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わたしに従いなさい

2019年05月30日 | 説教
「わたしに従いなさい」
          望月 修

 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。(マタイ九・九)




 私たちは、どのようにして主イエスを救い主と信じるようになったのでしょう。主イエスとどのように出会ったのか、と言い換えてもよいと思います。きっかけは、いろいろでありましょう。神が、それらをお用いになられて、私たちに主イエスを信じるように導いてくださったのであります。
 掲げた聖句には、徴税人であったマタイが、主イエスにどのように出会い弟子となったかが記されています。マタイが主イエスを見出したというよりも、まず主イエスがマタイを見出しておられることに気づかされます。
 私たちにとっても、主イエスとの出会いは、それぞれにきっかけがあったとは言え、私たちが意図してということではなかったでありましょう。向こう側から、つまり、主イエスの方から、私たちに出会ってくださったというのが本当ではないでしょうか。
 マタイの場合は、「通りがかりに」でした。そうであっても、つまり偶然と思われるような仕方でしたが、主イエスはマタイを確かに「見かけて」おられたのです。そして、主イエスの方から声を掛けられたのでした。
 考えさせられるのは、私たちが気づくよりも先に、主イエスの方が既に私たちに気づいておられることです。それは、私たちの思いや事情よりも先に、神が私たちを前もって選んでくださっている、ということです(エレミヤ一・五、ヨハネ一五・一六a参照)。
 私たちが救われたいと思ったから救われるというよりも、私たちがどう思っていようが神は間違いなく私たちを救ってくださるのです。その一方的な恵み、神からの歩み寄りを、ここでは「通りがかりに」という小さな言葉で表しています。
 それは、私たちの側に神に選ばれ救われるような何らかの資格があったからでなく、むしろ、私たちが神に背く罪人であるにもかかわらず、どこまでも神の一方的な恵みによって私たちは救われるのだ、ということの確かさを表しています。そのように、私たちは、既に神に見出されているのです。
 それだからこそ、神から遣わされた救い主として、主イエスは仰せになることができました。この「わたしに従いなさい」と。神から遣わされた、この「わたし」に従うことで、あなたのためのわたしの救いはあなたの中で事実となるのだ。神による救いが、この「わたし」において成し遂げられるのだ。それ故に、この「わたしに従いなさい」であります。圧倒的な神の恵みと主イエスによる招きであります。
 「マタイ」は、「徴税人」でした。ローマ帝国の支配に仕える役人です。律法を重んじるファリサイ派の人々から、神から離れ異教徒に仕えている者とみなされていました。神の民との自負を持った一般のユダヤ人からも、祖国を裏切るような仕事に就いているために軽蔑されていました。
 しかし、考えてみれば、私たちも同じようなものです。それぞれの者がこの世にあって生活しているのですが、この世は罪に支配されています。誰もが、神に背き神のお望みにならないような在り方をしています。
 マタイは収税所に「座って」いました。それなりの経緯ややむを得ない事情があったのでしょう。しかし、そうでなくても、本当のところ誰に仕えたらよいのか、何を為すべきか判らずにいたに違いありません。誰について行ってよいのか、わきまえのない状態に安住したままの私たち自身でもあります。そのような在り方をしている私たちを、目に留められ、「わたしに従いなさい」と主イエスは言われのであります。
 マタイは「立ち上がり」主イエスの弟子となりました。主イエスによる救いを、その生き方をもって人々に指し示して行くことになったのであります。

罪を赦す権威

2019年05月30日 | 説教
罪を赦す権威
          望月 修

 『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。(マタイ九・五ー六)


