ほそみわ縁側日記

3人の子育て、仕事もフルスロットル。40路を超えても尚、あえて困難な道をゆく。負けるな、私!

作り手の品性

2011-11-23 11:04:50 | Weblog
ものづくりとは恐ろしい。

作り手の心の卑しさが透けて見えるから。

社会、ものごとを、人を、どんだけ上から目線で見ているのか、
自分はそれらとは別であり、まともであり、優れているか。
不遜な人格はその人たちが作るものに表れてしまう。
もちろん、どんだけ偽善的であるかも、また表れてしまうけど。

デリカシーのなさ、優しさのなさ、ずるさ。
でも、そういうのが高く評価されるのが、組織だ。
ずるいから、どうしたら怒られないか、ほめられるかわかっている。

恐ろしい。

圧倒的な闇がそこにある。
鈍感な善良な多くの人には気づかれずに。

闇は、誰の心にもある。
もちろん、私の中にも。
激しく意地の悪い闇がね。

でも、その闇の空気が良性のものなのか悪性のものなのか、
理屈でなくもう空気の味みたいなものでわかるものだ。

悪性の闇に弱みを見せてはいけない。

まさに、「ねじまき鳥クロニクル」の綿谷ノボルが持つ闇のよう。
人を決定的に損なう。

私にできることは何か。
綿谷ノボル的闇から人を救い出すことか。

いや、私には、井戸抜けとかできないし、
特殊なことはできない。
ただ、感じるだけだから。

でも、そういうものが評価される社会のおかしさを
身を呈して言い続けるしかない。
「違う」って。


秋だ、村上春樹の季節だ

2011-09-24 19:20:10 | Weblog
またまた、ご無沙汰でした。

自分の場所なのにね。
ツイッターにすっかり行っちゃって。

でも、ツイッターだと、いちおう考えるのよね。
こういうすごく私的なこととか書いていいのかな、
こういうこと書くと、いろいろめんどくさいことになるかなとか。
いちおう、考えてるんですよね。

ツイッターやってる人の多くが、
非常に政治的社会的、というか原子力・放射能に関することを
ツイッターに書くこと書かれることを好むような気がする。
どうでもいい、脳天気なつぶやきとか、どうでもいい、私的な詩的なこととか
心に浮かんだことを書き残したくて、ツイッターに書きたくなるんだけど、
踏みとどまってしまう。

確かに、そんなことどうでもいいよね。
私にとっては大切な灯みたいなもの、
ギャツビーが見守った灯みたいなものでもさ、
多くの人にとっては
「何、この人、勝手にセンチに浸ってろよ」だよね。
もちろん、嫌ならアンフォローするんだろうけど。

で、ギャツビーのこと書いたけど、
もう村上春樹ワールドしちゃってるんだけど、
…って、実はちょっと酔っぱらってるから、この文体。
酔って文章を書くってのも、気持ちがいいんだよなあ。

で、ツイッターに書こうとして書かなかったこと。
それは、タイトルのこと。
秋だ、村上春樹だ!っつうこと。

秋雨が降ると、私は「ノルウェイの森」の冒頭の
京都の山奥の草原を思うのだ。
勝手に。
あのシーンで、雨なんて降ってないんだけど。

で、秋が深くなってきて、寒さを感じ始めると、
「羊をめぐる冒険」の、
北海道十二滝町のことを思うのだ。
勝手に。

つまりね、秋になると、村上春樹を読みたくなるのだ。あたしは。

でも。
そんなこと、私の志向であって、
一般的でない。
だから、ツイッターに書くのやめたんだ。
恥ずかしかったし。

うーむ。
酔いが少し醒めてきた。
仕事のこととか頭によぎってきた。

いや、もう少し。
先週末、夫と家で、ノルウェイの森の映画のDVDを見たのだ。
はじめは、「え?!なんで近所の火事がないのよ、キスはそこでだよ」とか、
「え?!緑のお父さんのところ行ったら、きゅうりを食べるシーンがなきゃでしょ」
とか、原作を知ってて愛している人間からすると、えええ?!ということが多くて、
入り込みにくいところもあるな、って思うのだけど、
あの、何とも言えない切なさを描くのは、成功してたと思ったなあ。

切なくなったもの、あたし。
大学生に戻ったような。
村上春樹を読むと感じる、あの切ない世界。

ハツミさん役の女優はよかったな。
原作にはなかった、けど、ホントはあったのだろうなと思うような、
すごい迫力が、あの可憐なほんわかした美しさの中にどーんと存在していて、
すごかった。

