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リアリティ番組
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ファッションデザイナーをテーマとするリアリティ番組『プロジェクト・ランウェイ』の出演者、スタッフ、司会のハイディ・クルムとティム・ガン、製作者のハーヴェイ・ワインスタインほか。第67回ピーボディ賞授賞式の午餐会会場にて(2008年)
リアリティ番組(リアリティばんぐみ、Reality television)とは、事前の台本や演出のない、現実に起こっている予測不可能で困難な状況に、よく知られたプロの俳優などではない一般人出演者たち(無名の芸能人なども含む)が直面するありさまを、ドキュメンタリーやドラマのように楽しめると謳ったテレビ番組のジャンル。視聴者が参加する双方向番組の一種で、1990年代末以降、世界各地のテレビを席巻する人気を博している。多くは「演技や台本ややらせのない出演者の行動をカメラが追う形式のテレビ番組」であるとしているが、演技・台本・やらせのある「リアリティ風番組(リアリティショー)」であるケースも含まれる。
目次
1 概要
2 起源
3 リアリティ番組のフォーマット
3.1 変身・メイクオーバー
3.2 特殊な環境への隔離
3.3 スター育成
3.4 有名人の生活
3.5 その他
4 アメリカ
5 日本
6 批判と反響
7 創作物内のリアリティ番組
8 脚注
9 関連項目
概要
90年代末の世界各地での大ヒット以降、従来型の視聴参加型のクイズ番組やバラエティ番組もリアリティ番組を名乗るようになったため、現在は非常に意味が拡散した言葉となっている。視聴者参加型のクイズ番組・トーク番組・恋愛バラエティ番組をはじめ、視聴者から選ばれた代表を孤島や旅先に隔離してカメラで監視したり、毎週課題を与え最後の一人になるまで勝ち抜きさせたりするものまで、さまざまな種類のものがある。これらの番組の多くは、固定カメラや隠しカメラ、手持ちカメラなどといったドキュメンタリー番組の撮影手法を用いて出演者に密着し、独特の臨場感を視聴者に与え、撮影対象となる出演者のドラマを「本物らしく」見せる事を売りとしている。
番組の焦点は、参加している一般人同士のメロドラマ的人間関係や恋愛・苦闘であり、視聴者はこれを楽しむだけでなく電話投票などで彼らに対し審判を下すこともある。
起源
その起源は、1948年のアレン・フントによる『キャンディード・カメラ』(en:Candid Camera、『どっきりカメラ』の元祖)など、一般人の即興的で意外な反応を楽しむテレビ番組にまでさかのぼる。こうした、練られた脚本や俳優の演技よりも面白い一般人のリアクションに焦点を当てた番組は、1960年代から1980年代にかけてヨーロッパ、日本、アメリカなど世界各地で製作されていた。今日的なリアリティ番組は、PBSで1973年に放送された、離婚寸前の核家族に密着した『アメリカン・ファミリー』(An American Family)が最初とされる。
一般のテレビドキュメンタリーやトーク番組にもリアリティ番組的な要素が入るようになった。1960年代から1970年代にかけて、チャック・バリス(Chuck Barris)のプロデュースによる『デート・ゲーム』(The Dating Game)、『新婚ゲーム』(The Newlywed Game)、『ザ・ゴングショー』などの視聴者参加ゲーム番組が全米で人気を博した。1989年放送開始の警官密着型番組『コップス(COPS)』は、警官の日常や、逮捕され抵抗する犯人といったシーンが人気を集めたが、これらは一般人である警官や犯人のインパクトの強さも話題となった。またカムコーダやシネマ・ヴェリテ(Cinéma vérité)的な手法を使って、警官たちの日常シーンや逮捕シーンなどの臨場感を高めていた。1991年放送開始のトーク番組、『ジェリー・スプリンガー・ショー』(The Jerry Springer Show)はレッドネックなど貧困家庭の出演者が司会者ジェリー・スプリンガーや視聴者の前で家族の恥部をさらしケンカを始める様が評判を呼び、視聴者に他人の人生を覗き見る衝撃や快感を与えた。
リアリティ番組のフォーマット
