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長良川鵜飼開き

2017-05-11 07:06:08 | 岐阜長良川鵜飼
本日5月11日は
岐阜長良川鵜飼開きです。
鵜飼の歴史は古く

長良川鵜飼は1300年ほど前から行われており、その歴史は日本で行われている鵜飼の歴史と重複する。鵜飼は権力者の贅沢のひとつだったため、その時々の権力者に守られ今日に至っている。江戸時代においては徳川幕府および尾張家の保護のもとに行われていた。明治維新後は一時有栖川宮御用となったが、明治23年に宮内省主猟寮属となり、宮内省(現宮内庁)の直轄となった。長良川の鵜匠は職名「宮内庁式部職鵜匠」である。松尾芭蕉が「おもしろうて やがてかなしき 鵜舟かな」という一句を残している。

平安時代中期に作られた辞書『和名抄』に、美濃国方県郡の鵜飼について記述。
『集解釈別記』に、鵜飼37戸との記録。
『新撰美濃誌』に、方県郡鵜飼の郷9箇村の記録。
文明年間に、一条兼良が美濃の正保寺に滞在し鵜飼を見物した記録。
延喜年間に、長良川河畔に鵜飼7戸の記録があり、藤原利仁は、その7戸の鵜飼に鮎を献上させ、天皇の気に入り方県郡七郷の地を鵜飼に要する篝松の料としてたまわり、鵜飼七郷と呼んだ[5]。

平治の乱で源頼朝が源義朝と敗走する時はぐれ、長良川河畔をさまよった末に鵜飼の長である白明の家にて宿泊。そこで鮎鮨等にて持て成しを受けた。その後、建久3年右大将として上洛する際に、白明の子を呼び出して恩に報い、また毎年鮎鮨を鎌倉に送るよう命じた[5]。

永禄7年、織田信長は長良川の鵜飼を見物し、鵜飼それぞれに鵜匠の名称を授け鷹匠と同様に遇し、1戸に禄米10俵を給与した。

元和元年、徳川家康が鵜飼を見物し、石焼きの鮎に感賞した。以来、江戸城に毎年鮎を献上するのが慣例となり[5]、鵜匠21戸に各10両の扶持を給与した。その後、鵜飼は衰退し文化2年には12戸となる。その12戸に毎年120石、532両2分を給与すると再び回復した。

明治維新で一時衰退したが、明治天皇の代にはしばしば沙汰があり大膳職に上納された。
1890年(明治23年)から稲葉郡長良村古津その他武儀郡、郡上郡の各村で延長1471間を宮内省の鮎漁の御猟場に編入された[5]。

1918年(大正7年)に英国皇太子(ジョージ5世)を迎え天覧鵜飼が行われた。
1936年(昭和11年)と1961年(昭和36年)の2度、チャーリー・チャップリンが鵜飼見物のために来岐。鵜匠をアーティストと賞賛し「ワンダフル」を連発したと言われている。

1962年(昭和37年)に昭和天皇を迎え、天覧鵜飼が行われた。
1997年(平成9年)に今上天皇皇后を迎え、天覧鵜飼が行われた。

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