goo blog サービス終了のお知らせ 

日本基督教団 仙台広瀬河畔教会ホームページ ブログ

日本基督教団 仙台広瀬河畔教会

ホームページ リンク
「最近の説教」(続き)
「教会生活Q&A」(続き)

祈るときは

2014年09月01日 | 説教
「祈るときは」

 あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。(マタイ六・六)


 冒頭に掲げた聖書の言葉は、祈りをめぐってであります。祈りは、当時ばかりでなく、今でも、そして、これからも、信仰生活になくてならぬものであります。
 この部分の中心に、「主の祈り」が教えられていることも見落とせません。祈りに代表される信仰生活が、神を相手にする生活であることは、誰もが、承知していることです。それにもかかわらず、主イエスが、このように仰せになられたのには、実際の信仰生活がそのようになっていなかったからでありましょう。この言葉の直前で、「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立っ
て祈りたがる」と指摘されているほどです。
 神を相手にする生活が、いつのまにか、「人に見てもらおうと」しているのです。そのようなところに、信仰生活における誘惑があります。それは、私たちが、何とかして、自分を現そうとするところから生じます。神を相手にする生活でありながら、それに徹することができず、自分を誇りたがるのです。しかし、そうであれば、「隠れたことを見ておられる」神を信じる生活ができない、と主イエスは、仰せになるのです。
 このことが、「会堂」においてさえ、問題になっていたようです。会堂であれば、神を礼拝する場所であります。そこでは、神のことが最も語られ、考えられるはずです。しかし、会堂は、神を礼拝する所ですが、そのために人が集まる所でもあります。互いに自分を現そうとし誇り合おうとする隠れた誘惑があるのです。
 当時は、祈りの時間が定まっていました。朝と午後3時と夕方です。その時間が来たら、どこでも祈りをすることになっていました。会堂だけでなく、「大通りの角」であってもです。そこで、わざわざ、その時間になったら、人が大勢いる大通りに行くようにしている人がいたようです。
 会堂でもそうですが、大通りでも、どこでも、私たちには、人の前に、自分を現す機会があります。神にのみに知られるようにするはずの信仰生活なのに、人が集まって来ると、私たちは、いつのまにか、自分を現そうとしているのです。
 「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と主イエスは命じておられます。この「部屋」というのは、家の真ん中にあって、窓もない部屋であると言われています。その部屋の「戸を閉めて」です。これは、鍵をかけるという字です。誰も入れないようにするのです。それは、ひとたび、人との関係を断って、全く神との時間を過ごすためであります。
 相当な決意や決断が必要であるとも言えます。しかし、そういう生活をひとたび確保した者からすれば、それがどんなにかけがえのない時であるかが判ります。また、そのように神に祈りを捧げる者には、その時が、誰といるよりも、最も親しみに満ちた時であるに違いありません。
 したがって、それは、密室の孤独な祈りというよりも、誰よりも自分のことを知っていてくださり、つねにかわらず憐れみを注いでくださる神との慕わしい交わりの時なのであります。そういう時を、繰り返し持つことのできる幸いを噛みしめているのです。
 日常の生活を中断して祈るということもありますが、それよりも、神に立ち帰る時々を持つ、そういった繰り返しの中に、日常の生活もまたある、ということでありましょう。朽ちゆくこの世の生活にあって、決して朽ちることのない本当の宝の在りかを知っているのです。
 私たちは是非ともこのような祈りの生活を確保したいと思います。

施しをするときには

2014年03月19日 | 説教
「施しをするときには」
          望月 修

 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。(マタイ六・三ー四)


