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罪を赦された恵みに生きる

2015年12月01日 | 説教
「罪を赦された恵みに生きる」
          望月 修

 わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。(マタイ六・一二)



 神が、御子イエス・キリストによって、救ってくださるのです。その恵みへの応答として祈りがあります。私たちの存在と生死とは神にかかっています。主イエスが教えてくださった「主の祈り」が、神が神として崇められるようになることを何よりも先に願い求めるのはそのためでありました。
 第五の祈願においても、この事情はかわりありません。「負い目」とは負債であり、罪のことです。この祈りを正しく祈るためには、神に対する私たちの罪、つまり神への負債が御子によって無条件に赦されているとの信仰が求められています。
 主イエスがなさった譬え話が事柄を明らかにしています(マタイ一八・二一ー三五)。王に対して莫大な負債を抱えた家来が、その負債を帳消しにしてもらいました。家来は、王から受けた憐れみを思い、自分に小さな借金をしている仲間を赦したらよかったのです。それなのに、小さな負債を負っている仲間を赦さず、無理に取り立てようとしたばかりか、返せないと知るや牢に閉じ込めてしまったのです。そのため、王の怒りを買って、牢に入れられたという話しです。
 「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(三三)。神に赦されなければならない自分であることに気づこうともせず、相手に愛を期待し裏切られ、その相手を憎むというような悪循環を繰り返している世界です。その中で、私たちは、御子において、この問いの前に立たされているのです。
 「主の祈り」は、「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と祈ることを教えています。自分の罪は、神の御子の死という大きな犠牲によって、既に赦されているのです。その恵みを受けとめ、他人の罪を赦そうとするのです。ですから、これは条件というよりも、むしろ御子の恵みに生かされ、そのお陰で自分が罪を赦すことができるようにされている、その感謝を云い表しているとも言えます。
 いずれにせよ、理不尽な出来事が起こる中で、赦すことは祈ることなしにできることではありません。しかも、「わたしたち」とあります。御子を主と仰ぐ教会に連なり、世界を代表して祈るのです。その際に心掛けることは、お互いに、このような祈りを祈ることができるようになることでありましょう。すべての人が、御子における神の憐れみを受け、神に罪を赦された者同士として、お互いに赦し合うことができるように、祈るのであります。
 私たちには、自分では気がつかないでいる罪があります。また、どの罪を誰に赦してもらったらよいか判らないほど複雑に絡み合っている社会に生きています。力関係も目まぐるしく変わります。事態を正確に把握できているわけではありません。そういう中で、すべてを知り、すべてを支配しておられる神に、一人びとりが、まず赦していただくことです。そして、御子の恵みに生かされている者として、お互いに赦しに生きることができできるように、祈り合うようになることです。
 日毎のパンを求める祈りに続く、人間の心の奥底からの祈りであります。ある人は、「私たちが他の人の罪を赦すのは、神が自分の罪を赦して神の子としてくださったしるしである」と申しました。キリストの救いは、ただ一度限りの十字架の死によって、私たちにもたらされています。御子によって、過去、現在、未来のすべての罪が赦されるのです。その赦しを、この「主の祈り」によって、「毎日、しかも豊かに、すべての罪にわたって受ける」(M.ルター)のです。私たちは、この祈りなくして、生きることができないのです。

神が養ってくださる

2015年02月12日 | 説教
「神が養ってくださる」
          望月 修

 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。(マタイ六・一一)


