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クリスマスの戦い

2012年12月17日 | 説教
「クリスマスの戦い」
          望月 修
 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
     (マタイ二・一ー二)

 クリスマスの夜に、東の国からやって来た占星術の学者たちは、自分たちの旅の目的が新しい王を礼拝するためであることをヘロデ王に明らかにしています。天体の観測という自分たちの仕事の中で、新しい王の誕生を知ったのですが、それにとどまらず、彼らはその王を是非とも礼拝しようと、遙か遠くの地から旅を続けて来たのです。
 夜空に明るく輝いた星は、彼らにとって、主イエス・キリストへと導く光となりました。この星は、のちにベツレヘムの星と呼ばれるようになりました。
 私たちもまた、いろいろな出来事や人々との出会いを通して、教会へと導かれ、救い主を信じるに至りました。その意味では、私たち一人ひとりにベツレヘムの星があるとも言えます。
 しかし、「ヨハネによる福音書」などは、キリスト御自身が光であると告げています。「光は暗闇の中で輝いている」(一・五a)。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネ一・九)。そうであれば、こんにち、教会こそ、この世において、救い主の誕生を告げ、人々を礼拝へと導くベツレヘムの星の役割を担っています。
 ところで、このような光とは対照的に、いやこのような光が暗闇の中に輝くからこそ、まさに暗闇の部分も際立ってまいりました。「マタイによる福音書」が、「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(一・三)と告げていることです。 救い主誕生の情報は、一方に、導きを受けた人々がその御方を拝みに行こうと促されたのですが、その一方で、そのことで不安になる人々を生じさせたのであります。この事態は何を意味するでしょう。それは「真の王」は誰かということが、一人ひとりの中で問われたことによって引き起こされた波紋であったと言ったらよいでしょう。
 ヘロデ王は、この当時のユダヤを支配していた王でありました。しかし、どんな王であれ、自分に替わる新しい王が、自分の支配する国の中から生まれたというのであれば、聞き捨てならないでありましょう。不安と怒りに駆られて彼が引き起こした悲惨な事件を聖書はこの直後に報告しています。
 このことは、一方に救い主を受け入れる人々がおり、一方にそうでない人々がいる、ということだけでないと思います。私たち自身の中に、この救い主を自分の真の王として受け入れるか、それとも、それを拒絶するかをめぐって戦いが生じる、ということでありましょう。それは、私たちが、神ではなく、自分自身を自分の王としようとする罪との戦いであります。
 クリスマスは、その意味で、私たちに深い動揺をもたらします。人知れない、しかし、神の御前に激しい戦いが生じるのです。私たちが、自分は自分のものだと言い張っております間は、あるいは世界は自分たちのものだと思っている間は、私たちには救いはないのです。それに対して、遣わされましたこの御子を救い主と信じ、神に対する自分たちの罪を悔い改め、この王を通して、この世界を神にお返しする時に、本当の救いがあるのであります。
 そういう意味において、このヘロデとエルサレムの人々が、こんなにも動揺したということは、大きな示唆を与えると共に、私たちにクリスマスの迎え方を示してくれていると思います。
 キリストは、私たちに代わって十字架におつきになり、それ故に神によって復活させられたとの事実に基づいて、私たちは既に罪に勝利しています。その信仰に堅く立って、この御子を真の王として礼拝しつつ、その恵みのもとで、一人ひとりが罪との戦いを続けて行くことです。そのようにして、私たち教会は、この世において、ベツレヘムの星の役割を果たして行くのであります。

真実なアブラハムの子たち

2012年12月17日 | 説教
「真実なアブラハムの子たち」
          望月 修

 悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
     (マタイ三・八ー九)



 主イエスの救い主としての働きが始まろうとする直前、洗礼者ヨハネが荒れ野に登場します。彼の役割は、悔い改めを促す洗礼を授けることでした。「マタイによる福音書」は、このことをもって、旧約聖書の「イザヤ書」の預言が実現したと告げています(三)。
 洗礼者ヨハネの主張は「悔い改めにふさわしい実を結べ」(八)に集約されます。悔い改めて、神による救いを受け入れるにふさわしい在り方をするように説いたのです。
 多くの人々がヨルダン川で洗礼を授ける彼のもとに来て、罪を告白し、悔い改めの洗礼を受けました(六)。
 ところが、同じように洗礼を受けようとしてやって来た「ファリサイ派やサドカイ派の人々」(七a)に対しては、容赦のない言葉を浴びせています(七ー一〇)。悔い改めることがないまま、つまり、心から神に立ち帰るのでなく、ただ機械的にあるいは何かお守りみたいに、洗礼を受けようとしていたのでしょう。
 彼らは律法に対する真面目さと忠実さ、その意味での宗教的な敬虔を代表するグループの人々でした。自分たちは「アブラハムの子たち」、つまり、神に選ばれ、神との間に特別な契約を結んだ民として、特別扱いされると思い誇っていました。しかし、彼らは肝心な神そのものを見失っていました。何よりも神の憐れみによってのみ救われることが信じられないでいたのです。
 私たちもまた外面的に取り繕う生活はできても、心から悔い改めることができずにいます。しかし、神を見失い、あるいは避けていた今までと同じ在り方をすることはもはやできません。あらぬ方向を向いているわけにはいきません。地上のものに心を引かれているわけにはいかなのです。
 ヨハネは「天の国」は近づいたと宣言しています。「神の国」とは言いませんでした。おそらく、直接、神の名を用いることを避けたのです。畏れ多いと思ったのでしょう。それとともに、罪や悪、何よりも死が支配している、この地上の国と比べているのではないでしょうか。
 「天の国」、つまり、神の支配が行われるところでは、神の御心は完全に行われるのです。そこでは、罪や悪、そして死の力は、もはや力を持っていません。神御自身が私たちを支配してくださり、守ってくださるからです。
 その支配が「近づいた」というのです。それは、差し迫った仕方で、しかし信仰をもってしか受け入れることができない支配を意味しています。その支配は、主イエスにおいて、実現されるのであります。その主イエスが今やお出でになるのです。だから、「悔い改め」が求められるのです。
 神の支配に関心がなければ、神の力が私たちの内に生きた力となることはありません。主イエスにおいて、神を仰ぐ必要があるのです。主イエスのなさろうとすることに関心を寄せる必要があります。地上のものでなく、上にあるものを求めることです(コロサイ三・一参照)。
 神に背くことをやめて我に返った放蕩息子(ルカ一五・一七)のように、心も体も、つまり、生活そのものを、神の御前にあるようにすることです。そして、ついには、すべてを神にのみ期待するようになることです。
 神は、いつでも、どこでも、真実な「アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(九b)のです。しかし、それは主イエスによってであります。一〇節のたいへん激しい物言いは、神による最終的な審きを描いて、誰も主イエスによってしか救われない者であることを明らかにしているのです。ヨハネの役割は、この主イエスによる救いを確かに指し示すことにあったのであります。