菊池凛子がすごいすごい、って皆が言ってた理由もわかった。
全然、直子のイメージじゃないし、きれいでもないのに、
かわいく見えてくる、かわいい、折れそうで…

そんな切なさがまだ残っている時に、台風で激しくなったあの秋雨が来たのだ。

このへんで。
ではでは。

崩す

2011-06-27 01:55:23 | Weblog
今、自分に課していることがある。

作る番組、毎回、何か一つ、小さいことでも何か一つ、
「崩す」こと。

いわゆる規定路線とか固定概念とか
「こういうもの」っていうのを、どこか崩す。

今回ね、山場の試写はうまくいった。
でも、実は、得意なネタでもなく、
あっぷあっぷでやって、
「崩す」こともできずにいて、
それで、試写でみなに認められる。

崩すと、試写はうまくいかない。

まあ、そういうもんだろうなとは思いながらも
敢えて困難な道を選びたい。

それにしても今回、どう崩す?

ちーっちゃいこと何か、考えねば。

それにしても試写というものは不思議じゃ。
自分がいいぞと思ってるとダメで、
自分がダメだなと思うと、いい。

それって、あたしの感覚が間違ってるってことか?

それにしても、何故私は、崩したくなってしまうんだろうね。
やっぱり、中世ヨーロッパが好きなだけに、
魔女、なのかな。
前世、魔女、だったのかな。

憂鬱でなければ仕事じゃない

2011-06-25 08:39:46 | Weblog
今、売れてるらしい。
「憂鬱でなければ仕事じゃない」って本。
幻冬舎の見城さんとサイバーエージェントの藤田さんの共著。

見城さんの名言を
藤田さんが聞く、って本らしい。

実はまだ読んでない。
テレビで紹介していて、へーって思ったのだ。

まず、そのタイトル、そういう考え方、
自分にフィットしている。

あたしなぞは、基本、番組作る度に憂鬱で、
辛くてしょうがない。
なぜって、わからないから。
方程式で作りたくないから。

自分がぐっとくるテーマ、ポイントを見つけ、
それを浮き立たせたい。
けど、それはとても難しい。
どうやったらできるの?
それって、あたしの思い過ごし?幻想?
自分の感性に疑問まで沸いてくる。

こういうネタのときはね、
まずこういう話が来て、こういうインタがあって、こう展開するんもんだよ、
っていう方程式があることはある。
そういう方程式が立てやすいネタと、立てにくいネタもある。

あたしは、方程式が立てにくいネタが好きだ。
立てやすいネタの場合は、その「正解」を崩してやりたくなる。

あまのじゃくだ。
それは、周りは迷惑だろうな。
だって、あたしが悩んでうんうん言ってるぶん、
作業は遅くなるしね、
何はっきりしないんだろ、この人、って感じでしょう。

で、そういう周りの気持ちも感じてしまう。

だから、憂鬱なのだ。
難しいし、みんなから嫌がられるし、
自分も信じられなくなるし、
家でもそのことが頭から離れないし、
陰鬱きわまりない。

でも、それでいいって、
見城さんが言っている。
憂鬱でない仕事は大したことないって。

自分にとってコンプレックスになっていることを
それがいい、と認められた感じ。

今も、また難しい仕事にぶちあたってる。
今日も、子供の学校公開の後、編集室へ。

むずかしーなあー。

いつものことだけど。

今回のテーマは、
日本の、日本人の美しさ、なんだけどな。
あたし的には。

でもまた、それ、みんなからは、ええ??
って言われちまう。
夢はそうでしょうけど、現実は…ってね。

でもまあ、それに近づきたいね。
どのくらいの人が、番組を見て、そのことを感じてくれるか
わからないけどね。

憂鬱、憂鬱…







2011-06-23 10:36:02 | Weblog
前に、このブログで、
ある上司というか先輩に大激怒した件、書きましたが、
その後、差しで(アルコールなしで)話し、
わだかまりが消えました。

いや、消えたというか、
その程度のことか、とホッとしたというかね。

私のいつもの「感じすぎ」でもあり、
先輩も普通のサラリーマンだったんだなあということもあり。

でも、いろんな人から
「あんなこと書いちゃって大丈夫?」と言われた。
中には、
「日記帳、プレゼントしましょうか?ああいうのは誰も読まない日記に書くんですよ」
と言ってくれる後輩もいた。

