「わたしをおいてほかに神があってはならない」
望月 修
だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。(マタイ六・二四)
信仰生活は、富を持つことがいけない、というのではありません。富に惑わされないようにすることです。更に言えば、富をどのように用いるかです。
富と言えるほどのものがないから、自分には関係がない、と思う人がいるかもしれません。しかし、自分が頼みとするものが、神以外あれば、それが、その人の富になるに違いありません。
私たちには、誰にでも、必ず「主人」と言えるものがあります。それが、神であるのか、それとも、神以外のものになっていないか、ということです。財産がなくても、あるいは、あっても、自分の主人は自分であると主張する人がいます。自立していることを言いたいのでしょうが、自分の欲に振り回されているというのが実情ではないでしょうか。独立した生き方をしているようでいて、陰では他人を必要以上に気にしていたり、いつのまにか、他の人の言動に影響されている、ということだってあります。この自分は、自分の主人にさえなっていない、というのが、本当ではないでしょうか。それだけでなく、私たちは、どこかで、自分や自分たちの真の主人になってくれる人を求めているのです。
私たち人間は、神と関わって生きて行く存在として、造られています。神を主人にして生きるとき、本当に人間らしく、また自分らしく、真の自由を生きることができるようにされのであります。
ところが、そのように神に造られている私たちが、神との関わりを断ってしまったのです。それが「罪」なのですが、神から自立して、神にも束縛されない自由な人間になれたかというと、かえって、真の主人を失って、どう生きてよいか分からなくなっているのです。神を捨てた人間は、神以外のものを神のように頼りにする傾向を絶えず持つようになりました。その最たるものが、「富」であり、富を実現するような「もの」なのです。
主イエスは、このような事態に陥っている私たちに向かって、語っておられるのです。もしかしたら、あなたがたは、あたかも、二人の主人に仕えるかのように、「神」と「富」との両方に仕えようとしていないか。そのように、どっちつかずの中途半端な仕え方をしていないか。しかし、言っておく。あなたがたは、二人の主人に、同時に仕えることなどできないのだ。あなたがたは、そのように神に造られていないのだ、と。
注目すべきことは、主イエスが、「できない」と言われていることです。神と富とに仕えてはならない、それはいけないことだ、と仰せになっていないのです。そうではなくて、そういうことは、あなたがたに「できない」、と指摘されているのです。
私たちは、何らかの富なしには、生きることはできないかもしれません。しかし、だからと言って、富を主人にすることができるわけではありません。「主人」にするとは、それに仕え、その支配のもとに、その恵みを全く頼りにし、そのお陰で生きることです。
最初にも申しましたように、私たち人間は、主人を持たなければ、本当は生きて行けないのです。そういう私たちは、結局のところ、神を主人にするしか生きることができません。そればかりか、神を真の主人にするとき、私たちは真の自由と平安とを得ることができます。感謝することもできます。与えられた富、託されたものを用いて、他者を助けることさえ、できるようになるのであります。
伝道者パウロも、次のように語っています。「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」(ローマ六・一六)。
望月 修
だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。(マタイ六・二四)
信仰生活は、富を持つことがいけない、というのではありません。富に惑わされないようにすることです。更に言えば、富をどのように用いるかです。
富と言えるほどのものがないから、自分には関係がない、と思う人がいるかもしれません。しかし、自分が頼みとするものが、神以外あれば、それが、その人の富になるに違いありません。
私たちには、誰にでも、必ず「主人」と言えるものがあります。それが、神であるのか、それとも、神以外のものになっていないか、ということです。財産がなくても、あるいは、あっても、自分の主人は自分であると主張する人がいます。自立していることを言いたいのでしょうが、自分の欲に振り回されているというのが実情ではないでしょうか。独立した生き方をしているようでいて、陰では他人を必要以上に気にしていたり、いつのまにか、他の人の言動に影響されている、ということだってあります。この自分は、自分の主人にさえなっていない、というのが、本当ではないでしょうか。それだけでなく、私たちは、どこかで、自分や自分たちの真の主人になってくれる人を求めているのです。
私たち人間は、神と関わって生きて行く存在として、造られています。神を主人にして生きるとき、本当に人間らしく、また自分らしく、真の自由を生きることができるようにされのであります。
ところが、そのように神に造られている私たちが、神との関わりを断ってしまったのです。それが「罪」なのですが、神から自立して、神にも束縛されない自由な人間になれたかというと、かえって、真の主人を失って、どう生きてよいか分からなくなっているのです。神を捨てた人間は、神以外のものを神のように頼りにする傾向を絶えず持つようになりました。その最たるものが、「富」であり、富を実現するような「もの」なのです。
主イエスは、このような事態に陥っている私たちに向かって、語っておられるのです。もしかしたら、あなたがたは、あたかも、二人の主人に仕えるかのように、「神」と「富」との両方に仕えようとしていないか。そのように、どっちつかずの中途半端な仕え方をしていないか。しかし、言っておく。あなたがたは、二人の主人に、同時に仕えることなどできないのだ。あなたがたは、そのように神に造られていないのだ、と。
注目すべきことは、主イエスが、「できない」と言われていることです。神と富とに仕えてはならない、それはいけないことだ、と仰せになっていないのです。そうではなくて、そういうことは、あなたがたに「できない」、と指摘されているのです。
私たちは、何らかの富なしには、生きることはできないかもしれません。しかし、だからと言って、富を主人にすることができるわけではありません。「主人」にするとは、それに仕え、その支配のもとに、その恵みを全く頼りにし、そのお陰で生きることです。
最初にも申しましたように、私たち人間は、主人を持たなければ、本当は生きて行けないのです。そういう私たちは、結局のところ、神を主人にするしか生きることができません。そればかりか、神を真の主人にするとき、私たちは真の自由と平安とを得ることができます。感謝することもできます。与えられた富、託されたものを用いて、他者を助けることさえ、できるようになるのであります。
伝道者パウロも、次のように語っています。「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」(ローマ六・一六)。