葛南雑記 行徳・南行徳・浦安

散歩雑記「南行徳・浦安・行徳・江戸川区」その他の地区仕事で行った所

浦安の始まり

2013年08月15日 16時29分17秒 | 浦安の歴史

浦安は旧行徳領の中でも、水害に襲われることが多く、被害も甚大のため、中世の資料が市内に残っていません。しかし浦安市郷土博物館の展示によると、2点の資料が残っています。

どういう経緯かわかりませんが、1992年に堀江の日蓮宗寺院「正福寺」にて板碑が発見されました。

 

板碑の詳しい説明は写真の通りですが、行徳ではまだ板碑の発見例はありません。

お隣の江戸川区では字の判読できるものだけで113基の板碑が残されており、内64基が年代のわかるものです。1288年から1547年のものがあり、各年代にまんべんなく数量が分布しています。

おそらく1400年代の中期ではないかと思われます。

というのは、中山法華経寺の山内寺院「法宣院」に中世に猫実に関する文書が残されていました。

上図は市川市史から抜粋したものです。赤く囲ったところがそうです、「下総国八幡の庄猫眞の法華経の講」とあります。1417年時点で今の浦安に猫眞(実)という地名があったこと、そこは八幡の庄であることがわかります。対岸の江戸川区長島は葛西御厨でしたが、この時代重要な太日川(江戸川)の河口の港として栄えていました、浦安の境川周辺も八幡の庄の港として、かなりの人が居住していたことがわかります。

実は中世から戦国時代にかけて浦安には猫実という地名しかなかったようです。1590年以前に制作された「下総国図」(船橋市立西図書館所蔵)でも現在の南行徳から浦安にかけての地域で、地名が記載されているのは、「ねこざね」だけです。

そこでいろいろな疑問がわいてきます。

①なぜ1593年開山の正福寺に中世の板碑があり、1417年には周辺の地域に日蓮宗の講があったのか?(正福寺があるのは堀江であり、うらやすの元町周辺では一番標高の高いところです。浦安最後の大水害1949年のキテイ台風のときも、正福寺周辺は浸水しなかったそうです。)

②1157年建立の豊受神社、1196年にできた清流神社・宝城院、1293年に開山した花蔵院はどいいう歴史を持っているのか?