 主イエスは、ご自分の町に帰って来られました。すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま連れて来ました。中風は、脳出血などによって、手足などが麻痺してしまうことです。当時は原因など判らなかったでありましょう。命を取り留めたとしても、不自由な体を抱えて生きて行かなければなりません。
 様々な病をお癒しになっておられた主イエスです。その噂は広まっていました。しかし、この人は、自分の力で、主イエスのもとにやって来ることができません。この人を気遣う人々であったのでしょう。床に寝かせたまま、この人を主イエスのところへ連れて来たのであります。主イエスは、その人たちの信仰を見て、直ちに、この人に向かって、「あなたの罪は赦される」と仰せになったのであります。
 ところが、律法学者の中に、主イエスは神を冒涜していると思う者たちがいました。それは、罪を赦すことは、神にしかできないと信じられていたからです。病を癒すことは、こんにちではお医者さんがいますように、その当時でも何らかの仕方で似たようなことができる人がいました。しかし、罪を赦すことは、神がなさることだと信じられていたのです。非難は、必ずしも間違っているとは言えません。問題は、このように宣言なさったのが主イエスであったことです。言い換えれば、この律法学者たちは、主イエスを神の子とみなしていないことにありました。主イエスを、罪の赦しをもたらす救い主であるとして、受け入れていないのです。
 彼らの考えを見抜かれた主イエスは、罪を赦すことと病を癒すことのどちらが易しいかを問われ、ご自分が地上で罪を赦す権威を持っていることを悟らせるために、中風の者を癒されました。
 その場に居合わせた群衆は、恐ろしくなり、これほどの権威をゆだねられた神を賛美した、と最後に記しています(八)。
 たいへん印象深い短い話の中に、「罪の赦し」という言葉が四回(二、五、六、八節)にわたって言及されています。私たちは、改めて問われることになります。主イエスのもたらす救いは、病を癒すというような、所謂、奇跡を行うことか、それとも、罪の赦すことなのかであります。
 私たちの気持ちからするなら、罪を赦すことの方が易しい気がします。しかし、ここでは四度も罪の赦しに言い及んでいます。事柄の重大さ、つまり、罪を赦すことの困難さを語ろうとしているのではないでしょうか。神の子である主イエスにとっては、奇跡を行うことの方が易しいのです。私たちの考えと神のお考えが必ずしも同じでないことに気づかされます。
 罪は、神に背いていることであり、神に対して犯すことです。したがって、それを赦すとしたら、神のみができることです。しかも、罪を赦すとは、ただ口で赦すだけで、できるものではありません。そこには、被った損失をどうするかが残ります。その損失を、与えた側でなく、被った側が負う覚悟がなければなりません。罪を赦すためには、それなりの犠牲を負う必要があります。
 主イエスは、神に対して犯した私たちの罪を赦すために、ご自分の命を犠牲になさる覚悟がおありでした。それは、神のご意志でもありました。ご自分に歯向かい背いている私たちを、御子である主イエスを犠牲になさって、私たちを贖ってくださるのであります。
 主イエスを神の子とみなさず、罪の赦しをもたらす救い主と信じることができなかった律法学者たちに、主イエスは「心の中で悪いことを考えている」(四)と言われました。悩みがあり労苦のあるという字が使われています。主イエスのもたらす救いを受けることのできない状態を指摘しています。

神の勝利

2018年11月25日 | 説教
「神の勝利」
       望月 修

 そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。(マタイ八・三一ー三二)