完全に一般人に焦点をあわせたリアリティ番組は1990年代に世界各地で放送開始された。アメリカでは、1992年にMTVで、視聴者から募った数人の若者が一軒家で共同生活するさまを隠しカメラで数ヶ月にわたり追った『リアル・ワールド』が放送開始された。オーディションで選ばれた視聴者、限られた場所・限られた期間での生活、時々挿入される参加者へのインタビュー(この生活に対する感想、人間関係や他の参加者に対する感想など)、といったフォーマットは後の世界中のリアリティ番組の基礎となり、1990年代末から2000年代にかけてリアリティ番組が山のように生み出されるきっかけとなった。
こうした番組の中にはイギリスやオランダなどヨーロッパで最初に放送され、その後フォーマットがアメリカを経由して世界に販売されたものも多い。
変身・メイクオーバー
1996年、イギリスで放送された『チェンジング・ルーム』(Changing Rooms)はカップルが互いの部屋を改造するもので、視聴者の容姿や視聴者の部屋をおしゃれに変身(メイクオーバー)させるリアリティ番組のさきがけとなった。
国内ではリアリティ番組と銘打たれていないものの『B.C.ビューティー・コロシアム』などがある。
特殊な環境への隔離
1997年、スウェーデンで放送された『エクスペディション・ロビンソン(ロビンソン遠征隊)』(Expedition Robinson)は視聴者から選ばれたメンバーが孤島でサバイバルするという内容で、『リアル・ワールド』が完成させたリアリティ番組のフォーマットに「生き残り」(毎回一人ずつ脱落し、最後に一人が勝ち残る)という要素を追加して人気番組となった。また、後に世界各地にこのフォーマットが販売され『サバイバー』として放送された。
1999年、オランダで放送された『ビッグ・ブラザー』は完全に外部から隔離され、すべての場所にカメラとマイクが仕掛けられた家に十数人の男女を3ヶ月入れるというもので、彼らの生活はケンカやセックス、互いの脱落させ合いに至るまですべてが収録される極端なものである。これも世界中にフォーマットが販売され、オランダの制作会社エンデモルはこのヒットをきっかけに世界各国でリアリティ番組を制作する大手企業となった。
スター育成
2001年にはイギリスで『ポップアイドル』という視聴者勝ち抜き型歌手育成番組が作られた。これは予選を勝ち抜いた参加者に徹底的なトレーニングを施し、視聴者の判断で一人ずつ脱落させつつ最後には一人のスターを生み出すというもので、世界各地にフォーマット販売されたり(アイドルシリーズ)参考にした番組が製作されたりした。たとえばアメリカの『アメリカン・アイドル』、中国の『超級女声』などは国民的関心を集める怪物番組となっている。この派生系として、スーパーモデル育成番組、ファッションデザイナー育成番組、スポーツ選手育成番組、コメディアン育成番組、子役スター育成番組、シェフ育成番組、ドナルド・トランプ指導による経営者育成番組『アプレンティス』なども誕生している。
有名人の生活
リアリティ番組は出演料の安い、または不要な一般人が多数出演するものだったが、有名人の生の生活を覗き見る番組も登場した。たとえば2002年にMTVで放送開始された『オズボーンズ』は、オジー・オズボーンとその一家の生活を見せるものだった。2003年のFOXテレビによる『シンプルライフ』では、ハリウッドきってのパーティー好きセレブのパリス・ヒルトンとニコール・リッチーがゴージャスな生活とは無縁な農村や荒野へ旅して質素な生活を体験するもので、その奇天烈な反応が人気となった。
日本ではテレビ東京において放送された、俳優・山田孝之の日常を「ドキュメンタリードラマ」という手法で追いかけた『山田孝之の東京都北区赤羽』や『山田孝之のカンヌ映画祭』があげられる。
その他
その他、欧米におけるリアリティ番組のバリエーションは、
恋愛・結婚・就職など視聴者の人生をかけてデートやスポーツや面接などに挑む勝ちぬきゲーム番組
視聴者や芸能人が本格的なスポーツやダンスなどに挑戦するゲーム番組
視聴者が相談を持ち込むトーク番組
法律相談や法廷対決や法執行を題材にした法廷リアリティ番組
警察・消防・救急ほか特殊な職業に密着した番組(いわゆる『警察24時』など)
少数民族や少数派宗教や障害者などマイノリティ集団に密着した番組
視聴者が夫婦や身分をしばらくの間交換する社会実験番組
視聴者や芸能人に超常現象や心霊スポットを捜索させる超常現象番組
事件や事故に遭遇した被害者や家族本人が出演して事件を再現する実話再現番組
「億万長者とデートし一人だけが結婚できる」という名目で出演者を集めるが、億万長者として登場する人物の正体は貧乏人であったりするなど、番組の真の目的を知らない出演者の悪戦苦闘を司会者や視聴者が笑って楽しむ偽リアリティ番組
などの広がりを見せている。
アメリカ
