北辰一刀流と現代剣道

現代剣道の源流である北辰一刀流の真髄を求めて

段位、称号の意味

2014-05-06 17:43:36 | 剣道、剣術、居合

初段、、、4段5段師範、、、と進むごとに指導されることに「佐藤君良くやった。この上に更に修練を積み、この革袋を一杯になるよう頑張りなさい。」マイナス点を指導して下さり、プラス面を大変賞賛して下さり、希望を下さるのでした。

いろいろな採点法があると思いますが、一般的には100点満点から減点法で10点マイナスで90点合格。われわれは一般的に学校生活の習慣からマイナス法の指向性が高いと思われます。

ある時、剣道剣術師範ということで、ある中高留学生の文化祭に招待された。どんなものか楽しみに行って見ると、「先生、今日は学生たちの発表会があります。是非先生に審査委員をお願い致します」とのこと。プログラムを見れば、演劇、歌、合唱、踊り、武道、球技、ダンス、楽器、バンドそれぞれ所属するサークル毎の発表でした。困ったのは当然です。基準とすべきものがはっきり言って無い。

また、合宿で抜刀術の審判員を受けて、判断はすべて任されてしまった。ある程度は技術の差で判断ができるが、拮抗してくると、マイマス法で審査するかプラス法で審査するか。続き、、

 


北辰一刀流 極意 切り落とし

2013-10-08 02:24:29 | 剣道、剣術、居合

                   

各流派により「極意」があり創始者が編み出した「構え」があります。

「構え」と極意の技は明確な関連性があります。
攻守に良く、極意技が使えるということになります。

代表的な竹刀剣術(剣道)の「構え」と流派は
平正眼(神道無念流)、下段正眼(一刀流)、上段(直心陰流のち正眼)、二刀流(二天一流)。
神道無念流は左右変化に長けているといいますし、下段正眼は突きというように関連性があります。
平正眼とはどんな構えで、下段正眼とはどういう構えなのか?
現代剣道になって極意までは一般化されませんでした。
一子相伝の極意が戦後の剣道に継承され難いことは、明治、大正、昭和の激動のなかで食べることさえままならぬ時代から十分に想像がつきます。勝者の側か敗者の側かで明暗が分かれた。
武士時代の各流派剣術が統一された剣道に移行される時代の変遷の中で流派の継承が困難であった。
その継承者自らが戦闘の最中、花を散らした桃井春蔵。
北辰一刀流は二代目道三郎先生からその子勝太郎に受け継がれる筈であったが、失明という困難の中。(次回に続く)

北辰一刀流では「正眼」ではなく「星眼」と指導される「鶺鴒の尾の構え」です。

切り落とし技は他の流派にも伝えられておりますが、幕末までの剣は殺傷の剣であり、スナップ剣とは明らかに刀法が違う。
幕末まで使えた極意切り落とし技が、現代剣道では「打ち落とし」と記載している。
即ち、大きく振りかぶって斬っていた剣に対して打ち落とすように遣うのが「切り落としであり打ち落とし」です。
一刀流では「切り落とし」を一つ編み出せば免許皆伝といわれ、「切り落とし」にはいろいろあることが分かります。

五世より伝授されたあるひとつの「切り落とし」を試みた。
お相手先生は警視庁剣道師範A先生。

「なかなかやりますね。どこで習いましたか」
「小西先生に」と申し上げましたが、分からなかったようです。

五世は警察大学剣道師範を退官後、幼少の頃の小西姓に変わられた。津軽の小野姓で小野重治郎と名乗っておられたので小野重治郎先生と答えればお分かり頂けたと思いますが。

それでは、当流北辰一刀流の「星眼」の構え「鶺鴒の攻め」とは、どのような特徴があるのか。
(1)三殺法が出来る構えである。(気を殺し、業を殺し、竹刀を殺して勝ちを得る構え)
(2)切り落としに長けた構えである。(竹刀剣道にも通用する切り落とし技である)
(3)突きに長けた構えである。(三段突きが出来る構えである)
(4)左右変化技に長けた構えである。(抜き技、擦り上げ技が出来る構えである)
(5)相抜けに長けた構えである。(殺法でなく活法が出来る構えである)
(6)悟って初めて出来る構えである。(教えられて出来る構えではなく、自ら悟らなければ出来ない構えである)