あたし、
もっとどす黒い感情は、それこそ「日記」に書いてますよ。
日記というか、「黒革の手帳」に。
いつも携帯している、学生時代から使ってる、
レアものふぁいろファクスに。

いちおう、あたしなりに、バランス感覚を持って、ブログに書くことは
選んで書いているのです。

ブログに書く、ということは、
私にとっては、「覚悟」。
だから、「あの人大丈夫か?」と心配?している人たち、
大丈夫ですから、あたし。


で、今日のタイトル、卵。

あたしは、第一子を出産してから
ずっとコンプレックスが心の奥底にあった。
それは、ディレクターとして、番組制作者としてのコンプレックスだ。
それでも番組好きだから、踏ん張って生きてるけど、
やっぱり、20代の頃の
「死んでもいい」という気分で番組を作る私ではいられなくなった。
それまでに、すごい実績を積んで、もう成仏、っていう時に
第一子を産む、というのではなくて、
これからもっと!って時だったから、
その中途半端感があたしをずっと苦しめてた。
もっとできるはず、もっとやりたい、っていうあたしと、
そうはいかないあたしと。

でもね、今週になって、なんかわかってきた。
最近の鬱みたいな更年期みたいな状態の正体。

結局は、コンプレックスが年月が過ぎるごとに
薄まるどころか、濃くなり、大きくなり、
あたしの心の底にべったり張り付いて、
いや、むくむくと大きく膨れあがって、
あふれ出てきてたんだなと、わかってきた。

あとわかってきたのは、「世間」(職場)の中のあたし。
あたしと先輩たちと世間。
メタ認知できてきた。

尊敬する先輩たちに対しての
あたしの気持ちと周囲の気持ちは大きく違ってたのだ。
あたしは、その先輩たちは、ずっと前の先輩たちのまま、あたしの中にあって、
それは今のこの世間では大きくずれてたんだ、
ということに、今さらながら気付いた。

今更ながらだ。
なんていう鈍感なんだろう。

尊敬し、仲良く遊んでいた友達でもあった先輩たちは、
もう、違うところに行ってしまっていた、ということだ。
でも、あたしの中には、あの頃の彼らがいて、
それが目の前の彼らと何か違うと違和感持ちながら、
そのズレに慣れることができなくて、
どう接すればいいかわからなくて、ずっと混乱していたんだ。

人は変わる。
あたしの中にいるその人と、世間の中でのその人はもう違っているのだ。

そのことに今さらながら気付くと、少し楽になった。
メタ認知は、生きやすくする力なんだね。

でも、一方で、寂しくなった。
なんか、書いてて、涙出そうになった。

その寂しさの正体は、
自分はその人たちに大きく水を開けられているという事実に、ではない。
それは逆に、自分をホッとさせる。
あたしはあたしの道をゆけばいいんだと。
でも、そうじゃなくて、
あたしの中にいた、あの頃の先輩たちこそ、あたしにとっての彼らであって、
その人たちはもういない、ってことが明らかになって、
それがなんか無性に寂しく感じるのだ。

多くの、あの頃の人たちは、もう「いない」。
そして、あたし自身も、もう「いない」のだ。


そうだ、「卵」だった。今日のタイトル。
今日の決意。覚悟を書こうと思ってたのだった。

村上春樹がイスラエルの文学賞の授与式で「卵と壁」について語ったじゃない。
だいぶ前に。

最近、これから、あたしはどういうスタンスで、
どういう仕事をしていこうか、とずっと考えるんだけど、
そこで今朝思いついたのが、「卵」だった。
あたしも、「卵」の側につこうということだ。

壁側にもついて、っていうバランスはとらない。
卵の側に立つ。

あたしは、この強大なコンプレックスと共に、
そのコンプレックスの源である、母親という自分に
とことん問いかけてみる。

番組作っても、誰に評価されたいって、局内の同業者にほめられたい、
っていう価値観から脱却して、
この汚染された時代に生きる「卵」の一人として、
「卵」にこそ支持されたいと思おう。

