北辰一刀流と現代剣道

現代剣道の源流である北辰一刀流の真髄を求めて

1)北辰一刀流宗家 5世 小西重治郎玄武館館長死去、2)北辰一刀流の先祖と家系及び弟子

2008-06-03 02:53:46 | 剣道、剣術、居合

 1)北辰一刀流宗家 5世 小西重治郎玄武館館長死去 
2008年6月1日午前 3時、入院中でしたが、亡くなられました。

5世 宗家 略歴

1919年 4月北海道生まれ。


14歳に北辰一刀流 宗家3世 小林四郎祐之の内弟子に入門.

19歳に師範代になる。


戦闘機指導教官

北辰一刀流玄武館を東京都杉並区善福寺に再建
国際抜刀道範士九段

警察大学校剣道師範を歴任, その間10年, 現在の首席、名誉師範を指導する。

 画家 小西重治郎 略歴
東京芸術学園長、中央美術協会設立委員、元二紀会同人、日本美術家連盟会員、東京都知事賞、安井賞展二回入選、文部大臣賞、フランス国際展国際賞二回、ル.サロン賞、ル.サロン永久会員、国際美術文化功労賞、

戦争の最中にあっても、現代にあっても、その生涯は、神の正義と愛でありました。突きは、正義の北斗の剣であり、絵画は愛でありました。きっと神様の下で絵を描いていることでしょう。そこに、幼い子供達が集まっていたら、そこに、いるのは、小西重治郎である。
「さらさらと秋風の中に捨てきりし 想いよ遠く 雲流れゆく」原悦子 (よみがえる北斗の剣より)

2008年 6月1日逝去. 享年 89歳.

   
 2)北辰一刀流 千葉周作の先祖と家系及び弟子
伊邪那岐神、伊邪那美神--
天照大御神 天忍穂耳尊 瓊瓊杵尊 彦火火出見尊 鵜葦草葦不合命、神話の時代--
-----1神武天皇---------------- 50桓武天皇
   50桓武天皇__葛原親王__高見王__高望王___平国香・・・平清盛
                       |
                       |__平良将__平将門
                       |
                       |__平良文・・・(千葉氏)

      平 良文(村岡良文)(妙見菩薩、北斗七星剣)             「北斗の星、千葉氏伝」より(参考:坂東平氏系図)

北辰流 千葉之介常胤1100年代 --------         

             --------千葉大和--千葉右衛門(花山村)

北辰夢想流 初代 千葉吉之丞常成(元相馬藩師範、荒谷村)
       北辰夢想流 二世 父、千葉忠左衛門成胤(幸右衛門成勝)
             兄 千葉又右衛門成道-----
              -----千葉又右衛門成直--成男--至--三治 

北辰一刀流 開祖 千葉周作成政(氣仙村、現在の陸前高田市)
              弟 千葉定吉成胤ー-重太郎一胤
                       ー-東太郎

       長男 千葉奇蘇太孝胤--彌太

       次男 千葉榮次成之--周之介(助)之胤ー-榮一

       三男 二世千葉道三光胤--勝太勝胤

       四男  千葉多門四政胤  



坂本龍馬、海保帆平、井上八,大羽藤臧(鈴木、伊藤甲子太),河八,有村治左衛門、森要臧,塚田孔平, 庄司藤(弁)吉,稻垣定之助,牧野廣人,山岡鐵舟,下江秀太,小林誠次定之,小沢寅吉,門奈正,内藤高治,木村篤太,

三世小林四祐之(野田和三郎),高野佐三,中山博道,小沢一郎、持田盛二,小川金之助,小澤 丘,玉利三之助,堀口 ,

四世 小林義勝定之、五世 小西重治成之、小沢 武、大塚義孝,坂野彦明
  稻葉茂,今井昌平, 北辰流 千葉治胤---利胤

永嶋久男, 六世小西眞圓一之,蓬田正憲,鎌田繁登志

北辰一刀流 開祖 千葉周作成政  
玄武館
•初代 千葉周作成政
•第二代 千葉道三郎光胤
•第三代 小林四祐之(野田和三郎)
•第四代 小林義勝定之
•第五代 小西重治成
•第六代 小西眞圓一之

 