五世は当初から教えて下さいました。
教えることは自分の為になる。
と諭して下さいました。
指導して正に五世の言う通りでした。
知識は大学でも本でも勉強が出来ますが、悟りは私自身が体術しなければ、借り物に過ぎません。
悟りはどの段階か、スピードや力の段階か技の段階か気の段階か。それで終わりなのか。五世は「相抜け」の段階まで悟られた。
一刀流の相伝に三人の兄弟の話が有名ですが、誰が相伝したでしょうか。
(続き)


一般剣道から北辰一刀流への道

2013-10-08 00:44:27 | Weblog
「北辰一刀流本部玄武館 剣術指南」看板には掲げてあった。

 玄武館を最初に訪問したのは1994年頃である。
韓国で語学留学をしている時に韓国にも剣道が行われていることを知って、宿所の近くの剣道場に尋ねて見ると大歓迎され,それが縁で招待ビザを受けて指導を正式に始めた。「日本の剣道場と交流をしたい」との要請で、東京で電話帳から尋ねて行って見たのが、偶然にも北辰一刀流本部玄武館であった。

 館内には180cm前後の男性たちの抜刀の迫力に感動しました。今思えば中伝の抜刀術でした。高段者は真剣でしたし、後で知ることになる三位一体の指導法(抜刀、組太刀、剣道)でした。
 
以外にも早くチャンスがやって来た。ソウルの地下道場での寝泊りのせいか、風邪から咳が止らなくなり体調を崩し、急遽帰国。故郷で検診。幸いにも異常なく、一ヶ月静養して数ヶ月後、上京。その間各市、区の武道館、県武道館など稽古に通いながら、決意して、北辰一刀流玄武館に入門しました。
 
 
五世館長先生は稽古が終わると「君はなかなか良いものを持っている。この上にだな修練を積んで、百錬自得だな。(毎回、幼少年期、内弟子時代、騎兵隊からパイロット、終戦後、警察大学校師範時代までの講和が1時間から2時間)頑張り給え、、、、。」出来の悪い私でも出来そうな無限な可能性を約束されたような気になって。

二代目千葉道三郎「玄武館」当時19歳で塾頭(1866年)になって有名な下江秀太郎がいる。翌々年1868年20歳で相伝を印可されたのが小林誠次定之。養子勝浦四郎こと小林四郎は野田和三郎の娘ハルと婚姻、二代目野田和三郎を名乗り、玄武館を再興。小林定之の「至誠館」に出稽古された高野佐三郎先生、中山博道先生が小樽に玄武館開館祝いにこられて指導(当時5世唯一の内弟子。通い弟子の中には京都武專に4名進学している)小林四郎は高野佐三郎の東京九段下の「明信館」に通っている。

五世の優しい実母は、早く昇天された。
少年のころ書いた絵を、その実母がよく褒めてくれたそうです。絵画は「愛の表現」といい、人を喜ばすもの、五世は画家でもある。
剣道も同じであるといいます。
その極意が「相抜け」だといいます。相打ちは互いに死にます。「相抜け」は、ともに生きる。武道の真の極意を示される。
こうも言われます。「攻め、乗る、攻め、乗る、、、、これで終わる。こういう稽古」「今日はいい稽古が出来ました。ありがとうございました」剣道連盟に後年の出稽古

初 代 千葉周作成政時代の四天王
「森要蔵、塚田孔平、稲垣定之助、庄司弁吉」
剣道界には京都武專の関係で
二代目 千葉道三郎光胤時代の四天王
「門奈正、内藤高治、下江秀太郎、小林定之」が知られている。

五世に剣道稽古をお願いする機会がありましたが、まったくの段違いの剣捌き。北辰一刀流本部玄武館宗家とは。これ程にも違いに質問すら出来ませんでした。
民間から警察大学剣道師範になられ、10年指導された。当時の写真が掲げてありますが、当時の先生の実力はどれ程だったのか、私が入門した頃は70代の先生でした。