もう、この組織内でどう思われるか、っていうことから離れなくては。

「卵」と共に。

もう「壁」には何もできない。
「壁」は何も変えることができない。
「壁」に期待しない。

「卵」の力を見たい。
「卵」がこの世間を大きく変える、その様をまざまざと見たい。





開き直る私

2011-06-11 15:09:46 | Weblog
送別会という席で、
人に喧嘩を売るのはどうもやりにくいね。

喧嘩を売るつもりはないけど、
とてもまじめなテーマについて、
社会的なテーマについての見解を問いただすのって
送別会ではできなかった。

近いうちに、話す。

でもね、その上の人が送別会の挨拶で言ってたことが
やっぱりな、と腑に落ちた。
カイシャはそういう方向に行ってる、と感じてた
私の感じ方はそう間違っていなかったようだ。

でもね、昨日は深夜まで、
「あたし、うつ病かも」って思ってたくらいに
うちひしがれ、
これまで自分がやってきたこと全て馬鹿らしく恥ずかしく思ってたけど、
今日になって、今の気分は、
なぜか、開き直りに似た感じ。

そうかい、カイシャがそうならそうと、
それでもやる道を探してやるって。
上がそう言ったからって、
やめなければいいんだ。
すぐは日の目を見ないかもしれないけど。

周りじゅうに牙をむいていた、あたしの気持ちも
今は開き直り。
リーダーって何?、リーダーにあたしは向いてないから、
っていうのも、
どうせ人望など元からないのだ、
そんなもんクソくらえでやってきたのだから、
それでいいじゃないかと。

皆に認められる、立派な人になりたい、なんて
あたしにゃ合わないよ。
中学の昔から、嫌がられ煙たがれる存在だったじゃない、あたし。
立派な、力のあるリーダーは他にいるのだから、
あたしゃ、あたしの道をゆき、
誰もついてこないなら、それでいいじゃないの。

そう自分に言うと、ホッとした。

でもね、先週月曜日に私に訪れた決意は、変わってない。

娘の小学校の大避難訓練、
そして、その夜の大川小学校のニュース。
娘の「お母さんが迎えに来てくれないから、りりも死ぬんだ」という言葉。
私は、何を最も大切にするのか、という問い。
どこか、都合のよい理由でごまかしてきたものが、
大震災を受けて、今後また近く起こるである大災害を前に、
ごまかしてはいられなくなったのだ。

その決意は、開き直った今も消えない。
これは、これまでにないことだ。

自分の「残りの時間」を考えるようになった。
今の立場というか仕事の「残り時間」をね。

その「残り時間」を自分の中で捉えた。
かなり限定的に。現実的に。

その時間内で、自分がやりたい・やるべきことをやる。
それは何?
壊すってこと。
昨日も上の人が言っていた、このカイシャの最近の風を思うと、
ますます、壊す人は少なくなるんだろうなって思うけど、
あたしみたいに、本流にはなれない、はみ出しものがそれやって、
自爆すればいいんじゃないの。

村上春樹のカタルーニャ賞のスピーチに心震え、
それに触発された、というのもあるのだろうか。

あるいは、いつもの私の、再生サイクル、なのか。
つまり、ふと開き直りの力が無性に湧いてきて、
ま、いいや、って前向きになる。
戦闘体制になるんだよね。

喧嘩上等。
そういうつもりもないけど、前に、周りの人にそう言われていた。
ちょっとここんところ、忘れてたな。
優等生ぶってんじゃないの、あたし?
昇進して、喧嘩を忘れていた、あたし?




自爆テロ

2011-06-10 07:27:55 | Weblog
夫に言われた。
「革命じゃなくて、自爆テロ?」って。

ま、そうかもね。

でも、この一年は、壊したい、んだよね。

でもね、一方でね、情熱にねじれが起きていることも確か。
これまで情熱だけでやってきたけど、
そこにそんなに意味があるのか、って思い始めてしまった。
私の熱は、ほどほどを知らなくて、過剰になるから、
いろんなことがうまくいかないのかもしれないけど。

ある決意をすると、黒い憤懣も白く流れていくんだね。
だから、ある意味、すっきりしてんのよ。

やってられない気持ち

2011-06-09 14:25:02 | Weblog
あたし、自分のカイシャのこと、ずっと信じてたんだよね。

国の言いなりだ!国営だ!とか周りから散々言われても、
私は自分の経験ででしか考えることのできない人間だから、
そんなことない、自分自身、国を批判することもやってきたし、
そんなことない、それほどひどくない、って思ってきた。

でも、この大震災はいろんなことを明らかにしてしまったみたいだ。
私自身の中で、だけど。
私の人生観・価値観というのも変えたし、
この会社に対する捉え方も、なのかもしれない。