リアリティ後進国だったアメリカでは、出演者のセリフやリアクションなどがあらかじめ一字一句決められ、完全な演出の基に作られた番組が主流を占めていた。しかし1990年代後半頃から急速にキャッチアップを始め、今日では『アメージング・レース』、『アメリカン・アイドル』、『サバイバー』、『シンプルライフ』などの「視聴者参加・勝ち抜き戦」や「視聴者依頼番組」が主流にあり、拡大解釈して視聴者参加のクイズ番組『フー・ウォンツ・トゥ・ビー・ア・ミリオネア』や投稿ビデオ番組『アメリカズ・ファニエスト・ホーム・ヴィデオズ』(America's Funniest Home Videos) もリアリティ番組のうちに数えるようになった。
こうした番組が主流になった背景には、リアリティ番組はルールなどの「フォーマット」さえあれば、あとは脚本を練る手間も高いギャラの俳優を集める費用もかからず、一般人による濃い人間模様を見せて高い人気を得ることができることにある。ゲスト出演者は豪華になる傾向にあり、最終的に勝ち残った一般人には巨額の賞金が与えられることもあるが、これでもテレビドラマでの人気俳優の1シーズンあたりの出演料に比べれば安いものといえる。
日本
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この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2013年5月)
近年の日本ではお笑いブームによって出演料が安く視聴者と同じ地平にある若手タレントが大量に起用されていることや、こうしたタレントのトークを補強するテロップなどの演出・編集技術が頻繁に使われるため、視聴者を出演させるメリットが少なくなり視聴者参加番組の減少が続いている。このため、日本国外のオリジナルのフォーマットそのままではなかなか人気を得づらく、演出方法を変更したり、視聴者ではなくタレントが出演するなど、日本特有の味付けがされている。
日本のテレビ番組でリアリティ番組と位置づけられるのは、ドキュメントバラエティやヒューマンバラエティなどと称される種類のバラエティ番組だろう。本格的な欧米スタイルのリアリティ番組の先駆けとして、『進め!電波少年』(日本テレビ)が挙げられるほか、それ以前にも『アメリカ横断ウルトラクイズ』や『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ)が部分的に欧米スタイルのリアリティ番組の要素を取り入れている。それ以前の『どっきりカメラ』(日本テレビ)、『スターどっきり(秘)報告』(フジテレビ)などもアメリカに元ネタのあるリアリティ番組の一種である。
『進め!電波少年』の初期の頃は、番組の主旨が視聴者に完全に理解されず、まったくのドキュメンタリーと思いこむ視聴者も多かった。その後、『進め!電波少年』のヒッチハイク騒動の際に制作者サイドが「バラエティであり、ドキュメンタリーではない。演出は存在する」と公言したことや、『ガチンコ!』(TBS)での台本発覚や出演者の告発などにより、ようやく、リアリティ番組がドキュメンタリーではないことが一般に認知されるようになった。ただし、『ガチンコ!』の場合、制作者サイドは「番組はドキュメンタリーだが、ドキュメンタリーでも多少の演出はある」という言い方をしたため、問題は残った。なお、TBSの番組審議会や、BPOへの苦情に対しては、担当プロデューサーは、事実のドキュメントである旨しか回答していない。
ただし現在も「ドキュメンタリーと誤解されるような演出はすべきではない」と言う批判もあり、一方制作者サイドもドキュメンタリーと誤解されるような表現を使ったり、そのことから視聴者の一部が相変わらずドキュメンタリーと思いこんでいたりと、問題がないわけではない。やらせについては『どっきりカメラ』(日本テレビ)、『スターどっきり(秘)報告』(フジテレビ)と言った、古典的な番組でもしばしば演出が行われていたことは、スタッフや当時の出演者の証言から明らかになっている。
その他『あいのり』(フジテレビ)や『未来日記 (ウンナンのホントコ!)』(TBS)『しあわせ家族計画』(TBS)『ASAYAN』(テレビ東京)『愛の貧乏脱出大作戦』(テレビ東京)『愛する二人別れる二人』(フジテレビ)『キスイヤ』(読売テレビ)などもリアリティ番組と位置づけられる。
また1980年代よりも前から、日本では独自に多くの視聴者参加番組が製作されてきた。『パンチDEデート』、『上海紅鯨団が行く』、『ねるとん紅鯨団』(共に関西テレビ)、『新婚さんいらっしゃい!』、『プロポーズ大作戦』、『ラブアタック!』、『探偵!ナイトスクープ』(共にABC)、『笑っていいとも!』(フジテレビ)、『スター誕生!』、『お笑いスター誕生!!』(共に日本テレビ)などである。