剣先の違い、如何にされるのか、剣先は全て私の喉につけられ面に届かない。姿、剣は柔らかく大したことがないようでいて、こちらが面に飛ぶと剣は一変、真剣を思わせる。
組太刀稽古の木刀から刃引き稽古、宗家は内弟子時代から真剣で稽古されたとよく伺った。

竹刀稽古では竹刀の剣先は3cm幅です。ところが刃引きや真剣では1mmも無いでしょう。この違いを知って稽古指導される先生は他に見たことも聞いたこともない。

五世は小樽に北辰一刀流三代目(以下三世)小林四郎(後の二代目野田和三郎)が北辰一刀流玄武館を再興された頃に内弟子になられた。
当時五世は剣道部でもない中学1年生で全校剣道大会に優勝して、その帰り道に先輩達からいじめられ学校を中退決意。先生達が学費を出すからと引き止めたが、正義一徹の五世はゆきおねさんの薦めで北辰一刀流の門を叩いた。連れ子のいる継母のいる家には帰りたくなかったようです。五世の正義感は天に貫かれたようなところがあったと思います。

内弟子に入る前、味噌屋で3日間丁稚奉公を完璧にされ、辞退されたようです。その掃除ぶりは「惜しい丁稚さんを失くした」と一週間分の駄賃を下さったそうです。
戦時中の軍での虐めに対しても徹底して抗議。軍隊に入隊時に、三世から段位は受けたい段位を受けなさい、と印可された実力者。
当時5段が剣道の最高段位のころ4段を受け審判長から「君は5段でよかったね」と当時を懐かしまれ、また、剣道連盟8段審査では極意「切り落とし」使われたが、審判長から「宗家の今の技をわかる者が居ないです」宗家は宗家なのですからと諭されたようです。宗家以上の称号がないわけですから。

また、部隊での卑劣な虐めに対し、上官幹部たちを剣道時間に得意の突きで徹底的に懲らしめ軍内部を変えさせた。
終戦時ソウルにいた五世は特攻隊のパイロット教官であった。正義と愛の五世には日本人も韓国人も区別がなかったようです。
韓国人からは相当慕われたようで終戦後1年ソウルに滞在し、帰国の際は密航船と金品を頂いて韓国の人たちが送ってくれたそうです。休日にはデッサンに出かけ、子供たちの人気ものだったようです。

限定句の突きは高野佐三郎先生から「人生には一度か二度、いざという時に使いなさい」と伝授されたのが、北辰一刀流千葉栄次郎先生から伝わる三段突き。栄次郎先生から二代目千葉道三郎先生へ、二代目から小林定之先生へ、小林先生から高野佐三郎先生へ。高野先生から五世へ。中山博道先生からセキレイの攻めを。(五世生前に最後の夏合宿で直授)五世は三段突きを五段突きに昇華された。

抜刀術から始め、奥伝の組太刀、そして、剣道(剣術)約2時間、三位一体の指導が玄武館での指導でした。
刀を学ぶ、技と気を練る。それを剣道に生かし実践する稽古です。小太刀稽古と薙刀稽古。これも剣術の幅を広げ、剣術に生かす。

技の千葉と呼ばれた北辰一刀流の鶺鴒の攻めは究極の技だと知りました。
世間ではただヒクヒクさせる剣などと言われていますが、知る者にとっては、その程度でいいと思います。

悟りの極意はそのようなものではあるはずがありません。
 続き(一部修正7/1))


正眼(星眼)開眼(足の姿勢)

2011-05-05 14:25:29 | Weblog
正眼(星眼)開眼(足の姿勢)
 足の姿勢は数字の11字右足を前にする形である。

 江戸時代に剣術が大きく変化したのは板張りの道場修練と剣道防具の開発に拠る事は否定できない事実であると思います。
 独自に道具を使用していた剣術が江戸後期4代道場5代とも言うが隆盛を誇った剣術道場が防具稽古を取り入れることにより現代の防具の形になりました。
 その当時以前の足は撞木に踏む構えでした。剣道では大変嫌われる形ですが、戦場から発展してきた剣術は甲冑を身に付け戦うには理を得た形であったわけです。