 この部分のはじめに、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」(一)との言葉があります。「善行」は、以前の口語訳では「自分の義さ」と訳されていました。広い意味を持ち、信仰生活全体を表す言葉であったようです。信仰生活は、「見てもらおうとして、人の前で」するものではない。神が御覧になっておられることを、よくよく承知していなさい、ということです。
 そのことを踏まえて、「施し」を考える必要があります。もとの字には<憐れみ>という意味があります。信仰生活には、人に憐れみをかけることにまで及び、それが日常的に位置づけられていたのです(申命記一五・七ー一一参照)。
そのような施しは、もともと、神に捧げる犠牲や供え物に関係がありました。神に罪を赦していただくために犠牲を捧げたり、神への感謝として供え物を捧げていたのです。それは、神に憐れみを請うためであり、受けた憐れみに対する感謝でありました。
 教会では、主イエスが神への完全な犠牲、供え物として捧げられたとの信仰のもとに、それらに替わるものとして、「施し」が位置づけられるようになりました。
 どちらにしても、施しは、人に対してするのですけれども、そこに自分と神との関係が反映しているのです。自分が神の憐れみを必要とすること、神に憐れんでいただけなければ生きていけないことを、施しをすることによって、証をしたのであります。
 私たちにおいても、ただ神の憐れみによって生かされている者であること、また神の憐れみによって生きる者であることを、人に施しをすることによって、明らかにするのであります。
 私たちの生活は、どんな場合でも、神の御前に隠しようがありません。神はすべてを知っておられます。その神に憐れんでいただき、神から恵みをいただくことを願うのです。それに対して、人の目を気にし、期待するところには、偽善が生じます。それだけでなく、神から注がれている恵みを台無しにします。
 嘘や偽りがなく偽善もない生活は、神の御前ではじめて本当にできます。私たちを憐れんでくださる神だからであります。その神の御前に自分の生活をさらけだし、神にだけ知ってもらおうとするのことができるのは、私たちの罪を赦してくださる神だからであります。私たちの犯す罪を、神が見過ごすのではありません。そうではなくて、神が、私たちの罪を御子によって解決してくださるからであります。私たちは、この神の御前に取り繕う必要がないのです。
 そこで、主イエスは、「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」と命じられるのです。自分のした施しを誰にも知らせるな、ということです。誇り高い私たちには、それがなかなかできません。抑えていたものが何かの拍子に出てしまうのです。
 祈ることの大切さを思わされます。神との交わりを保っていることです。信仰生活を、神と自分だけの確かな生活にするためです。そういう祈りの生活において、私たちは「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」ことを知るのです。「報い」と言っても、いわゆる報酬ではありません。キリストと共に与えられる賜物であり、恵みであります。それは、祈ったとおりに何もかも叶えてくださるというようなことではなく、むしろ、隠れたことを見ておられる神であることです。
 いつのまにか祈りの話しになったかもしれません。しかし、様々な日常生活の中で、神と自分とだけの時間を確保し、神とだけの生活に確信を持つことで、人から報いを得ようとしなくなるのです。

完全な者となりなさい

2014年03月19日 | 説教
「完全な者となりなさい」
          望月 修

 あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。(マタイ五・四八)