 舞台となった町は、ガリラヤ湖の南東に位置し、商業を中心とした仄かにギリシアやローマの雰囲気を漂わせていました。その地にあった「墓場」から、「悪霊に取りつかれた者」が、主イエスのところにやってまいりました。
 「墓場」を住まいとしていたのでしょう。それだけでも尋常でありません。死が支配するところと言ってもよいからです。聖書は、このように説明しています。「二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった」(二八b)。
 誰も抑えることができない力が、彼らに働いていました。まさしく死の力を象徴しています。闇の力、と言ってもよいでしょう。誰にも、どうすることもできません。私たちの意志に反して、私たちを死へと追いやり、滅びへと至らせる力です。
 古代における町に「ヒエラポリス」という名前がよく使われました。「聖なる町」とでも訳せましょうか。興味深いことに、そういう町の名がつけられますと、その町の隣りに、「ネクロポリス」という町が建てられます。「死者の町」と訳すことができます。実際は、墓場です。生きている者たちの町としての「ヒエラポリス」があり、死にますと「ネクロポリス」に移され、死者としの生活が始まる、と考えられていたようです。二つの町は、一つの地域の中で、穏やかに共存していました。私たちの住む国でも、かつて、これに似た地区割りをして、地域社会を形づくっていたのではないでしょうか。
 しかし、ここでは、墓場から出て来た者は「狂暴」です。悪さをします。「だれもその辺りの道を通れないほどであった」というのですから、恐れられていました。
 見逃すことができないのは、彼らは「悪霊に取りつかれ」ていたことです。神の支配に逆らう力です。神に従おうとしない勢力です。その特色は、他の者に取りついて、その者を、神から引き離そうとすることにあります。つまり、この私たちを、神から引き離そうとする力こそ、「悪霊」なのです。
 普段の生活を続けている者には、「悪霊」は、めったに狂暴になることはありません。むしろ、偽りの平安の中に、私たちを安住させ、巧みに支配しています。ですから、私たちは気づかぬ内に、滅びへの道を辿って行きます。墓場でなく、こちらの町でみんなと一緒に生活しているのですが、実際はそのような力に脅かされているのです。
 しかし、何と言っても、「悪霊」が、その本性を明らかにするのは、私たちが「神」を信じるようになった時です。わけても、キリストを救い主とするようになった時です。この私たちが、キリストに救われ、本当の命を得てしまうからです。そうなったら、「悪霊」は、自分たちの取り憑く相手を失うことになります。
 神の子イエス・キリストが、自分たちのいる近くにやって来たのです。神の御子である主イエスは、「悪霊」がどのような存在であるかを、誰よりも御存知でした。「悪霊」の方も、自分たちの本当の敵が、人間であるよりも、「神の子」の主イエスであることを知っていました。
 「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」(二九)人間に取り憑こうと思えば、いつでも取り憑くことのできた「悪霊」でしたが、悪霊の方からすれば、自分たちを滅ぼすことさえできる「神の子」が、「ここに来た」のです。悪霊が口走った「その時ではないのに」というのは、神の子である主イエスが十字架の死を遂げる時です。「その時」こそ、自分たちは、主イエスに絡め取られるようにして、十字架につけられて、滅ぼされてしまうのです。
 主イエスの復活は、この「悪霊」に勝利したしるしであります。

主イエスに従う覚悟

2018年07月06日 | 説教
「主イエスに従う覚悟」
          望月 修

 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(マタイ八・二〇)



 この箇所(一八・一八ー二二)の冒頭で、主イエスは、「自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた」とあります。
 「群衆」は、この時、主イエスの教えに導かれていました。多くの者は、病いを癒され、様々な患いからも解放されていました(一八・一ー一七)。しかし、主イエスは、その「群衆」を見つめながら、ここで、御自分に従う「弟子たち」に、「向こう岸に行くように命じられ」たのです。
 「弟子たち」を「群衆」から区別なさったのです。それは、「群衆」の中に留まるのでなく、主イエスの「弟子」として生きることでした。そのような者たちが、主イエスから、「向こう岸」に行くように命じられたのです。それは、教会のことであります。教会は、主イエスおいて明らかにされる神の支配を仰ぎつつ、神に背いて来た罪が贖われることを願いながら、その救いが完成される「向こう岸」を目指して歩み続けるからです。
 このように命じられて、意気込む者が、「弟子」の中から出て来ても不思議ではありません。ある「律法学者」が、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」(一九)と言いました。主イエスは、この人の決意を、直ちに受け入れませんでした。むしろ、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(八・二〇)と言われました。「人の子」とは、主イエス自身を指し示す言い方です。父なる神から、救い主として、この地上に遣わされて来た主イエスでした。ところが、この地上に、主イエスを信じ受け入れる人は少なかったのです。福音を宣べ伝えても、聞く耳を持たない人ばかりでした。
 神の憐れみよりも、律法を学ぶこと、その律法に従うことを重んじていた「律法学者」に勘違いもあったかもしれません。主イエスを、救い主というよりも、一人の教師あるいは指導者として、従うことを考えたのでしょう。あるいは、律法は自分の力で守ることができると思っていたかもしれません。しかし、それは、熱心であっても、自分を誇るような在り方、目にみえる地上のものだけに拠り所を置いて生きて行こうとする、こちら側の世界の生き方でした。
 伝道者ペトロも、主イエスの救いにあずかる信仰者は、この地上では、「旅人」「仮住まいの身」(Ⅰペトロ二・一一)となる覚悟がいると語っています。信仰者である私たちは、この地上の世界には、確かで安全な生活がないことを知っています。むしろ、天に、つまり、神の御もとに、まことの住まいがあることを知っています。
 一方、「向こう岸」に行くことに、戸惑う人もいるでありましょう。親しい者との生活、今ある、安定した生活を思うと、「向こう岸に行く」ことに優柔不断となるものです。ここでは、もう一人の「弟子」が代弁します。彼は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」(二一)と言います。火急の用事のようにも思われますが、当時は、いつになるか判らないことを述べる際の言葉使いでした。主イエスに従うことに躊躇しているのです。主イエスは、「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」(二二)と言われました。私たちは、死よりも、主イエスが与えてくださる命そのものに思いを馳せる必要があります。
 主イエスに従うということで、私たちは、何も判らずに、主イエスに従うのではありません。私たちの救いのために、十字架におつきになられ、神によって復活させられている、そのキリストと共に生きることです。主イエスの弟子となるとは、罪も死も主イエスとの関係を損なうことはないと信じ、主イエスと苦楽を共にするほどに、主イエスと親しく交わりながら生きることです。そこに、約束された命にあずかる道があります。