 ところが、一般的な単純にかがとを上げた11字の構えではありませんでした。
能や日本舞踊のような足でした。
 あるとき兄弟子師範が左足を研究しているという言葉が右脳にこだまのように残り、それまで能や日本舞踊のような足で終わっていた足について研究を始めると驚く内容に辿り着きました。

 足の姿勢を悟った時、同時に新たな剣道の世界、スポーツ剣道を超えた剣道が開けて来るのを明確に知りました。それは、また、第三次剣道革命(第一次剣道革命は江戸後期、第二次剣道革命は戦後)の始まりを直感しております。

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正眼(星眼)開眼(手の内)

2011-04-23 11:01:09 | Weblog

 手の内の形。
博多屋武道具には「悟」という名からして正眼を悟るような「悟る」の漢字があてられています。

この「悟」籠手が分かるようであれば正眼の極意に近づいていると見ることが出来ると思います。単に手首が自由が利く籠手として、いろいろなメーカーが真似ておりますが、究極が違います。まさに正眼を「悟る」とは、博多屋武道具の「悟」籠手のようになる、成らざるを得ない形。

いつどの流派、先生から始まったか定かではないが、構えが「拳一つ」とする構えが正しいのか?少なくとも腰に大刀の鞘と小太刀を差していてそんな構えが出来るのか。

北辰一刀流は明らかに違う。

また、ある有名な先生の出版された本には「親指と人指し」で握る手が紹介されておりますが、私のいる韓国では手の内握りが「こうだ」と思い込んで指導者まで真似ています。
残念なことです。


北辰一刀流「千葉周作遺稿」には明確に握りについて説明されております。
1キロ前後或いは1.5キロの剣を使うにはどうすべきか?
主に竹刀や木刀しか使用しない現代剣道は、剣の原理を完全に忘れてスナップ剣道に陥っている現実です。(見よう見真似で来た剣道ですから仕方ないかもしれませんが。伝統的に見て盗むとも言いますので)

基本素振りに全てが含まれている内容です。基本素振りはバトミントンなどのようなスナップではない。

手の内は全て繋がる重要なものです。剣道だけでなく居合道の納刀や柔術の合気道まで繋がる重要な極意を秘めていることが分かりました。
   
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正眼(星眼)を悟る

2011-04-10 08:20:53 | Weblog

正眼をいろいろな漢字が当てられております。
当流「北辰一刀流」では「星眼」である。
極意に北極星や七つの星(北斗七星)とか用いられております。
「鶺鴒の攻め」五世小西重治郎は「中山博道先生の攻めの厳しさは三世の父小林誠次郎定之(1849/4出生)直伝によるものだ」と稽古後によく星眼について話されました。
はじめ組太刀に残されている「鶺鴒の攻め」を真似て、同門先輩と車中、星眼の感じるところを話し合うのが常でした。
 早20年近く歳月が流れ、見えてきた「鶺鴒の攻め」真実は、一切の無駄のない攻めであることがようやく辿り着いた「星眼の構え」でありました。
良くも「ヒクヒク」動かす剣先は傍からは「さほどの意味も無く、ただ打つ気を見せない為」などと小説に書かれ、どの剣士も剣先を動かしておりますが、分かって見ればこれほどの内容を秘めたものとは、想像も出来ませんでした。
 生前五世の所に有名な範士八段の先生が尋ねてきて五世に「先生、正眼が悟れない」と正直に話されたそうです。
現代剣道で分かっているようで分からないのが正眼である。
 例えば、他流の正眼はそれぞれ違います。眉間、喉、左目、下段、それぞれ特徴があり理由があります。
では、何故、北辰一刀流は「鶺鴒の攻め」であったのか。
開祖「千葉周作」が義父「浅利又七郎」の縁を切ってまで北辰一刀流を打ち立てのか。
その理論に行き着くまで18年の歳月が必要でした。
「夫剣者瞬息心気力一致」という名文が「その通りだ」と改めて感じ霊界から宗家が教えてくれたように思えてなりません。
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これが本当の北辰一刀流の真実である。北辰一刀流三世。

