ほそみわ縁側日記

3人の子育て、仕事もフルスロットル。40路を超えても尚、あえて困難な道をゆく。負けるな、私!

手持ちぶさた

2010-04-21 09:20:47 | Weblog
通勤の楽しみがまたなくなった。
1Q84、読み終わってしまったから。

楽しみって大事。

体を動かす、運動することに、楽しみを見いだせないものか。
今、ふと思った。
その答えはすぐには見つからない。

食べなくても体重が増えていくのなら、
もう運動をするしかない、ということ、
よくわかっているのだけど。

1Q84の青豆のところを読んでいると、
体を作るっということにとても主体的で知的で
とにかくハードボイルドな感じがして、
憧れてしまう。
私などは、自分の体を自分の体としてあまり認識していないようだ。
どこか、別のもののように感じている。
いや、そう思いたいのかもしれない。

そろそろ、出口は閉じてしまうのかもしれない…
そろそろ、腰を上げなくては…

ハードボイルドな私

2010-04-20 10:05:03 | Weblog
ついに昨日、「1Q84」第三巻、読了しました!

金曜日の朝、地元の本屋が、まだ開店前にも関わらず、
ブームに乗って店前で呼び込みして売っていました。
驚きました。
東京郊外、首都圏の地方都市で、
こんなことするんだと驚きました。
しかし、その呼び込みに応じる人は、
私が見る間はいなくて、
そこに近寄って購入するのも、
なんか恥ずかしい雰囲気でした。
が、行ったり来たり、ためらった末、そこで購入しました。

ま、ミーハーに敢えてなるのもいいかなと。
反面、自分と村上春樹の本との関わりはどこか特別だと思っている、
多くのハルキスト同様、そういうブーム便乗なお祭り騒ぎを苦々しくも思う。
でも、早く読みたい衝動に負けたのですね。

いやあ、この週末は、家事や育児なんてもうやりたくなくて、
夫の目を盗んでは、1Q84の世界へ入り込んでました。
1、2巻と同じように、息つく間もない展開に
先へ先へとぐいぐい引っ張られます。

読み終わって思ったのは、
これは「ノルウェーの森」以来の、究極のラブストーリーだなということです。
三巻を読んでいる途中から、そうかな、とは思っていましたが、
最後まで読んで、自分の中では確信しています。

面白かったです。
でも、なんでなんでしょう、読み終わって寂しさが残りました。
「何も、残っていない」ということに。
自分の中に何も残っていない。
いや、それも違うな。
残っているのは、何かが足りないという感覚。
もしや、次巻があるかも、と思ったくらいです。

500ページを過ぎて、
1巻や2巻のページ数を超えたくらいから、
とにかくこの巻を終わらせなきゃ、と思っているかのような進み具合に、
安心するやら少し残念やらな気分で読みました。
そこで思うのは、村上さんは何か書き足りない感じでいるのでは、ということです。
だから、次巻で、書きたいところ、1Q84という世界の真実が語られるのでは、
と思ったんですよね。

なあんて、読者は勝手なものです。
そんなこと言ってても、
いろいろ知ったような批評を言ってても、
村上春樹ワールドが好きでしょうがないんですから。
そして、この1Q84こそ、まさに村上春樹ワールドの集大成みたいな感じ。
村上春樹を好きな人が満足するポイントが盛りだくさんです。
そして、それまで村上春樹を読んでない人も取り込む本です。
らしさ、ととてもエンターテインメントな大衆性とが入り交じっている。
文句なんてないですよ。
これだけ楽しめたのですから。

ただ、私は「ノルウェーの森」の個人的な世界観が好きなだけです。
読み終わった後、1ヶ月間、引きこもってしまったほどの衝撃、影響力。
それほどのものが今回ないのは、
20年以上前に初めて村上春樹ワールドにはまった自分と
今の自分がとても大きく変わったからなのか。
いろいろなことが、現実の世界も、そして村上さん自身も、
全てが大きく変化しているからなのか。

ところで、村上春樹の長編を読んでいる最中って、
その他の動作をしている時も、
どこか違う感じがする。
現実の世界と本の世界が少しどこかでクロスするような感覚。
自分の動作や心情を、心の中で、短いセンテンスで描写して、
どこかハードボイルドな気分になっている…
それが心地良いのですよね。
読み終わってしまうと、自分の中のハードボイルドな世界も終わってしまう。
読了して寂しくなっているのは、そういうこともあるのかもしれません。