日本では視聴者参加による恋愛ゲーム番組やアイドル育成番組や悩み事相談番組、芸能人参加によるスポーツなどへのチャレンジ番組など、世界各地で人気を博しているリアリティ番組と同じようなフォーマットが早くから人気を博し、すでに山を越えている。また日本以外のリアリティ番組に見られる『参加者同士の脱落させ合い』、『参加者に対する民主主義的投票』などといった部分が日本の国民性にとって強烈すぎるため、海外のフォーマットになかなか人気が出ないともいえる。しかし、これは、番組フォーマットを地域の文化に合わせて制作するというローカリゼーションの能力による問題でもあり、今後、番組フォーマットの流通が世界的に広がっていく中で、制作者たちの交流も進むだろう。一方で、より多くの日本のフォーマットが海外に出ていく機会が増えるとともに、海外のフォーマットがより巧妙に日本にローカライズされていくということが期待されている。
「恋愛バラエティ番組」も参照
批判と反響
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この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2013年5月)
『サバイバー』、『スター・アカデミー』、『アイドルズ』、『Xファクター』、『ゴット・タレント』、『ダンシング・ウィズ・ザ・スターズ』、『トップ・モデル』、『マスターシェフ』といったリアリティ番組の人気シリーズは数十か国にフォーマットが販売され、世界各国版が制作されるなど国際的に成功を収めている。アメリカの場合だと4大ネットワークのプライムタイムに放送される番組の主だった部分がリアリティ番組に占められ、MTV、VH1、ヒストリー、E!、TLCなどといった音楽チャンネルや教育チャンネルまでもリアリティ番組に力を入れる状況になった[1]。一方で、一般人の人生をのぞき見たりかき回したりするようなリアリティ番組は中身がなく低俗だとの批判も浴びている。リアリティ番組に出演した参加者の中には、一夜にして有名人となり人気芸能人や人気ミュージシャンになる者も出た反面、視聴者の憎悪や嘲笑を集め悪い意味で有名になってしまう者も多数いる。
リアリティ番組がどこまでが「リアリティ(現実)」なのかについても強い批判がある。多くの番組は日常生活ではなく、秘境や閉鎖された部屋など非日常的な空間、歌手やスポーツ選手・経営者になるトレーニングなど非日常的な状況、巨額の賞金のかかったクイズなど、およそ「リアリティ」とは遠いところを舞台としている。出演者は能力の限界を試され、普段出さない自分の姿を出させられている。こうした姿も「リアリティ」なのかどうかには議論がある。
また、こうした番組は編集の段階で多くの部分がカットされたり、時間を前後させてつなぎ合わされたりしており、実際に起こったこととは違うものを視聴者は見せられていることが多い[2][3]。このため視聴者から叩かれた参加者の中には番組に対し「この編集では私が悪者のように見えてしまう」と抗議・反論する者もいる。やらせの疑惑も絶えず、実際にやらせであることを明らかにした番組も存在する。2007年6月、オランダで『De Grote Donorshow』(すばらしいドナーショー、De Grote Donorshow)というリアリティ番組が放送されることが事前に発表された。この番組では3人の腎臓病患者から視聴者投票で1人が選ばれ、余命わずかな女性から提供を受けた腎臓が贈られるというもので、ヨーロッパで放送の是非をめぐる論議を巻き起こした。しかし実際に放送された番組のラストで「これは臓器移植問題に関心を持ってもらうためのやらせであり、患者は本物だがドナーの女性は俳優である」ことが明らかにされた[4]。製作者側も参加者の勝ち抜き過程などを透明化するなどやらせの起こらない状況を作る努力を払っている。
視聴者投票を伴うリアリティ番組が世界各地に広まるにつれ、民主主義的な政治の行われていない権威主義的な国の国民が、生まれて初めて重要な物事を決める投票を体験することになり、その政治的影響も注目されている。『ビッグ・ブラザー』の汎アラブ版は未婚の男女が共同生活することや赤裸々さから社会に衝撃を与えた[5]。また中国版『ポップアイドル』といえる『超級女声』が、2005年のシーズンにおいて4億人の視聴者を得て800万票の投票が殺到するセンセーションを起こした後、政府系英字新聞のペキン・デイリーは「超級女声は民主主義への圧力なのか?」と題する記事を一面に載せている[6]。