北辰一刀流
  桶町千葉道場
•初代 千葉定吉政道
•第二代 千葉重太郎一胤
•第三代 千葉東一郎清光
•第四代 千葉束
•第五代 千葉弘政胤
•第六代 大塚洋一郎政徳





      


実録 第7回 直伝限定句の突き。

2008-05-01 13:46:20 | 剣道、剣術、居合
(1)現代剣道に連結された流派現代の剣道は、江戸幕末に竹刀と防具の使用を取り入れた、代表的流派である、直心影流、中西派一刀流、北辰一刀流、神道無念流、鏡新明智流、心形刀流、などの武士同士の戦いの剣術が、竹刀と防具を取り入れて、実戦的修練を可能にした稽古法である。現代剣道が、身を守り勝つ殺人剣から竹刀を持って指定部位を打つ、活人剣に昇華されたのである。(北辰一刀流五世小西重治郎講和から) 竹刀と防具使用の目的は、木刀組太刀による欠点を補い、怪我せず、身を捨てて打ち合う処に目的があった。北辰一刀流開祖千葉周作の目的もここにあった。だからこそ浅利家を出て新流派を打ち立てたのである。古来からの技法、即ち、組太刀稽古を主とした方法では、限界があったからである。侍時代の真っ只中にあって、地位や名誉、まして義父との袂を断つ決意とは、それだけの不備を知ったからである。周作の進言を聞いても、中西家で一介の小僧から有名剣士にして頂いた浅利又七郎にとって、恩師中西(小野)派一刀流に背むくことは適わぬ事であった。   千葉周作は、「親の命に背くは不義であり、剣に背くは我が身を殺す事」と大変悩まれた。剣道の要訣は、「弟子の教育、国の為にある。不備や不利を知りつつ、改めず自分を曲げて道を誤るは、男として潔くない」として、ついに北辰一刀流を立てられました。                                   竹刀と防具の使用により、早い直線的要素に重点が置かれるようになったのである。正にそれは、足である。 旧来の剣術は撞木に踏む足姿勢であった。戦場の鎧戦法から発展した剣術に於いては撞木の足姿勢の方が都合がよかった。しかし、スピードを競うように研究されると、足姿勢が11字の形が遙に有利だったのである。100メートルのスタートを考えれば、よく理解できる。11字で足を前後にしている。しかも、かがとを浮かしている。 千葉周作は、晩年に名を揚げてきた弟子たちと試合をし圧倒して勝つ。後進のために、更に言われている。スピードと技は、まあまあ出来てきた。しかし、理に暗くては、駄目だと言われる。竹刀剣道は技(業)、組太刀は術(理)である。車の両輪だといわれる。即ち、竹刀剣道と組太刀の必要性を唱えているのである。 竹刀剣道だけでは、その道を極めて名人達人に至るのは至難の業である。何故なら術(理)に暗いからである。  しかし、スポーツになった剣道の多く人が行き詰まり、限界を感じるところ、勝てない、正眼(星眼)が分からない。それが竹刀剣道だけを追及してきた結果である。剣聖と呼ばれた、先人達と何がどう違うか。当時千葉周作が指摘した理にあるのである。竹刀剣道に連結できる組太刀でなけばなりません。理を悟らなければなりません。男谷信友、千葉周作、島田虎之助、山岡鉄舟、開眼した剣聖である。                                                                                       刀を知らずして、剣道、剣術、居合を語れない。 そしてまた、当然、剣道、古流剣術、居合流派であれば刀の使い方、即ち、抜刀術がなければなりません。真に流派を受け継ぐ流派であれば、必ず抜刀術があるものである。剣の刀法、扱い、流儀作法は、開祖が定めたものである。北辰一刀流の千葉栄次郎、小林四郎の右片手上段は抜刀術から生まれたと伝えられている。    現代剣道で更に楽しむために。 現代剣道が殺人剣から活人剣に昇華されたことは、現代に生きる民主主義の時代にかなった歩みでありました。剣道、剣術は、先史時代から戦いの歴史であり、今日の竹刀剣道に至る過程を見る時、まさに統一思想にあるように、あらゆる分野に於いて三段階で完成する法則が剣道に於いても当てはまるのである。我々が、歴史教科書で第一次産業革命、第二次産業革命を習いました。