質問:神さまが折角美しい人間を創りながら、どうして年をとらせ死なせてゆくのでしょうか。
答え:この肉体は現われた五十年、百年というものは、一瞬のものなのです。
神さまのみ心というのは、永遠のおもんばかりを持っていて、人間として肉体に現われた一区間だけを問題にしてはいません。 霊なる人間が肉体に生まれ変わり、また霊なる人間に帰ってゆく、そのズーッと長い間の期間、在る区間では何もしなかったかもしれない、しかし体験を積んだ。在る区間には働いたかもしれない、しかし悲惨な最期をとげた。そしていろいろな体験を積んで、最後の時に、本当に働き得る人間というものを創り上げようとしているわけです。
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(前略)私は常日頃こう思っている。この世に本来失敗などということはあり得ないのである。試験に落ちたり、仕事が思うように運ばなかったり、実験が計画通りに成り立たなかったり、結婚に破れたり、教育が順調にゆかなかったり、病気になったりしても、それを単に「失敗」とみなさず、決して認めず、あるのはただそれ自体が未来に橋わたしするための、素晴らしい「結果」である、という考え方である。 . . . 本文を読む
こうしよう、あゝしようと思って、これじゃダメだ、これではいけないと思ってやっているうちは同じ道を行っているわけです。勿論よくなろうと思わない人より立派だし、何も考えない人よりは一生懸命自分を磨こう磨こうとしている人のほうが、良いにきまっています。それは普通の常識のよさ、修養のよさなのです。ところが妙好人はそうではないのです。話が反対なのです。 . . . 本文を読む
(前略)一番大事なことは、心の窓、霊的な窓を開くことです。人間は、霊と肉とが一つになって存在しているもので、肉体がすべてではないということです。 皆さま方の肉体というものは、ご自分の霊魂が支配していらっしゃるわけです。その肉体も寿命が来て、霊魂は次の場所へ移ってゆきます。その際、肉体界で、AならAが悪い事をしたり、人を殺したり、人をさげすんだり、罵倒したり傷つけたりしていたとします。その人はその行為の結果として、当然、地獄へ落ちるはずです。天界、神界へいかれるはずがありません。
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日本というと 島国の形の日本と思うでしょうけど そうではありません 日本というのは ヒの本(もと) 霊(ひ)の本ということ 霊(れい)の本は中心に決っています それを初めに現わしていたのは やっぱり日本の国なのです この島国ではない もっと大きかった それが天変地変などで別れてしまって こういう島国が残ったのです . . . 本文を読む
電車の通らぬ真深夜(まぶかよ)を
路線工事のつるはしの音が
凍つた鉄のひびきを私の枕辺にひゞかせる
今鳴つた時刻(とき)は確かに三時
厳冬の闇の冷えしきる中で
たゞひたすらに工事をつヾけるのは一体幾人(いくたり)
明日の危険を未然に防ぐ
つるはしの音鎚の音
あれはまさしく鉄道を守護する音だ
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私のように任せきった人は その呑気さ加減ったらないですよ 私だって失業していた時代もあれば 一生懸命病気治しをしながら お金を一銭ももらわなかった時があって お金もないし 何もないから なければ食べなきゃいいと思ったんだ 任せてあるからね この世に私が必要 と神様が認めるならば 生かしてくれるに決っている 食べなくたって生きられると思ったのです それは信の力 大信というのですが . . . 本文を読む
大体、世界平和の祈りの中に入っているような人は、前生でかなり修行した人たちが多いのです。そういう人達が集まっています。祈りの中に消えてゆく姿で入っていると、どんどん業が消えていって、過去の修行の成果が現れてきて、高い教えを教わると、パッとわかって、ぐっと心が飛躍するのですよ。 . . . 本文を読む
(前略)世界平和の祈りを祈っても祈っても、迷い心が生じる、というのが肉体をもった人間の姿のようです。この迷い心をどうやってのりこえてゆくかによって、安心立命し、感謝の心で生きていけるということになります。 . . . 本文を読む
真理は、自分たちが意識いようがしまいが、いかなる人も皆、“我即神也”“人類即神也”そのものなのであります。
そしてすべての人は絶対なる存在者と同じヴァイブレーションを共有しているのであり、無限なる愛、無限なる叡智を共有しているのであります。 . . . 本文を読む
答:心霊研究家や霊的な人が、よく竜神という言葉を使います。竜というのは想像上の存在か、実際に存在するものか、ということも問題になっています。やはり実在するのです。竜というのは霊身です。肉体的なものを持っていないわけです。 . . . 本文を読む
宇宙神の意志、そして、神々の意図するところは、人類がみな、他の人々の輝かしい生や幸せとともに生きることであり、決して彼らの死や不幸、そして犠牲を踏み台にして生きることではない、ということである。 . . . 本文を読む