創作物内のリアリティ番組
『危険の報酬』 - 1958年のロバート・シェクリイの小説。人々が自分を殺そうとするのを1週間回避すれば多額の賞金が得られるというテレビ番組に出演することになった男の話であり、リアリティ番組の出現を予見したものと言える。
『48億の妄想』 - 1965年の筒井康隆の小説。日本の至る所にテレビカメラが取り付けられ、人々がみなカメラの向こうで観ているテレビ局や視聴者を意識して振舞う社会を描く。
『ネットワーク』 - 1976年の映画。視聴率至上主義の放送局で、首を言い渡されたキャスターが番組内で自殺予告をし、逆に人気が上がる様を描く。テレビ局は彼を人気司会者に祭り上げる一方、過激派相手に破壊活動を中継する番組製作を持ちかける。
『火の鳥 生命編』 - 1980年の手塚治虫の漫画。22世紀の日本が舞台。高視聴率の獲得を目論むテレビプロデューサーが、クローン人間を殺しても罪に問われないという(作品内の)法律の抜け穴を利用し、視聴者参加型の殺人番組を企画する。
『バトルランナー』(1982年の小説)・『バトルランナー』(1987年の映画) - 独裁政権が支配する未来のアメリカを舞台とし、1ヶ月の間国民の追跡の手を逃れてアメリカ国内を逃げ回ることに成功すれば多額の賞金を手にできるという生死をかけたゲームに平凡な男が挑む。映画版では犯罪者と処刑人たちが殺しあう人気テレビ番組に出演させられた政治犯の主人公が登場する。
『トゥルーマン・ショー』 - 1998年の映画。生まれてこの方、本人に知らされないままその生活ぶりを24時間生放送され続ける主人公を描いたもの。
『シリーズ7/ザ・バトル・ロワイアル』 - 2001年の映画。出演者同士が殺しあう架空のリアリティ番組の第7シーズンを舞台としたもの。
『世にも奇妙な物語 秋の特別編』「仇討ちショー」 - 2001年のテレビドラマ。家族を殺された遺族が加害者を殺すまでの様子を生中継するというリアリティ番組の体裁をとっている。
『アメリカン・ドリームズ』 - 2006年の映画。合衆国大統領が『アメリカン・アイドル』風の架空のオーディション番組のゲスト司会者として出ることからおこる騒動を描く。
『スラムドッグ$ミリオネア』 - 2008年の映画。インド版『フー・ウォンツ・トゥ・ビー・ア・ミリオネア』で次々に正解を出して勝ち進んだものの、あまりの勝ちぶりに不正を疑われ取り調べを受けたスラム街育ちの青年が語る半生の話。
『美男高校地球防衛部LOVE!』 - 2015年のテレビアニメ。外宇宙生命体の地球征服の理由が『地球滅亡できるかな!?』という番組を作るためでディレクターによって仕組まれていたことがクライマックスで明かされる。
脚注
^ Levin, Gary (2007年5月8日). “'Simple economics': More reality TV”. USA Today 6.26.2013閲覧。
^ Booth, William (2004年8月10日). “Reality Is Only An Illusion, Writers Say - Hollywood Scribes Want a Cut Of Not-So-Unscripted Series”. The Washington Post 2009年4月26日閲覧。
^ “Just how real are reality TV shows? - Shows may exist in a middle ground – not fully scripted nor completely true”. MSNBC (2009年4月14日). 6.26 2013閲覧。
^ オランダのテレビ局、臓器移植への関心喚起のため視聴者を1年間欺く - AFP BB, 2007年06月02日
^ 'Realityis Not Enough':The Politics of Arab Reality TV
^ A television show challenges the authorities/Economist.com
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最終更新 2020年5月24日 (日) 09:12 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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【最後に大事なお知らせあります】検察庁法改正案が廃案…黒川検事長「賭けマージャン」リークの裏側とは!?
