「北辰一刀流本部玄武館 剣術指南」看板には掲げてあった。
玄武館を最初に訪問したのは1994年頃である。
韓国で語学留学をしている時に韓国にも剣道が行われていることを知って、宿所の近くの剣道場に尋ねて見ると大歓迎され,それが縁で招待ビザを受けて指導を正式に始めた。「日本の剣道場と交流をしたい」との要請で、東京で電話帳から尋ねて行って見たのが、偶然にも北辰一刀流本部玄武館であった。
館内には180cm前後の男性たちの抜刀の迫力に感動しました。今思えば中伝の抜刀術でした。高段者は真剣でしたし、後で知ることになる三位一体の指導法(抜刀、組太刀、剣道)でした。
以外にも早くチャンスがやって来た。ソウルの地下道場での寝泊りのせいか、風邪から咳が止らなくなり体調を崩し、急遽帰国。故郷で検診。幸いにも異常なく、一ヶ月静養して数ヶ月後、上京。その間各市、区の武道館、県武道館など稽古に通いながら、決意して、北辰一刀流玄武館に入門しました。
五世館長先生は稽古が終わると「君はなかなか良いものを持っている。この上にだな修練を積んで、百錬自得だな。(毎回、幼少年期、内弟子時代、騎兵隊からパイロット、終戦後、警察大学校師範時代までの講和が1時間から2時間)頑張り給え、、、、。」出来の悪い私でも出来そうな無限な可能性を約束されたような気になって。
二代目千葉道三郎「玄武館」当時19歳で塾頭(1866年)になって有名な下江秀太郎がいる。翌々年1868年20歳で相伝を印可されたのが小林誠次定之。養子勝浦四郎こと小林四郎は野田和三郎の娘ハルと婚姻、二代目野田和三郎を名乗り、玄武館を再興。小林定之の「至誠館」に出稽古された高野佐三郎先生、中山博道先生が小樽に玄武館開館祝いにこられて指導(当時5世唯一の内弟子。通い弟子の中には京都武專に4名進学している)小林四郎は高野佐三郎の東京九段下の「明信館」に通っている。
五世の優しい実母は、早く昇天された。
少年のころ書いた絵を、その実母がよく褒めてくれたそうです。絵画は「愛の表現」といい、人を喜ばすもの、五世は画家でもある。
剣道も同じであるといいます。
その極意が「相抜け」だといいます。相打ちは互いに死にます。「相抜け」は、ともに生きる。武道の真の極意を示される。
こうも言われます。「攻め、乗る、攻め、乗る、、、、これで終わる。こういう稽古」「今日はいい稽古が出来ました。ありがとうございました」剣道連盟に後年の出稽古
初 代 千葉周作成政時代の四天王
「森要蔵、塚田孔平、稲垣定之助、庄司弁吉」
剣道界には京都武專の関係で
二代目 千葉道三郎光胤時代の四天王
「門奈正、内藤高治、下江秀太郎、小林定之」が知られている。
五世に剣道稽古をお願いする機会がありましたが、まったくの段違いの剣捌き。北辰一刀流本部玄武館宗家とは。これ程にも違いに質問すら出来ませんでした。
民間から警察大学剣道師範になられ、10年指導された。当時の写真が掲げてありますが、当時の先生の実力はどれ程だったのか、私が入門した頃は70代の先生でした。
剣先の違い、如何にされるのか、剣先は全て私の喉につけられ面に届かない。姿、剣は柔らかく大したことがないようでいて、こちらが面に飛ぶと剣は一変、真剣を思わせる。
組太刀稽古の木刀から刃引き稽古、宗家は内弟子時代から真剣で稽古されたとよく伺った。
竹刀稽古では竹刀の剣先は3cm幅です。ところが刃引きや真剣では1mmも無いでしょう。この違いを知って稽古指導される先生は他に見たことも聞いたこともない。
五世は小樽に北辰一刀流三代目(以下三世)小林四郎(後の二代目野田和三郎)が北辰一刀流玄武館を再興された頃に内弟子になられた。
当時五世は剣道部でもない中学1年生で全校剣道大会に優勝して、その帰り道に先輩達からいじめられ学校を中退決意。先生達が学費を出すからと引き止めたが、正義一徹の五世はゆきおねさんの薦めで北辰一刀流の門を叩いた。連れ子のいる継母のいる家には帰りたくなかったようです。五世の正義感は天に貫かれたようなところがあったと思います。