2009-03-11 15:18:13 | Weblog
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北辰一刀流三世  小林四郎祐之>>>同一人物:勝浦四郎(少年期)-小林四郎(養子となる)-野田和三郎(野田四郎)(結婚)    小林四郎祐之。 旧姓 勝浦四郎明治16年(1883/6/7)勝浦鞆雄の四男として出生。幼少より、北辰一刀流「至誠館」(館主、小林誠次郎定之)に学ぶ。 高野佐三郎若い頃「至誠館」に学び代稽古を勤めた間柄で、そのような関係から小林四郎も交流のあった「明信館」(高野佐三郎)にも通い学ぶ。小林四郎祐之の実力は「明信館」の助教をも勤め特別待遇をされるほどの間柄であったといいます。 また、京都では内藤高治のもと小林四郎と小川金之助が修錬され交流があった。小林四郎が京都時代に、薙刀「天道流」三田村千代と武者修行。 小林誠次定之の養子となり勝浦姓から小林四郎祐之になる。         
その後、北辰一刀流三代目宗家を受けて武者修行を開始。関東から北上して東京、千葉、埼玉、茨城、栃木、福島、山形、宮城、岩手、秋田、青森、北海道まで北上し、武者修行の末、小樽で初代野田和三郎の私財(南部楼)全てを譲渡を受け「北辰一刀流玄武館」を再建。大正2年(1913)。         
 同時に初代野田和三郎の一人娘小樽小町と評判のハルと結婚、二代目野田和三郎(小林姓から野田四郎になる)襲名する。 
 
「北辰一刀流玄武館」3世小林姓改め野田四郎祐之のもとから
*京都武道専門学校に安井三男、林正大、坂野彦明、峯岸正則等進学させる。
*昭和11年(1936/5)三井財閥益田邸、斉藤實邸、佐賀鍋島侯邸で抜刀術披露演武。鍋島邸での演武が朝日新聞社製作「朝日ニュース」に「少年が演じる北辰一刀流抜刀術」として全国に紹介された。
*千葉家代々の「玄武薬」製造販売、陸軍大将斉藤實が愛用し感謝状と記念品を受ける。   
  

(注)       
 旧姓、勝浦四郎の実父は、勝浦鞆雄である。勝浦鞆雄は日向国高鍋藩の人。嘉永三年(1850)大阪生まれ。明治23年現在の日比谷高校第七代校長をされた方である。                      
剣士変転「野田和三郎」(剣道日本、堂本昭彦)。
「剣法合傳一巻」北辰一刀流伝書玄武館相続者野田四郎がある。 

(注)北辰一刀流「至誠館」旧墨田区菊川三丁目八番の十二。館主 小林誠次定之。高野佐三郎、中山博道、真貝忠篤、等修錬された。(五世講和から)(貴重な当時の写真が残されている)

年表 北辰一刀流は、開祖千葉周作成政から二代目は三男、千葉道三郎光胤に引き継がれた。
開祖千葉周作が死去 安政2----(1855/12/13)抜刀術奥伝十本、奇蘇太郎の夭折 安政2年-----(1855/2/14)、
道三郎が家を継ぐ安政3年--------(1856/2/4)抜刀術中伝道三郎派八本
榮次郎が夭折 文久2年---------------------------(1862/1/12)、
道三郎夭折 明治5---------------------------------------------(1872/817)
多門四郎夭折 文久元年------------------------(1861/12/29)

 何故二代目を榮次郎ではなく道三郎が継いだのか?「剣の達人111人」によると次男榮次郎は周作が在世中に別家した為、奇蘇太郎の亡きあとは、三男の道三郎が千葉宗家を継承---。とあります。 初代千葉周作成政が安政2年1855/12/13死去している。同じ年、安政2年に榮次郎が父の代稽古を水戸藩「弘道館」で品の無い遊戯的曲芸をしてしまった。水戸藩剣士が北辰一刀流を排斥するというほどの事件が起きている。 しかし、その実力は幕末、「天下無敵の剣士」と言われる程,出る試合出る試合連勝であった。
千葉周之助之胤 千葉榮次郎の長子千葉周之助之胤(1862/3/9~1913/10/3)、明治16年(1883)9/23東京神田錦町一丁目十番地に「玄武館」を開館された。
その子、栄一郎氏が進む道を異にした為、後孫として千葉周作の偉業を伝えるべく「千葉周作遺稿」1942/2/11編纂出版(千葉勝太郎「剣法秘訣」と小谷實蒐集資料)

