Humoreske(小噺ひとつ)

ここでおひとつ、小噺をひとつ。
フモレスケはユーモアからきたことば。

小学校

2008-03-03 | おもうこと
通っていた小学校が統廃合される危機にさらされているらしい。

祖母、母の兄弟姉妹、私、妹、従兄妹たち、
全員その小学校の卒業生。

私が卒業する頃から児童数が少なくなり始めていて
6学年、各1クラスしかなくなっていた。
街中も街中、ド真ん中にある小学校で、
校庭も決して広くはなかったし、道を1本2本
はさんだらいちばんの繁華街に出るところに位置している。

小学校4~6年生の頃ってのが、いわゆるバブル崩壊の
時代で、卒業後にあそこの商店のだれだれちゃんちが
倒産したとか、それが原因で両親離婚してどこかへ
行ってしまったとか、郊外のどこかに引っ越したとか
風の便りに聞くばかりで、今や誰の消息もわかっちゃ
おりませんが…なんだろう。学校そのものに対する
愛着は、残っていたりする。

当時の先生たちももういないし、卒業後に足を踏み入れても
いないけれど、「記憶」が妙に色鮮やかなのだ。

私が1年生で入学した時はまだ古い校舎で、
2年生にあがるとき、校舎の改築が決まり、古い校舎への
お別れ会というのがあった。

全校生徒が校庭に集まって、校舎に向かって、
全員で「よびかけ」る。

「ふるいこうしゃさ~ん」
「いままでありがとうございました」
このフレーズをまだなんとなく覚えてます。
取り壊しが始まった時の寂しいことったら幼心に
鮮烈だったし、全校生徒にその旧校舎の図書館に使われていた
「木」の一部が配られて、今も持っていたりします。

校舎改築の間は、狭い校庭に仮に建てられた
冬は寒く、夏は暑い、プレハブ校舎での授業。
プールは、学校にない代わりに市民プールへ通い、
校庭がない代わりに河原のグラウンドで体育でした。

で、新校舎が建ったときのびっくりったらなかった。
1,2年生の部屋はピンクの絨毯、3,4年生は水色、
5,6、年生は紫の絨毯。教室と教室を隔てる
壁やドアはなく、自主学習室はあるし、ガラス張りの
廊下を経たところにはラウンジのような図書館、
屋上に体育館とプール。。。給食室があって、
光の広場というプレイルームもあった。そこでお誕生日の
人のための会食なんかもあったし。

そこで、キョ○シーごっこをしたり、
ドラ○ンボールの描かれたメンコで遊んだり、
友達の漫才を見たり、まぁ、よくもよくも
次から次へと遊びを思いついていたものだと。。。

もちろん、嫌な思い出もあって、
廊下でぼーっとしていると、「あ~、ふもちゃんが、
○○先輩のこと見てた~~」とかいって、
○○先輩とあっという間に噂にされて、相合傘を
黒板に書かれたり、○○先輩をホントに好きな女の子から
いじめられたり。。。放送委員会に入っていたんだけど、
4年生で運動会の実況席に選ばれたら、同学年の
子に上履きやら体育着やら、隠されてトイレのゴミ箱に
捨ててあったり、屋上のプールは、、、氷入りか!?と
思うくらい冷たかったり、、、

狭い校庭での体育教育のハンディを払拭すべく
「体力づくり」に燃えていた教育方針のおかげで
やたらと体操させられましたね。。ええ。ブリッジとか
ウルトラC級で出来ましたし、(身体柔らかかった)
縄跳びも「段」頂いてました。ドッチボールや棒倒しでは
必ず負けると泣く子がいて、髪引っ張られたり、たたかれたり
噛まれたり、大変でした…orz。。。

あとは、、、担任の先生が理科の先生だったので、
実験シートというのを使って、いろんな実験や、
結果のまとめや色々やってましたねぇ。。。
アルコールランプの絵を描くのが得意でした(笑)

音楽室では、テーブル兼、6台の電子オルガンが
ついていて、よく弾いてました。
休み時間は、あれ弾いてこれ弾いてといわれては
ピアノとかエレクトーンよく弾きました。そして、
学芸会の「ピアノ」役争いではいつもコワイ目を見ました。

悪がきが掃除をしなかったり、女の子を泣かしたら、
「男子、掃除しなさいよ!」と、先頭立って怒ってましたね(笑)
なぜか、誰よりも掃除に熱心だったかも(笑)