内弟子に入る前、味噌屋で3日間丁稚奉公を完璧にされ、辞退されたようです。その掃除ぶりは「惜しい丁稚さんを失くした」と一週間分の駄賃を下さったそうです。
戦時中の軍での虐めに対しても徹底して抗議。軍隊に入隊時に、三世から段位は受けたい段位を受けなさい、と印可された実力者。
当時5段が剣道の最高段位のころ4段を受け審判長から「君は5段でよかったね」と当時を懐かしまれ、また、剣道連盟8段審査では極意「切り落とし」使われたが、審判長から「宗家の今の技をわかる者が居ないです」宗家は宗家なのですからと諭されたようです。宗家以上の称号がないわけですから。
また、部隊での卑劣な虐めに対し、上官幹部たちを剣道時間に得意の突きで徹底的に懲らしめ軍内部を変えさせた。
終戦時ソウルにいた五世は特攻隊のパイロット教官であった。正義と愛の五世には日本人も韓国人も区別がなかったようです。
韓国人からは相当慕われたようで終戦後1年ソウルに滞在し、帰国の際は密航船と金品を頂いて韓国の人たちが送ってくれたそうです。休日にはデッサンに出かけ、子供たちの人気ものだったようです。
限定句の突きは高野佐三郎先生から「人生には一度か二度、いざという時に使いなさい」と伝授されたのが、北辰一刀流千葉栄次郎先生から伝わる三段突き。栄次郎先生から二代目千葉道三郎先生へ、二代目から小林定之先生へ、小林先生から高野佐三郎先生へ。高野先生から五世へ。中山博道先生からセキレイの攻めを。(五世生前に最後の夏合宿で直授)五世は三段突きを五段突きに昇華された。
抜刀術から始め、奥伝の組太刀、そして、剣道(剣術)約2時間、三位一体の指導が玄武館での指導でした。
刀を学ぶ、技と気を練る。それを剣道に生かし実践する稽古です。小太刀稽古と薙刀稽古。これも剣術の幅を広げ、剣術に生かす。
技の千葉と呼ばれた北辰一刀流の鶺鴒の攻めは究極の技だと知りました。
世間ではただヒクヒクさせる剣などと言われていますが、知る者にとっては、その程度でいいと思います。
悟りの極意はそのようなものではあるはずがありません。
続き(一部修正7/1))
玄武館を最初に訪問したのは1994年頃である。
韓国で語学留学をしている時に韓国にも剣道が行われていることを知って、宿所の近くの剣道場に尋ねて見ると大歓迎され,それが縁で招待ビザを受けて指導を正式に始めた。「日本の剣道場と交流をしたい」との要請で、東京で電話帳から尋ねて行って見たのが、偶然にも北辰一刀流本部玄武館であった。
館内には180cm前後の男性たちの抜刀の迫力に感動しました。今思えば中伝の抜刀術でした。高段者は真剣でしたし、後で知ることになる三位一体の指導法(抜刀、組太刀、剣道)でした。
以外にも早くチャンスがやって来た。ソウルの地下道場での寝泊りのせいか、風邪から咳が止らなくなり体調を崩し、急遽帰国。故郷で検診。幸いにも異常なく、一ヶ月静養して数ヶ月後、上京。その間各市、区の武道館、県武道館など稽古に通いながら、決意して、北辰一刀流玄武館に入門しました。
五世館長先生は稽古が終わると「君はなかなか良いものを持っている。この上にだな修練を積んで、百錬自得だな。(毎回、幼少年期、内弟子時代、騎兵隊からパイロット、終戦後、警察大学校師範時代までの講和が1時間から2時間)頑張り給え、、、、。」出来の悪い私でも出来そうな無限な可能性を約束されたような気になって。
二代目千葉道三郎「玄武館」当時19歳で塾頭(1866年)になって有名な下江秀太郎がいる。翌々年1868年20歳で相伝を印可されたのが小林誠次定之。養子勝浦四郎こと小林四郎は野田和三郎の娘ハルと婚姻、二代目野田和三郎を名乗り、玄武館を再興。小林定之の「至誠館」に出稽古された高野佐三郎先生、中山博道先生が小樽に玄武館開館祝いにこられて指導(当時5世唯一の内弟子。通い弟子の中には京都武專に4名進学している)小林四郎は高野佐三郎の東京九段下の「明信館」に通っている。
五世の優しい実母は、早く昇天された。
少年のころ書いた絵を、その実母がよく褒めてくれたそうです。絵画は「愛の表現」といい、人を喜ばすもの、五世は画家でもある。
