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わたしをおいてほかに神があってはならない

2016年12月14日 | 説教
「わたしをおいてほかに神があってはならない」
           望月 修

 だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。(マタイ六・二四)


 信仰生活は、富を持つことがいけない、というのではありません。富に惑わされないようにすることです。更に言えば、富をどのように用いるかです。
 富と言えるほどのものがないから、自分には関係がない、と思う人がいるかもしれません。しかし、自分が頼みとするものが、神以外あれば、それが、その人の富になるに違いありません。
 私たちには、誰にでも、必ず「主人」と言えるものがあります。それが、神であるのか、それとも、神以外のものになっていないか、ということです。財産がなくても、あるいは、あっても、自分の主人は自分であると主張する人がいます。自立していることを言いたいのでしょうが、自分の欲に振り回されているというのが実情ではないでしょうか。独立した生き方をしているようでいて、陰では他人を必要以上に気にしていたり、いつのまにか、他の人の言動に影響されている、ということだってあります。この自分は、自分の主人にさえなっていない、というのが、本当ではないでしょうか。それだけでなく、私たちは、どこかで、自分や自分たちの真の主人になってくれる人を求めているのです。
 私たち人間は、神と関わって生きて行く存在として、造られています。神を主人にして生きるとき、本当に人間らしく、また自分らしく、真の自由を生きることができるようにされのであります。
 ところが、そのように神に造られている私たちが、神との関わりを断ってしまったのです。それが「罪」なのですが、神から自立して、神にも束縛されない自由な人間になれたかというと、かえって、真の主人を失って、どう生きてよいか分からなくなっているのです。神を捨てた人間は、神以外のものを神のように頼りにする傾向を絶えず持つようになりました。その最たるものが、「富」であり、富を実現するような「もの」なのです。
 主イエスは、このような事態に陥っている私たちに向かって、語っておられるのです。もしかしたら、あなたがたは、あたかも、二人の主人に仕えるかのように、「神」と「富」との両方に仕えようとしていないか。そのように、どっちつかずの中途半端な仕え方をしていないか。しかし、言っておく。あなたがたは、二人の主人に、同時に仕えることなどできないのだ。あなたがたは、そのように神に造られていないのだ、と。
 注目すべきことは、主イエスが、「できない」と言われていることです。神と富とに仕えてはならない、それはいけないことだ、と仰せになっていないのです。そうではなくて、そういうことは、あなたがたに「できない」、と指摘されているのです。
 私たちは、何らかの富なしには、生きることはできないかもしれません。しかし、だからと言って、富を主人にすることができるわけではありません。「主人」にするとは、それに仕え、その支配のもとに、その恵みを全く頼りにし、そのお陰で生きることです。
 最初にも申しましたように、私たち人間は、主人を持たなければ、本当は生きて行けないのです。そういう私たちは、結局のところ、神を主人にするしか生きることができません。そればかりか、神を真の主人にするとき、私たちは真の自由と平安とを得ることができます。感謝することもできます。与えられた富、託されたものを用いて、他者を助けることさえ、できるようになるのであります。
 伝道者パウロも、次のように語っています。「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」(ローマ六・一六)。

澄んでいる目が向くところに

2016年12月14日 | 説教
「澄んでいる目が向くところに」
          望月 修

 体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。(マタイ六・二二ー二三)