入学の春。母は泣きました。

2010-04-10 10:07:15 | Weblog
長女りりが、小学校に入学。

木曜日は、入学式日和の晴天のもと、
素敵な一日を過ごしました。

同じクラスに、保育園のお友達が二人、
バレエが一緒の子が二人いて、
少し安心。

入学式やクラスでの説明の後、帰宅。
家族5人で、写真館に行きました。

りりの1ショットをお願いしたら、
まず規定の場所に立っただけで、
写真館の人から
「バレエ、やってらっしゃいますね」と。
えええ?そんなわかるものなのか、とびっくり。

「姿勢とかでわかります。
 体で表現することに慣れているんですね。
 あと、見られることにも慣れて、様になるんです」

まあ、驚きと共になんかうれしくなりました。
まだ1年半くらいしか習っていないのに、
お稽古というものはすごいものだ。
というか、バレエ、恐るべし。
それを聞いて、次女モモに習わせるお稽古も、
ピアノでなく、バレエにしようかなと心が揺らぎました。

その後は、気分が良くなった夫が、
高級な感じのレストランで食事しよう!とひらめき、
地元で一番のホテルの最上階のレストランへ。
子どもたちは初めてのフランス料理。
長女りりは、パンばかり食べてましたが。

入学式の日。
母は実は一つ心残りがありました。

実はもっと泣きたかった。
娘の成長を実感し、その悦びをもっとじわじわと味わいたかった。
が、式は、二年生の言葉と歌に少しほろん、となったくらいで、
泣くというポイントはありませんでした。
(それが悪いわけではないけど)

夜は夜で素敵な気分のまま眠くなって、
眠いと機嫌が悪くなる私はまたちょっと夫と喧嘩し、
ふてくされて、リビングのソファで朝を迎えました…

しかし、どうもやっぱり、私は泣きたかったのかもしれない。

翌日、通学班での登校に始まり、正式に一年生生活がスタート。
私はもう朝からドキドキだった。
二人目なのに。
もしかしたら、長男のときより心配で緊張していたかもしれない。
女の子だからかな。
しっかり者だと思ってたけど、
どうも最近、それだけではない複雑なものがわかってきた。
怒られたり緊張したりすると、固まってしまうというのがわかってきた。
何事も、きちんとしっかりとやりたい、という性格から来ているのかもしれない。
他の人がやっていることを自分もやらないと不安で嫌で、泣いてしまう。
ああ、どうなることやら…

私は一週間、休みをとっていたので、
下校する我が子をこっそりのぞきに行った。
児童クラブにも慣れてもらわないといけないから、
解散場所に迎えにいくことはできない。
学校から先生に付き添われて、児童クラブに行く娘を
遠くから見守った。
すると、なんと、目が合ってしまった。
りりは、にっこり。
まずい、見つかった…しかし、じっと我慢だ…
そして、そこからまた違う道を通って、児童クラブへ向かった。

既に子どもたちは児童クラブに到着。
しかし、一人の女の子だけ、玄関の外に立往生。
先生たちがなにやら慰めている。

なんと、うちの娘でした。
泣いている。
先生が少し困ったように、励ましている。
「大丈夫だよ。がんばれるね。」

それを聞きながら、私は公園の木の陰に隠れて見ていた。
涙出るかな、私、
とその時思ったけど、涙はちっとも出ない。
心を鬼にしているからなのか。
そういう時は涙は出ない。
出て行って、駆け寄って抱きしめてあげると、
子どもはうれしいだろうな、と思いながら
じっと立っていた。
ここで踏ん張らないと、児童クラブに慣れることはできない。
お母さんがフルタイムでハードに働いている以上、
その子どもが通らなければならない関門だ。
心にぐっと力を入れた。

どうにか、先生たちの説得を聞き入れ、
娘は児童クラブに入った。
それを確かめて、私は家へ。

家に戻って、何もする気がしなくなってしまった。
ただ、毛布にからまって、泣きたくなった。
どうすることもできない。これでいいのだ。
私にはただ、娘の気持ちに共感しながら、泣くしかできない。
でも、ここで泣かなきゃとも思った。
無性に、泣きたかった。

ごめんね、とも違う。
子どもに悪い、という気持ちでもない。
かつてはあった。そんな気持ち。
でも、今はそう思わない。
しかし、揺れる。
そう思わないようにしているだけかもしれない。
ただ、泣く。
心の揺れとか澱とかいろいろなものを流すように。

