COOの神は喜びである!

多感な万年少女COOの日々の記録。

スパルタとアテネ

2007-07-05 07:59:30 | 



「スパルタ式」がちょっと話題になっている。
もちろん最近公開された映画「300(スリーハンドレッド)」の影響であります。

スパルタ。。スパルタ式。。。
戸塚ヨットスクール事件なんかも思い出しちゃいますけど、要するに上からの絶対的な命令で有無を言わせず、勝ち抜く為にいろいろな試練を与え鍛えあげる方法です。

私は老人ホームで働いていますが、私の職場、福祉の世界も非常にスパルタチックです。

措置制度から介護保険という契約の制度に変わり、利用者に選んでもらう上で他施設との競争に勝たねばなりません。地味で辛くて身体を壊すハードなお仕事ですから、介護士にそれをもっともっとたくさんやらせようとするなら、スパルタ式になるのは当然です。
弱音を吐かずお年寄りの為に歯をくいしばり「働け」「働け」です。



スパルタ式は、競争社会で戦う為には適したやり方なのかもしれませんが、私は性にあいません。

あまりにスパルタ式だと、究極に価値があるのは強さであって(相手や自分の)弱さを押しつぶすことが正当化されてしまい、本当に苦しんでいる人や弱っている人に対して鈍感になってしまう恐れがあるのではないかと思います。



ところで、スパルタといえばすぐ頭に浮かぶのはアテネ。


「母親と教師がなおす登校拒否」という本はアテネ式(受容式)にのっとって書かれていますが、スパルタ式の功罪について述べている箇所があります。

その中の挿話をここに紹介します。



親鸞の弟子が二人争っていた。

事の起こりは、一人の弟子が蚊を殺したのを見て、そこに居合わせたもう一人の弟子が、殺傷戒を犯したと責めたのである。

蚊を殺した方の弟子は、なるほど自分は殺傷戒を犯したが、一匹の蚊を殺すことにより、多くの人や生き物を伝染病から救った。これも広い意味で仏の心に背いたことにはならないと、反論したのである。

二人の論争は、決着がつかなかったので、お師匠さんのところへ行って、判断してもらおうということになった。

親鸞は二人の言うことにじっと耳を傾け、二人の主張を黙って尽きるまで聞いていた。二人が自分の主張を言い切ったその後で、蚊を殺した弟子に向かって、

「お前は涙して蚊を殺したか」と問うたそうである。

二人の弟子は、おのが主張の浅薄なことを恥じて、ますます、修行の道を深めたという。





この「涙したか」という部分が、重要な鍵にあたる部分だそうです。
つまりスパルタ式をしている人の人格に関わる部分です。
スパルタ式をしようとする人物は、人の心、自然の摂理に涙する心を持っているか、常に自分に問いかける必要がある。
涙する心がないままスパルタ式を遂行していると、例えスーパーマンのように有能であり傍目に立派な行いをしていたとしても、真実の苦痛の声、心の痛みを汲み取りにくくなる。理想や思い(理念)がいくら素晴らしく華々しくても、本当の人の心というものを素通りし、気がつかぬまま平気で踏みにじってしまいがち。。


この本では涙する心が、弱さからくる単なる逃げの声と、命にかかわる苦痛の声を聞き分けられる道ではないのかと述べています。




私はこの著者の書く本が大好きです。
たぶんこの著者は、人の心をきちんと汲み、涙する心を持っている人なんだろうと思います。小難しいことを書く人は多いのですが、どれだけきちんと人やものの心を奥深く正確に感じ取り思いやれるか...頭のいいというのはこういう人のことなんだろうと思います。


母親、教師、登校拒否児以外でも為になり考えさせられる本ではないかと思います。
ここに書かれている内容に、人と人とのつながりのもつれ全てにおいての共通の鍵が納められているような気がします。
私のお勧めの一冊です。


母親と教師がなおす 登校拒否―母親ノート法のすすめ

創元社

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余談ですが、
お年寄りの為に身を粉にして働くのはプロとして介護士の務め。「できない」という言葉はその人がラクする為の逃げ口上だなどと決めつけず(まそういう場合もありますが)、いかに耐え、頑張っているか少しでも感じとっていただければなあ、スパルタ式で福祉にすごーく思い入れのお持ちの方々。

涙する心(直情的に泣いたり感動したりとは別)があれば、無理なことをガムシャラに押し付けないだろうし、同じことを言ったとしても相手に理解させ耐えさせる何かが伝わるもんです。(あなた達は自分達が「できる」からこそ「やれ」とおっしゃるのでしょうが)

体力的にあなた達ほどすぐれていない人も普通にいます。(お年寄りなどなお更でしょう)「介護士のプロとして」いろんなことを疑問に思わず当然のごとく強要するあなた達に、逆に強者の驕りを見てしまうのです。口で「お年寄りの為にたくさんのことをしてあげよう」と言うのとは裏腹に、弱者に対しての痛みがわかってないような気がします。言うなとは言わない。痛みをわかって言って欲しいのです。そうすれば、どこまで言うべきか線引きが自ずとわかってくるでしょう。

















