日本基督教団 仙台広瀬河畔教会ホームページ ブログ

日本基督教団 仙台広瀬河畔教会

ホームページ リンク
「最近の説教」(続き)
「教会生活Q&A」(続き)

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

神の勝利

2018年11月25日 | 説教
「神の勝利」
       望月 修

 そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。(マタイ八・三一ー三二)



 舞台となった町は、ガリラヤ湖の南東に位置し、商業を中心とした仄かにギリシアやローマの雰囲気を漂わせていました。その地にあった「墓場」から、「悪霊に取りつかれた者」が、主イエスのところにやってまいりました。
 「墓場」を住まいとしていたのでしょう。それだけでも尋常でありません。死が支配するところと言ってもよいからです。聖書は、このように説明しています。「二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった」(二八b)。
 誰も抑えることができない力が、彼らに働いていました。まさしく死の力を象徴しています。闇の力、と言ってもよいでしょう。誰にも、どうすることもできません。私たちの意志に反して、私たちを死へと追いやり、滅びへと至らせる力です。
 古代における町に「ヒエラポリス」という名前がよく使われました。「聖なる町」とでも訳せましょうか。興味深いことに、そういう町の名がつけられますと、その町の隣りに、「ネクロポリス」という町が建てられます。「死者の町」と訳すことができます。実際は、墓場です。生きている者たちの町としての「ヒエラポリス」があり、死にますと「ネクロポリス」に移され、死者としの生活が始まる、と考えられていたようです。二つの町は、一つの地域の中で、穏やかに共存していました。私たちの住む国でも、かつて、これに似た地区割りをして、地域社会を形づくっていたのではないでしょうか。
 しかし、ここでは、墓場から出て来た者は「狂暴」です。悪さをします。「だれもその辺りの道を通れないほどであった」というのですから、恐れられていました。
 見逃すことができないのは、彼らは「悪霊に取りつかれ」ていたことです。神の支配に逆らう力です。神に従おうとしない勢力です。その特色は、他の者に取りついて、その者を、神から引き離そうとすることにあります。つまり、この私たちを、神から引き離そうとする力こそ、「悪霊」なのです。
 普段の生活を続けている者には、「悪霊」は、めったに狂暴になることはありません。むしろ、偽りの平安の中に、私たちを安住させ、巧みに支配しています。ですから、私たちは気づかぬ内に、滅びへの道を辿って行きます。墓場でなく、こちらの町でみんなと一緒に生活しているのですが、実際はそのような力に脅かされているのです。
 しかし、何と言っても、「悪霊」が、その本性を明らかにするのは、私たちが「神」を信じるようになった時です。わけても、キリストを救い主とするようになった時です。この私たちが、キリストに救われ、本当の命を得てしまうからです。そうなったら、「悪霊」は、自分たちの取り憑く相手を失うことになります。
 神の子イエス・キリストが、自分たちのいる近くにやって来たのです。神の御子である主イエスは、「悪霊」がどのような存在であるかを、誰よりも御存知でした。「悪霊」の方も、自分たちの本当の敵が、人間であるよりも、「神の子」の主イエスであることを知っていました。
 「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」(二九)人間に取り憑こうと思えば、いつでも取り憑くことのできた「悪霊」でしたが、悪霊の方からすれば、自分たちを滅ぼすことさえできる「神の子」が、「ここに来た」のです。悪霊が口走った「その時ではないのに」というのは、神の子である主イエスが十字架の死を遂げる時です。「その時」こそ、自分たちは、主イエスに絡め取られるようにして、十字架につけられて、滅ぼされてしまうのです。
 主イエスの復活は、この「悪霊」に勝利したしるしであります。

主イエスに従う覚悟

2018年07月06日 | 説教
「主イエスに従う覚悟」
          望月 修

 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(マタイ八・二〇)