 ここに至って、このように告げられることに驚きを覚えない人はいないと思います。誰もがこの命令に従うことにためらうのです。
 この言葉は、五章以来の「山上の説教」を一区切りするものとして、今まで語られて来たことをまとめている言葉と思われます。あるいは、四三節以下の敵を愛しなさいに関連して言われている言葉とみなすこともできます。いずれにしても、「完全さ」が私たちに求められていることで、誰もがこの言葉に戸惑うのであります。
 神が完全であることは承知しています。しかし、聖書には、神は憐れみ深いとか、聖であるという言い方の方が多くあります(ルカ六・三六、Ⅰペトロ一・一六参照)。ですから、この言葉を、道徳的な意味や倫理的な命令として読むことは正しくありません。
 それだけでなく、完全な者になることは、私たちにできることでしょうか。神のように完全になることであれば、私たちは絶望するしかありません。私たちが神になることだからです。人間でありながら、神のように完全になることなどあり得ません。
 主イエスは、何を仰ろうとしておられるのでしょう。それは、神は私たち人間を救うということにおいて完全である、ということです。そのために、まず、神が私たちのもとに御子イエス・キリストをお遣わしになられたことです。大事なことは、この御子によって、私たちが罪から完全に救われることであります。つまり、神は人間の罪を、御子によって贖い、赦すことで、御自分がまことの神であることを完全に現される神である、ということであります。
 したがって、この完全さは、神の私たちに対する愛の完全さである、と言ってもよいでしょう。神は私たちを遠く離れてひとり高みにいますような御方ではありません。私たちに深くお関わりになられます。私たちがどうであっても、愛してやまず、御子を犠牲にしてまで、私たちを愛し抜かれ、私たちを罪から救ってくださるのです。それは、全く清い神であるにもかかわらず、罪に汚れた私たちを何としても救ってくださる憐れみの神であって、その救いの御業の徹底さにこそ、神の愛は明らかにされたのであり、神の完全さが示されたのである、ということです。
 神のこのような完全さを、私たちは御子の十字架に見いだすことができます。神の完全さが神はどんなに超越しておられるか、どんなに光輝く存在であり、決して捕らえることができない御方であるかということだけであるなら、罪ある私たちはどうして神の完全さを悟ることができるでしょうか。神の完全さは、御子を犠牲にされてまで私たちを救うということに現されたのであります。
 神の完全さがそのようなものであれば、「あなたがたも完全な者となりなさい」とは、どういうことになるのでしょう。それは、神の救いを何の割引も無しにそのまま受け取りなさい、ということであります。それが、神の完全さにもっともふさわしい、私たちのあり方です。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ三・一六)のです。私たちをそれほどに愛しておられます。御子において、御自分を全く私たちに与えておらます。そのように神は私たちの方をいつも向いておられます。私たちの方からもこの神に向かうことです。つまり、信仰です。信仰は、神が御子において私たちを救ってくださるその愛に向かい、その恵みを受け取ることだからであります。
 「天の父」とありますように、父と子という人格的な関係の中でのあり方です。憐れみに富んでおられる父なる神にふさわしい子として、信仰によって、その憐れみを慕い求め受けることで、私たちは完全に救われるのであります。

自分を迫害する者のために祈る

2014年03月19日 | 説教
「自分を迫害する者のために祈る」
          望月 修

 あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ五・四三ー四四)


 単なる教えでもなければ、理想を語っているのでもありません。神がお遣わしになられた救い主イエス・キリストがお命じになっておられるのです。
 この直前では、復讐せずに神にお任せしたらよいと告げておられました。神が、私たちに代わって、始末をつけてくださるからでした。
 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」。主イエスは、ここでも、旧約聖書わけても律法を引用なさっておられるかのように思われます。しかし、実際には「敵を憎め」とまでは書いてありません。イスラエルの民に属さない者たちは、「隣人」(同胞)ではないとする理解のもとで、神に背く者、神に敵対する者とみなされたのでありましょう。そのことが、人々のあいだで、「敵を憎め」という言い回しになったようです。つまり、その人たちは同胞ではありませんから、復讐できる相手とみなされるようになったと考えられます。
 それに対して、主イエスは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と命じられたのであります。
 この言葉に従うためには、信仰が必要です。神を信じることができなければ、実は、私たちは人を愛する理由を見失います。自分を正しく愛せなくなるだけでなく、それと同じように、他の人をも正しく愛することができなくなるのです。欲の虜になっている自分や、人からよく見られたい、人から褒められることを期待している自分を見出し、そういう自分が厭になっている人もいるでしょう。そのような人は、自分を愛することができません。自分を正しく愛せなくて、どうして他の人をも正しく愛することができるのでしょう。
 しかし、神は、そのような者を救ってくださったのであります。御子イエス・キリストを犠牲にされてまでも、御自分に背く者を赦し、罪を贖い、愛に生きる者へとしてくださったのです。
 この信仰に立った時、はじめて、私たちは、この自分を、そして、それと同じように、他の人をも、正しく愛することができるようにさせていただけるのです。
 神の御前では、すべての者が神に背く罪人であります。そこでは敵も味方もありません。そのような者が、それにもかかわらず、神に罪を赦され、神に愛されているのです。神は、何の分け隔てもなく、主イエスによって、すべての者を救ってくださいます。主イエスもまた、御自分の命を犠牲にされてまで、すべての者が救われるために、仕えてくださっています。
 この神への信仰によって、私たちは、敵味方を越えて、お互いに赦し合い、お互いの救いのために仕え合うように導かれます。
 そのもっとも具体的な姿勢こそ、相手のために「祈る」ことです。神が、主イエスにおいて、すべてを支配しておられることを知っているのです。祈りは、気遣いや思いやり、配慮をさえ凌ぐものです。相手のことを神の御前に持ち出すことだからであります。
 私たちは、相手が誰であれ、その者が、神の支配とキリストにおける愛を受け入れることができるように祈ります。その者がキリストに救われるために祈るのです。
 様々な宗教において祈りが捧げられています。様々な人々が祈りを捧げています。しかし、そのような数多くの祈りの中で、自分を迫害する者のために祈ることが、どれだけ捧げられているでしょうか。このような祈りは、実は、人類の祈りの歴史において、画期的なことなのであります。
 「迫害する者」は、教会の敵でありましょう。しかし、教会は、その者たちのために祈ります。もし、そういう祈りが身近な祈りでなくなっているとしたら、教会の伝道が盛んになされていないからであるかもしれません。