わたしの幸福論

2006-06-26 12:24:00 | 

セブンイレブンに行って何気に雑誌売り場をながめたら、PHPの小冊子が置いてあった。
「わたしの幸福論」副題-幸せをつかむヒント(定価330円)

表紙にのっている著者に養老孟司の名前があったので、思わず手に取りレジに持っていく。レジの人はまだ初心者らしく袋にカゴの中の冷えたコーラとPHPを一緒に詰めるというおよそコンビニでは考えられない蛮行を仕出かした。おかげで新しい本なのに、表紙は水滴のあるコーラのボトルにビッチョリ張り付いて巻きあがってしまいガックシ。

現在私は「熱闘広辞苑」というブログの企画に参加しているが、このPHPの臨時増刊号も様々な人の「幸福論」のコラボの形で非常に読んで楽しかった。


書いている人は様々なジャンルの第一線で活躍した人たちである。


河合隼雄(カウンセラー・文化庁長官)
曽野綾子(作家)
黒鉄ヒロシ(漫画家)
瀬戸内寂聴(作家)
養老孟司(東京大学名誉教授)
中坊公平(元日本弁護士連合会会長)
谷村新司(歌手)
柴門ふみ(漫画家)
秋元康(作詞家)
黒柳徹子(女優・ユニセフ親善大使)
柳田邦男(ノンフィクション作家)
玄侑宗久(作家・僧侶)
さだまさし(シンガーソングライター)
ドロシー・ロー・ノルト(家庭教育コンサルタント)
大林宣彦(映画作家)
夢枕獏(作家)
中村メイコ(女優)
桂三枝(落語家)
九重貢(元横綱千代の富士・九重部屋親方)
安藤忠雄(建築家・東京大学名誉教授)
仲代達也(俳優)
萩本欽一(コメディアン・演出家)
堀江謙一(海洋冒険家)
喜多郎(ミュージシャン)
水木しげる(漫画家)
山田洋次(映画監督)


そうそうな顔ぶれである。もちろんこれだけのメンバーがこの企画にあわせて書いたのではなく、以前それぞれがPHPに書いたものを編集しなおしたものである。

一人につき程よい長さ(2500~3000字)で読んで飽きない。
おまけに内容も粒ぞろいである。

興味深かった点

①このメンバーに自己啓発本を多数執筆している人が何人かいるが、そういう人たちよりも違うジャンルの人たちの方が新鮮で面白かった。

私は養老孟司が大好き。
時間とお金があったら講演会めぐりをしたいほど。文章構成は巧みで文句なくうまい。でも一球入魂というより、数々の原稿の合間にサラリと仕上げましたって感じかなあ。(本当は違うのかもしれないが)

自己啓発本多数の先生方はハッとする言葉を見つけ書くのがお上手である。でもこの手の内容はたくさんの本に小出しに引き伸ばして書きまくられていると思うので、これだけ読んでもエッセンスが薄くて読んだ後すぐ忘れてしまう。
養老孟司は好きなので薄いというよりは、サラリと表現するが。(ところで養老孟司は何のジャンルなんだろう。自己啓発目的で読んでいるから入れてしまったが)



②エピソードは様々であるのに何故だか皆結論が似ている。

そう。掴みは違うのに、終わりの結論はどことなく類似している。

「幸福とは曖昧な言葉である」
「幸福とは後から思うもの」
「相手を思いやることによって幸福は形成される」
「一つだけをつきつめず、とりあえずやってみる(注・やる時はダラダラやるんじゃなくて無我夢中でやる)」
「情報化社会に惑わされるな・ゆっくりゆったり」
「幸福と不幸は混ざり合っている。心の持ちようによって幸福は味わえる」などなど


要するにこれは今まで寄稿した人の長年の文章を編集したものだから、後から書いた人が前に書いた人の文をちょっぴり参考にしている(影響されている)ってことなんじゃないかな。
それとも、何ですか「皆考えることは同じ」という考え方でもいいが。



最後に。
一番印象に残った人は、中坊公平。

人間にとって一番大切なものは「思い出」だと言っている。
肉親の死の床で最後に楽しそうに笑わせたものは「思い出」だったという。

その後に森永砒素ミルク中毒事件での担当弁護士だった頃の悲しいエピソードが続く。
中毒の為知能の発達障害があり、母親が必死でおぼえさせた生きていく為に必要な言葉「おかあ」と「まんま」。そしていつのまにかおぼえた言葉、それは「あほう」。母親がいない所でずっと言われ続けた言葉。この三つの言葉だけしか話せず被害者は若くして死んでいった。

時が移り死の寸前まで残るものがあるとしたらそれは「思い出」なのではないだろうか。
もしかしたら、死んだ後にも唯一持っていけるものが「思い出」なのでは。

今生きているうちに心に残る楽しい思い出をたくさんつくっていきたいと思った。
文句を言ったり喧嘩をしたりウダウダ思い悩んだり、そんなことで人生が終わったらもったいないではないか。