下江秀太郎(宇都宮藩鹿沼1848/5出生)父恒貞より北辰一刀流を学び、11歳玄武館入門(1859),12歳まで榮次郎先生に学ぶ約2年。その後玄武館塾頭(1866)になるまで7年道三郎先生に学ぶ。警視庁剣術世話掛。
 小林誠次定之(1849/4出生)下江より2年後1868年20歳で相伝を許可される。北辰一刀流「至誠館」館主。他流剣士を指南する技量を備えた正統派。殺傷を好まず戦いには受け流し足を狙い戦闘不能にしたと伝えられる。
北辰一刀流小林派14本が伝えられている。

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これが本当の北辰一刀流の真実である。

2009-01-13 19:42:51 | Weblog
北辰一刀流玄武館三代目と目されていた千葉勝太郎勝胤の功績。

 宗家である開祖千葉周作成政から二代目千葉道三郎光胤、そして、三代目と目された長子千葉勝太郎勝胤は剣の英才教育を受けながら少年期に失明により剣術の道が絶たれてしまった。しかし。この千葉勝太郎勝胤は社会事業に私財とその生涯を捧げた方です。「杉山鍼按学校」を開設(大正4年)がそれである。

「国リハ式施灸具開発の思い出」 から
「明治10年代になって全国に設立され出す盲学校に、また杉山流の伝統を継承する東京の杉山鍼按学校等に受け継がれる。杉山鍼按学校は空襲で校舎を焼失し廃校となるが、戦後それに代って一般の中途失明者を按摩師・鍼灸師に養成する国立の
「光明(こうみょう)寮」が設けられ、東京光明寮は視力障害センタ-と改称して、現在は当センタ-理療教育課程となっている。杉山鍼按学校の跡地(大塚駅の傍ら)には、日本鍼灸会館が建っており(社)日本鍼灸師会と(社)全日本鍼灸学会が入って、今も我が国鍼灸界における中枢をなしている。

 また一方、千葉勝太郎勝胤は、先駆けて現在出回っている「遺稿」の元になった「千葉周作遺稿 剣法秘訣」を大正4年に公刊されている。
 失明によって絶たれた生涯を見ると先祖千葉介常胤の血を引く者らしく天に貫く崇高な精神の血統を感じます。

天に召された「愛ちゃん」

2008-12-26 16:00:25 | Weblog
中山さんは飯島さんがデビューした当時からの親友。フジテレビ系バラエティー「ウチくる!?」(日曜正午)でも飯島さんが芸能界を引退するまで約8年共演した。


 番組冒頭、黒いジャケットを着た中山さんは苦渋の表情を浮かべ、「この現実を受け止められません。どうして…」と大切な友の訃報を伝えた。自殺説も報道される中、「彼女は自分から命を絶つような人ではないし、体調不良を理由に、次に進めない人でもない」と真摯に語った。「新しい事業も始めることになっていたし、そういう意味では最もノっていた時期」と無念をにじませた。

 「彼女がもし今、僕に言うとしたら『ウソ、マジ?なんで私、死んでるの?』…そんな声が聞こえてくるんです」と涙を浮かべ、声を震わせた。最後に会話したのは1カ月前。「『年末、忙しくなるからって飲みすぎちゃダメよ』って僕の体調を心配してくれた。バカヤローですよ!くだらない時に電話して、なんで一番大切な時に電話してこないんだ…」と唇をかみしめた。

 最後に「愛ちゃんは天国に行って、『みんな、ごめんね』と言っている。それだけは信じてあげてください。ご冥福をお祈り申し上げます」と深々と頭を下げていた。


北辰一刀流の極意

2008-09-17 20:18:45 | Weblog
剣道家に限らず武道家も、スポーツ全体が、技に終始しておりますし、また、スピードを競っております。


 以前から合気道や大東流合気柔術に関心を寄せております。特に、合気道の和を主張する処に共感しております。。
 歴史が戦いから未だに抜け出せずにおりますし、地球上で未だに戦争があります。