 「主の祈り」のはじめの三つの祈りは、神が、私たちによって正しく礼拝されるための祈りでした。神に造られた人間として、遣わされた世界において、本来の生き方をするために必要なことです。
 神のための祈りが一続き捧げられたあと、私たち人間のための祈りが続きます。その最初が「必要な糧」を求める祈りです。「必要な」は、私たちが実際に用いています「主の祈り」では「日用の」となっています。聖書の中でも、分かりにくい字の一つです。もちろん文字通り「必要な」との意味もあります。しかし、「日用の」というように、それは「今日の」という意味もあれば「明日の」という意味にもなります。更に「最後の日の」という意味にもなり、そこには「来るべき日の」という意味も込められることになります。
 M・ルターは、日用の糧として、「肉体の栄養と必需品のすべてを含んでいる。例えば、食物と飲み物、着物と履き物、家庭と屋敷、畑と家畜、金と財産、敬虔な配偶者、敬虔な子供たち、敬虔な召使い、敬虔で忠実な支配者たち、良い政府、良い気候、平和、健康、規律、名誉、また、良い友だち、信頼できる隣人などである」と教えています(小教理問答)。
 何故、そのように多く広い意味になるかと言えば、元の字が<生きて行くこと>と<関わる>という二つの字から成り立っていることに関係しています。それは<本質>と<越えた>という字でもあります。そこで、教会の聖礼典の一つである「聖餐」をも指している、と言う人もいるほどです。いずれにしても、どれも、「生きて行く上で本当に必要な」ということでありましょう。
 この祈りが、豊かな広がりを持つことは、「糧」という字にもあります。もとの字は<パン>です。私たちの生活は、パンのために生きている、食べて行くために働くという面があります。実際的な事実であって、誰もなおざりにできません。パンが生きて行く上で必要な糧の一つであることは間違いありません。しかし、それとともに、そのようなパンのために働く私たちは、一体何のために生きるのでしょうか。
 『ウェストミンスター教理問答』は、問答一において、「私たちの生きる主な目的は何ですか」と問い、「神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶこと」と答えています。そのような生き方をすることができるための必要な糧は何でしょうか。
 パンによって生きている私たちですが、大地に実りをもたらす自然を造られ支配なさっておられる神がいらっしゃるのです。私たちの命は、神に支えられ養われているとの信仰をパンと共に与えられることです。この祈りを祈ることによって、私たちは、神を信頼していることを言い表すことになります。飢えを覚える時、生活が困窮している時はもちろんです。しかし、そうでなくても、この祈りを祈ることによって、私たちは神に感謝を捧げ、神に栄光を帰することになるのです。
 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。主イエスは、悪魔の誘惑に対して、旧約聖書の「申命記」八・三の言葉をもって、応えられました。「必要な糧」は「神の言葉」でもあります。パンと共に命の糧として「神の言葉」を求めることです。「霊の糧」として「聖餐」における糧を指すことも充分考えられます。聖餐にあずかるための、もっともよい備えをすることができる祈りでもある、と言ってもよいでしょう。
 見落とせないのは、自分だけでなく「わたしたちに」です。信仰者のみならず、このような信仰がすべての人に与えられることを祈り求めているのです。「主の祈り」は、執成しの祈りでもあるのです。

神の御心が行われますように

2014年10月16日 | 説教
「神の御心が行われますように」
                望月 修

 御心が行われますように、天におけるように地の上にも。(マタイ六・一〇b)