 「山上の説教」は、少なからず判りにくいところがあります。冒頭の言葉などはその典型です。何となく判るような気がするのですけれども、この前後を含めて読んでみますと、うまくつながりません。それだけでなく、ここで語られている、目の澄み具合や明るさが、私たちの救いにどういう関係があるのかです。
 聖書を読んでも字句ばかりに追われていますと判らなくなる箇所があります。また、最初に語られた時代の考え方や使われている字のもとの意味まで辿らないと理解しにくい言葉もあります。もちろん、私たちが手にする聖書は、そのまま読んでも判るように、あらゆる努力がなされています。しかし、私たちが手にする聖書は、日本語に訳されていることから、もとの言葉にまで辿る必要がある場合もあるのです。
 この個所で注意する必要があるのは、「目」という字です。ヘブライ人の間では、目は、肉体の一部としてよりも、その人の性格や品性、わけても「神」に対する誠実さや正しさが表れると理解されていました。言い換えれば、神に対してどういう生活をしているのかが目に表れるのであり、澄んでいる目は神に対して惜しみない生活をしている証しであったのです。
 そこで、目が澄んでいれば、その人の生活全体は明るくなります。反対に、神とのそのような生活がなければ、「その暗さはどれほどであろう」ということになるのであります。
 ある人は、「神に対するその人の在り方が、人間であることの一切がかかっている。そこに、光か闇か、完全に示される」と言いました。神にどのように従い、神と共にどのように生きるかを問うているのです。
 ところで、この直前には、「天に富を積む」話しがありました。直後には、「神と富」の関係が書いてあります。それは、続いている話しであります。富についての一続きの話しでありながら、神との関係が問われているのです。つまり、富とは言っていますが、自分が自由にできるものです。それをどのように用いるのか。あくまでも自分のものとしようとするか、それとも、それらは神から与えられ託されているものとして、神の支配と恵みとを思い、神のために用いるかであります。
 つまり、これらの話しは、どれも、私たちの救いに関わる話しなのです。神に対する私たちの在り方に、光か闇かの分かれ目、私たちがまことの命を生きるかどうかがかかっているのであります。
 神に感謝することを考えてみたらよいのです。私たちが、本当に自分のものであると言えるものは、一つもないのではないでしょうか。むしろ、どれも、神から、与えられ、委ねられているものばかりです。また、もし、私たちの感謝が、これこれのものをいただきましたから感謝します、ということだけであれば、そういうものをいただかない時には、また、そういうものを充分にいただけない時には、感謝できないはずではないでしょうか。感謝はいただいた物に対することではありません。それを機会にして、神によって生かされていることを感謝するのです。物を感謝するのではありません。神を感謝するのであります。その時にはじめて、私たちは、神に対して物惜しみしないようになるのです。そして、そのようになれた時、私たちは、人に対しても、物惜しみしなくなるのではないでしょうか。その時、私たちは、どんなに輝いて見えるでしょうか。
 何か偉いことをした時、人間は、輝くのでしょうか。そうではなく、神に対しても、人に対しても、物惜しみすることなく仕えることができた時、その人は、まことに美しく、輝くようになるのであります。明るい人になることができるのであります。

富は、天に積みなさい

2015年12月01日 | 説教
「富は、天に積みなさい」
          望月 修

 あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。(マタイ六・一九ー二〇)



 信仰のことは、決して難しい話しではありません。神を最後まで頼りにするかであります。どんなことがあっても、神のなさること、その恵みを信じ抜くことであります。
 ところが、私たちは誰でも、自分の持っているものを頼りにし、それらに捕らわれてもいます。例えば、自分の安全は、どれだけのものを持っているか計算して、足りなければ確保しようとします。これだけのものを持っていたら、安心して生活できる、と考えるのです。それが、私たちの日常かもしれませんが見方を変えれば、それは、神を頼みとしないで、自分の持っているもので安心を得ようとしているのです。
 私たちが最後には神に寄り頼むか否かに照らして言えば、私たちの持っているものは、多少に関係なく、「富」として、信仰の問題となることが判ります。
 私たちには、更に欲望があります。欲望は、命を長らえさせるためにある、と言ってもよい面があります。その点から言えば、欲望を一概に否定できません。むしろ、自然な欲望は、私たちの生きることと深い関わりがあるでしょう。欲望があるからこそ、自分の命を保つことができる、とも言えます。
 しかし、そういう欲望が、私たちを苦しめているのも事実です。何故なら、欲望には切りがないからです。満たされても、すぐ次の欲望がもたげてきます。私たちは、いつのまにか欲望の渦の中に陥り、振り回されているのです。
 そうだとすると、神に寄り頼んで生きるには、持ち物や富ばかりでなく、欲望からの自由も考えなければなりません。
 「あなたがたは地上に富を積んではならない」と主イエスは仰せになります。これは、勧めというよりも、命令です。つまり、このように強く命令しなければ、私たちはこれを意識して実行しようとしないからです。
 「積む」という字には<積み続ける>という継続を表す意味が込められています。以前から私たちが習慣として続けて来たこと、それを止めるように命じているのであります。何故なら、「そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」からです。地上の生活は、どんなに富を積んでも、安全ではありません。むしろ、それらは壊れたり、失われるものなのです。
 主イエスは、私たちの生活をご覧になられ、その生活がどんなに崩れやすく、脆いものであるかを、御存知なのです。主イエスは、私たちが真の命を生きることができるようにと、このことをお命じになっておられるのです。
 持ち物や欲望は、私たちの命を守り長らえさせるためにあるはずなのに、どんな持ち物も欲望も、この世の力わけても死の力から、私たちの命を守ることはできません。ただ一時だけ、安心だと思わせるものに過ぎません。だから、地上に宝を積むことは頼りになりません。地上の生活を否定しているのでなく、神を忘れたら、何もならない、ということです。
 そのうえで、主イエスは仰せになります。「富は、天に積みなさい」と。「天」とは、どこでしょう。その「天」に積む「富」とは、どのような富のことでしょう。「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ三・二〇)と告げられています。私たち信仰者は、神の国の民とされています。そこでの富は神に対する信仰であります。自分で獲得し所有し、自分によって安全を確保するような生活の仕方をするのでなく、どれもこれも、神から与えられ託されたものとして受け止めて生きて行くことです。そして、それらを感謝して神に喜ばれるように用いるのであります。それが「天に富を積む」ことであります。大事なことは、私たちの「心」がどこにあり誰に(神)に向いているかであります。