Posted April. 06, 2020 08:03,
Updated April. 06, 2020 08:03
「米外交の巨頭」ヘンリー・キッシンジャー元国務長官(97)が3日(現地時間)、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が世界の秩序を永久に変えてしまう可能性があると診断した。ニクソン政権で大統領補佐官(国家安全保障担当)兼国務長官を務めたキッシンジャー氏は、1979年の米中国交正常化を引き出した立役者で、米外交の生き証人と呼ばれる。
キッシンジャー氏は同日、米紙ウォール・ストリート・ジャーナルへの寄稿文で、「新型コロナウイルスが終息しても、世界は以前と全く違う所になるだろう」とし、「米政権はウイルスから米国民を守り、新しい時代を計画する緊急の作業を開始しなければならない」と強調した。
キッシンジャー氏、「コロナ、世界秩序を完全に変えるだろう」
ドイツのユダヤ系移民の子で、第2次世界大戦に参戦したキッシンジャー氏は、「新型コロナウイルスの超現実的な状況は、『バルジの戦い』で感じたことを思い起こさせる」と指摘した。バルジの戦いは、1944年12月16日から45年1月25日まで続いた戦闘で、ドイツ軍が連合軍に対抗して行った最後の反撃だった。双方の死傷者は約19万人にのぼった。
キッシンジャー氏は、「(バルジの戦いの時のように)特定の人を狙うのではなく、無作為で破壊的な脅威を感じる」と説明した。また、「当時、米国の忍耐力は究極の目標によって発揮された。今は効果的で先見の明のある政府が必要とされている」と指摘した。トランプ政権が新型コロナウイルスに十分に対応できなくなっていると迂回的に批判したのだ。
新型コロナウイルスで各国が門戸を閉ざし、「各自図生」(各自が生き残る方法を探る)現象も批判した。キッシンジャー氏は、「国家は、政府が災難を予見し、影響を食い止め、安定を回復できるという信念上に結集し、繁栄してきた。新型コロナウイルスが終息すれば、多くの国家が失敗したと認識されるだろう」と見通した。そして、「各国の指導者が国家単位で危機に対処しているが、ウイルスは国境を認識しない」とし、「個別の努力だけでは限界がある。世界的な協力が伴わなければならない」と強調した。
キッシンジャー氏は、「人間の健康への危機は一時的なものになるだろうが、政治的、経済的激変は何世代にもわたって続く可能性がある」とし、「何より自由主義の世界秩序が脅威を受ける可能性がある」と警告した。さらに、「新型コロナウイルスで世界の貿易と自由な移動に依存する時代に、時代遅れの『障壁の時代』がよみがえる恐れがある。米国は啓蒙主義の価値を守り、維持するうえで先頭に立たなければならない」と呼びかけた。
イ・ユンテ記者 oldsport@donga.com
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オイルマネーとロスチャイルドとロックフェラー。石油争奪戦。::::緊急事態宣言、緊急経済対策、日経平均、下落、ダウ平均、原油、先物、日銀、FRB、金融緩和、GDP、破綻、地銀
杉村楚人冠
杉村 楚人冠(すぎむら そじんかん、明治5年7月25日(1872年8月28日) - 昭和20年(1945年)10月3日)は、新聞記者、随筆家、俳人である。本名は杉村 廣太郎(すぎむら こうたろう)。別号は縦横、紀伊縦横生、四角八面生、涙骨など多数。
目次
<label class="toctogglelabel" for="toctogglecheckbox"></label>生涯
幼少・青年期
1872年8月28日、和歌山県和歌山市にて出生。父は旧和歌山藩士の杉村庄太郎。3歳の時、父と死別。以来、母の手で育てられる。