 主イエスが教えてくださった祈りは、「御国が来ますように」に続いて、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」であります。
 「御国」は、「神の国」であり、神の支配であります。目には見えませんが、御子である主イエスによって既に打ち立てられています。どのようなところにも及んでいます。私たちはその事実を信仰によって受け止めることができます。そのような神の支配のもとで行われるのは何でしょう。神の御心です。そこで、私たちに、「御心が行われますように」と祈るように教えているのです。
 神の国が来て、信仰によって、その支配が受け止められるのであれば、そこに神の御心が行われるようになるのは順序としても当然ではないでしょうか。「主の祈り」は、いろいろなことがバラバラに祈られているのではありません。神の支配が秩序だった仕方でこの地上に及んで行くことを示しています。
 地上のことや自分たち人間のことばかりに目をやり思いを致しても、世界もその歴史も正しく見通せません。世界と私たちをお造りになられ、今も、御子にあって、保ち導いておられる神を見失っているのであれば、世界の問題は本当には解決しません。私たちが良いと思っていることや願っていることと「御心」が必ずしも同じでないことに気づかされます。
 「御心」は神御自身によって行われます。「天におけるように地の上にも」と祈るのは、そのためです。神のもとでは「御心」は既に成就しています。その「御心」をこの地上にも成し遂げてくださいと神に祈り求めるのです。
 「御心」は私たちに対する恵みに満ちています。「御心」が地上に実現したら、悪い者や悪い力がたちまち滅ぼされてしまうというのではありません。むしろ、主イエスにおいて、神に背く者が神に向き直るようにさせられ、悪い力も失われて行くことです。つまり、「御心」は、この私たちと世界とを「キリスト」によって救うという仕方で行われるのです。
 「御心」は、キリストの救い、キリストの十字架の死と復活のによって与えられる恵みなのです。
 「御心」が、このようなものであることを明らかにしているのは、主イエスのゲツセマネの祈り(マタイ二六・三六以下参照)でありましょう。神は、どこまでも罪人である私たち人間の救いを考えておられます。そのために御自分の御子イエス・キリストの十字架が必要でした。罪人である私たち人間が滅びることなく救われるためには、御自分の御子を十字架におつけになる他なかったのです。
 神の御心は御子を十字架におつけになることでした。御子もまた激しい戦いの末に、このことを「御心」として受け入れられ、それに従われて、十字架におつきになられたのであります。つまり、神の御心は、御子の十字架の死によって、私たちを救うことにあるのです。
 私たちは、これとは別のところに、神の御心を見ようとしていないでしょうか。神の御心の中心に御子の十字架の犠牲があることを見損なっていないでしょうか。あらぬ方向に神の御心を見出そうとして、「御心」が分からないと言って嘆いていることが多いのではないでしょうか。
 私たちが自分で考える救いでなく、神から御覧になった人間の救いこそ、本当の救いであります。私たちの罪を御子によって赦し、私たちが新しい命に生きることができるように、罪から解放してくださるのです。
 この恵みを見据えながら、主イエスが教えてくださっているように祈ることが私たちに求められているのであります。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と。

神の支配を信じさせてください

2014年09月01日 | 説教
「神の支配を信じさせてください」
          望月 修

御国が来ますように。(マタイ六・一〇a)


 「御名が崇められますように」と始められた「主の祈り」は、第二の祈りとして、「御国が来ますように」と祈るように教えています。この第二の祈りにも、<あなたの>という字が元の文書にあります。あなたの御国、つまり「神の国」のことです。「来ますように」と祈るのですが、これも命令になっています。神に命じているかのようで奇妙にも思われるかもしれませんが、あからさまに言えば、あなたの御国を<来たらせよ>です。完全に、実際に、来い、ということです。強烈な願いが込められていることが判ります。例えば、殉教者にとって、自分が殺される前に、来て欲しい、ということであります。
 私たちは、このような切実さをもって、この祈りを祈っているでしょうか。神の国の到来を、どれだけ真剣に慕い求めているかです。そうでなければ、「主の祈り」を唱えていたとしても、既にその多くの力を失っていることになるでしょう。
 「マタイによる福音書」では、御国は、通常「天の国」あるいは「天国」と呼ばれています。天にいます神が、この地上で支配されることです。それは、ここからここまでが神の国であるというような領土や領域でなく、たとえどこであろうと、神は支配なさっておられるのです。その支配を信仰によって確かに受け止められますようにとの祈りです。
 神の支配は、目には見えません。信仰において受け止めることのできる支配であります。恵みのことだ、と言ってもよいでしょう。御子によって注がれる恵みに守られている事実をすべての者が信仰をもって受け入れることができますように、という祈りであります。
 この地上を天国のようにすることを神の国を来たらせることだ、と考え違いをしがちです。キリスト教の願いは、すべての人が、平和で、楽しく暮らせるような世界を来たらせることであり、したがって、祈りを捧げるような内向きなことでなく、社会的な取り組みにこそ教会の使命を見出すべきだとするのです。しかし、神の国は、人間が思い描く理想の国とは違います。そうであれば、神でなく、やはり人間の国でしかありません。
 旧約聖書をよくお読みになれば、そこには、神が支配するか、それとも人間が支配するかの戦いになっていることに気づかされます。イスラエルの民は、神をさしおいて、自分たちだけで国を支配しようとしてみたり、王も支配者になろうとしてました。しばしば出て来る「彼らは神に背いた」という指摘は、彼らイスラエルの民が、神に代わって、自分たちの国を建てようとしていたことが語られています。そのような在り方には、まことの平和がありませんでした。
 神の国が来れば、神に背いている人間は、滅ぼされるということを見落としていないでしょうか。私たちは、神に背く罪人です。神が支配されるところでは、罪は絶たれます。その意味では、神の国が来ることは、罪人である自分がなくなることです。そのように滅ぼされてもおかしくない私たちを、神は、御自分の御子をキリストとして、この世界にお遣わしくださり、私たちの罪を贖ってくださるのです。
 神の御子がこの世にお出でになられて、いちばん最初に宣言されたことを思い起こすことができます(マルコ一・一五)。私たちにとって、神の国が来ることは、「悔い改めて福音を信じる」ことです。人間やこの世ばかりを見ていた私たちが、神を仰ぐのです。神がお遣わしくださったキリストを信じて、救われることであります。それは、私たち人間が奴隷のように神に支配されるのでなく、神の御子によって罪を赦され救われた者として、感謝と喜びをもって、神に仕えるようになることであります。