 その張本人は、誰でしょうか?
それは批判をしているあなたであり、私たちです。批判をする人を見たら、その人こそ戦争を起こしている人です。平和、平等、自由といいながら、正しいような批判を展開する唯物論者、それは、正しいように言いながら、実は、既に戦争を起こしているのです。批判は、外に向ければ戦争であり、自己に向ければ、そうです。自殺までさせるのです。批判は破壊であり、核兵器であり、テロと同じです。
 
 また、平等ではありません、体も顔も能力も明るかったり控えめだったり、自由?自由には、規範があるのです。法の下の自由、平等であり、親と子は平等ではありません。上下の位置その場その場で位置が違います。平和、本当に実行していますか?平和は和することです。批判ではありません。100%和でなければなりません。そこには批判は存在できません。


現代にあって、武道を和と話される団体は合気道と我が剣の師、北辰一刀流五世小西重治郎成之先生以外(旧姓小野)にないのではないかと思われます。


 我が剣の師、北辰一刀流五世小西重治郎成之先生も剣術に「和」を語られ、また、勝敗を超えた剣道、「あいぬけ」共に生きる剣道を主張されました。(北辰一刀流BABジャパンCD,ビデオ、入門案内の文)


 合気道の説明には、剣術で説明できないところを説明してくれます。
固体、液体、気体、剣術的に解釈すると固体、これは形、体と言えます。気体は、心法、見えない気です。しかし、剣道には、液体が明確なものがありません。
 しかし、北辰一刀流五世の剣を考えた時、極意がここにあることに気が付きました。

剣道家、武道家が到達できない壁、それが液体にあるということです。
北辰一刀流、免許皆伝、持田盛二十段は、晩年、少し邪念が入る、その為の稽古をしたと伺います。平常心という世界を超えたものを感じます。
 
 遺稿に抜刀術が無い、43本の組太刀をやらないと批判を繰り返す人たちがいます。そのような心構えでどうして極意を悟れましょうか?43本それは、小野派一刀流(総数170本)50本とも60本とも言われる中の43本です。正確には、50本であり60本になります。真実の北辰一刀流を悟るべきが我々の本分とだと修練に励んでおります。

八幡太郎義家こと源義家に誓いを立てた千葉常兼から千葉介常胤、千葉大和、勇者の生き方です。その姿勢が初代から受け継がれている伝統です。
 
 
 五世の言葉に「自分以外全て師である」と指導されました。我々剣道家の原点だと思います。剣が傲慢になったら、もうお終いだ、とも言われました。

 北辰一刀流五世の半生を多くの方が知らないと思います。背が低く、ニコニコした顔からは想像も付かない、剣を使います。警察大学の師範をされたその実力は半端なものじゃないことが分かります。五世を相手に、あの上段の名手千葉先生(現警視庁名誉師範)が上段を下したと伝え聞きました。また、京都大会で模範試合をされ20本位打ちまくってしまった、といいます。日本剣道連盟の責任者に対して「何故こんな者を出した」と叱ったといいます。責任者は、「八段で彼が最高の者です」と答えたそうです。「なんであんなものを出したのか、他にたくさんいるのに」と相手を思いやる。(五世講和より)

 同時に、徹底した善と正義と愛の方でした。それは、少年時代から、戦時中の特攻どぐろ隊でも終生変わりませんでした。(「よみがえる北斗の剣」より)
 
 人間の体を見ると固体(体)、液体(血液)、気体(心、霊)になっております。
武産合気(p76~84)は、我々(固体、液体、気体)の穢れを取り除き、地上天国を創造しなければならないと述べております。

 北辰一刀流五世の半生は、まさに穢れを取り除き、善と正義と愛であったので、液体の極意に到達されたのだと思います。

それは、まさに武の矛(ほこ)を止める。のが武道の真の姿であり、
批判や争いを止めることであり、善と正義と愛の実践、和の実践であると極意の最終点、地上天国が我々の使命だと思います。牧師である小野派一刀流、宗家、笹森先生(現警察大学師範)も同じ意見ではないでしょうか。