 この箇所(一八・一八ー二二)の冒頭で、主イエスは、「自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた」とあります。
 「群衆」は、この時、主イエスの教えに導かれていました。多くの者は、病いを癒され、様々な患いからも解放されていました(一八・一ー一七)。しかし、主イエスは、その「群衆」を見つめながら、ここで、御自分に従う「弟子たち」に、「向こう岸に行くように命じられ」たのです。
 「弟子たち」を「群衆」から区別なさったのです。それは、「群衆」の中に留まるのでなく、主イエスの「弟子」として生きることでした。そのような者たちが、主イエスから、「向こう岸」に行くように命じられたのです。それは、教会のことであります。教会は、主イエスおいて明らかにされる神の支配を仰ぎつつ、神に背いて来た罪が贖われることを願いながら、その救いが完成される「向こう岸」を目指して歩み続けるからです。
 このように命じられて、意気込む者が、「弟子」の中から出て来ても不思議ではありません。ある「律法学者」が、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」(一九)と言いました。主イエスは、この人の決意を、直ちに受け入れませんでした。むしろ、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(八・二〇)と言われました。「人の子」とは、主イエス自身を指し示す言い方です。父なる神から、救い主として、この地上に遣わされて来た主イエスでした。ところが、この地上に、主イエスを信じ受け入れる人は少なかったのです。福音を宣べ伝えても、聞く耳を持たない人ばかりでした。
 神の憐れみよりも、律法を学ぶこと、その律法に従うことを重んじていた「律法学者」に勘違いもあったかもしれません。主イエスを、救い主というよりも、一人の教師あるいは指導者として、従うことを考えたのでしょう。あるいは、律法は自分の力で守ることができると思っていたかもしれません。しかし、それは、熱心であっても、自分を誇るような在り方、目にみえる地上のものだけに拠り所を置いて生きて行こうとする、こちら側の世界の生き方でした。
 伝道者ペトロも、主イエスの救いにあずかる信仰者は、この地上では、「旅人」「仮住まいの身」(Ⅰペトロ二・一一)となる覚悟がいると語っています。信仰者である私たちは、この地上の世界には、確かで安全な生活がないことを知っています。むしろ、天に、つまり、神の御もとに、まことの住まいがあることを知っています。
 一方、「向こう岸」に行くことに、戸惑う人もいるでありましょう。親しい者との生活、今ある、安定した生活を思うと、「向こう岸に行く」ことに優柔不断となるものです。ここでは、もう一人の「弟子」が代弁します。彼は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」(二一)と言います。火急の用事のようにも思われますが、当時は、いつになるか判らないことを述べる際の言葉使いでした。主イエスに従うことに躊躇しているのです。主イエスは、「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」(二二)と言われました。私たちは、死よりも、主イエスが与えてくださる命そのものに思いを馳せる必要があります。
 主イエスに従うということで、私たちは、何も判らずに、主イエスに従うのではありません。私たちの救いのために、十字架におつきになられ、神によって復活させられている、そのキリストと共に生きることです。主イエスの弟子となるとは、罪も死も主イエスとの関係を損なうことはないと信じ、主イエスと苦楽を共にするほどに、主イエスと親しく交わりながら生きることです。そこに、約束された命にあずかる道があります。

私たちの礎はキリスト

2018年03月10日 | 説教
「私たちの礎はキリスト」
          望月 修

 そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。(マタイ七・二四ー二五)



