↓は結構重大な誤報ですね。毎日の記事だと、エルドアン大統領が「後悔している」になっていますけど、これってほぼ「謝罪の意思表示」ですが、全く、そんなことは言っていません
戦前戦中の日本が、最終的に破滅的敗北という結末を迎え、長い歴史の中で唯一、国の主権を他国に奪われるという「史上最大のダメージと屈辱」を味わったが、それを招いた要因の一つは、外部の視点という客観的思考を捨て、ひたすら「日本の正しさ」から出発する主観的思考で戦争に対処したことだった。
国家神道の政治思想を今でも是認する人間は、「特攻」で死んだ軍人を際限なく賛美することを好むが、自己犠牲への称賛に光を当てれば当てるほど、当時の国家体制の非人道性が影となって見えなくなる。逆に、特攻という行動を「非人道的」と認めてしまうと、当時の国家体制の非人道性が露呈してしまう。
『戦前回帰』の中で、特攻という軍事行動についても多面的に光を当てて分析したが、国家神道体制の復活を望む人間は、こうした多面的分析を頑なに拒絶する。あらゆる問題を、「戦前戦中の日本は間違っていなかった」という結論から逆算して説明する。 pic.twitter.com/7zSbWca9ed
「特攻隊」と「靖国神社」の関係について(Togetter)bit.ly/1Og22rg 2014年1月に書いた、表題に関連するツイートのまとめ。特攻や靖国神社を肯定・礼賛する人は、特攻を兵士に命じた当時の国家体制の責任を隠すための「ベール」としてそれを利用する。
この戦争末期の大本営海軍報道部の文章と、論理構造も文体もそっくりな主張内容を、日本会議などの首相周辺の論客が、産経新聞などの首相系メディアで堂々と語るようになっている。戦前戦中の政治思想や主観的大義に思考を委ねた人間は、人命や人権の価値に重きを置く思想を蛇蝎のごとく嫌い罵倒する。
『戦前回帰』の中で、この記事の一部を転載したが、キーボードを打つ指先が微妙に震え、画面を見ながら呼吸が乱れたのを今でも覚えている。主観的大義に思考を委ね、独立した個人としての思考を捨てた人間は、ここまで非情で冷酷な嘘の文章を書ける。 pic.twitter.com/pNg2EIlbOM
神風特攻隊の出撃開始から二か月後、政府情報局編集発行『週報』の1944年12月8日号に、大本営海軍報道部による「一億の神風隊」と題された記事が掲載されていた。特攻が軍指導部の命令で始められたという事実は伏せられ、前線兵士の「やむにやまれぬ自発的発案」で始まったかのように説明した。
「自爆攻撃」も「特攻」も、人命や人権の価値に重きを置く社会では、戦争という緊急事態にあっても、戦闘行為の選択肢から外される。戦中の日本は、国家体制を守るという主観的大義のためなら、国民の命をどれほど粗末に扱っても問題にされなかった。現在の世界でも、同種の思考を持つ集団が存在する。
自分の死を承知で自爆攻撃を行うイスラム過激派の行動に、第二次大戦期の日本軍の「特攻」との共通点を見出す諸外国の人々は、実質的な類似性に着目している。日本軍の特攻も「所属する社会体制を守るため、という主観的大義を信じる戦闘員に、生還を前提としない自殺的攻撃を命じる」戦闘行為だった。
だいたいロシアがシリアに空爆介入して一ヶ月で発生した市民の「巻き添え」被害は、アメリカと有志連合が1年以上続けた際の巻き添え被害を上回る数で、ピンポイント爆撃をする意志の有無が被害の大きな差を産んでいるわけで・・・
「安保法制は9条を守るため」と公明党。でも問題は、交戦権が支配する現場(南スーダンPKOも)に自衛隊を交戦権を持たせずに送り込む矛盾が生む事故の可能性を、安保法制が一段と高めるということ。隊員の尊い犠牲が恣意的に政治利用され、改憲論議が偶発性に支配される可能性が高まること。