人間というものは神の子だから自由自在なのです。
ところが今迄の宗教とか、修養とかあらゆる生き方というものは、
ところが今迄の宗教とか、修養とかあらゆる生き方というものは、
その自由自在を奪ってしまって、
一つの囲いの中に入れてしまって、
人間はこうでなければならない、こうしなければいけない。
という風に決めてしまったのですね。
そう決めて枠の中で生きているものだから、
みんな不自由になってやりたいことをやらないで我慢して、
我慢して生命を縮めてしまったわけですね。
縮めた上に宗教が入るとまた縮められてしまう。
おまえはこういう心じゃいけない、こうしちゃいけない、
という風にいわれますでしょ。
それでやりたいこともやれない。
やりたいことがやれないということは、
それでその想いが消えたわけではなく、
やりたいのを我慢したわけでしょ。
我慢していると潜在意識の中に我慢した想いが溜っていきまして、
それがたくさん溜ると原子爆弾のようにグッと凝縮されるわけです。
それがある縁にふれると、バンと爆発しちゃうわけです。
人間は生れて来てこの方、自分自分の軌道があって、
その軌道によって廻っているわけですね。
だから親子であろうと兄弟であろうと夫婦であろうと、
相手を押えて、相手を自分に屈服させて、
自分の思う通りに指導しようというのは、
それは神様のみ心ではないんです。
相手を自分の意志に従わせるということは、
相手を自分の意志に従わせるということは、
それが例えどんないいことであっても、
それは神のみ心ではないんです。
何故神様のみ心ではないかというと、
神様が本当に力を発揮すれば、
神様は絶対で全智全能なのだから、
フルシチョフがいけなかったら、
ポンとフルシチョフの首を切るでしょう。
毛沢東がいけないと思ったらポンと死なせることが出来るでしょう。
ところがそういうことがないでしょ。
ところがそういうことがないでしょ。
悪いことをやっていても悪いままに自由にさせておく。
いいことをしていても、いいままにしておく。
ただ人間の自由にまかせてあるわけですよね。
サアそこが問題なんですね。
自由というのにも二つあるわけです。
本当に生命を自由にして、みなが仲よく手をつなぎあって、
各々の立場で自由に生きられるような生き方をしているか、
または、他の自由はみんな奪っちゃって、
自分達だけの自由や権利を主張して生きてゆく生き方の二つで、
後の方は業なんですね。
みんなが自由に、生き生きと生きられるような生き方を
みんなが自由に、生き生きと生きられるような生き方を
自分がしていることは神様のみ心でしょ。
そこで私はそのような生き方を指導しているわけです。
(『責めてはいけません』 五井昌久著) 白光出版
世界人類が平和でありますように
日本(祖国)が平和でありますように
私たちの天命が完とうされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様ありがとうございます
今日の歌
Sound of Music | Central Station Antwerp (Belgium)
どんどん楽しいひびきがつながって・・・ドレミの歌♪
我が息子・・・・・。ゆっくりと・・・・・。慣れるまで頑張ります。
もう粗相しても叱れなくなりました。やめてくれるかと思っていましたが、逆に恐がって・・・・。反省しています
だまって愛を注ぐよう修業ですね
愛ちゃんありがとう