daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

先入観(to be, or not to be)

2014年09月29日 | 詩心
この記事を書こうとしてジャンルをどこにすべきか考えた
いや、初めから決っているから迷うことはないと云えるが
ともあれ、このように迷うことは先入観の打破につながる

このカテゴリーを「宗教・思想・哲学」と定めたけれど
それならジャンルは「文化」で好いんでないかと思ったり
でも現実の選択肢はコラム・社会・政治など色々とあって
詩心を魂とする私のブログのジャンルは「ポエム」とした
最初の決定にこだわっては先入観の打破につながらなくて
いやいや、初っ端からややこしいこと書いては敬遠される

大概の人は「サッサとしなさい」と育てられたと思うけど
それは「言う通りになさい」っていう他人の心への介入だ
誕生の瞬間に介入は始まって洗脳のシャワーを浴び続ける
殊に社会は介入の主戦場だからダメージを受けやすくなる
このような介入に強い体質づくりを担うのは主として母親
我がままいっぱい過させてもらった私の、これは実感だな

介入に対して免疫力が弱ければ非を己の責として受入れる
そりゃあそうだ、何につけ「私が悪い」なら人は鬱になる
鬱にならないためには弱い人を見つける必要も生れるから
それで弱そうな人・勝てそうな人に徹底して攻撃するのだ
その時のモンスター化した醜い姿に人は己で気づきにくい
ただ、モンスター化しなくても鬱で引きこもっては可哀相

私は何を言いたいかというと先入観の質の向上を図ること
狼に育てられた子は四足で歩くのを当然として生きるだろ?
人種差別する家庭に育てば人種差別が悪いと想えないだろ?
お金が大事と思わされた子は人の命よりお金を拝みたいさ?
人を信じられない家庭で育って人を信じられなくなるだろ?
最初の最初に刷込まれた先入観にどうしても引きずられる

いやいや、最初の最初に結論が決まっている訳ではないが
最初の泥沼から抜け出せない人が多い現実は認めなきゃだ
そこから脱する手段を求めて哲学者たちは悩んだらしくて
不確実なもの一切を疑うべきだとデカルトは述べたらしい
デカルトは「疑うことが哲学」みたいな理屈に迷いこんだ?
そのせいかどうか現代哲学は先入観的に疑うようになった?



_ブログランキングならblogram_にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ_


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。