クラスで飼ってた金魚が病気で死にそうになって
いた時には、皆、授業そっちのけで(はたしてよかったんだろうか)
水槽の前に集まって、「きんちゃん、死なないで~~」
と、泣きながら叫んでました。。。実は、私はあれから
金魚が苦手だったりします。。。
その前には、水族館で、瀕死のマンボウを見て以来、
水族館が怖くて、行っていなかったりもします。。。


はぁ。。。
仲良くなったり、のけものにされたり、
くりかえしくりかえし、
女の子ならではのグループがあったり、
男の子と同じ方向で帰ると好きなんだーと騒がれたり、

思えば小学校時代って、結構「激動」なんだなぁ。。。
それを、小さい魂で、がんばって、ふんばって、
絶対そのときはいっぱい悩んだり、迷ったりしていたんだろうし
もう齢10才くらいにして、「理不尽」ってのを
知るはめになってるわけで…。それでも、生きてきたんだ。。。
えらかったね。私(笑)

子ども心ってのはスゴイなって思う。。。

思い返せばバカだなと思うようなこともたくさんあるけどね。
一方で、よく立ち直ったなぁ、今の方が凹む
ようなこともあったんじゃないかなとも思ったり。


信じられないような話ですが、私は
幼稚園のとき、「お弁当恐怖症」でした。

何がきっかけかわからないけど、
お弁当の時間になると、とってもとっても
気持悪くなって、トイレに閉じこもってました。

今もわすれません。あの感覚。。。
黄色い熊の形のお弁当箱が、だんだんだんだん
小さくなっていって、、、
母親も、なんとかして食べさせようと奮闘して
くれるわけなんですが、齢6歳の私は、
その母が、早起きして海苔をはさみで切ってパンダとかの
顔にしてくれるお弁当と対面した時に、

「これは、、、そう簡単に、
食べてしまっては勿体ないのではないか」

と、むしろ思ってしまい、、、食べられなかったという
オチを持っています。。。

小さな子供心に感じ入ったことって、その感覚は
忘れないものなんだなぁ。。。

多少脱線しましたが、、、その小学校の前には
「この木なんの木」に出てくるくらいの大きなくすのきが
生えてます。これがまた、ドラマチックなくすのきでして、
戦争で焼けてしまったのだけれども、芽がでて、ここまで
たくましく大きくなったのですよーー的な、シンボルでした。

卒業式の「よびかけ」。

「くすのきのようにたくましく」
「たらようの木のように学問を求める心を忘れず」
「ぼくたち」「わたしたちは」
「この○○小学校を卒業します」

と、ここで、「巣立ちのうた」のイントロが入る・・・。


ただただ、感傷的な話ですが、
なくなっては欲しくないかな。

こうやって、どぱーーーっと集中的に
いろんなことを生きてく中で思い出すときに
何か形に残るものが今もあるってのは、
やっぱり、、、大事だと思うし。。。


それにしても、変なことばかり思い出す。
例えば、給食のあとの牛乳パックのたたみ方とか、片付け方、
階段掃除の仕方、クリーンウェットというウェットティッシュ
を配る時に、机の上に直に置くのはどうなんだ?と迷ったこと、
6月のお祭りで、5年、6年生のときに、プラネタリウム
系のイベントを出店して、2年間連続企画優勝したこと、
チーズとレーズンがキライな隣の子が、チーズと
レーズンを紙に包んで捨てようとしていたこと、
凧揚げ大会で凧飛ばしたら、タコ糸10本分も飛んで
巻いて戻すのが大変すぎて、なくなく切ったこと(笑)、
学校休むと、Hちゃんが
宿題とプリントとヨーグルトを持って届けてくれたこと、
入学早々、「4」の書き順が違うよって、隣の席の男の子に
教えてあげたら、泣き出しちゃったこと(汗・彼は4を下から
一筆書きで書いていたのだ)入学式の日は雨で寒くて、スヌーピーの
紺色の傘を持っていったこと。
その他・・・色々。。。。

そのときそのとき、
一生懸命小さな心で考えて考えて生きてたんだろうな。

いつしか自分に子どもが生まれたときに、
「そんなこと、気にすることないわよ!」って
投げ出さずに、向き合ってあげられるだろうか。

な~んてことまで思ったりしてみた。。。

どうにもならないのかもしれないけど、、、
小学校、なくなって欲しくはないかな。。。

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