「クリスマスの戦い」
望月 修
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
(マタイ二・一ー二)
クリスマスの夜に、東の国からやって来た占星術の学者たちは、自分たちの旅の目的が新しい王を礼拝するためであることをヘロデ王に明らかにしています。天体の観測という自分たちの仕事の中で、新しい王の誕生を知ったのですが、それにとどまらず、彼らはその王を是非とも礼拝しようと、遙か遠くの地から旅を続けて来たのです。
夜空に明るく輝いた星は、彼らにとって、主イエス・キリストへと導く光となりました。この星は、のちにベツレヘムの星と呼ばれるようになりました。
私たちもまた、いろいろな出来事や人々との出会いを通して、教会へと導かれ、救い主を信じるに至りました。その意味では、私たち一人ひとりにベツレヘムの星があるとも言えます。
しかし、「ヨハネによる福音書」などは、キリスト御自身が光であると告げています。「光は暗闇の中で輝いている」(一・五a)。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネ一・九)。そうであれば、こんにち、教会こそ、この世において、救い主の誕生を告げ、人々を礼拝へと導くベツレヘムの星の役割を担っています。
ところで、このような光とは対照的に、いやこのような光が暗闇の中に輝くからこそ、まさに暗闇の部分も際立ってまいりました。「マタイによる福音書」が、「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(一・三)と告げていることです。 救い主誕生の情報は、一方に、導きを受けた人々がその御方を拝みに行こうと促されたのですが、その一方で、そのことで不安になる人々を生じさせたのであります。この事態は何を意味するでしょう。それは「真の王」は誰かということが、一人ひとりの中で問われたことによって引き起こされた波紋であったと言ったらよいでしょう。
ヘロデ王は、この当時のユダヤを支配していた王でありました。しかし、どんな王であれ、自分に替わる新しい王が、自分の支配する国の中から生まれたというのであれば、聞き捨てならないでありましょう。不安と怒りに駆られて彼が引き起こした悲惨な事件を聖書はこの直後に報告しています。
このことは、一方に救い主を受け入れる人々がおり、一方にそうでない人々がいる、ということだけでないと思います。私たち自身の中に、この救い主を自分の真の王として受け入れるか、それとも、それを拒絶するかをめぐって戦いが生じる、ということでありましょう。それは、私たちが、神ではなく、自分自身を自分の王としようとする罪との戦いであります。
クリスマスは、その意味で、私たちに深い動揺をもたらします。人知れない、しかし、神の御前に激しい戦いが生じるのです。私たちが、自分は自分のものだと言い張っております間は、あるいは世界は自分たちのものだと思っている間は、私たちには救いはないのです。それに対して、遣わされましたこの御子を救い主と信じ、神に対する自分たちの罪を悔い改め、この王を通して、この世界を神にお返しする時に、本当の救いがあるのであります。
そういう意味において、このヘロデとエルサレムの人々が、こんなにも動揺したということは、大きな示唆を与えると共に、私たちにクリスマスの迎え方を示してくれていると思います。
キリストは、私たちに代わって十字架におつきになり、それ故に神によって復活させられたとの事実に基づいて、私たちは既に罪に勝利しています。その信仰に堅く立って、この御子を真の王として礼拝しつつ、その恵みのもとで、一人ひとりが罪との戦いを続けて行くことです。そのようにして、私たち教会は、この世において、ベツレヘムの星の役割を果たして行くのであります。
望月 修
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
(マタイ二・一ー二)
クリスマスの夜に、東の国からやって来た占星術の学者たちは、自分たちの旅の目的が新しい王を礼拝するためであることをヘロデ王に明らかにしています。天体の観測という自分たちの仕事の中で、新しい王の誕生を知ったのですが、それにとどまらず、彼らはその王を是非とも礼拝しようと、遙か遠くの地から旅を続けて来たのです。
夜空に明るく輝いた星は、彼らにとって、主イエス・キリストへと導く光となりました。この星は、のちにベツレヘムの星と呼ばれるようになりました。
私たちもまた、いろいろな出来事や人々との出会いを通して、教会へと導かれ、救い主を信じるに至りました。その意味では、私たち一人ひとりにベツレヘムの星があるとも言えます。
しかし、「ヨハネによる福音書」などは、キリスト御自身が光であると告げています。「光は暗闇の中で輝いている」(一・五a)。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネ一・九)。そうであれば、こんにち、教会こそ、この世において、救い主の誕生を告げ、人々を礼拝へと導くベツレヘムの星の役割を担っています。
ところで、このような光とは対照的に、いやこのような光が暗闇の中に輝くからこそ、まさに暗闇の部分も際立ってまいりました。「マタイによる福音書」が、「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(一・三)と告げていることです。 救い主誕生の情報は、一方に、導きを受けた人々がその御方を拝みに行こうと促されたのですが、その一方で、そのことで不安になる人々を生じさせたのであります。この事態は何を意味するでしょう。それは「真の王」は誰かということが、一人ひとりの中で問われたことによって引き起こされた波紋であったと言ったらよいでしょう。
ヘロデ王は、この当時のユダヤを支配していた王でありました。しかし、どんな王であれ、自分に替わる新しい王が、自分の支配する国の中から生まれたというのであれば、聞き捨てならないでありましょう。不安と怒りに駆られて彼が引き起こした悲惨な事件を聖書はこの直後に報告しています。
このことは、一方に救い主を受け入れる人々がおり、一方にそうでない人々がいる、ということだけでないと思います。私たち自身の中に、この救い主を自分の真の王として受け入れるか、それとも、それを拒絶するかをめぐって戦いが生じる、ということでありましょう。それは、私たちが、神ではなく、自分自身を自分の王としようとする罪との戦いであります。
クリスマスは、その意味で、私たちに深い動揺をもたらします。人知れない、しかし、神の御前に激しい戦いが生じるのです。私たちが、自分は自分のものだと言い張っております間は、あるいは世界は自分たちのものだと思っている間は、私たちには救いはないのです。それに対して、遣わされましたこの御子を救い主と信じ、神に対する自分たちの罪を悔い改め、この王を通して、この世界を神にお返しする時に、本当の救いがあるのであります。
そういう意味において、このヘロデとエルサレムの人々が、こんなにも動揺したということは、大きな示唆を与えると共に、私たちにクリスマスの迎え方を示してくれていると思います。
キリストは、私たちに代わって十字架におつきになり、それ故に神によって復活させられたとの事実に基づいて、私たちは既に罪に勝利しています。その信仰に堅く立って、この御子を真の王として礼拝しつつ、その恵みのもとで、一人ひとりが罪との戦いを続けて行くことです。そのようにして、私たち教会は、この世において、ベツレヘムの星の役割を果たして行くのであります。