ジャマイカ・イン

2005-12-28 15:29:25 | 

「ジャマイカ・イン」

私がまだ小学生だった頃、一番上の姉が学校の図書館で借りてきた本、それが「ジャマイカ・イン」だった。
その頃の私は凄い文学少女であったから、今ではとても読めないような小難しい分厚い本もなんなく読めた。
小学生でトールキンの「指輪物語」も読んでたし。(今ではとても読めない)
マイブームがあって、小学2年の頃はおもに伝記もの、小学3、4年は探偵ものや家庭小説、小学5、6年は海外の純文学を好んで読んでいた。

「ジャマイカ・イン」の著者はヒッチコック映画で有名な「鳥」や「レベッカ」を書いたデュ・モーリアである。女性特有のとても繊細な心理描写が得意で、ある種独特の雰囲気を持っている。
この「ジャマイカ・イン」は当時の私にとって衝撃的であった。
何しろ当時(年齢がバレるのであえて具体的年数は出さないが)は、本やマンガ、テレビにおいても感じやすい純情可憐なヒロインが周囲の荒波に負けずけなげに頑張るみたいな話しが多くを占めていたのに、この小説のヒロインはヒロインにしてはあまり感じやすくなく実際的だった。えてして脇役に多い彼女の性格を、デュ・モーリアは非常に味のある魅力的な女性に置き換える事に成功していた。当時の私にとって、それはとても新鮮にうつった。平凡にみえて、しっかり地に足をつけた一人前の女性。もしかして「地味でしっかりした若い女性」とはとりわけ魅力的な存在なのではないだろうか。
彼女が惹かれてしまった男は、悪っぽい魅力のある男性であったが。。

白子、航海する船を座礁させ船員を殺してその荷を奪う盗賊達。
いろいろな要素が混ざって、おどろおどろしい物語が展開される。物語の中に実直で実際的なヒロインが登場する事により、おどろおどろしさにも真実味が増し、一服の清涼剤にもなる。
私にとって忘れられない本の一冊である。

その本は現在廃刊になっている。
私の手元には2冊ほど違う訳者での「ジャマイカ・イン」「埋もれた青春(ジャマイカ・インの別題)」があるが、残念ながら当時図書館から借りた「ジャマイカ・イン」と同じ本ではない。
何とかして同じ本を手に入れたいものである。


今から3年前、私は小説の舞台となったイギリスのコーンウォール地方にあるジャマイカ・インに行ってきた。
ジャマイカ・インとは実際にあった旅籠の名前であるが、今では旅籠は石の残骸が少し残っているだけで、後は土産物センターとレストラン、ホテル、剥製だらけのわけのわからん展示館に姿を変えている。
コーンウォールの海。少女の頃の私は、船を座礁させ次々と船員や乗客を襲う暗い情景の中のおどろおどろしい海を想像していた。しかしコーンウォールの海はキラキラ光るブルーの海で、想像とはなんとなく違ってみえた。

想像を膨らます方が、実際見るより夢があって楽しいのかもしれない。


参照
ジャマイカ・インのHP














原理主義

2005-08-19 01:49:05 | 

今さらながら「バカの壁」ではあるが、、
y=ax
脳の方程式である。
xが脳の入力、aが係数、yが出力です。
言い換えれば
xが何らかの情報、aが現実の受け止め方、yが反応。

例1
友達の待ち合わせに大幅に遅刻しそう(x)
まっしょうがない。きっとあきれて帰るだろう。怒っても怖くない友達だし(a)←小
余裕で出かける。結局1時間30分遅れる。(あれっまだいたんだ)「ごめんねー」と取り繕う(y)

例2
会社に遅れそう(x)
遅刻届け出さなくてはいけない。上司に謝らなくてはいけない。職場で1カ月くらいだらしない奴とみられ居心地の悪い思いをしなくてはいけない(a)←大
心臓ビクついてる。スピード出して信号無視1回(誰も見てないぞ) 結局1分送れる。奈落の底。(y)

例題はあくまでも例え話です。。

で、この方程式aが0「ゼロ」の時yは無反応。
aが∞「無限大」の時yは「問答無用で反応する」なのです。

aが∞「無限大」の方程式の代表例が原理主義で、反応はテロだったりもします。



何を私が言いたいかというと、職場の愚痴です。
福祉の世界って結構カリスマがいるんですよね。
(しょーもないカリスマとか)
私の職場にも、ある福祉のカリスマの心棒者が多々いまして、原理主義もいいとこです。セミナーみたいなのにしょっ中行って「世界が広がった」とかなんとかのたまっています。

まあ一番のリーダーさんがそのカリスマご推薦なもので、出世したい奴はみんなそのカリスマの心棒者になりかつリーダーの心棒者になるわけです。
そして熱き原理主義者となって、生き生きと福祉の情熱を語り、それは何故か妙に他を否定し理解しようとしない狭苦しさを感じさせるのです。
やっている事は熱心でいいのかもしれないけれど、、、なんか原理主義で怖い。
自分達の(素晴らしい行いを)思い通りに行う為に、手段を選ばなそーなところなんか。




そういう意味で小泉さんもイヤだ。郵政民営化の為に手段を選ばないところなんか。