神にお任せしたらよいことがある

2014年01月04日 | 説教
「神にお任せしたらよいことがある」
          望月 修

 あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。(マタイ五・三八ー三九)



 「山上の説教」には旧約聖書の律法に基づく伝承が引用されています。『目には目を、歯には歯を』もその一つです。人を傷つけた場合や犯した罪を償う基準を示す規定です(出二一・二四、レビ二四・二〇)。周辺の国々のみならず古代の法律の中にも既にありました。残酷な規定のように思われますが、不相応な償いを求めることや行き過ぎた復讐を禁じているのです。ところが、いつのまにか「やられたら、やり返す」というように受け取られていました。主イエスは、それに対して冒頭のように仰せになられたのです。
 「しかし、わたしは言っておく」はたいへん力強い言い方です。新しい権威をもって告げておられます。神から遣わされた神の御子として、神を代理して語るのだ、ということです。
 「悪人に手向かうな」と命じておられます。そして、「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」とさえ言われたのであります。復讐するのでなく、相手からされたことを甘受するのでもなく、もっと積極的な指示がなされていることに気づかされます。
 これらのことは、悪や不正を許すことではありません。自分に実際に害を加えた人に、どのように対処するかです。その場合、信仰者にとって大事なのは、神は、主イエスにおいて、いつでも、どこでも、生きて支配していらっしゃることです。主イエスこそ、悪が蔓延り死が大手を振るっているかに見える世界に勝利しておられ、私たちに真の命を与えることがおできになる救い主であるとの信仰です。最後は、神がお審きになられることを信じている者において、はじめて受け止められる主イエスの言葉であります。
 新約聖書の「ペトロの手紙一」に次のような言葉があります。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです」。このように告げて、以下に十字架にかかって私たちの罪を担われたキリストによって救われている私たちであること、それ故にキリストに倣うことを勧めています(二・一九ー二五)。
 私たちの救い主が、このような救い主であるからこそ、不当な苦しみを耐え忍ぶことができます。悪に対して悪をもって報いるのでなく、むしろ善を行いつつ忍耐することができるのです。
 「信仰者は、その生涯において多くの侮辱を受けるのであるが、侮辱される苦しみによって、忍耐することを教えられるのである。また、忍耐することに慣れるために、侮辱を受けることが、信仰の訓練として役に立つことをキリストは望んでおられるのである」(J・カルヴァン)。
 自分に加えられた害に対して忍耐することは、復讐をしないことになります。泣き寝入りすることでも、悪や不正を見て見ぬふりをすることでもありません。このような忍耐は、信仰生活に欠くことのできないものです。そこには犠牲も伴うでありましょう。しかし、人を愛することに通じるものがあります。
 気に入らない人や愛したくない人など、いろいろな人がいる中で、それでも、人を愛するとしたら、自分が嫌なこともしなければなりません。進んで辛い道を選び取ることも考えなければなりません。しかし、そのように犠牲を厭わず、忍耐できるのは、神の支配を信じているからであります。
 主イエスを救い主と信じる私たちは、主イエスが再び来られることを信じています。まもなくクリスマスを迎えます。