「罪を赦された恵みに生きる」
望月 修
わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。(マタイ六・一二)
神が、御子イエス・キリストによって、救ってくださるのです。その恵みへの応答として祈りがあります。私たちの存在と生死とは神にかかっています。主イエスが教えてくださった「主の祈り」が、神が神として崇められるようになることを何よりも先に願い求めるのはそのためでありました。
第五の祈願においても、この事情はかわりありません。「負い目」とは負債であり、罪のことです。この祈りを正しく祈るためには、神に対する私たちの罪、つまり神への負債が御子によって無条件に赦されているとの信仰が求められています。
主イエスがなさった譬え話が事柄を明らかにしています(マタイ一八・二一ー三五)。王に対して莫大な負債を抱えた家来が、その負債を帳消しにしてもらいました。家来は、王から受けた憐れみを思い、自分に小さな借金をしている仲間を赦したらよかったのです。それなのに、小さな負債を負っている仲間を赦さず、無理に取り立てようとしたばかりか、返せないと知るや牢に閉じ込めてしまったのです。そのため、王の怒りを買って、牢に入れられたという話しです。
「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(三三)。神に赦されなければならない自分であることに気づこうともせず、相手に愛を期待し裏切られ、その相手を憎むというような悪循環を繰り返している世界です。その中で、私たちは、御子において、この問いの前に立たされているのです。
「主の祈り」は、「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と祈ることを教えています。自分の罪は、神の御子の死という大きな犠牲によって、既に赦されているのです。その恵みを受けとめ、他人の罪を赦そうとするのです。ですから、これは条件というよりも、むしろ御子の恵みに生かされ、そのお陰で自分が罪を赦すことができるようにされている、その感謝を云い表しているとも言えます。
いずれにせよ、理不尽な出来事が起こる中で、赦すことは祈ることなしにできることではありません。しかも、「わたしたち」とあります。御子を主と仰ぐ教会に連なり、世界を代表して祈るのです。その際に心掛けることは、お互いに、このような祈りを祈ることができるようになることでありましょう。すべての人が、御子における神の憐れみを受け、神に罪を赦された者同士として、お互いに赦し合うことができるように、祈るのであります。
私たちには、自分では気がつかないでいる罪があります。また、どの罪を誰に赦してもらったらよいか判らないほど複雑に絡み合っている社会に生きています。力関係も目まぐるしく変わります。事態を正確に把握できているわけではありません。そういう中で、すべてを知り、すべてを支配しておられる神に、一人びとりが、まず赦していただくことです。そして、御子の恵みに生かされている者として、お互いに赦しに生きることができできるように、祈り合うようになることです。
日毎のパンを求める祈りに続く、人間の心の奥底からの祈りであります。ある人は、「私たちが他の人の罪を赦すのは、神が自分の罪を赦して神の子としてくださったしるしである」と申しました。キリストの救いは、ただ一度限りの十字架の死によって、私たちにもたらされています。御子によって、過去、現在、未来のすべての罪が赦されるのです。その赦しを、この「主の祈り」によって、「毎日、しかも豊かに、すべての罪にわたって受ける」(M.ルター)のです。私たちは、この祈りなくして、生きることができないのです。
望月 修
わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。(マタイ六・一二)
神が、御子イエス・キリストによって、救ってくださるのです。その恵みへの応答として祈りがあります。私たちの存在と生死とは神にかかっています。主イエスが教えてくださった「主の祈り」が、神が神として崇められるようになることを何よりも先に願い求めるのはそのためでありました。
第五の祈願においても、この事情はかわりありません。「負い目」とは負債であり、罪のことです。この祈りを正しく祈るためには、神に対する私たちの罪、つまり神への負債が御子によって無条件に赦されているとの信仰が求められています。
主イエスがなさった譬え話が事柄を明らかにしています(マタイ一八・二一ー三五)。王に対して莫大な負債を抱えた家来が、その負債を帳消しにしてもらいました。家来は、王から受けた憐れみを思い、自分に小さな借金をしている仲間を赦したらよかったのです。それなのに、小さな負債を負っている仲間を赦さず、無理に取り立てようとしたばかりか、返せないと知るや牢に閉じ込めてしまったのです。そのため、王の怒りを買って、牢に入れられたという話しです。
「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(三三)。神に赦されなければならない自分であることに気づこうともせず、相手に愛を期待し裏切られ、その相手を憎むというような悪循環を繰り返している世界です。その中で、私たちは、御子において、この問いの前に立たされているのです。
「主の祈り」は、「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と祈ることを教えています。自分の罪は、神の御子の死という大きな犠牲によって、既に赦されているのです。その恵みを受けとめ、他人の罪を赦そうとするのです。ですから、これは条件というよりも、むしろ御子の恵みに生かされ、そのお陰で自分が罪を赦すことができるようにされている、その感謝を云い表しているとも言えます。
いずれにせよ、理不尽な出来事が起こる中で、赦すことは祈ることなしにできることではありません。しかも、「わたしたち」とあります。御子を主と仰ぐ教会に連なり、世界を代表して祈るのです。その際に心掛けることは、お互いに、このような祈りを祈ることができるようになることでありましょう。すべての人が、御子における神の憐れみを受け、神に罪を赦された者同士として、お互いに赦し合うことができるように、祈るのであります。
私たちには、自分では気がつかないでいる罪があります。また、どの罪を誰に赦してもらったらよいか判らないほど複雑に絡み合っている社会に生きています。力関係も目まぐるしく変わります。事態を正確に把握できているわけではありません。そういう中で、すべてを知り、すべてを支配しておられる神に、一人びとりが、まず赦していただくことです。そして、御子の恵みに生かされている者として、お互いに赦しに生きることができできるように、祈り合うようになることです。
日毎のパンを求める祈りに続く、人間の心の奥底からの祈りであります。ある人は、「私たちが他の人の罪を赦すのは、神が自分の罪を赦して神の子としてくださったしるしである」と申しました。キリストの救いは、ただ一度限りの十字架の死によって、私たちにもたらされています。御子によって、過去、現在、未来のすべての罪が赦されるのです。その赦しを、この「主の祈り」によって、「毎日、しかも豊かに、すべての罪にわたって受ける」(M.ルター)のです。私たちは、この祈りなくして、生きることができないのです。