 家を建てる場合と同じように、少しでもしっかりした土台の上に生活を築きたいと誰もが考えます。「山上の説教」の終わりになされた主イエスの譬えは、その意味で分かりやすいと思います。わけても、普段は何の変哲もない平地であっても、雨の降る季節になると、突然と思われるほどに、濁流が押し寄せるような土地柄でした。家を建てる者の責任が問われます。それと同じように、私たちは神の祝福のもとにあるのだと語られたきた主イエスの「山上の説教」に対して、私たちの責任が問われているのです。
 「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆」(二四)とあり、二六節以下には「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆」とあります。「山上の説教」は、主イエスにおいてあずかる神の祝福であるにしても、最後にこのような厳しさがある以上、やはり、これは新しい「律法」ではないか、と慌てて思ってしまうのではないでしょうか。ここでの「行う」ということを、どのように受け止めたらよいでしょう。
 「山上の説教」を聞く際に、大事なことは、いつでも、主イエスがこの自分を救ってくださる救い主なのだと信じながら、その語られる言葉に従うことでした。実は、そのようなところに、信仰による「行い」が生じます。主イエスは、御自分が語ることを聞いて行う者について、「賢い人」と言われます。また、聞いても行わない者には、「愚かな人」(二六)と言われていることは、注目してよいでしょう。
 そこで、考えたいのは、信仰も、行いの一つであることです。神を信じるということ自体が、既に一つの大きな行いであります。そこには、信じるために、自分の生活全体をかけて決断するということがあるからです。
 例えば、「回心」という言葉があります。心の向きを変えることです。それは、心を入れ替えてこれからは悪いことをしないというよりも、神を中心に据えて、自分はその神に従うということです。その意味では自分を捨てることも含まれます。「悔い改める」についても同じようなことが言えます。自らを顧みてとか、反省してというよりも、その時、実際に、神に従うことです。
 神を信じるとは、実は、そういう意味の行いであって、信じられないでいる自分を嘆くというようなことは、まだ自分が中心になっているのです。そうではなくて、信じられないでいる自分をも、まったく神に委ねてしまうことであります。そのように、神を信じることは、もっとも徹底的な「行い」ではないでしょうか。
 したがって、ここで言われている「山上の説教」を「聞いて行う者」とは、キリストによる救いを信じて、まったく神に委ねる者であります。そのような者こそ「賢い人」なのです。それに対して、「山上の説教」を「聞くだけで行わない者」とは、そのように神を信じ、そのように神に委ねようとしない者のことであって、そのような者は「愚かな人」だ、と主イエスは仰せになるのです。それというのも、もしそうでなかったら、せっかくの神の祝福を台無しにしてしまうことになるからであります。
 「雨が降り、川があふれ、風が吹いて」来ても、倒れることのない、「岩を土台とした」私たちの信仰生活は、主イエスを救い主と言い表しつつ仰ぐところで、築かれて行きます。「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」(Ⅰコリント三・一一)。私たちは、自分たちの力によってではなく、主イエスへの信仰を礎にしながら、そこで語られる、神の言葉に導かれ養われるところとして、教会が与えられているのであります。

悔いくずおれし者

2017年12月11日 | 説教
「悔いくずおれし者」
          望月 修

 わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。(マタイ七・二一)


 「山上の説教」の最後は、警告の言葉が続いています。この説教の美しいところだけをつまみ食いしている人には、予想できない厳しさがあります。特に、冒頭の言葉を含む七章二一節から二三節は、警告というよりも、断罪の言葉と言ってよいほどです。
 そんなにまで、何故、主イエスは仰せになるのでしょう。しかし、注意しなければならないのは「天の父の御心を行う」ことなのです。主の弟子であるヤコブも、その手紙の中で、このように言っています。「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか」(ヤコブ二・一九ー二〇)。悪霊でさえ、神を信じている、というのです。そこで、正しく「主よ」と呼ぶためには、あなたの「行い」が大切だ、というのです。
 行いがなくても、救われるのです。事実、神に喜ばれるような行いが何もないままに、救われた私たちです。ですから、キリストを主と呼ぶことができます。そして、キリストをお遣わしくださった神を感謝し神に喜ばれる生き方をしようとし始めるのです。
 主イエスは、冒頭の言葉に続いて、このようにお語りになっています。「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(マタイ七・二二ー二三)。
 「かの日」は、「終わりの日」を指しています。神が、天と地とお造りになられ、私たちもまた神によって創造されたのですが、その始めの日があるように、終わりの日があるのです。世界の終わるその日に、神による最後の裁きがなされます。しかし、それは、既に神の右に座しておられる主イエス・キリストが、神に代わって、最終的に、この私たちを導かれる時であります。
 その際に、何が問われるでしょう。例えば、ここにあるように、それまでに、主イエスの名によって、「預言」したり、「悪霊を追い出」したり、「奇跡」を行っていたとしても、そのことが評価されないこともあり得るのです。
 伝道者パウロは、「愛」がなければ、と言いました(Ⅰコリント一三・一ー三)。その場合の愛は、キリストに救われ、キリストの愛を受けていることです。つまり、信仰において、キリストと結びついていることです。事実、主イエスは、「良い木」である御自分に、信仰によって結びつくことをお求めになっていました(マタイ七・一八)。
 口で主と言うだけでなく、実際に、キリストに救われ、キリストを愛していることが重要なのです。それが、実に、「天の父の御心を行うこと」に至るのであります。
 本来、信仰は、独り善がりになることはありません。その相手にキリストがおられるはずだからです。キリストの側に手応えのある信仰が求められている、と言ったらよいでありましょう(マルコ五・二四bー三四参照)。自分は正しいことをして来たと言い張るのでなく、キリストが正しいと認めてくださる信仰であります(ルカ一八・九ー一四参照)。
 『主よ、主よ、・・・をいろいろ行ったではありませんか』と「大勢の者」が言う、とありました。自分を誇るかのように功績を数えるのは律法学者たちやファリサイ派の人々だけでないでありましょう。貧しさと罪の深さを知っており、主イエスにすがることしかできない者の幸いを、むしろ告げようとしているのであります。

