(引用文)
「三から五ひくといくつになる」と聞いてみると、小学一年生は「零になる」と答える。 中学生がそばで笑っている。 3-5=-2[#「3-5=-2」は横組み]という「規約」の上に組み立てられた数学がすなわち代数学である。 しかし3-5=0[#「3-5=0」は横組み]という約束から出発した数学も可能かもしれない。 しかしそれは代数ではない。 物事は約束から始まる。 俳句の約束を無視した短詩形はいくらでも可能である。 のみならず、それは立派な詩でもありうる。 しかし、それは、もう決して俳句ではない。 (大正十年九月、渋柿)
(大正十年九月号掲載文を読んで)
「三から五を引くと零になるという考え方は間違い」と教える教育があって、そう教えられた人間が「答は零」とする考え方を笑うなら、その教育は既に人間の弊害になっている。
日本の教育は殊・数字に関しては数学に及ぶものはないとして、数学に全権を委譲してきた結果が、現在の日本人の偏った考え方になっているのを気づかねばならない。
寅彦は、確かにこれは代数の約束事の問題として説明している。それは強ち間違いではないが、代数の約束事に限定して説明した結果、どうなったか。
これは文学者が数学者に数字を丸投げしたことで起きた悲劇なのだから、過去の教育の過ちに気づいた私が文学的見地から説明責任を負うことにしよう。
世界観・社会観を語る時、一面(数学面)に偏った見方をしてはならない事、教育者は厳しく己を戒めるべきである。
数字をもてあそぶ代数学を子供に教える教育は子供の発見の芽を摘む「悪しき教育」と知らなければならない。
冷蔵庫にジュースが冷えてますから、一本ずつ分けてください。それで、冷蔵庫にジュースは何本残りましたか。残りませんでしたか。何人いたのですか。5人ですか。
それなら、冷蔵庫に入ってたジュースは五本でしょうか?それは違うでしょう。0本~5本の何れかになります。
小学生に『代数学』の「引き算」を教えて、その代りに『生活学』の計算を失わせてきたのが、これまでの学校教育です。
すなわち『計算合って金足らず」の非論理的な日本の教育でした。日本人が論理的な思考が苦手なのは、義務教育が強制的に論理を捨てさせた故です。