16歳で旧制和歌山中学校を中退し、法曹界入りを目指して上京。英吉利法律学校(のちの中央大学)邦語法律科で学び卒業(同校学生時代のことについては、随筆の中で再三触れている)。アメリカ人教師イーストレイク(Frederick Warrington Eastlake)が主宰する国民英学会に入学し、1890年卒業。彼の英語に関する素養は、ここで培われたと思われる。1891年、19歳にして『和歌山新報』主筆に就任するが、翌1892年再び上京し、自由神学校(のちの先進学院)に入学。その後、本願寺文学寮の英語教師を務めながら『反省雑誌』(のちの『中央公論』)の執筆に携わるが、寄宿寮改革に関する見解の相違から、1897年、教職を棄て3たび上京。在日アメリカ公使館の通訳を経て、1903年に池辺三山の招きにより東京朝日新聞(のちの朝日新聞社)に入社した。
新聞記者として
入社当初の楚人冠は、主に外電の翻訳を担当していた。1904年8月、レフ・トルストイが日露戦争に反対してロンドン・タイムズに寄稿した「日露戦争論」を全訳して掲載。戦争後、特派員としてイギリスに赴く。滞在先での出来事を綴った「大英游記」を新聞紙上に連載、軽妙な筆致で一躍有名になった。彼はその後も数度欧米へ特派されている。
楚人冠は帰国後、外遊中に見聞した諸外国の新聞制度を取り入れ、1911年6月1日、「索引部」(同年11月、「調査部」に改称。1995年、電子電波メディア局の一部門として再編)を創設した。これは日本の新聞業界では初めてのことである。また1924年には「記事審査部」を、やはり日本で初めて創設した。縮刷版の作成を発案したのも彼である。これらの施策は本来、膨大な資料の効率的な整理・保管により執筆・編集の煩雑さを軽減するために実施されたものであるが、のちに縮刷版や記事データベースが一般にも提供されるようになり、学術資料としての新聞の利便性を著しく高からしめる結果となった。
その他、『日刊アサヒグラフ』(のちの『週刊アサヒグラフ』)を創刊したりするなど、紙面の充実や新事業の開拓にも努めた。
楚人冠は制度改革のみならず、情報媒体としての新聞の研究にも関心を寄せており、名著『最近新聞紙学』(1915年)や『新聞の話』(1929年)を世に送り出した。外遊中に広めた知見を活かしたこれらの著作により、彼は日本における新聞学に先鞭をつけた。1910年に中央大学に新聞研究科が設置されたが、それは同校学員(卒業生)楚人冠らの発案によるものである。同研究科においては、自らも講師を務める。その際の講義案を下敷きに著された書物が『最近新聞紙学』である。
世界新聞大会(第1回は1915年にサンフランシスコで、第2回は1921年にホノルルで開催)の日本代表に選ばれたこともある。
我孫子にて
関東大震災後、それまで居を構えていた東京・大森を離れ、かねてより別荘として購入していた千葉県我孫子町(現我孫子市)の邸宅に移り住み、屋敷を「白馬城」と、家屋を「枯淡庵」と称した。この地を舞台に、名エッセイ集『湖畔吟』など多くの作品を著した。 星新一や福原麟太郎など、楚人冠のエッセイに影響を受けた作家や知識人は少なくない。
また、俳句結社「湖畔吟社」を組織して地元の俳人の育成に努めたり、我孫子ゴルフ倶楽部の創立に尽力し、『アサヒグラフ』誌上で手賀沼を広く紹介するなど、別荘地としての我孫子の発展に大いに貢献した。
1945年10月3日、死去。八柱霊園(千葉県松戸市)に埋葬された。
1951年、楚人冠の指導下にあった湖畔吟社の有志により、邸宅跡地に句碑が建立されている。陶芸家・河村蜻山が制作した陶製の碑で、「筑波見ゆ 冬晴れの 洪いなる空に」と刻まれている。
筆名「楚人冠」の由来
「楚人冠」の名は、項羽に関する逸話から採られたものである。『史記』の「項羽本紀」によると、咸陽に入城した項羽が秦の王宮を焼き尽くしたことをある者が嘲って、次のように語ったという。
- 「人の言はく、『楚人は沐猴(もっこう)にして冠するのみ』と。果たして然り」
- (「人言、『楚人沐猴而冠耳』。果然」:「『項羽は冠をかぶった猿に過ぎない』と言う者がいるが、その通りだな」)
杉村はアメリカ公使館に勤めていた時、自分にはシルクハットが似合っていないと考え、シルクハット置き場に「楚人冠」という目印をつけ、それを筆名にも使うようになった[2]。
逸話
- 1924年7月1日、アメリカで新移民法が施行された。同法には日本からの移民を禁止する条項が含まれていたため、日本では「排日移民法」とも呼ばれ、激しい抗議の声が上がった。楚人冠は「英語追放論」と題する一文を掲載して、同法を痛烈に批判した。