信仰生活の実際

2015年12月01日 | 説教
「信仰生活の実際」
          望月 修

 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。(マタイ六・一四ー一五)



 主イエス・キリストは、私たちに、「主の祈り」を教えられ、それに続けて、冒頭の言葉をお語りになりました。この言葉は、「主の祈り」における第五番目の祈り、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と似ています。それよりも、強い言い方がなされているとも言えます。主イエスは、それほど「赦す」ことを重んじておられるのであります。
 「マタイによる福音書」は六章一節から一八節にかけては、いずれも神をどのように礼拝するかに関わることでした。特に「主の祈り」は、私たち信仰者が神をまことに正しく礼拝するために欠かせない祈りです。この祈りに、私たちの信仰と礼拝の生活を建て直す力がある、と言ってもよいでしょう。しかし、その祈りの中心に「赦し」があるのです。
 誰もがまず「神」の赦しを受けることです。そのことがお互いの罪をも赦す力となるのです。神との関係が回復させられ、神の祝福のもとで、お互いが真の命を生きるようになるためです。キリストによる救いもそのためにあります。キリストの十字架による救いを、祈りと礼拝をもって、受け入れることに私たちの生活の本当の力があるのです。
 私たちは、「キリストの御名」によって、祈ります。キリストのお陰で祈ることができるのです。しかし、それは、キリストに罪を赦していただいている者として、祈るのです。どのような祈りも、まず罪の赦しを求めるのはそのためです。お互いが、キリストに罪を赦していただいて、その恵みに生きことができるようにされて行くのです。しかも、繰り返し罪を犯す私たちは、繰り返し罪を赦していただく必要があるのであります。
 信仰者にとって、神に愛されているという事実は、見失うことのできない恵みです。しかし、それは、神の支払われた大きな犠牲のもとで生かされている恵みであって、具体的には、神に罪を赦されているということではないでしょうか。私たちのつたない祈りが神に聞かれる根拠が、その恵みにあるということです。祈りが聞かれるために、まず罪を赦してくださいと祈るのは、神の恵みを正しく恵みとして受けるためなのであります。私たちが、「キリストの御名によって、アーメン」と祈るのも、単なる形式でなく、神よ、キリストにおいて私たちの罪を赦してください、との信仰を言い表しているのです。
 この言葉は、神の国の現実だ、と言った人がいます。神に罪が赦されるとは、神と和解することであります。それによって、私たちは「神の国」に入ることができます。そのことから言えば、キリストに赦されているから私たちも人を赦すという生活は、神の国の現実を信仰によって先取りする教会の実際の生活となります。
 教会における生活ということで、私たちは、いろいろなことを考えることができるかもしれません。しかし、その中心となる事柄は、キリストを救い主と仰ぎ、お互いに罪を赦し合うことです。それが、私たちの具体的な愛の生活であります。
 教会は、共に信仰に生きる人々の群れとして、互いに愛し合う生活がしばしば勧められます。しかし、愛し合うということで、どういうことを実際に心掛けたらよいでしょう。愛の言葉を掛け合うことでしょうか。お世話をすることでしょうか。愛のない私たちが、そうすることは、かえって嘘になります。そうではなくて、いつでも、お互いに赦す用意のある生活をすることなのであります。
 主が教えてくださった「主の祈り」を、体に馴染むほどに祈り、身につけたいと思います。

