたが、今は名前が変わっているようです。