考える葦のブログ

さわやかに さりげなく

階層化日本と教育危機(下)

2005-08-19 23:59:59 | 
苅谷剛彦さんの書かれた『階層化日本と教育危機』の感想の続きです。

上:http://blog.goo.ne.jp/hoddy/e/270a76577528e2ff18a6e25c52f34a37
中:http://blog.goo.ne.jp/hoddy/e/05bd36d9267f68d5e5461da7adbac365

「くやしくて、くやしくて、生まれ変わって私も高校へ行くようになりたいと思った」という三十年前の少女の願望は、今の若者の多くにとっては、願いでさえなくなった。だれの手にも届く高校。だが、そのささやかな願望の実現にはさまざまなアイロニーが入り込んでいた。
追いかけても追いかけても遠ざかる逃げ水のように、機会の拡大にもかかわらず、階層間の教育機会の格差は残されたままである。そして、この問題を解決しようとする人びとの善意は、教育のさらなる拡大を求める。けれども、それはもはや、あの少女のような熱い願いに応えるものではない。学校にいることが苦痛となるほどの教育の充満。それでもなお教育は拡大を続ける。

みなさん、ハローです。ホディです。
続きを書こうと思いながら、1ヶ月以上も間をあけてしまいました。
すっかり前に書こうとしていたことすら思い出せませんが、冒頭に引用したように今日は教育から格差を考えたいと思います。

「教育機会の格差をなくしたい」という人々の願いにより教育は拡大してきている。
「大学全入時代」と言われるように、数だけで考えれば大学も志願すれば入学できる時代になっています。(もちろん学費がなければ行けないことには変わりはありませんが・・・)
高校の進学率は95%を超えるが、次の壁は大学の進学率(45%超)となるわけです。
要するに教育機会の格差は縮まらない。

冒頭の話の時代には高校への進学率で格差が生じた。そして、ほとんどの人が高校へ進学する時代となり大学進学率で格差が生じる。
さらに大学全入時代となれば、大学院やビジネススクールへの進学率で格差が生じるのでしょうか。
教育の拡大と格差のいたちごっこですね。

さらに引用します。長くてスイマセン。

教育の多様性や自己選択の強調が、教育の画一性を打破する手だてと考えられている。ところが、教育における平等を、皆で等しく扱うことだ(=「画一教育」)としかみてこなかったために、自己選択・自己責任を求める改革が、社会的な不平等の拡大につながる可能性は問題にもされない。学校が教える勉強量が減ったとき、どのような階層の子どもが有利になり、だれが不利になるのか。教科や進路の選択を個人まかせにしたとき、だれが得をし、だれが損をするのか。(中略)自由と引き換えに、階層間の教育格差が広がる可能性は否定できない。
こうしたことの帰結が、国民の全般的な知的水準の低下と、階層間での格差拡大をもたらすとしたら、エリートなき社会のチェック機能はどのようにはたらくのか。学歴貴族への反発が、知性や知識・教養の価値を貶めるまでに進行するならば、大衆教育社会のゆくえは、社会の不平等を残しながらも(あるいは拡大しながら)、エリートのいない、チェック機能も十分はたらかない社会を招来させるのではないか。私たちは、精神のない専門人と、教養のない享楽人の社会へとつき進むのか。学歴貴族制を解体した力は、反知性主義・反教養主義とも呼べる、うねりになろうとしている。その解き放たれた力を十分制御できないところに、またその正体を十分見きわめないまま理想主義を旗印に教育の改革が進行するところに、私たちの教育と社会が抱える危機がある。「学歴貴族の栄光と挫折」の歴史が私たちに残した問題をどのように解決していけばよいのか。問われているのは、日本の近代の質であり、私たちの知性である。

理想を求め、格差を縮小しようとした結果が、「国民の全般的な知的水準の低下」という望まぬ付録を伴って、階層間での格差拡大という全く逆の結果となったと著者は述べられています。

「精神のない専門人と教養のない享楽人の社会」というのは印象的な表現ですね。
この表現は、教育機会を十分に得られた層が「精神のない専門人」となり、得られなかった層が「教養のない享楽人」となると解釈しましたが、まさにその通りの懸念をボクも感じます。
偏った自己責任が周囲との調和と協力を排除し、一方でその専門性や才能で高い地位と収入を得る。
その隣では、教育という社会のシステムから自ら飛び出し、その行動を個性とか価値観だと自己肯定し今を楽しむ。
極端な表現ですが、そんな二極化が進む社会が訪れるのでしょうか?

教育が難しいのは、その結果が現れるのには時間がかかることと、教育そのものの評価の物差しが沢山あることだと思います。

「教育」とは何か?
「家族」の次にボクらが飛び込む社会のシステムかも知れません。
覚えること、考えること、集団生活をすること、達成感を得ること、自分の限界を知ること、自分と他人を比較すること・・・感謝すること。
いろいろな観点が複雑に絡み合った社会のシステム。
「覚える力」や「考える力」だけでは「教育」を評価することは出来ません。

「教育」だけでなく、「格差」の物差しも多岐にわたるでしょう。
格差、格差というから「格差」が悪いもののように言われます。
個性があるように、全く同じ、つまり格差が全くないということはあり得ないでしょう。
自分は「感謝する力」だけは誰にも負けない!とそんな生き方があっても良いんじゃないでしょうか?
「自分と他人の力を比較する力」だけみんな強く身につくような教育なのかも知れませんね。

毎回、毎回、長々と失礼しました。
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