罪を犯すことがありませんように

2015年12月01日 | 説教
「罪を犯すことがありませんように」
          望月 修

 わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。(マタイ六・一三)



 六つの祈りからなる「主の祈り」の最後の祈りです。この祈りは、私たちの住む世界に、神を信じさせまいとする力があることを明らかにしています。「誘惑」と「悪い者」です。どちらも悪魔的な力であることです。
 主イエスは、活動を始められると直ちに荒れ野において悪魔の誘惑に遭われました(マタイ四・一ー一一)。私たちがこの世で実際に遭う誘惑であり、私たちはこれらの誘惑にしばしば負けています
 誘惑は、思わぬ仕方で、私たちに襲いかかります。順調だと思っている矢先に、わけても驕っているときなどは、足元をすくうように襲いかかります。誰もが苦い経験を重ねています。
 誘惑の問題において大事なのは、誘惑に陥れば神に「罪」を犯すことです。私たちは、例えば、パンを求める祈りと同じくらいに、このような祈りが必要だと考えているでしょうか。ただ誘惑に遭わせないでくださいというだけでなく、誘惑に遭って「罪」を犯すことがありませんように、という祈りなのです。
 「遭わせず」には、決して<誘惑に入れないでください>という強い言い方がなされています。誘惑の恐ろしさや怖さを知っているのです。
 誘惑は、どこから来るのでしょう。ヤコブは「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(ヤコブ一・一四ー一五)と語っています。私たちの内に欲望があり、それが働きかけて罪を犯させるのです。そのようにして、ついには私たちを死へと追いやるのです。ヤコブは、悲しみながら、これを書いているに違いありません。
 しかし、誘惑は、欲望や自分の心の弱さに因るばかりではありません。ゲツセマネにおける主イエスの祈りによる戦いに明らかにされましたように、神の御心が御子の十字架の死による救いであることを受け入れさせないことが最大の誘惑なのです。
 誘惑は、様々あるように思えて、実は私たちが神の御心に従うかどうかであります。しかも、誘惑には、神を神として崇めさせないとする力が働いており、それとの戦いが生じることです。
 そこで、誘惑を試練として捉えることもできます。試練となれば、鍛えるという面があり、神が私たちを試練に遭わせることもあるのです(ヘブライ一二・五ー六、一〇参照)。実際、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(Ⅰコリント一〇・一三b)と語られています。
 試練においても、私たちが神を悪し様に言ってみたり、神を否定してしまうことがありませように、そのようにして、私たちが罪を犯すことがありませんように、という祈りになっていることです。
 そして、「悪い者」から救ってくださいと祈ります。「悪い者」とは、悪魔やサタンが考えられます。私たちを唆し、巧みな仕方で、神を信じさせないように仕向けます。そういう存在は荒唐無稽のように思われるかもしれません。しかし、私たちに神を礼拝させないようにする力は事実として働いています。主イエスによる救いを見失わせ、恵みを恵みとして受け入れさせない不信仰に、私たちを陥らせる力です。多くの信仰者が、このような悪しき力に唆され、信仰を失ったことを、私たちは知っています。だからこそ「救ってください」と祈るように命じておられるのです。
 「主の祈り」は、差し迫った状態の中で祈ることができます。救い主である主イエス御自身が教えてくださった祈りが与えられている幸いを思わざるを得ません。