剣道も同じであるといいます。
その極意が「相抜け」だといいます。相打ちは互いに死にます。「相抜け」は、ともに生きる。武道の真の極意を示される。
こうも言われます。「攻め、乗る、攻め、乗る、、、、これで終わる。こういう稽古」「今日はいい稽古が出来ました。ありがとうございました」剣道連盟に後年の出稽古
初 代 千葉周作成政時代の四天王
「森要蔵、塚田孔平、稲垣定之助、庄司弁吉」
剣道界には京都武專の関係で
二代目 千葉道三郎光胤時代の四天王
「門奈正、内藤高治、下江秀太郎、小林定之」が知られている。
五世に剣道稽古をお願いする機会がありましたが、まったくの段違いの剣捌き。北辰一刀流本部玄武館宗家とは。これ程にも違いに質問すら出来ませんでした。
民間から警察大学剣道師範になられ、10年指導された。当時の写真が掲げてありますが、当時の先生の実力はどれ程だったのか、私が入門した頃は70代の先生でした。
剣先の違い、如何にされるのか、剣先は全て私の喉につけられ面に届かない。姿、剣は柔らかく大したことがないようでいて、こちらが面に飛ぶと剣は一変、真剣を思わせる。
組太刀稽古の木刀から刃引き稽古、宗家は内弟子時代から真剣で稽古されたとよく伺った。
竹刀稽古では竹刀の剣先は3cm幅です。ところが刃引きや真剣では1mmも無いでしょう。この違いを知って稽古指導される先生は他に見たことも聞いたこともない。
五世は小樽に北辰一刀流三代目(以下三世)小林四郎(後の二代目野田和三郎)が北辰一刀流玄武館を再興された頃に内弟子になられた。
当時五世は剣道部でもない中学1年生で全校剣道大会に優勝して、その帰り道に先輩達からいじめられ学校を中退決意。先生達が学費を出すからと引き止めたが、正義一徹の五世はゆきおねさんの薦めで北辰一刀流の門を叩いた。連れ子のいる継母のいる家には帰りたくなかったようです。五世の正義感は天に貫かれたようなところがあったと思います。
内弟子に入る前、味噌屋で3日間丁稚奉公を完璧にされ、辞退されたようです。その掃除ぶりは「惜しい丁稚さんを失くした」と一週間分の駄賃を下さったそうです。
戦時中の軍での虐めに対しても徹底して抗議。軍隊に入隊時に、三世から段位は受けたい段位を受けなさい、と印可された実力者。
当時5段が剣道の最高段位のころ4段を受け審判長から「君は5段でよかったね」と当時を懐かしまれ、また、剣道連盟8段審査では極意「切り落とし」使われたが、審判長から「宗家の今の技をわかる者が居ないです」宗家は宗家なのですからと諭されたようです。宗家以上の称号がないわけですから。
また、部隊での卑劣な虐めに対し、上官幹部たちを剣道時間に得意の突きで徹底的に懲らしめ軍内部を変えさせた。
終戦時ソウルにいた五世は特攻隊のパイロット教官であった。正義と愛の五世には日本人も韓国人も区別がなかったようです。
韓国人からは相当慕われたようで終戦後1年ソウルに滞在し、帰国の際は密航船と金品を頂いて韓国の人たちが送ってくれたそうです。休日にはデッサンに出かけ、子供たちの人気ものだったようです。
限定句の突きは高野佐三郎先生から「人生には一度か二度、いざという時に使いなさい」と伝授されたのが、北辰一刀流千葉栄次郎先生から伝わる三段突き。栄次郎先生から二代目千葉道三郎先生へ、二代目から小林定之先生へ、小林先生から高野佐三郎先生へ。高野先生から五世へ。中山博道先生からセキレイの攻めを。(五世生前に最後の夏合宿で直授)五世は三段突きを五段突きに昇華された。
抜刀術から始め、奥伝の組太刀、そして、剣道(剣術)約2時間、三位一体の指導が玄武館での指導でした。
刀を学ぶ、技と気を練る。それを剣道に生かし実践する稽古です。小太刀稽古と薙刀稽古。これも剣術の幅を広げ、剣術に生かす。
技の千葉と呼ばれた北辰一刀流の鶺鴒の攻めは究極の技だと知りました。
世間ではただヒクヒクさせる剣などと言われていますが、知る者にとっては、その程度でいいと思います。
悟りの極意はそのようなものではあるはずがありません。
続き(一部修正7/1))