そして、現代が第三次産業革命の真っ只中であります。 剣道、剣術の歴史で、第一次剣道革命の旗手、それが北辰一刀流開祖千葉周作である。成り立ちから見ても分かるように、剣道発展のために、国家のために、新流を立てたのである。そして、武道専門学校、東京高等師範学校に繋がり第二次剣道革命が進み、戦後、戦場の為の武士道を培った剣術から、人を育み、社会、国家に寄与する剣道として現在が第三次剣道革命の真っ只中にあるのである。(剣道の産業革命を提言、筆者) であれば、もう一つの剣道、勝敗を超えた剣道がある。それが、組太刀、抜刀術(居合道)である。老若男女がともに出来る剣道であり、交剣知愛の精神の実践でもある。(五世小西重治郎講和から)   真の星眼を見る。勝つ為の剣道、試合、昇段、に焦点を据えたのが現代の剣道である。もっともっと更に早く、力とスピードを駆使し、剣士は、そう思うのである。各地選手権代表選手となると、やはりなかなか修練している。八段クラスの先生になると、剣が見えておられる。しかし、選手の刃筋と刀法から見ると、刀を理解して竹刀を使っているというものが伝わってこない。抜き胴の刃筋、面打ち後竹刀を上げる行為、小手打ちと残心、鍔ぜりあい等、見ると、明らかに日本刀の原理を踏まえていない事が分かる。残念である。日本刀を使えば、剣の世界が広がるものである。 20才の頃逆二刀、右足前の萱場先生の予告して打つ面をかわせなかった。体験しなければ、何ひとつ分からぬものである。そして、十数年前、宗家五世にお手合わせを頂ける機会を得た。それは過去一度も経験したことのない、剣使いであった。当時60代と思っていたが、実は70代であった。 京都で内藤高治の下、三世小林四郎と天道流美田村千代が修行され二人で武者修行をしたと、言われる。(三世が内弟子であった五世に伝えている)この三世も美田村先生も日本舞踊のような神妙の域の体捌きであったと、伝えられる。 開祖千葉周作、二世千葉道三郎、三世小林四郎に受け継がれた技は、三世の唯一の内弟子五世の剣捌きと体捌きをとうして、忽然と姿を現したのである。技の千葉とうたわれた、北辰一刀流が健在であった。舞のような体裁き、 舐めるような剣先、それが北辰一刀流の鶺鴒の攻めであった。  一般で使う剣先は、強く張った剣、リズムで動かす剣、テコンドーのように全体で動く剣、など剣先にも特徴がある。剣先の位置、遠近、等々 、構えから得手不得手が分かるものである。また、足の姿勢からもうかがう事ができる。  しかし、五世の剣は、カチカチ動いている剣先とまるで違う。学研出版「日本の剣術」北辰一刀流の項に取材記者が見て聞いて感じた文を読むと剣道剣術を長年経験したものには少し理解できるかもしれない。 北辰一刀流の指導は、その説明だけでも剣道経験者にとって霞がかった剣道がはっきりと見えてくる。それだけでも十分な価値がある。さらに学んでゆくと 数多くものが課題となる。何故ならその土台の上に北辰一刀流そのものがあるのである。 五世は、稽古後一時間二時間講話をして下さった。 初めから 極意の話であり内弟子時代から戦時中、戦後、警大師範時代、現在までの貴重な内容であった。五世は内弟子時代に三世が話す内容をすべて書き留めたといいます。書き遅れると三世に待ってもらう程の徹底したものだったそうです。 宗家は門下生に分け隔てなく話されるが、そう簡単に自分のものにできるものではない。一部が使えても全ては到底難しい。宗家は北辰一刀流正統伝来の技全て相伝し、やはり、一子相伝であった。   直伝限定句の突き一般門下生であるが夏合宿で、五世に呼ばれた。高野先生直伝の技だと指導して下さった。目で見、体験し、説明を受けて、自分のものにして初めて分かるのである。(高野佐三郎小野派一刀流であるが、小林四郎の養父、小林誠次定之の至誠館、墨田区菊川三丁目8~12で中山博道と共に北辰一刀流を学ぶ。五世講話及び実録北辰一刀流「よみがえる北斗の剣」より写真も残されている) この突きは開祖千葉周作から、子の奇蘇太郎、栄次郎、道三郎、多門四郎、弟子の下江、小林、そして高野佐三郎から五世に来たもので、全身の体毛が立ち身震いし次回に。