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日本庭園と社寺建築

日本庭園の魅力と巧みの建築を紹介

常照寺

2011-08-27 | 常照寺

1616年(元和2)、日蓮宗の日乾上人[にちけんしょうにん]が本阿弥光悦の寄進で創建した。数百人の学僧が学ぶ鷹峯檀林として栄えたが、今では江戸前期の遊女・吉野太夫ゆかりの寺として知られる。


常照寺は、日乾上人に帰依した吉野太夫ゆかりの寺として知られ、太夫の墓や太夫が寄進した「吉野の赤門」と呼ばれる山門、吉野窓(茶室)、吉野桜も有名



吉野太夫
吉野太夫とは、江戸時代の初期、京の遊郭で天下の名妓とうたわれていたのが二代目吉野太夫。

太夫は日頃から熱心な法華経の信者。

ある日、人として生きる道を仏法に求めようと日乾(にちけん)上人を頼って常照寺へ訪れ「法華経こそ一切女人成仏の印文なり」と導かれた太夫は、日乾上人への帰依の証しとして私財を投じて山門を寄進したのである。

無燐庵

2011-08-22 | 無燐庵
無鄰菴
山縣有朋 別邸
「無鄰菴」と名付けられた山縣邸は三つある。最初の無鄰菴は山縣の郷里、長州・下関の草庵である。名前の由来はこの草菴に隣家がない事による。

第二の無鄰庵は、京都の木屋町二条に購入した別邸、そして第三の無鄰菴が京都・南禅寺参道前に造営した別邸で、「無鄰菴会議」の舞台ともなった場所である。


この洋館2階の間は、しばしば要人との会見に用いられた。日露戦争開戦前の1903年(明治36年)4月21日にはここでいわゆる「無鄰菴会議」が行われた。その時の顔ぶれは、元老山縣有朋、政友会総裁伊藤博文、総理大臣桂太郎、外務大臣小村寿太郎である。





作庭 小川治平衛
山縣有朋、伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎の四者によって日露開戦直前の我が国の外交方針に関する会議が行われた場所です。山縣有朋公自ら設計、監督する。造園家小川治平衛が作庭した池泉回遊式庭園で無地の代表的な庭園の1つである。


栗林公園

2011-08-18 | 栗林公園
香川県は高松市にある栗林公園。100年余りを費やした壮大な庭園!

ちなみに水戸の偕楽園で9年、岡山の後楽園で13年です。松は1000本以上植えられています。

この中には昭和天皇のお手植え松がありましたが、落雷にて伐採。イギリスはエリザベス女王の伯父であるエドワード8世のお手植松もあります。




紫雲山を借景として6つの池と13の築山を巧妙に配した大名庭園で、回遊式庭園の南庭と近代的に整備された準洋式の北庭からなっている。


面積は約75haと特別名勝に指定されている庭園の中では最大の広さを誇る。

徳島城

2011-08-14 | 徳島城
上田宗箇(千利休,古田織部正から侘の茶を伝えられた茶人として高名)の作庭による桃山時代白眉の名園で、枯山水庭と築山泉水庭の二庭よりなり、池泉回遊式と鑑賞式を兼ね備えた庭園である。上田宗箇は関ヶ原の戦いで西軍についたが、「所領召し上げのうえはお咎めなし」で、侘び茶を通じて親しかった阿波藩主、蜂須賀家政に招かれて造った。

名石「阿波青石」の産地だけに、色、形のよい石がふんだんに使われています。枯山水部の巨大な石組みで、とくに橋の石は、藩主蜂須賀至鎮(よしかげ)が毒を盛られて地だんだを踏み割ったという、伝説の巨大な踏み割り石である。枯山水庭の自然石の石橋は、35尺(10.6m)もある。しかも7:3のところで意図的に折られ、豪華さの中に繊細さを示している。

また池泉庭の護岸石組はこの庭の見所で上下に二重三重に組まれおり池泉の水位が下がっても景観をそこなわないようにしている。築山泉水庭は、池に二個の中島を配置した心字池(「心」の字形に造られた泉池)になっています。特に水際の多くの石組みは他に類を見ないものです。

豪放にして豪快。各部に繊細な表情も多くみつけられる庭園である。
干潮、満潮により水位がかわる