私たちの礎はキリスト

2018年03月10日 | 説教
「私たちの礎はキリスト」
          望月 修

 そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。(マタイ七・二四ー二五)



 家を建てる場合と同じように、少しでもしっかりした土台の上に生活を築きたいと誰もが考えます。「山上の説教」の終わりになされた主イエスの譬えは、その意味で分かりやすいと思います。わけても、普段は何の変哲もない平地であっても、雨の降る季節になると、突然と思われるほどに、濁流が押し寄せるような土地柄でした。家を建てる者の責任が問われます。それと同じように、私たちは神の祝福のもとにあるのだと語られたきた主イエスの「山上の説教」に対して、私たちの責任が問われているのです。
 「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆」(二四)とあり、二六節以下には「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆」とあります。「山上の説教」は、主イエスにおいてあずかる神の祝福であるにしても、最後にこのような厳しさがある以上、やはり、これは新しい「律法」ではないか、と慌てて思ってしまうのではないでしょうか。ここでの「行う」ということを、どのように受け止めたらよいでしょう。
 「山上の説教」を聞く際に、大事なことは、いつでも、主イエスがこの自分を救ってくださる救い主なのだと信じながら、その語られる言葉に従うことでした。実は、そのようなところに、信仰による「行い」が生じます。主イエスは、御自分が語ることを聞いて行う者について、「賢い人」と言われます。また、聞いても行わない者には、「愚かな人」(二六)と言われていることは、注目してよいでしょう。
 そこで、考えたいのは、信仰も、行いの一つであることです。神を信じるということ自体が、既に一つの大きな行いであります。そこには、信じるために、自分の生活全体をかけて決断するということがあるからです。
 例えば、「回心」という言葉があります。心の向きを変えることです。それは、心を入れ替えてこれからは悪いことをしないというよりも、神を中心に据えて、自分はその神に従うということです。その意味では自分を捨てることも含まれます。「悔い改める」についても同じようなことが言えます。自らを顧みてとか、反省してというよりも、その時、実際に、神に従うことです。
 神を信じるとは、実は、そういう意味の行いであって、信じられないでいる自分を嘆くというようなことは、まだ自分が中心になっているのです。そうではなくて、信じられないでいる自分をも、まったく神に委ねてしまうことであります。そのように、神を信じることは、もっとも徹底的な「行い」ではないでしょうか。
 したがって、ここで言われている「山上の説教」を「聞いて行う者」とは、キリストによる救いを信じて、まったく神に委ねる者であります。そのような者こそ「賢い人」なのです。それに対して、「山上の説教」を「聞くだけで行わない者」とは、そのように神を信じ、そのように神に委ねようとしない者のことであって、そのような者は「愚かな人」だ、と主イエスは仰せになるのです。それというのも、もしそうでなかったら、せっかくの神の祝福を台無しにしてしまうことになるからであります。
 「雨が降り、川があふれ、風が吹いて」来ても、倒れることのない、「岩を土台とした」私たちの信仰生活は、主イエスを救い主と言い表しつつ仰ぐところで、築かれて行きます。「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」(Ⅰコリント三・一一)。私たちは、自分たちの力によってではなく、主イエスへの信仰を礎にしながら、そこで語られる、神の言葉に導かれ養われるところとして、教会が与えられているのであります。