「祈るときは」
あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。(マタイ六・六)
冒頭に掲げた聖書の言葉は、祈りをめぐってであります。祈りは、当時ばかりでなく、今でも、そして、これからも、信仰生活になくてならぬものであります。
この部分の中心に、「主の祈り」が教えられていることも見落とせません。祈りに代表される信仰生活が、神を相手にする生活であることは、誰もが、承知していることです。それにもかかわらず、主イエスが、このように仰せになられたのには、実際の信仰生活がそのようになっていなかったからでありましょう。この言葉の直前で、「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立っ
て祈りたがる」と指摘されているほどです。
神を相手にする生活が、いつのまにか、「人に見てもらおうと」しているのです。そのようなところに、信仰生活における誘惑があります。それは、私たちが、何とかして、自分を現そうとするところから生じます。神を相手にする生活でありながら、それに徹することができず、自分を誇りたがるのです。しかし、そうであれば、「隠れたことを見ておられる」神を信じる生活ができない、と主イエスは、仰せになるのです。
このことが、「会堂」においてさえ、問題になっていたようです。会堂であれば、神を礼拝する場所であります。そこでは、神のことが最も語られ、考えられるはずです。しかし、会堂は、神を礼拝する所ですが、そのために人が集まる所でもあります。互いに自分を現そうとし誇り合おうとする隠れた誘惑があるのです。
当時は、祈りの時間が定まっていました。朝と午後3時と夕方です。その時間が来たら、どこでも祈りをすることになっていました。会堂だけでなく、「大通りの角」であってもです。そこで、わざわざ、その時間になったら、人が大勢いる大通りに行くようにしている人がいたようです。
会堂でもそうですが、大通りでも、どこでも、私たちには、人の前に、自分を現す機会があります。神にのみに知られるようにするはずの信仰生活なのに、人が集まって来ると、私たちは、いつのまにか、自分を現そうとしているのです。
「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と主イエスは命じておられます。この「部屋」というのは、家の真ん中にあって、窓もない部屋であると言われています。その部屋の「戸を閉めて」です。これは、鍵をかけるという字です。誰も入れないようにするのです。それは、ひとたび、人との関係を断って、全く神との時間を過ごすためであります。
相当な決意や決断が必要であるとも言えます。しかし、そういう生活をひとたび確保した者からすれば、それがどんなにかけがえのない時であるかが判ります。また、そのように神に祈りを捧げる者には、その時が、誰といるよりも、最も親しみに満ちた時であるに違いありません。
したがって、それは、密室の孤独な祈りというよりも、誰よりも自分のことを知っていてくださり、つねにかわらず憐れみを注いでくださる神との慕わしい交わりの時なのであります。そういう時を、繰り返し持つことのできる幸いを噛みしめているのです。
日常の生活を中断して祈るということもありますが、それよりも、神に立ち帰る時々を持つ、そういった繰り返しの中に、日常の生活もまたある、ということでありましょう。朽ちゆくこの世の生活にあって、決して朽ちることのない本当の宝の在りかを知っているのです。
私たちは是非ともこのような祈りの生活を確保したいと思います。
あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。(マタイ六・六)
冒頭に掲げた聖書の言葉は、祈りをめぐってであります。祈りは、当時ばかりでなく、今でも、そして、これからも、信仰生活になくてならぬものであります。
この部分の中心に、「主の祈り」が教えられていることも見落とせません。祈りに代表される信仰生活が、神を相手にする生活であることは、誰もが、承知していることです。それにもかかわらず、主イエスが、このように仰せになられたのには、実際の信仰生活がそのようになっていなかったからでありましょう。この言葉の直前で、「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立っ
て祈りたがる」と指摘されているほどです。
神を相手にする生活が、いつのまにか、「人に見てもらおうと」しているのです。そのようなところに、信仰生活における誘惑があります。それは、私たちが、何とかして、自分を現そうとするところから生じます。神を相手にする生活でありながら、それに徹することができず、自分を誇りたがるのです。しかし、そうであれば、「隠れたことを見ておられる」神を信じる生活ができない、と主イエスは、仰せになるのです。
このことが、「会堂」においてさえ、問題になっていたようです。会堂であれば、神を礼拝する場所であります。そこでは、神のことが最も語られ、考えられるはずです。しかし、会堂は、神を礼拝する所ですが、そのために人が集まる所でもあります。互いに自分を現そうとし誇り合おうとする隠れた誘惑があるのです。
当時は、祈りの時間が定まっていました。朝と午後3時と夕方です。その時間が来たら、どこでも祈りをすることになっていました。会堂だけでなく、「大通りの角」であってもです。そこで、わざわざ、その時間になったら、人が大勢いる大通りに行くようにしている人がいたようです。
会堂でもそうですが、大通りでも、どこでも、私たちには、人の前に、自分を現す機会があります。神にのみに知られるようにするはずの信仰生活なのに、人が集まって来ると、私たちは、いつのまにか、自分を現そうとしているのです。
「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と主イエスは命じておられます。この「部屋」というのは、家の真ん中にあって、窓もない部屋であると言われています。その部屋の「戸を閉めて」です。これは、鍵をかけるという字です。誰も入れないようにするのです。それは、ひとたび、人との関係を断って、全く神との時間を過ごすためであります。
相当な決意や決断が必要であるとも言えます。しかし、そういう生活をひとたび確保した者からすれば、それがどんなにかけがえのない時であるかが判ります。また、そのように神に祈りを捧げる者には、その時が、誰といるよりも、最も親しみに満ちた時であるに違いありません。
したがって、それは、密室の孤独な祈りというよりも、誰よりも自分のことを知っていてくださり、つねにかわらず憐れみを注いでくださる神との慕わしい交わりの時なのであります。そういう時を、繰り返し持つことのできる幸いを噛みしめているのです。
日常の生活を中断して祈るということもありますが、それよりも、神に立ち帰る時々を持つ、そういった繰り返しの中に、日常の生活もまたある、ということでありましょう。朽ちゆくこの世の生活にあって、決して朽ちることのない本当の宝の在りかを知っているのです。
私たちは是非ともこのような祈りの生活を確保したいと思います。