耳を疑ったんだよね。
信頼する先輩の言葉を聞いてさ。
明日、飲む機会があるから、聞き直したい。

先輩だけではない。
ここのところの風。

あたし、なんだかんだ言って、この会社、好きだったんだよね。

なのに…
すごくショックだ。

偏らない、ってなんだろう。
ある一つの方向性を示さない、ってことなんだろうか。
いろんな意見の多様さをテーブルにのせる、ってことか。
でも、ある方向性を示すことも、多様性の中の一つだし、
作り手のメッセージも何もない、おおあじなものが、偏らないってことなのか。
どうでもいいことをこねくりまわして、何十年とやってきたお家芸で料理することが、
偏らない、ってことなのか。

バッカじゃなかろうか。

あたしも、いつまでこの茶番に、子供たちを犠牲にして、死ぬ気でやってんだろね。
あたしも、バッカじゃなかろうか。

いろんな怒りが吹き上げる。
激しく。

私は、いい人すぎた、これまで。
怒りも抑え続けてきたし。
馬鹿にされたことがわかっても、そのままスルーしてきた。
(思いっきり、仕返ししたこともあったが。)

もう、信じないからね。
お小姓体質のこの職場。
気持ちが悪いんだよ、まったく。

私自身、ある決意が心の中に生まれてきてる。
震災がなければ、この決意はなかったかもしれない。
それほど、大きなことだったんだ。


今朝の小さな幸せ4.17

2011-04-17 10:52:01 | Weblog
朝風呂。
大好き。
晴れた休日の朝風呂はまた、いいねえ。

今日は、ぐうたらしてる私を怒る人もいない。
ゆーっくりお風呂につかる。

庭に面した窓、長女が顔を出した。
「お母さん!」
続いて、次女も顔を出す。
「お母さん!」
「モモちゃーん、お母さん、見える?」
「見えるよー」

風呂の私と庭の娘たち。
光がキラキラ、木々の緑もキラキラ。
いいなあ、とじんわりする。

目をつむると、
庭にいる子供たちの声。

蜘蛛を見つけて近づいて見ようとする長女。
蜘蛛の解説をして、怖がらせる長男。
砂利を踏んで音を出して喜んでいる次女。

思わず、長男に、
「塾の宿題終わってないんでしょー」
と言いたくなるのを、ぐっとおさえた。

こんなお天気の日に、庭でじっくり
虫を見ていたい、その気持ち。
子供の時だったら、あったでしょ、私。

ふと思った。
子供の時見えていた世界。それを見る子供の時の気持ち。
世界がわからないことによる不安はあるけど、それは小さくて、
世界は今一瞬は輝いて見えて、
今一瞬が全てで。

子供の低い目線から見える世界は、
背の高い芦が自分を包みこむ城で、
そこに大人が捨てていった、大人の雑誌があって、
見ちゃいけないものを見てドキドキして、
それは暗くて黒くていやなものだったけどドキドキして、
目を上げると青い空と、芦がそよそよ吹いていて、
それがその前と違った風景に見えて…

子供の時の、大人が知らない風景は、
大人になって何の役に立つのかと言われれば
明確な答えはできないけど、
感性という、その人の人生を支える大事なものを
育てるんじゃないかなとと思う。

「こうしなきゃいけない」
「何をしなきゃいけない」
そんな大人目線の世界で、子供を縛ろうとしてしまう私。
ふと、子供の頃の自分を思い出して、少し反省する。

そんなことを考える朝風呂。
小さな幸せだ。

頭の中は実は仕事のことでいっぱいで、
家事とか何にもしたくない。
家の中、めちゃくちゃ。
あー。大人って嫌だな。

家事をしないでぐーたらしている私を怒る人がいない。
夫は、昨日、大阪へ行ったのだ。
入院している義父の容態が悪いのだ。
ひとまず今日は帰ってくると言う。

別に、夫がいなかったから、怒られなくて、
小さな幸せを感じた、ということじゃないです。
現実はそんな簡単ではないです。
それが、大人の世界です。


色気なさすぎ

2011-04-16 09:17:26 | Weblog
いや、番組のことね。

人でもそうだけど、「色気がある」って、
その人のホントの生なところがじわっと出ちゃってる、
ってことかなあと思うんだよね。

無防備に出ちゃってて、少し痛い人もいるし、(それはもう色気とはいえないが)
意識しすぎて「色気のようなもの」「色気と勘違いしているもの」を出している人もいるけどね。