- 1933年に尋常小学校の唱歌として採用された「牧場の朝」(福島県鏡石町の宮内庁御料牧場であった「岩瀬牧場」を描いたといわれる)は、長年「作詞者不詳」とされてきたが、楚人冠が書いた紀行文「牧場の暁」(『中学国文教科書 第二』(光風館書店、1918年)に所収)が1973年に発見されたのを契機に、楚人冠が作詞者であるとの説が浮上。その後若干の曲折があったが、現在ではこれが定説とされている。
- 1909年5月、旧知の間柄であった南方熊楠のことを書いた「三年前の反吐」を『大阪朝日新聞』に掲載。「熊楠の借家が異臭に満ちているのは、3年前に酔って吐いた反吐をそのままにしてあるからだった」という逸話や、中学時代、しばしば喧嘩相手に反吐を吐きかけて攻撃したという「武勇伝」を紹介。「好きな時に反吐を出せる」という熊楠の奇妙な特技は、この一文によって広く知られることとなった。
- なお、楚人冠は熊楠の展開した神社合祀反対運動に賛同。新聞紙上に批判記事を何度も掲載している。
- 楚人冠は送別会や披露宴の類を毛嫌いしており、「世に結婚式または披露宴に招かるることほど災難なるはなし」として、進んで出席しようとは決してしなかった。それでも出席せざるを得ない時は、嫌がらせとしか思えない長文の祝辞を述べて、憂さを晴らしていたという。
年表
- 1872年 和歌山県にて生誕
- 1875年 父庄太郎が死去
- 1890年 国民英学会卒業
- 1891年 和歌山新報社に入社
- 1892年 自由神学校に入学。同時に国民新聞社で英文翻訳に従事
- 1896年 自由神学校卒業。本願寺文学寮で英語教師を務める
- 1898年 社会主義研究会に加入。幸徳秋水や片山潜などの知遇を得る
- 1899年 在日アメリカ合衆国公使館の通訳に就任
- 1900年 「新仏教」創刊( - 1915年)
- 1903年 朝日新聞社に入社
- 1904年 『余は如何にして社会主義者となりし乎』を出版
- 1908年 世界一周会(朝日新聞社主催)の会員を引率して渡米(3月18日 - 6月21日)
- 1910年 母校中央大学に設置された新聞研究科の講師となる。長女の麗子(うらこ)9歳で死去[3]。
- 1911年 索引部創設(同年11月、「調査部」に改称)、同部長に就任
- 1919年 縮刷版の刊行を発案
- 1923年 『日刊アサヒグラフ』創刊(同年週刊化: - 2000年)
- 1924年 記事審査部創設、同部長に就任。我孫子に移住
- 1927年 「朝日新聞」に小説「うるさき人々」を連載。
- 1929年 監査役に就任
- 1933年 「牧場の朝」、『新訂尋常小学唱歌 第四学年用』に収録
- 1935年 相談役に就任( - 1945年)
- 1937年 『楚人冠全集』(全15巻)、日本評論社より刊行開始( - 1938年)
- 1945年 死去。享年73
- 1951年 邸宅跡地に句碑建立
著作等
脚注
- ^ 千葉県"杉村楚人冠碑(我孫子市)>観光情報を探す>:ちばの観光 まるごと紹介"(2012年11月20日閲覧。)
- ^ 我孫子市の杉村楚人冠記念館の展示パネルより
- ^ 漱石の未公開書簡発見 我孫子市、10月公開へ千葉日報、2016年08月29日
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【モスクワ共同】日ロ両政府が協議している北方領土での共同経済活動の法的枠組みを巡り、ロシア側が北方領土で日ロどちらの法律を適用するかという「管轄権問題」の棚上げを提案していることが23日、分かった。北方四島の領有を主張し、共同経済活動は「ロシア法に基づき行う」よう求めていた従来の立場からの大幅な譲歩。複数の日ロ関係筋が明らかにした。日本側の対応が今後焦点となる。
【写真】日露戦争の捕虜写真発見、大阪の収容所も
日ロが管轄権棚上げによる妥協で合意できれば、領土問題を巡る信頼醸成措置と双方が位置付ける共同活動が前進する可能性がある。
最終更新:5/23(土) 23:07
共同通信
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