狂言会場では、写真を撮るのを控えろと書いてあったのと、もう周りがまっくらだったので写真がアレですが・・・。
演目は「熊坂」。牛和歌丸(右)が悪者(左)を退治しているところです。
神泉苑に到着しました。
昼間は夏日を記録していたらしい京都も夕方になるとすこし肌寒くなります。
神泉苑のイメージはこの橋。京都に来る前に神泉苑は昔はもっと広かったということは勉強しましたが、すんごく狭いです。
パーツひとつひとつはきれいだったり価値があったりするのですが、やはり広かったものを狭いところに収納したというような印象をうけました。基本的な橋や池はそうでもないのですが、祠の点在の仕方がやっぱり少し窮屈そうです。
こういうときに、潜在的にそう思っているからなのかどうなのかわかりませんが、やはり「歩きづらい」です。参拝方向みたいな立て板はありますが、それがなかったらどう歩いたらいいのかまったくわかりません。(まあ、もとは庭だから方向なんてないのかな。。。)
狂言は、18時からだと思っていったのですが、19時からでした。
私がついたときは、13時からやっていた昼間の狂言のほぼ最後の演目を演じるところで、名物(?)土ぐもは、昼間の最初の演目ですでに演じ済みで、客席に蜘蛛糸の残骸が残っていました。
17時30分ころから最後の演目「弁慶橋」というのがあり、これは牛若丸と弁慶の出会いを描いているものです。
この狂言は「保存会」の人たちがやっていて、見ていて「ほのぼの」とします。
どういうところが・・・というと、この弁慶橋の出演者のほとんどが子供でした。
もともと、牛若丸は「きゃしゃで女の人と間違えかねない」というところから、大男が演じることはないのですが、通行人役の子供とかもうかわいくて、面白くて、見てる側も笑ってしまうし、黒子さん役(顔を隠していないし、はかまをはいている)も笑っているし、本当に面白かったです。
さて19時までは、本堂で小野小町の舞と二人静の舞をやるというので行きました。本堂は「観るため」の構造ではないので、みんな階段に座ったり立ち見です。
最初に小野小町の舞をします。
「花の色はうつりにけりないたづらに わが身よにふるながめせしまに」
というあの有名な歌にあわせて踊ります。
踊りの意味とか、踊りのなにが上手なのかを知っていればもっと楽しいのでしょうが、「あぁ。」という感じ。
その後、二人静を舞ってくれたのですが、その時代背景とか舞の意味とかまったく前知識がないので、楽しさ三分の二という感じでした。
日本舞踊とかまったく興味がないのですが、こういう二人静とか踊るって少し楽しいのかも(もちろん衣装付き)と少し思いました。
19時になったので、狂言会場に行き、「熊坂」を見ます。
さすが大人の時間(なのかな)だけあった、熊坂は長かった。
45分ほど演じていたのではないでしょうか。
狂言で演じられる演目は、だいたい歌舞伎でも演じるので話の内容はほんわかわかるのですが、わかってはいたものの、歌舞伎との絶対的な差は「せりふ」。
狂言はせりふがないので、どういうことを言いたいのか。というのをジェスチャーで示します。
そのジェスチャーがわからないと、もう絶対にストーリーを把握するのが無理。
弁慶橋のときに本当になれるまでに時間がかかり、熊坂のときに地元の小学生が前の席で自分の兄弟に解説(本当かうそかはおいておいて)をしているのを聞いてやっと「あぁ」と思ったほどです。
あと、狂言はお面をつけるので表情がわかりません。
歌舞伎だと役者の目線や表情でわかることも、狂言だとわからないですね。
あとは、効果音。
とてもシンプルなのと、基本的な音源は横笛だけで横笛の音調もずっと同じフレーズを繰り返すような感じなのですが、吹き方の強弱によってその雰囲気を緊張させたりします。
役者のせりふがないだけに、この横笛の存在ってとても大切になります。
あぁ。歌舞伎でもそうなのですが、基本的に、歌舞伎とか1幕3場みたいな感じで演じられるのですが、その1幕が全ストーリーではなく、全ストーリーだと10幕くらいあったりします。だから、歌舞伎を見るときも同じ義経千本桜でも、演じる場(巻でしたっけ)によって、全然話が変わりますし、その前後を知らないとつまらないというのもあります。
なので、初心者の人と行くときは、比較的わかりやすいか、見た目にインパクトのある四谷怪談とか毛抜きとか土ぐもを選ぶようにしています。
そんな感じで狂言も同じで一場面しかやらない上にせりふがないので、前後ストーリーやその動作が何を示しているのかわからないと結構つらいものがあるなあと思いました。