主が教えられた祈り

2014年09月01日 | 説教
「主が教えられた祈り」
           望月 修

 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。(マタイ六・九)


 「だから、こう祈りなさい」と言われて、主イエスは弟子たちに祈ることを教えられました。「主の祈り」と呼ばれる祈りです。この祈りを教えるために「山上の説教」がなされたとも言われています。意外に思われるかもしれませんが、この説教の真ん中に位置づけられています。
 「山上の説教」は、美しい言葉としてだけでなく、すべての人がこのように実際に生きることができたならば、どんなに素晴らしいかと思います。それと同時に高い理想が語られていることに感動するものの、誰が実行できるだろうかと思うのも事実ではないでしょうか。祈ることなくして、この説教を正しく聞くことができないことに気づかされます。
 主イエスは、私たちによって祈られる相手であるとともに、私たちの祈りを父なる神に執り成してくださる救い主です。父なる神がお求めになる祈りを誰よりも知っておられ、弟子である私たちに教えることがおできになるのです。
 言わば、祈りのお手本を示されたのであります。この祈りによって、主イエスを救い主とする私たちは、正しい祈りを身につけることになります。
 冒頭に掲げた部分には、呼びかけの言葉と第一の祈願が示されています。「天におられる」は、私たちとこの世界とをお造りになられ、今も、これからも、支配しておられる神であることです。そのような神を「父」と呼ぶことができるのは主イエスの恵みによることです。
 「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」(ローマ八・一四ー一六)。
 私たちは、主イエスに救われ、神を父と呼ぶことのできる聖霊を与えられるのです。「アッバ」とは、小さい子供が親愛の情を込めて、父親を呼ぶ際の言葉です。無邪気なまでの信頼があります。大事なことは、神御自身が、御子によって、私たちの罪を贖い救うことで、御自分を父と呼ぶように求めておられることです。
 改めて気づかされますことは、祈りは、神を父とし、私たちが子として祈ることです。言い換えれば、主イエスが明らかにされた「神の国」に入れられたひとりとして祈ることです。そのために、与えられた立場が、神の「子」である、ということです。
 「御名」は、<あなたの名>であって、神であるあなたが崇められますように、ということです。それは、一言で言えば、あなたが神として、この私たちによって、正しく礼拝されますように、ということであります。
 「崇める」という字は、<聖なるものとされますように>という字が使われています。それは、別扱いにする、という意味です。この神を、他のものから区別して、崇めることです。主イエスによって、私たちを救ってくださる、この神だけを別扱いにし、神として崇めるのです。そのようにして、私たちの救いは、どこまでも、この神から来るのだとする信仰が求められています。
 神は創造者であり、私たちは造られた者でしかありません。神は私たちと全く違う存在であり、私たちを遙かに越えておられるのに、罪に堕ちた私たちを救うために、御子を救い主として、この世に送ってくださったのであります。
 私たちは、神の御子による救いを信じて救われ、父なる神を正しく崇めることができるようにされた時、「山上の説教」に限らず、神の言葉に聞き従って行く立場が、与えられるのであります。