偽預言者を警戒しなさい

2017年09月23日 | 説教
「偽預言者を警戒しなさい」
          望月 修


 偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。(マタイ七・一五ー一六a)


 「山上の説教」は、主イエスによる祝福の宣言でありました。それは、受けても受けなくても、そんなに変わらない、どこでもあずかることができる、というようなものではありませんでした。死をも越えた真の命、真の幸いに関わる祝福でありました。これを受け損なうなら滅びることを覚悟しなければなりません。私たちは、それほどに大いなる祝福を主イエスにおいてあずかることができるのであります。
 したがって、その説教の最後では、「狭い門」から入れ、「細い道」を歩め、と信仰をもってこの祝福にあずかることを勧めておられたのです。そして、それに引き続いてなされたのが、「偽預言者を警戒しなさい」という警告です。これも、主イエスによる祝福に間違いなくあずかるためであります。
 ところで、「山上の説教」を聞いているのは、教会であります。それなら、教会は、この「山上の説教」によって生きることを妨げられないようにすることです。教会が心しなければならないのは、主イエスのみを救い主とする信仰に生きることです。その信仰へと導くのが「預言者」であり、「説教者」です。神の言葉を取り次ぐ務めを託されている者たちで、「伝道者」と言ってもよいと思います。
 彼らの務めは、「福音」を告げることにあります。すなわち、神がお遣わしになられた救い主は神の独り子でありながら人となられ十字架におつきになられたこと、そして、その神の御子を父なる神が復活させたことで、神が私たちの救いを成し遂げておられるとの事実を告げることです。そのようにして、神に背く私たちの罪は、御子によって贖われることを明らかにし、私たちが信仰によって感謝と喜びをもって生きることができるように導くのです。
 それに対して、「偽預言者」と言われる人たちは、この事実をねじ曲げ、自分たちの都合のよいように告げる人たちです。聖書には、次のような言い方がなされています。すなわち、「異なったイエス」(Ⅱコリント一一・四)を宣べ伝える、「違った福音」(同)を受け入れさせようする、「ほかの福音」(ガラテヤ一・七)を告げる、「異なった教え」(ヘブライ一三・九)をする者たちです。
 伝道者パウロは、このような人たちに伝道の邪魔をされました。それ故に、そういう人たちと戦わざるを得ませんでした。「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音をくつがえそうとしているにすぎないのです」(ガラテヤ一・七)と語っています。また、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」(フィリピ三・一八)と指摘しています。
 教会は、神の御子による救いを否定したり軽んじたりする人たちの声に、惑わされて来ました。人間の立場を語るのですから判りやすいのです。信仰がなくても理解できるもっともらしさがあります。しかし、主イエスの警告を受け止め、神のことやキリストのことよりも、人間の立場しか言わない人たちを見抜くことができました。
 大事なことは、私たちに、偽預言者を見分ける力があるか、あるいは、見分けたいと思う気持ちがあるか、ということではないでしょうか。「正しい信仰」という言い方がなされるのもそのためです。信仰を曖昧にして、信仰にもいろいろあるというような物分かりのよいようなことを言っているとしたら、偽預言者たちの思う壺です。私たちに、正しい信仰、つまり正しい「教理」ということに関心がないとしたら、偽預言者を見分けることは、とうていできないでありましょう。教会は、聖書に基づいて、信仰とは何かを順序立てて明らかにする「教理」を重んじて来たことを忘れてはなりません。