それから長男が帰宅し、昼食に牛丼を作った。
長男はすぐに友達と遊びに、ベイブレードを持って、
喜びいさんで公園へ行った。

再び一人で、毛布にくるまって、じっとしていた。
もう涙は出なかったけど、
何もする気が起きないままで。

で、2時半。
予定より30分早く、児童クラブへ迎えに行った。

りりは、公園で、お姉さんと手をつないでいた。
それはそれで実は問題があったのだけど、
笑顔のりりだった。

帰り道、泣いていたことを聞いた。
すると、意外な答え。
「勉強道具を持ってこなかったから、
 りりだけ持ってきてないのは嫌だったから泣いちゃった」

春休み中の児童クラブは、30分ほど、
自主勉強の時間がある。
一度、慣らしの為に行ったりりは、
そのことが気にかかっていたのだった。

「先生は、児童クラブに紙もあるし、
 みんなも勉強道具は持ってきてないから大丈夫だよ、
 って言ってた。」とりりは笑顔で話してくれた。
そして、
「お母さんのお弁当、全部食べたよ。
 でも、今度から、2段じゃなく一段のお弁当箱にしてね。
みんな、そうだから。」

なんと…さみしくて泣いていたのではなかった…
りりの、みんなと一緒になってないと嫌だ、
という“きちんと”性格によるものだったのか…
ほっとするやら、肩すかしな気分やら。

ま、母はただ泣きたかっただけなのかも、なので、
それはそれで充実したのかもしれません。
そして、ただ何もしたくなかっただけなのかも。
私も、長い休暇の最後の平日だったから…

まだまだ心配な日々は続きそうです。





ブログ書きたくない

2010-04-05 11:50:33 | Weblog
ブログを無性に書きたくなる時はある。
そんな時は、何をしていても、頭の中でブログしている。
思っていることをブログ文章にしている。

しかし、時間があっても、ブログを書きたくない時がある。
パソコンに向かっても、自分のブログを見たくない。
他人のブログやらネットサーフィンはするのに、
自分のところには寄りたくないのだ。

なぜだろう。
私のブログは、私にとっては“重い”存在なのかね。
子どものこととか家事のこととか、とにかくテレビのこととか
そんなこんなに身を置いて、
自分に対峙したくない、というかね。

この一ヶ月、いろいろな節目がありました。
長女りりは保育園を卒園し、
私の仕事も4年以上にわたる仕事の一区切りを終え、
端境期です。
卒園式もブログネタになることはあったし、
仕事におけるよしなしごともいろいろありましたが、
なんか振り返りたくない気分、なのかもしれない。

ただただグダグダしていたいのだ。

今、10日間ほどの休暇をもらってるところ。
ただただ子どもと時間を共にしている。

何か有効な、自分への贅沢をするでもない。

そうそう、一つあったな、自分への贅沢。
深夜放送のテレビを一人見ること。
深夜の通販みたり、バラエティ見たりして、
何も考えずに、頭からっぽにして。
こういう時間が贅沢に思える。

最近、少し心配なこと、書いとこう。
夫のこと。
元気がない。
仕事がつまらないって。

私と口げんかもしたくないんだって。
だから、何か私が言おうとすると、やめてくれって。
職場でさんざん嫌な気分でいるから、
せめて家では嫌な会話をしたくないって。
私は、落ち込んだ。
もう、話し合うことすら嫌だとは、
夫婦も終わりだ…と。
前にも思ったね、これ。

でも、翌日。朝。
子どもたちが起きてくる前に、
テレビを二人で無言で見てた時。
前日の会話は、私がもう少し「待って」あげたら
話してくれたらしい。
わたしゃ、「待つ」こともせず、
自分のテンポでいろいろなことを判断してるのだ。
少し反省。
何も解決しないけど、少し話して、
お互い少し元気になった。

夫に言った。
転職、っていうのもあるのかもよ…って。

でも、その選択はほぼないという返事。
最後の手段だと。
私も夫も、なかなか「変えられない」人間なんだよね。
そこがいいとも言えるがの。

これまで実は私、「転職」という言葉に明るい将来を連想してなかった。
転職に未来を感じる人は、将来の可能性というものを信じている人だと思う。
私は、自分の将来というのを、先細りのように思っているのかもしれない。
そう思うと、なんか少し寂しいね。
ただ、目の前のことが全て、で生きてきたから、
先のことって考えない人間になっているのだ。
自分の今をもっと良くしたいっていうのは、必要なモチベーションだよね。
向上心。
私にはあまりないのかもしれない。

しかし、先のことを考えるのは大事だよ、私。

先のこと考えると、生活とか人間、変わるのかな。