でも、「ああ、あの人、色気あるなあ」って思うのって、
無防備でも意識的でもなく、ほんのわずかにじんわりあふれて、淡く匂い立つという感じ。
仕事とかそういう表の顔じゃない、本来のその人の生なもの、その人自身。

戦争中とか恐怖政治とか中世の暗黒時代とか、
上からの抑える力とか規制とか不自由が大きければ大きいほど、
実は、色気が出てくるものだなとも思う。
で、それが、暗黒の中で生きていく希望というか、
小さなよりどころにもなるのではないかと。

番組でも、色気が大事だと思う。
もちろん、色気のない番組も大事だなと、ここのところ思うようになってきたのは事実。

でもね、こんな時だからこそ、番組の色気について考えたいと思う。

よくできている、わかりやすいし、的を得ていて、新しいポイントもある、という番組は基本。
おもしろいね、と評価される番組も、まあある。

でも、色気がある番組というのは、あまりない。ほとんどない。

どの番組も、その制作者だからそういう番組になる、つまり制作者が違えば番組も変わってくる、
それはそうなんだけど、
大体において、既定路線内だ。
どれも、よく似ている。匂いが。
違う人が作ってるのに、同じ匂い。

ちょっとだけ、その既定路線から外れると、
編集室で言われる。
「それは要らないよね」
「構成的に、異物でしょ。わかりにくくするよね」

私などは思う。
全体的に外れていたら、それはもう論外だけど、
これは、この異物は、確かに構成的には「きれい」じゃないけど、
それがいいんじゃない、って。

確かに、芸術作品じゃないから、
自分を前面に出すのって、見苦しい。

でもね、あああ、無味乾燥っていうか、
立派な番組だなあ、でも優等生ってなんかつまらないな、
って思うことが時々ある。
というか、よくある。

逆にまた、
「この番組、こーんなにぶっ飛んでんだぜ、どうよ!」っていうのは、すごく見苦しいことがある。

そういういうのは、色気はない。
そういう番組、あっていいと思うけど、
私は、好みでいえば好きではない。

私は、色気のある番組が好きだ。
思わず、ふっと、その制作者の「生」だとか人間性が出ちゃってる番組。

ああ、あの人が作った番組だなあってわかったら、
もうその番組は、「ラブレター」だ。
マスに向けられたものでありながら、密やかに個人的で、
その人自身で、
秘密の「ラブレター」。

そーんなロマンティックなこと言ってる場合?ってつっこまれるかもしれないけど、
私はそうは思わない。
自分がどう考え、どう感じ、何を伝えたいと思っているのか、
それは、その人ならでは、その人自身が出れば出るほど、
その番組の独自性が出る。
埋もれない番組になる。

でも、怖いんだよね。
だって、「何これ?」「要らないでしょ」と言われたらさ、
それが自分ならでは・自分自身であればあるほど、
恥ずかしくて、もうこういうのやめる、って思っちゃうよね。
だから、怒られないように、
上が求める番組を作る、ってことに血道をあげるんだ。

自己規制は大きい。忖度によるね。
でもさ、取材したその人だからこそ感じたことを
素直に誠実に番組に映し出すことに負い目を感じることはないのではないか。

ただ、その時、留意しなければならないのは、
冷静に抑えられた中で、あふれてくるものを、ということの強さだ。
どうよ!ではない、ということなのだ。
どうよ!では、色気ではない、勘違いになってしまうのだ。

「番組は、どこを切っても、ディレクターの血が出るべきだ」

私の好きな言葉。
ある先輩がよく言っていた。

この言葉は同時に自戒も込めている。と私自身は思っている。
ディレクターの血が流れないようにする上司であってはいけない、というね。


…とまた今日もまじめに仕事のことについて「語って」しまった。

昨日、夫に言われたのだ。
「最近、もろ番組のこと書きすぎじゃないの?なんか、少し、つまんない」

なぬー?!
私のブログの一番の読者の言葉に、私は敏感なのだ。

偉そうに語りすぎていないか。
まあね。
結局は負け惜しみなんじゃないのか。
まあね。

そうだよ。上等じゃねえか。何が悪い。

いや、家族のことも書きますから、
たまには
仕事の話も書かせてよ、ね。