「神を父と呼び求める幸い」
望月 修
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。(マタイ七・七ー八)
よく知られている言葉です。どのようなことでも、ひたすら求めれば与えられるという意味にとって、人々を励ましたり、努力を促す言葉として受け止められているのではないでしょうか。
しかし、この言葉のあとに語られていること(九ー一一)まで、よく読まれたとは考えられません。
「ルカによる福音書」では、主イエスが「主の祈り」を弟子たちにお教えになられた直後でした。熱心に求める必要があることを、真夜中に友達の家にパンを借りに行った人の話しによって示されたあと、「そこで、わたしは言っておく」と仰せになり、「求めなさい」と命じておられます(ルカ一一・一ー一三)。そこで、ある人は、「マタイによる福音書」のこの部分も、「主の祈り」を、ここで、もう一度強く取り上げているのだ、と言っています。
そうだとすると、求めなさいというのは、「祈り」であることが判ります。探すことも、門をたたくことも、同じです。熱心に祈りなさい、ということなのです。
この部分の最後に当たる一一節後半には、「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」と約束されています。神から「良い物」をいただくために、祈ることを勧めているのです。
ところで、主イエスは、何故、誰に、何を求めるかを、明らかになさらないような言い方をあえてなさったのでしょう。それは、これが、神に向かって、回心を促す呼びかけだったからです。回心ですから、心の向きを変え、何が何でも神に求めなさいとの姿勢を示されたのです。他ならない、あなた自身を神に向かわせ、神のもとに帰る道を必死で探しなさい、ということです。
主イエスは、何故、それほどまでに、強く、特別な言い方を用いてまで、私たちに、お命じになられるのでしょう。それは、主イエスが、父なる神は私たち人間が御自分のもとに帰って来ることを誰よりも切に望んでおられることを、御存知だったからです。
考えてみれば、私たちは神に対して熱心でもなければ、困った時や気が向いた時にだけ神を求めるようなところがあります。神に立ち帰る勇気も力もありません。ほっておけば、神から離れて行くだけです。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(六・三三)。主イエスは、既にそのように語っておられました。私たちは、どうかすると、信仰を知識だとみなし、学ぶことで信仰が深まると思っている節があります。しかし、肝心なのは、実際に祈ってみることではないでしょうか。
祈りの際に、大事なことは、主イエスの十字架と復活による救いこそ、私たちにとって、真の救いであることです。常識的に考えたら、どうしてこのことが救いになるでしょう。しかし、神が考え抜かれた救いであって、私たち人間はこれ以外では決して救われることはありません。主イエスは、御自分による救いを熱心に祈り求めることを命じられるのは、そのためでした。信仰生活の中心に祈りがあることの理由でもあります。
続く部分(九ー一〇)で、主イエスは、頼りすがる子供とそれに応える親の姿を描いて、私たちが神を父と信じることができる幸いを告げています。私たちの祈りに、神は直ちにお答えくださらないかもしれません。私たちが願う通りでないかもしれません。具体的には、何も与えられないかもしれません。しかし、神が私たちの父であって、パンを求めるのに石を与えるような無慈悲な父でなく、それどころか、主イエスを救い主として与えてくださった、まことに父らしい父である、ということさえ信じることができれば、それは何にもまさる、お答であり、祈りの喜びなのであります。
望月 修
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。(マタイ七・七ー八)
よく知られている言葉です。どのようなことでも、ひたすら求めれば与えられるという意味にとって、人々を励ましたり、努力を促す言葉として受け止められているのではないでしょうか。
しかし、この言葉のあとに語られていること(九ー一一)まで、よく読まれたとは考えられません。
「ルカによる福音書」では、主イエスが「主の祈り」を弟子たちにお教えになられた直後でした。熱心に求める必要があることを、真夜中に友達の家にパンを借りに行った人の話しによって示されたあと、「そこで、わたしは言っておく」と仰せになり、「求めなさい」と命じておられます(ルカ一一・一ー一三)。そこで、ある人は、「マタイによる福音書」のこの部分も、「主の祈り」を、ここで、もう一度強く取り上げているのだ、と言っています。
そうだとすると、求めなさいというのは、「祈り」であることが判ります。探すことも、門をたたくことも、同じです。熱心に祈りなさい、ということなのです。
この部分の最後に当たる一一節後半には、「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」と約束されています。神から「良い物」をいただくために、祈ることを勧めているのです。
ところで、主イエスは、何故、誰に、何を求めるかを、明らかになさらないような言い方をあえてなさったのでしょう。それは、これが、神に向かって、回心を促す呼びかけだったからです。回心ですから、心の向きを変え、何が何でも神に求めなさいとの姿勢を示されたのです。他ならない、あなた自身を神に向かわせ、神のもとに帰る道を必死で探しなさい、ということです。
主イエスは、何故、それほどまでに、強く、特別な言い方を用いてまで、私たちに、お命じになられるのでしょう。それは、主イエスが、父なる神は私たち人間が御自分のもとに帰って来ることを誰よりも切に望んでおられることを、御存知だったからです。
考えてみれば、私たちは神に対して熱心でもなければ、困った時や気が向いた時にだけ神を求めるようなところがあります。神に立ち帰る勇気も力もありません。ほっておけば、神から離れて行くだけです。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(六・三三)。主イエスは、既にそのように語っておられました。私たちは、どうかすると、信仰を知識だとみなし、学ぶことで信仰が深まると思っている節があります。しかし、肝心なのは、実際に祈ってみることではないでしょうか。
祈りの際に、大事なことは、主イエスの十字架と復活による救いこそ、私たちにとって、真の救いであることです。常識的に考えたら、どうしてこのことが救いになるでしょう。しかし、神が考え抜かれた救いであって、私たち人間はこれ以外では決して救われることはありません。主イエスは、御自分による救いを熱心に祈り求めることを命じられるのは、そのためでした。信仰生活の中心に祈りがあることの理由でもあります。
続く部分(九ー一〇)で、主イエスは、頼りすがる子供とそれに応える親の姿を描いて、私たちが神を父と信じることができる幸いを告げています。私たちの祈りに、神は直ちにお答えくださらないかもしれません。私たちが願う通りでないかもしれません。具体的には、何も与えられないかもしれません。しかし、神が私たちの父であって、パンを求めるのに石を与えるような無慈悲な父でなく、それどころか、主イエスを救い主として与えてくださった、まことに父らしい父である、ということさえ信じることができれば、それは何にもまさる、お答であり、祈りの喜びなのであります。